時をかける道のお話ー江戸時代編

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U子
U子

さあ、つづいては私わたしU子こが担当たんとうした江戸時代編えどじだいへんです!

江戸時代えどじだいの街道かいどうがどのように発展はってんしていったのか一緒いっしょにみていきましょう!


江戸時代えどじだいには東京とうきょうの日本橋にほんばしを出発点しゅっぱつてんに、東海道とうかいどう、中山道なかせんどう、甲州街道こうしゅうかいどう、奥州街道おうしゅうかいどう、日光街道にっこうかいどうの5つの道みち、あわせて五街道ごかいどうとよばれる代表的だいひょうてきな道みちが作つくられました。微妙びみょうなルート変更へんこうはありますが、五街道ごかいどうの大方おおかたは高速道路こうそくどうろや国道こくどうに生うまれかわって現在げんざいでも道みちとして使つかわれています。

M先生
M先生

国道こくどうに 生うまれかわった例れいだと、最もっとも有名ゆうめいなのは現在国道げんざこくどう1号線ごうせんとして使つかわれている東海道とうかいどうですよね。ほかの街道かいどうも大部分だいぶぶんは国道こくどうに指定していされているようです。

H松
H松

高速道路こうそくどうろの例れいだと、青森県あおもりけんの八戸自動車道はちのへじどうしゃどうが奥州街道おうしゅうかいどうのルーツをついでいるみたいです。

ぱんこさん
ぱんこさん

江戸時代えどじだいってかなり昔むかしのことだと思おもっていましたが、意外いがいと令和れいわを生いきる私わたしたちにも身近みぢかなところがあるんですね!

 

道みちを整備せいびするために…

U子
U子

道みちを整備せいびする、といってもただ道路工事どうろこうじをすればいいだけではなく、まずはそのために必要ひつような制度せいどを整ととのえる必要ひつようがあったそうなんです。

M先生
M先生

その制度せいどというのが宿駅伝馬制度しゅくえきてんませいどというものですね。江戸幕府えどじだいの将軍しょうぐん、徳川家康とくがわいえやすは関ヶ原せきがはらの戦たたかいに勝利しょうりすると翌年よくとしの1601年ねんにさっそく道みちの整備せいびをはじめました。

 

宿駅伝馬制度しゅくえきてんませいど

宿駅伝馬制度しゅくえきてんませいどとは、手紙てがみや荷物にもつを出発地しゅっぱつちから目的地もくてきちまで同おなじ人ひとや馬うまが運はこぶのではなくリレーのように交代制こうたいせいで運はこぶ制度せいどのことをいいます。この制度せいどを整ととのえるために、幕府ばくふは街道かいどうのあちこちにある宿駅しゅくえきと呼よばれる村むらに、ものを運はこぶための人ひとと馬うまを用意よういさせることにしました。そのため宿駅しゅくえきの負担ふたんは大おおきくはありましたが、そのかわり税金ぜいきんが免除めんじょされたり、ものを運はこぶ業務ぎょうむや旅人たびびとを宿泊しゅくはくさせることで収入しゅうにゅうを得えることができたそうです。

ぱんこさん
ぱんこさん

この制度せいどを整ととのえることで人ひとやものの動うご きが便利べんりになり、江戸時代えどじだいの街道かいどうがぐっと発展はってんしたんですね!

宿駅しゅくえきとは

U子
U子

次つぎは、宿駅しゅくえきとよばれる村むらがいったいどういう場所ばしょだったのかみていきましょう。

宿駅しゅくえきとは街道沿かいどうぞいにある村むらのことをいい、はるばるやってきた旅人たびびとを宿泊しゅくはくさせたり、ものを運はこぶための人ひとや馬うまを集あつめておく役割やくわりをあたえられた村むらです。宿駅伝馬制度しゅくえきてんませいどと似にたような仕組しくみは古代こだいからありましたが、江戸時代えどじだいになってより大規模だいきぼにその制度せいどが整ととのえられたため、宿駅しゅくえきの役割やくわりももっと大おおきくなったのです。

宿駅しゅくえきとされた村むらには、次つぎのように役割やくわり ごとにいくつかの建物たてものがつくられていました。

 

