▶ を押すと文が増えます
さあ、つづいては私U子が担当した江戸時代編です!
江戸時代の街道がどのように発展していったのか一緒にみていきましょう!
江戸時代には東京の日本橋を出発点に、東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道の5つの道、あわせて五街道とよばれる代表的な道が作られました。微妙なルート変更はありますが、五街道の大方は高速道路や国道に生まれかわって現在でも道として使われています。
国道に 生まれかわった例だと、最も有名なのは現在国道1号線として使われている東海道ですよね。ほかの街道も大部分は国道に指定されているようです。
高速道路の例だと、青森県の八戸自動車道が奥州街道のルーツをついでいるみたいです。
江戸時代ってかなり昔のことだと思っていましたが、意外と令和を生きる私たちにも身近なところがあるんですね!
道を整備するために…
道を整備する、といってもただ道路工事をすればいいだけではなく、まずはそのために必要な制度を整える必要があったそうなんです。
その制度というのが宿駅伝馬制度というものですね。江戸幕府の将軍、徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利すると翌年の1601年にさっそく道の整備をはじめました。
宿駅伝馬制度
宿駅伝馬制度とは、手紙や荷物を出発地から目的地まで同じ人や馬が運ぶのではなくリレーのように交代制で運ぶ制度のことをいいます。この制度を整えるために、幕府は街道のあちこちにある宿駅と呼ばれる村に、ものを運ぶための人と馬を用意させることにしました。そのため宿駅の負担は大きくはありましたが、そのかわり税金が免除されたり、ものを運ぶ業務や旅人を宿泊させることで収入を得ることができたそうです。
この制度を整えることで人やものの動きが便利になり、江戸時代の街道がぐっと発展したんですね!
宿駅とは
次は、宿駅とよばれる村がいったいどういう場所だったのかみていきましょう。
宿駅とは街道沿いにある村のことをいい、はるばるやってきた旅人を宿泊させたり、ものを運ぶための人や馬を集めておく役割をあたえられた村です。宿駅伝馬制度と似たような仕組みは古代からありましたが、江戸時代になってより大規模にその制度が整えられたため、宿駅の役割ももっと大きくなったのです。
宿駅とされた村には、次のように役割
ごとにいくつかの建物がつくられていました。
宿駅は大きな負担をこのように役割分担しながらなんとかこなしていたのですね。
こうやって効率よくものを運ぶことが江戸の商業の発達にもつながったのかもしれません。
五街道はどんな道?
では宿駅伝馬制度が整えられた「五街道」とはいったいどのような道だったのかみ ていきましょう!
東海道
東海道は「日本の大動脈」ともいわれ、古代からとても重要な道とされてきました。徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利した翌年の1601年、まっさきにこの道の宿駅伝馬制度を整え、東海道の整備をはじめました。
ただ、この道の整備は徳川家康の敵である豊臣家などに対抗できるようにと軍事目的で行われたものだったので、この頃はまだ今のように庶民がたくさん利用する道ではなかったようです。
そのあとも軍事上の目的から各地に※関所を設置し、川によっては橋をかけることを禁止するなどして、交通の障害を設けましたが戦乱がなくなり平和な時代になるにつれてやがて多くの人々が旅する庶民の道へと変
わっていきました。
※関所・・・国境など交通の要所に設けられ、通行人や通行物を厳しく監視したところ
日本一有名な道といってもいいこの東海道ですが、このころはまだ大きな問題をかかえていました。それは道の状態の悪さです。これは江戸時代より後の時代にきちんと解決されていくようです。
庶民が旅する東海道…どんな様子だったのか気になりますね!
東海道はみどころが多い道だったので、実は 浮世絵の題材としてとても人気があり、多くの浮世絵師が東海道の様子を描いたんです!それをみると江戸時代の街道の 雰囲気が少しわかるかもしれません。
浮世絵でみる東海道
江戸時代、浮世絵は庶民に大人気の娯楽の一つでした。値段も安かったため、今でいうアイドルのポスターや絵葉書を買うような感覚で多くの人に楽しまれていました。人気浮世絵師はたくさんいましたが、東海道を描いた人物としては歌川広重が特に有名で、彼の東海道五十三次という作品は広く人気を博しました。
東海道五十三次の「 五十三次」とは東海道にあった53の宿駅のことをいいます。この作品は、出発地の日本橋と終着地の京都を含めた全55枚
の浮世絵からなる大作で、東海道でみられる庶民のなにげない日常の様子や自然の風景が描かれました。
東海道五十三次をはじめ、浮世絵は全国各地の美術館で見ることができます!メジャーな作品を扱うところ、通好みのマイナー作品をそろえているところなど美術館によって特色は様々です。ぜひ自分好みの美術館をみつけてみてくださいね!
