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みなさん、こんにちは。
前回は文体の話をしました。
同じ情報でも、表記のされ方が変わると受ける印象が変わったりする、という話です。
今日は、情報そのものがどんなふうに伝えられるか、個性がどう表れてくるのか、注目してみたいと思います。
日本語の特徴としてよく指摘されることがあるのは、人称代名詞の豊富さです。
人称代名詞とは、人物を指し示す代名詞のこと。
まずは、自分自身のことを指す表現、一人称代名詞についてみてみましょう。
ここに挙げられていないものでもたくさんありそうです。
いろいろな一人称代名詞
わたくし
多く、目上の人に対する時や、やや改まった場合に用いる。男女ともに使う。
わたし
「わたくし」のくだけた言い方。現代では自分のことをさす最も一般的な語で、男女とも用いる。近世では主に女性が用いた。
「私の家はこの近くです」「私としたことが」
あたし
「わたし」よりもくだけた言い方。男女ともに用いたが、現在では主に女性が用いる。
あたい
主に東京下町の婦女や小児が用いる。
俺
元来、男女の別なく用いたが、現代では、男子が同輩または目下に対して用いる。
「俺と貴様の仲」
僕
1 一人称の人代名詞。男性が自分のことをさしていう語。対等またはそれ以下の人に対して用いる。
「僕んちにおいでよ」「君のほうが僕より若い」
2 小さい男の子に対して呼びかける語。
「僕のお名前は」
[補説]
1は、現代では親しみのあるくだけた言い方として使われ、改まったときは「わたくし」を用いる。古くは「やつがれ」と読み、相手に対してへりくだる気持ちで用いられた。明治時代から、書生・学生が「ぼく」と読んで用いるようになった。
拙者
武士が多く用い、本来は自分をへりくだっていう語であるが、尊大な態度で用いることもある。
「拙者は他言致すまいが」
吾輩
男性が用いる。
1 おれさま。わし。余。尊大の気持ちを含めていう。
「吾輩にまかせておけ」
「今吾輩も此国に生れて日本人の名あり」〈福沢・学問のすゝめ〉
2 われわれ。われら。
「吾輩常に阿蘭陀 (オランダ) 人に朝夕してすら、容易に納得しがたし」
自分
1 反射代名詞。その人自身。おのれ。
「自分を省みる」「自分の出る幕はない」「君は自分でそう言った」
2 一人称の人代名詞。われ。わたくし。
「自分がうかがいます」
[補説]
江戸時代、「御自分」の形で二人称の人代名詞としても用いられた。現代では「自分、昼飯すませたか」のように、大阪方言の会話で、自分と同等の者に対する親しみを表す二人称として用いられることがある。
おいどん
(鹿児島地方で)一人称の人代名詞。わがはい。
あっし
「わたし」のくだけた言い方。男性、特に職人などが多く用いる、いなせな感じの言い方。
オイラ
おれ。おら。ふつう、男性が用いる。
それがし
一人称の人代名詞。わたくし。
「それがしが栗毛の馬は」〈沙石集・八〉
[補説]
中世以降の用法。もとは謙譲の意であったが、のちには尊大の意を表す。主に男子の用語。
うち
わたし。わたくし。自分。関西地方で、多く女性が用いる。
「内は嫌やわ」
あたくし
主として女性が用いる。
わし
近世では女性が親しい相手に対して用いたが、現代では男性が、同輩以下の相手に対して用いる。
「わしがなんとかしよう」
「こな様それでも済もぞいの、わしは病になるわいの」〈浄・曽根崎〉
わらわ
女性がへりくだって自分をいう語。近世では、特に武家の女性が用いた。
余
わたくし。われ。現代では改まった文章や演説などで用いる。
「余が執らんとする倫理学説の立脚地を」〈西田・善の研究〉
小生
男性が自分をへりくだっていう語。多く、手紙文に用いる。
「小生もつつがなく日々を過ごしております」
[補説]
ふつう、自分と同等か、目下の人に対して使うものとされる。例えば、上司に「本日、小生は体調不良のため、会社を休みます」と言うと、横柄な発言と受け取られかねない。
goo辞書より
英語だと、みんな「 I 」と示されるものですね。
でも、こんなに主語があるのに、日本語の文章は主語を持たないことがある、ということもよく指摘されています。
それがなぜなのか…実はM先生の力が及ばず説明することができないのですが(ごめんなさい)、
自分のことを示す表現の方法がたくさんあるということ、
そしてそれをどう使うか(主語を文章の中で使うか・使わないか)次第で伝わるニュアンスが変わってくる可能性がある、
ということを意識してみると、その言葉に込められたメッセージを汲み取ることができるのではないでしょうか。
この一人称の使い方は日本語を学ぶ外国の方たちにとっても難しいようですね。
例えば、皆さんは「わたし」と「わたくし」という言葉の持つニュアンスの違いは分かりますか?
また、どんなふうに使い分けていますか?
不思議なことにこうした一人称にはそれぞれのイメージがついているような気もします。
確実な、確固とした言葉の使われる意味、意図を説明することは時に困難ですが、その言葉が背負ってきた文化的なイメージや歴史的経緯を、暗黙的に理解していることが多いのです。
夏目漱石の「吾輩は猫である」という小説を知っていますか?
青空文庫でも読めます
主人公はある教師(珍野苦沙弥という名前)の家に住む(飼われている)猫なのですが、この猫が猫視点で人間の生態を語る、という物語。
この猫さんは、「あたし」とも「おいら」とも自称せずに「吾輩」と名乗るのですね。
有名な小説なので、冒頭の文章を知っている人も多いかもしれません…
「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」
ね、猫が何かしゃべっている!しかも、「吾輩」って言っている!!と、物語の内容が気になってしまうような、心をわしづかみにするフレーズですよね。