宿駅の建物

本陣ほんじん  大名だいみょうなど身分みぶんの高たか い人ひとが宿泊しゅくはくする場所ばしょ

脇本陣わきほんじん 本陣ほんじんの予備よび

旅籠はたご  庶民しょみんが宿泊しゅくはくする場所ばしょ

問屋場といやば 荷物にもつを送おくる業務ぎょうむなどをする場所ばしょ

H松
H松

宿駅しゅくえきは大おおきな負担ふたんをこのように役割分担やくわりぶんたんしながらなんとかこなしていたのですね。

こうやって効率こうりつよくものを運はこぶことが江戸えどの商業しょうぎょうの発達はったつにもつながったのかもしれません。

五街道ごかいどうはどんな道みち?

M先生
M先生

では宿駅伝馬制度しゅくえきてんませいどが整ととのえられた「五街道ごかいどう」とはいったいどのような道みちだったのかみ ていきましょう!

東海道とうかいどう

東海道とうかいどうは「日本にほんの大動脈だいどうみゃく」ともいわれ、古代こだいからとても重要じゅうような道みちとされてきました。徳川家康とくがわいえやすは関ヶ原せきがはらの戦たたかいに勝利しょうりした翌年よくねんの1601年ねん、まっさきにこの道みちの宿駅伝馬制度しゅくえきてんませいどを整ととのえ、東海道とうかいどうの整備せいびをはじめました。

ただ、この道みちの整備せいびは徳川家康とくがわいえやすの敵てきである豊臣家とよとみけなどに対抗たいこうできるようにと軍事目的ぐんじもくてきで行おこなわれたものだったので、この頃ころはまだ今いまのように庶民しょみんがたくさん利用りようする道みちではなかったようです。

そのあとも軍事上ぐんじじょうの目的もくてきから各地かくちに※関所せきしょを設置せっちし、川かわによっては橋はしをかけることを禁止きんしするなどして、交通こうつうの障害しょうがいを設もうけましたが戦乱せんらんがなくなり平和へいわな時代じだいになるにつれてやがて多おおくの人々ひとびとが旅たびする庶民しょみんの道みちへと変か わっていきました。
※関所せきしょ・・・国境こっきょうなど交通こうつうの要所ようしょに設もうけられ、通行人つうこうにんや通行物つうこうぶつを厳きびしく監視かんししたところ

日本一有名にほんいちゆうめいな道みちといってもいいこの東海道とうかいどうですが、このころはまだ大おおきな問題もんだいをかかえていました。それは道みちの状態じょうたいの悪わるさです。これは江戸時代えどじだいより後あとの時代じだいにきちんと解決かいけつされていくようです。

 

ぱんこさん
ぱんこさん

庶民しょみんが旅たびする東海道とうかいどう…どんな様子ようすだったのか気きになりますね!

H松
H松

東海道とうかいどうはみどころが多おおい道みちだったので、実じつ は 浮世絵うきよえの題材だいざいとしてとても人気にんきがあり、多おおくの浮世絵師うきよえしが東海道とうかいどうの様子ようすを描えがいたんです!それをみると江戸時代えどじだいの街道かいどうの 雰囲気ふんいきが少すこしわかるかもしれません。

 

浮世絵うきよえでみる東海道とうかいどう

江戸時代えどじだい、浮世絵うきよえは庶民しょみんに大人気だいにんき の娯楽ごらくの一ひとつでした。値段ねだんも安やすかったため、今いまでいうアイドルのポスターや絵葉書えはがきを買かうような感覚かんかくで多おおくの人ひとに楽たのしまれていました。人気浮世絵師にんきうきよえしはたくさんいましたが、東海道とうかいどうを描えがいた人物じんぶつとしては歌川広重うたがわひろしげが特とくに有名ゆうめいで、彼かれの東海道五十三次とうかいどうごじゅうさんつぎという作品さくひんは広ひろく人気にんきを博はくしました。

東海道五十三次とうかいどうごじゅうさんつぎの「 五十三次ごじゅうさんつぎ」とは東海道とうかいどうにあった53の宿駅しゅくえきのことをいいます。この作品さくひんは、出発地しゅっぱつちの日本橋にほんばしと終着地しゅうちゃくちの京都きょうとを含ふくめた全ぜん55枚まい の浮世絵うきよえからなる大作たいさくで、東海道とうかいどうでみられる庶民しょみんのなにげない日常にちじょうの様子ようすや自然しぜんの風景ふうけいが描えがかれました。