また期間限定の展示会なども各地でよく開催されています!現在は静岡県の静岡市東海道広重美術館にて東海道五十三次をみられる展示会がおこなわれているので、近くにお住まいの方などは足をはこんでみてはいかがでしょうか?
全国の浮世絵がみれる美術館の一覧は以下になります!!
- 静岡市東海道広重美術館(静岡) ←2021年11月14日まで東海道五十三次の展示会開催中
- 東京国立博物館(東京)
- すみだ北斎美術館(東京)
- 那珂川町馬頭広重美術館(栃木)
- 日本浮世絵博物館(長野)
- 石川県立美術館(石川)
- 中山道広重美術館(岐阜)
- 細見美術館(京都)
- 山口県立萩美術館・浦上記念館(山口) などなど…..。
日光街道
日光街道は徳川家康の廟所(お墓)が現在の栃木県日光市にある日光東照宮に移され、将軍の日光参詣が制度化されたことによって整備された道です。日本橋から日光市までは約143kmで20宿ありますが、このうち日本橋から宇都宮までの16宿は奥州街道の宿駅とも共通しています。
徳川家康のお墓、日光東照宮
日光街道の名所はなんといっても日光東照宮です。これは江戸幕府初代将軍の徳川家康のお墓としてつくられた神社で、1999年には世界遺産にも登録されました。現在ではパワースポットとしても知られており、世界中 から観光客がおとずれるとても人気のスポットとなっています。
さすが世界遺産というだけあってどこもかしこも注目ポイントだらけなのですが、特に有名なものを私がピックアップした「みどころ」が次の3つです!日光に行く機会があったらぜひたちよってみてくださいね!
みどころ①・新厩舎
新厩舎とは神様の馬をつないでおく馬小屋のこと。「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿の彫刻がとても有名です。この彫刻は人間の一生を風刺しているともいわれています。
みどころ②・陽明門
いつまで見ていても飽きないので「日暮の門」といわれたほど細かい彫刻が施された門で、日本一美しいといわれています。
みどころ③・眠り猫
左甚五郎という人が作ったといわれている、牡丹の花に囲まれて眠っている猫の彫刻です。目印がなければとおりすぎてしまうほど小さな彫刻ですが、1951年には国宝にも指定された美しい作品です。
奥州街道
奥州街道は、江戸時代初期には東北にいる大名の参勤交代、中期には蝦夷地(当時の北海道のこと)開発、末期にはロシアから蝦夷地を守るためによく使われていた道です。明治には「陸羽街道」と改称され現在では大部分が国道4号となっており、並行して東北自動車道、八戸自動車道もとおるなど現在にも色濃く影響をのこす道です。
松尾芭蕉もとおった道…
松尾芭蕉は日本を代表する俳諧師です。代表作は多くの小学校や中学校の教科書にものっている『おくのほそ道』という紀行文で、東北と北陸の2400kmの道のりを150日間かけて歩き、その途中で詠んだ句などがまとめられています。松尾芭蕉はそんな長い旅のなかで奥州街道にも足を踏みいれていました。
余談ですが、松尾芭蕉が奥州街道に立ちよったのは、幻の花「花かつみ」を探すためだったといわれているんです。古くは平安時代の『古今和歌集』にも登場するお花なんですが、いったいどんな花なんでしょう…
現在ではヒメシャガやノハナショウブという花が「花かつみ」とよばれているそうなんですが、実際のところは幻のままです。
松尾芭蕉も残念ながら、旅のなかでは「花かつみ」をみつけることはできなかったと作品のなかで記しています。
- 旧奥州道中国見峠長坂跡(福島)