 

H松
H松

東海道五十三次とうかいどうごじゅうさんつぎをはじめ、浮世絵うきよえは全国各地ぜんこくかくちの美術館びじゅつかんで見みることができます!メジャーな作品さくひんを扱あつかうところ、通好つうごのみのマイナー作品さくひんをそろえているところなど美術館びじゅつかんによって特色とくしょくは様々さまざまです。ぜひ自分好じぶんごのみの美術館びじゅつかんをみつけてみてくださいね!

ぱんこさん
ぱんこさん

また期間限定きかんげんていの展示会てんじかいなども各地かくちでよく開催かいさいされています!現在げんざいは静岡県しずおかけんの静岡市東海道広重美術館しずおかしとうかいどうひろしげびじゅつかんにて東海道五十三次とうかいどうごじゅうさんつぎをみられる展示会てんじかいがおこなわれているので、近ちかくにお住すまいの方かたなどは足あし をはこんでみてはいかがでしょうか?

U子
U子

全国ぜんこくの浮世絵うきよえがみれる美術館びじゅつかんの一覧いちらんは以下いかになります!!

日光街道にっこうかいどう

日光街道にっこうかいどうは徳川家康とくがわいえやすの廟所うまやどころ(お墓はか)が現在げんざいの栃木県日光市とちぎけんにっこうしにある日光東照宮にっこうとうしょうぐうに移うつされ、将軍しょうぐんの日光参詣にっこうさんけいが制度化せいどかされたことによって整備せいどかされた道みちです。日本橋にほんばしから日光市にっこうしまでは約やく143kmで20宿やどありますが、このうち日本橋にほんばしから宇都宮うつのみやまでの16宿やどは奥州街道おうしゅうかいどうの宿駅しゅくえきとも共通きょうつうしています。

徳川家康とくがわいえやすのお墓はか、日光東照宮にっこうとうしょうぐう

日光街道にっこうかいどうの名所めいしょはなんといっても日光東照宮にっこうとうしょうぐうです。これは江戸幕府初代将軍えどばくふしょだいしょうぐんの徳川家康とくがわいえやすのお墓はかとしてつくられた神社じんじゃで、1999年ねんには世界遺産せかいいさんにも登録とうろくされました。現在げんざいではパワースポットとしても知しられており、世界中せかいぢゅう から観光客かんこうきゃくがおとずれるとても人気にんきのスポットとなっています。

日光東照宮のイラスト

 

U子
U子

さすが世界遺産せかいいさんというだけあってどこもかしこも注目ちゅうもくポイントだらけなのですが、特とくに有名ゆうめい なものを私わたしがピックアップした「みどころ」が次つぎの3つです!日光にっこうに行いく機会きかいがあったらぜひたちよってみてくださいね!

みどころ①・新厩舎しんきゅうしゃ

新厩舎しんきゅうしゃとは神様かみさまの馬うまをつないでおく馬小屋うまごやのこと。「見みざる、言いわざる、聞きかざる」の三猿さんざるの彫刻ちょうこくがとても有名ゆうめいです。この彫刻ちょうこくは人間にんげんの一生いっしょうを風刺ふうししているともいわれています。

みどころ②・陽明門ようめいもん

いつまで見みていても飽あきないので「日暮ひぐれの門もん」といわれたほど細こまかい彫刻ちょうこくが施ほどこされた門もんで、日本一美にほんいちうつくしいといわれています。

みどころ③・眠ねむり猫ねこ

左甚五郎ひだりじんごろうという人ひとが作つくったといわれている、牡丹ぼたんの花はなに囲かこまれて眠ねむっている猫ねこの彫刻ちょうこくです。目印めじるしがなければとおりすぎてしまうほど小ちいさな彫刻ちょうこくですが、1951年ねんには国宝こくほうにも指定していされた美うつくしい作品さくひんです。

 