松尾芭蕉の足跡がのこっている場所の1つ目は、福島県にある旧奥州道中国見峠長坂跡国見峠という場所です。国見峠は坂道が非常に険しいため奥州街道のなかでも難所といわれる場所でした。ここには『おくのほそ道』にも記されている「気力聊かとり直し、路縦横に踏んで伊達の大木戸をこす」という松尾芭蕉の言葉が刻まれた記念碑がのこされています。
- 文知摺観音(福島)
2つ目の場所は、福島県の文化財にも指定されている普門院というお寺の中にある文知摺観音です。ここは百人一首の歌の中にも登場したことがあり、昔から様々な文人墨客が訪れている場所でした。松尾芭蕉もそのうちの1人で、『おくのほそ道』に記されている「早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺」という句はこの場所で詠まれた句です。
中山道
中山道は古代の東山道をベースに整備された道です。「中仙道」と表記されることもありましたが、江戸幕府は1716年に中山道として名前を統一することにしました。この道は東海道とともに江戸と京都を結ぶ道でしたが、江戸時代には東海道のほうが交通量も多く宿駅も大規模でした。中山道は東海道よりも40kmも距離が長く、さらに山道など険しい道が多かったため、ここを通るのはなかなか大変だったそうです。そのため、参勤交代にも中山道は東海道に比べて4分の1程しか使
われていませんでした。
中山道唯一の温泉?!ー下諏訪宿
中山道には69もの宿駅がありましたが、下諏訪宿は唯一天然温泉が沸いていた宿駅でした。そのため旅の疲れを癒すために多くの人が訪れとてもにぎわったそうです。
ここには現在でも鉄鉱泉本館、御宿まるや、桔梗屋、みなとやなど江戸時代からずっと営業をつづける老舗の温泉旅館がいくつかあり、長年多くの文化人たちにも愛されてきました。当時の趣をのこした建物や料理、食器などからも長い歴史と江戸時代の雰囲気を感
じることができます。
日本4大関所、福島関所と碓氷関所
江戸時代、日本には天下の4大関所とよばれる4つの重要な関所がありました。その4つの関所とは箱根(神奈川)、新居(静岡)、碓氷(群馬)、福島(長野)におかれていて、そのうち碓氷と福島の2つが中山道にありました。なかでも福島関所は国史跡に指定されているほど、歴史的に価値のある遺跡です。
どちらも当時の形そのままではのこっていませんが、門が復元されたり資料館がつくられているようなので行ってみると関所や中山道の歴史を学ぶことができますよ!
資料館には関連する古文書や当時の用具なども展示されているので江戸時代の雰囲気を感じることができるのではないでしょうか?
甲州街道
甲州街道は日本橋を出発して、八王子(東京)、甲府(山梨)を経て中山道と合流する下諏訪(長野)までつづく街道です。幕府はこの道 を江戸城と甲府城を結ぶ軍用道路として大切にしていて、江戸が敵に攻撃されたときは甲府城に立てこもり反撃のタイミングを見計ろうとしていました。
参勤交代ではあまり使われることのない道でしたが、甲府勤番という幕府の役職がおかれていたので役人が通行したり、江戸中期以降には江戸での消費経済の発達をうけて物流の需要が増すなど、この道の重要性も増してきました。
絶景が見られる、犬目宿
犬目宿は甲州街道のなかでも比較的小さい規模の宿場町だったそうですが、まわりの地域に比べ標高が高いため、ここから見える富士山は当時から絶景だったそうです。その美しさは浮世絵師の葛飾北斎が、さまざまな場所から見える富士山を描いたシリーズ作品「富嶽三十六景」の一つとしてここから見た富士山の風景を描くほどでした。
北斎が描いた色鮮やかな赤と青の富士山を描きましたが、実際の富士山はどのように見えるのか、見比べてみるのもおもしろいと思いますよ!
江戸時代、道の使い道とは?