奥州街道おうしゅうかいどう

奥州街道おうしゅうかいどうは、江戸時代初期えどじだいしょきには東北とうほくにいる大名だいみょうの参勤交代さんきんこうたい、中期ちゅうきには蝦夷地えぞち(当時とうじの北海道ほっかいどうのこと)開発かいはつ、末期まっきにはロシアから蝦夷地えぞちを守まもるためによく使つかわれていた道みちです。明治めいじには「陸羽街道りくうかいどう」と改称かいしょうされ現在げんざいでは大部分だいぶぶんが国道こくどう4号ごうとなっており、並行へいこうして東北自動車道とうほくじどうしゃどう、八戸自動車道はちのへじどうしゃどうもとおるなど現在げんざいにも色濃いろこく影響えいきょうをのこす道みちです。

 

松尾芭蕉まつおばしょうもとおった道みち…

松尾芭蕉まつおばしょうは日本にほんを代表だいひょうする俳諧師はいかいしです。代表作だいひょうさくは多おおくの小学校しょうがっこうや中学校ちゅうがっこうの教科書きょうかしょにものっている『おくのほそ道みち』という紀行文きこうぶんで、東北とうほくと北陸ほくりくの2400kmの道みちのりを150日間にちかんかけて歩あるき、その途中とちゅうで詠よんだ句くなどがまとめられています。松尾芭蕉まつおばしょうはそんな長ながい旅たびのなかで奥州街道おうしゅうかいどうにも足あしを踏ふみいれていました。

U子
U子

余談よだんですが、松尾芭蕉まつおばしょうが奥州街道おうしゅうかいどうに立たちよったのは、幻まぼろしの花はな「花はなかつみ」を探さがすためだったといわれているんです。古ふるくは平安時代へいあんじだいの『古今和歌集こきんわかしゅう』にも登場とうじょうするお花はななんですが、いったいどんな花はななんでしょう…

現在げんざいではヒメシャガやノハナショウブという花はなが「花はなかつみ」とよばれているそうなんですが、実際じっさいのところは幻まぼろしのままです。

松尾芭蕉まつおばしょうも残念ざんねんながら、旅たびのなかでは「花はなかつみ」をみつけることはできなかったと作品さくひんのなかで記しるしています。

 

  • 旧奥州道中国見峠長坂跡きゅうおうしゅうどうちゅうくにみとうげながさかあと(福島ふくしま)

松尾芭蕉まつおばしょうの足跡そくせきがのこっている場所ばしょの1つ目めは、福島県ふくしまけんにある旧奥州道中国見峠長坂跡国見峠くにみとうげという場所ばしょです。国見峠くにみとうげは坂道さかみちが非常ひじょうに険けわしいため奥州街道おうしゅうかいどうのなかでも難所なんしょといわれる場所ばしょでした。ここには『おくのほそ道みち』にも記しるされている「気力聊いささかとり直し、路縦横みちじゅうおうに踏ふんで伊達だての大木戸おおきどをこす」という松尾芭蕉まつおばしょうの言葉ことば が刻きざまれた記念碑きねんひがのこされています。

  • 文知摺観音もちずりかんのん(福島ふくしま)

2つ目めの場所ばしょは、福島県ふくしまけんの文化財ぶんかざいにも指定していされている普門院ふもんいんというお寺てらの中なかにある文知摺観音です。ここは百人一首ひゃくにんいっしゅの歌うたの中なかにも登場とうじょうしたことがあり、昔むかしから様々さまざまな文人墨客ぶんじんぼっかくが訪おとずれている場所ばしょでした。松尾芭蕉まつおばしょうもそのうちの1人で、『おくのほそ道みち』に記しるされている「早苗さなえとる 手もとや昔 しのぶ摺ずり」という句くはこの場所ばしょで詠よまれた句くです。

 

中山道なかせんどう

中山道なかせんどうは古代こだいの東山道とうさんどうをベースに整備せいびされた道みちです。「中仙道なかせんどう」と表記ひょうきされることもありましたが、江戸幕府えどばくふは1716年ねんに中山道なかせんどうとして名前なまえを統一とういつすることにしました。この道みちは東海道とうかいどうとともに江戸えどと京都きょうとを結むすぶ道みちでしたが、江戸時代えどじだいには東海道とうかいどうのほうが交通量こうつうりょうも多おおく宿駅しゅくえきも大規模だいきぼでした。中山道なかせんどうは東海道とうかいどうよりも40kmも距離きょりが長ながく、さらに山道やまみちなど険けわしい道みちが多おおかったため、ここを通とおるのはなかなか大変たいへんだったそうです。そのため、参勤交代さんきんこうたいにも中山道なかせんどうは東海道とうかいどうに比くらべて4分ぶんの1程ほどしか使つか われていませんでした。