五街道は、はじめは軍事目的で使われることが多かったようですが徐々に民衆にも使われるようになり、その使い道もだんだん広がっていきました。代表例には次のようなものがあります。
参勤交代
江戸時代の道の使い道で最も代表的なものは参勤交代です。これは江戸幕府三代将軍の徳川家光が定めたもので、全国各地にいるすべての大名がある期間ごとに自分の領地と江戸を自腹で往復しなくてはならない制度でした。参勤交代には以下のようなルールがあったようです。
対象
参勤交代を行ったのは主に大名ですが、それだけではなく幕府から「大名に準じた資格」を与えられた一部の旗本も行いました。これらの区別は、大名は領地で取れる米の量が1万石以上(1万人の成人男性が一年に食べる米の量)で、旗本はそれ以下、というように分けられていました。
時期
関ヶ原の戦いの後に徳川家の家臣になった外様大名は毎年4月、それ以前から家臣だった譜代大名は6月か8月がシーズンでした。基本的には1年ごとに行うのがルールですが、幕府の重要な役職についていた大名は江戸に住み込んでいましたし、関東の大名は半年ごとの短いスパン、遠方の蝦夷地(現在の北海道)の大名は5年ごと、というように特別な配慮を受ける大名もいたのですべてがこのルール通りではなかったようです。
人数
大名は行列を作って参勤交代を行いますが、その人数は石高(取れる米の量)によって異なりました。例えば「20万石以上で約450人」、「10万石で約240人」「5万石で約170人」「1万石で約50人」というように定められていました。しかし大名が乗る籠を運ぶ人、大量のお金を運ぶ人、休憩のときに食事を運ぶ人など多くの人手が必要だったことから実際の行列はこれよりも多くの人が動員されました。
処罰
もし参勤交代をサボったり、遅れたりすると処罰されてしまいました。例えば現在の青森県の盛岡藩主の南部重直という人物は、到着が予定より10日遅れてしまったことで、2年間江戸で蟄居と呼ばれる謹慎の刑罰を受けることになりました。
お伊勢参り
江戸時代にはお伊勢参りと呼ばれる伊勢神宮参拝が大ブームになりました。庶民も含め多くの人が一生に一度は行きたいと思う旅行だったようです。江戸周辺から伊勢に向かう場合、行きは東海道、帰りは中山道を通るのが一般的だったようです。
参拝後には京都や大阪に観光にいく人もいて、たくさんの人が道を使って移動しました。こうしたお伊勢参りにかかった費用は、旅人が書いた日記などから知ることができます。江戸周辺から伊勢神宮まではおよそ15泊かかり、宿泊代や食事代、川を渡るときの船代、休憩時のお茶代などを合わせるとかなりの出費だったそうです。
そんなに高いお金を払ってでも行きたい!と思う人がたくさんいるほどお伊勢参りは魅力的な旅だったんですね。
そうですね。そしてもし五街道が整備されていなかったら、庶民の間でこれほどまでにお伊勢参りが流行することもなかったのではないでしょうか。
茶壷道中
茶壷道中とは、幕府が京都の宇治で取れたおいしい宇治茶を茶壺にいれて江戸まで運ばせた行事のことです。
毎年4月か5月ごろになると、宇治から茶葉の生育状況の報告を受けた8人から14人の付き添い人が茶壺を持って江戸を出発します。宇治に到着すると、茶壷に宇治茶が詰められ厳重に守られながら籠に乗せられ江戸まで運ばれます。その取りあつかいには細心の注意が払われたそうです。
茶壺道中はとても権威ある行事で、これが通行する際には大名でも籠を降りなければならず、街道沿いの村々には街道のそうじが命じられ、田畑の耕作が禁じられたほどでした。
江戸時代の人々にとってお茶はとても貴重なものだったんですね。でも今考えるとちょっとおかしいくらいお茶が大事にされていますね。
そうなんです。正確なことはわかっていませんが、実は「ずいずいずっころばし」という童謡も人間よりお茶を優先するような茶壷道中を風刺していると言われているらしいですよ。
ずいずいずっころばし ごまみそずい
茶壺に追われて とっぴんしゃん
ぬけたら、どんどこしょ♪
の部分ですね!
この部分を現代語にすると、
ずいずいずっころばし ごまみそずい (ごまみそを作っていたら)
茶壷に追われて とっぴんしゃん(茶壺道中がきたので、戸をピシャリと閉めた)
ぬけたら どんどこしょ(茶壺道中が通り過ぎ、やっと一息がつける)
となるみたいです。茶壷道中は、幕府にとっては権威あるイベントだったのかもしれせんが、庶民にはかなりめんどくさいと思われていたのかもしれませんね。
ここまで江戸時代の街道の特徴や使い道について見てきましたがいかがでしたか?
次の記事の担当はH松さんです。江戸時代に作られた道は以降の時代でどのように発展するのでしょうか?!
参考
- 静岡茶商工業協同組合「「ずいずいずっころばし」からみるお茶の歴史と徳川家康」
- 郡山市「幻の花「花かつみ」の里安積山」
- 福島市「文知摺観音と松尾芭蕉」
- おいでなしてしもすわ「江戸時代へタイムスリップ?!宿場風情を残す宿」
- ふくしまの旅「旧奥州道中国見峠長坂跡」
- 日光東照宮「社殿の概要」
- 国土交通省「東海道への誘い」
- 国土交通省「東海道について」
- 国土交通省「宿場について」
- 東洋経済ONLINE「本気でキツイ参勤交代の裏側」
- 人力「甲州街道」
- 木曽路.com「ー木曽路の魅力ー宿場」
- 岩手県一戸町「奥州街道」
- 長野県木曽町「福島関所史料館」