 

中山道唯一なかせんどうゆいいつの温泉おんせん?!ー下諏訪宿しもすわしゅく

中山道なかせんどうには69もの宿駅しゅくえきがありましたが、下諏訪宿しもすわしゅくは唯一天然温泉ゆいいつてんねんおんせんが沸わいていた宿駅しゅくえきでした。そのため旅たびの疲つかれを癒いやすために多おおくの人ひとが訪おとずれとてもにぎわったそうです。

ここには現在げんざいでも鉄鉱泉本館、御宿まるや、桔梗屋、みなとやなど江戸時代えどじだいからずっと営業えいぎょうをつづける老舗しにせの温泉旅館おんせんりょかんがいくつかあり、長年多ながねんおおくの文化人ぶんかじんたちにも愛あいされてきました。当時とうじの趣おもむきをのこした建物たてものや料理りょうり、食器しょっきなどからも長ながい歴史れきしと江戸時代えどじだいの雰囲気ふんいきを感かん じることができます。

 

 

日本にほん4大関所だいせきしょ、福島関所ふくしませきしょと碓氷関所うすいせきしょ

江戸時代えどじだい、日本にほんには天下てんかの4大関所だいせきしょとよばれる4つの重要じゅうような関所せきしょがありました。その4つの関所せきしょとは箱根はこね(神奈川かながわ)、新居あらい(静岡しずおか)、碓氷うすい(群馬ぐんま)、福島ふくしま(長野ながの)におかれていて、そのうち碓氷うすいと福島ふくしまの2つが中山道なかせんどうにありました。なかでも福島関所ふくしませきしょは国史跡こくしせきに指定していされているほど、歴史的れきしてきに価値かちのある遺跡いせきです。

 

M先生
M先生

どちらも当時とうじの形かたちそのままではのこっていませんが、門もんが復元ふくげんされたり資料館しりょうかんがつくられているようなので行いってみると関所せきしょや中山道なかせんどうの歴史れきしを学まなぶことができますよ!

資料館しりょうかんには関連かんれんする古文書こもんじょや当時とうじの用具ようぐなども展示てんじされているので江戸時代えどじだいの雰囲気ふんいきを感かんじることができるのではないでしょうか?

 

甲州街道こうしゅうかいどう

甲州街道こうしゅうかいどうは日本橋にほんばしを出発しゅっぱつして、八王子はちおうじ(東京とうきょう)、甲府こうふ(山梨やまなし)を経へ て中山道なかせんどうと合流ごうりゅうする下諏訪しもすわ(長野ながの)までつづく街道かいどうです。幕府ばくふはこの道みち を江戸城えどじょうと甲府城こうふじょうを結むすぶ軍用道路ぐんようどうろとして大切たいせつにしていて、江戸えどが敵てきに攻撃こうげきされたときは甲府城こうふじょうに立たてこもり反撃はんげきのタイミングを見計みはかろうとしていました。

参勤交代さんきんこうたいではあまり使つかわれることのない道みちでしたが、甲府勤番こうふきんばんという幕府ばくふの役職やくしょくがおかれていたので役人やくにんが通行つうこうしたり、江戸中期以降えどじだいちゅうきいこうには江戸えどでの消費経済しょうひけいざいの発達はったつをうけて物流ぶつりゅうの需要じゅようが増ますなど、この道みちの重要性じゅうようせいも増ましてきました。

 

絶景ぜっけいが見みられる、犬目宿いぬめじゅく

犬目宿いぬめじゅくは甲州街道こうしゅうかいどうのなかでも比較的小ひかくてきちいさい規模きぼの宿場町しゅくばまちだったそうですが、まわりの地域ちいきに比くらべ標高ひょうこうが高たかいため、ここから見みえる富士山ふじさんは当時とうじから絶景ぜっけいだったそうです。その美うつくしさは浮世絵師うきよえしの葛飾北斎かつしかほくさいが、さまざまな場所ばしょから見みえる富士山ふじさんを描えがいたシリーズ作品さくひん「富嶽三十六景ふがくさんじゅうろっけい」の一つとしてここから見みた富士山ふじさんの風景ふうけいを描えがくほどでした。

 

ぱんこさん
ぱんこさん

北斎ほくさいが描えがいた色鮮いろあざ やかな赤あかと青あおの富士山ふじさんを描えがきましたが、実際じっさいの富士山ふじさんはどのように見みえるのか、見比みくらべてみるのもおもしろいと思おもいますよ!

江戸時代えどじだい、道みちの使つかい道みちとは?


五街道ごかいどうは、はじめは軍事目的ぐんじもくてきで使われることが多かったようですが徐々じょじょに民衆みんしゅうにも使われるようになり、その使い道もだんだん広がっていきました。代表例だいひょうれいには次のようなものがあります。

 

参勤交代さんきんこうたい

江戸時代えどじだいの道の使い道で最もっとも代表的だいひょうてきなものは参勤交代さんきんこうたいです。これは江戸幕府三代将軍えどばくふさんだいしょうぐんの徳川家光とくがわいえみつが定さだめたもので、全国各地ぜんこくかくちにいるすべての大名だいみょうがある期間きかんごとに自分の領地りょうちと江戸を自腹じばらで往復おうふくしなくてはならない制度せいどでした。参勤交代には以下のようなルールがあったようです。

 

対象たいしょう

参勤交代さんきんこうたいを行ったのは主おもに大名だいみょうですが、それだけではなく幕府ばくふから「大名だいみょうに準じゅんじた資格しかく」を与あたえられた一部の旗本はたもとも行いました。これらの区別くべつは、大名は領地りょうちで取れる米の量りょうが1万石以上まんごくいじょう(1万人の成人男性せいじんだんせいが一年に食たべる米の量)で、旗本はたもとはそれ以下、というように分けられていました。

時期じき

関ヶ原せきがはらの戦たたかいの後あとに徳川家とくがわけの家臣かしんになった外様大名とざまだいみょうは毎年4月、それ以前いぜんから家臣かしんだった譜代大名ふだいたいみょうは6月か8月がシーズンでした。基本的きほんてきには1年ごとに行うのがルールですが、幕府ばくふの重要じゅうような役職やくしょくについていた大名だいみょうは江戸に住み込んでいましたし、関東かんとうの大名は半年ごとの短みじかいスパン、遠方えんぽうの蝦夷地えぞち(現在げんざいの北海道ほっかいどう)の大名は5年ごと、というように特別とくべつな配慮はいりょを受ける大名もいたのですべてがこのルール通りではなかったようです。

人数にんずう

大名だいみょうは行列ぎょうれつを作って参勤交代さんきんこうたいを行いますが、その人数にんずうは石高ごくだか(取れる米の量りょう)によって異ことなりました。例たとえば「20万石以上まんごくいじょうで約450人」、「10万石で約240人」「5万石で約170人」「1万石で約50人」というように定さだめられていました。しかし大名が乗のる籠かごを運はこぶ人、大量たいりょうのお金を運はこぶ人、休憩きゅうけいのときに食事しょくじを運ぶ人など多くの人手ひとでが必要ひつようだったことから実際じっさいの行列ぎょうれつはこれよりも多くの人が動員どういんされました。

処罰しょばつ

もし参勤交代さんきんこうたいをサボったり、遅おくれたりすると処罰しょばつされてしまいました。例たとえば現在げんざいの青森県あおもりけんの盛岡藩主もりおかはんしゅの南部重直なんぶしげなおという人物じんぶつは、到着とうちゃくが予定よていより10日遅おくれてしまったことで、2年間江戸ねんかんえどで蟄居ちっきょと呼よばれる謹慎きんしんの刑罰けいばつを受けることになりました。

 

お伊勢参いせまいり

江戸時代えどじだいにはお伊勢参いせまいりと呼よばれる伊勢神宮参拝いせじんぐうさんぱいが大ブームになりました。庶民しょみんも含ふくめ多おおくの人が一生いっしょうに一度いちどは行きたいと思う旅行りょこうだったようです。江戸周辺えどしゅうへんから伊勢いせに向かう場合ばあい、行きは東海道とうかいどう、帰かえりは中山道なかせんどうを通とおるのが一般的いっぱんてきだったようです。

参拝後さんぱいごには京都きょうとや大阪おおさかに観光かんこうにいく人もいて、たくさんの人が道を使って移動いどうしました。こうしたお伊勢参いせまいりにかかった費用ひようは、旅人たびびとが書かいた日記にっきなどから知しることができます。江戸周辺えどしゅうへんから伊勢神宮いせじんぐうまではおよそ15泊hはくかかり、宿泊代しゅくはくだいや食事代しょくじだい、川を渡わたるときの船代ふなだい、休憩時きゅうけいじのお茶代ちゃだいなどを合わせるとかなりの出費しゅっぴだったそうです。

 

U子
U子

そんなに高たかいお金かねを払はらってでも行きたい!と思う人がたくさんいるほどお伊勢参いせまいりは魅力的みりょくてきな旅たびだったんですね。

H松
H松

そうですね。そしてもし五街道ごかいどうが整備せいびされていなかったら、庶民しょみんの間あいだでこれほどまでにお伊勢参いせまいりが流行りゅうこうすることもなかったのではないでしょうか。

 

 

茶壷道中ちゃつぼどうちゅう

茶壷道中ちゃつぼどうちゅうとは、幕府ばくふが京都きょうとの宇治うじで取れたおいしい宇治茶うじちゃを茶壺ちゃつぼにいれて江戸えどまで運はこばせた行事ぎょうじのことです。

毎年まいとし4月か5月ごろになると、宇治うじから茶葉ちゃばの生育状況せいいくじょうきょうの報告ほうこくを受うけた8人から14人の付つき添そい人が茶壺ちゃつぼを持もって江戸えどを出発しゅっぱつします。宇治うじに到着とうちゃくすると、茶壷ちゃつぼに宇治茶うじちゃが詰つめられ厳重げんじゅうに守まもられながら籠かごに乗のせられ江戸まで運はこばれます。その取りあつかいには細心さいしんの注意ちゅういが払はらわれたそうです。

茶壺道中ちゃつぼどうちゅうはとても権威けんいある行事ぎょうじで、これが通行つうこうする際さいには大名だいみょうでも籠かごを降おりなければならず、街道沿かいどうぞいの村々には街道かいどうのそうじが命めいじられ、田畑たはたの耕作こうさくが禁きんじられたほどでした。

 

ぱんこさん
ぱんこさん

江戸時代えどじだいの人々にとってお茶はとても貴重きちょうなものだったんですね。でも今考えるとちょっとおかしいくらいお茶が大事だいじにされていますね。

M先生
M先生

そうなんです。正確せいかくなことはわかっていませんが、実じつは「ずいずいずっころばし」という童謡どうようも人間にんげんよりお茶を優先ゆうせんするような茶壷道中ちゃつぼどうちゅうを風刺ふうししていると言われているらしいですよ。

U子
U子

ずいずいずっころばし ごまみそずい
 茶壺ちゃつぼに追おわれて とっぴんしゃん
 ぬけたら、どんどこしょ♪

の部分ぶぶんですね!

H松
H松

この部分ぶぶんを現代語げんだいごにすると、

 

ずいずいずっころばし ごまみそずい (ごまみそを作っていたら)

茶壷ちゃつぼに追おわれて とっぴんしゃん(茶壺道中ちゃつぼどうちゅうがきたので、戸とをピシャリと閉しめた)

ぬけたら どんどこしょ(茶壺道中が通り過ぎ、やっと一息がつける)

 

となるみたいです。茶壷道中ちゃつぼどうちゅうは、幕府ばくふにとっては権威けんいあるイベントだったのかもしれせんが、庶民しょみんにはかなりめんどくさいと思われていたのかもしれませんね。

 


 

U子
U子

ここまで江戸時代えどじだいの街道かいどうの特徴とくちょうや使い道について見てきましたがいかがでしたか?

次の記事きじの担当たんとうはH松さんです。江戸時代えどじだいに作られた道は以降いこうの時代じだいでどのように発展はってんするのでしょうか?!

 

参考さんこう

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