時をかける道のお話ー江戸時代編

さんかくすと文がえます

 

U子
U子

さあ、つづいてはわたしU担当たんとうした江戸時代編えどじだいへんです!

江戸時代えどじだい街道かいどうがどのように発展はってんしていったのか一緒いっしょにみていきましょう!


江戸時代えどじだいには東京とうきょう日本橋にほんばし出発点しゅっぱつてんに、東海道とうかいどう中山道なかせんどう甲州街道こうしゅうかいどう奥州街道おうしゅうかいどう日光街道にっこうかいどうの5つのみち、あわせて五街道ごかいどうとよばれる代表的だいひょうてきみちつくられました。微妙びみょうなルート変更へんこうはありますが、五街道ごかいどう大方おおかた高速道路こうそくどうろ国道こくどうまれかわって現在げんざいでもみちとして使つかわれています。

M先生
M先生

国道こくどうまれかわったれいだと、もっと有名ゆうめいなのは現在国道げんざこくどう1号線ごうせんとして使つかわれている東海道とうかいどうですよね。ほかの街道かいどう大部分だいぶぶん国道こくどう指定していされているようです。

H松
H松

高速道路こうそくどうろれいだと、青森県あおもりけん八戸自動車道はちのへじどうしゃどう奥州街道おうしゅうかいどうのルーツをついでいるみたいです。

ぱんこさん
ぱんこさん

江戸時代えどじだいってかなりむかしのことだとおもっていましたが、意外いがい令和れいわきるわたしたちにも身近みぢかなところがあるんですね!

 

みち整備せいびするために…

U子
U子

みち整備せいびする、といってもただ道路工事どうろこうじをすればいいだけではなく、まずはそのために必要ひつよう制度せいどととのえる必要ひつようがあったそうなんです。

M先生
M先生

その制度せいどというのが宿駅伝馬制度しゅくえきてんませいどというものですね。江戸幕府えどじだい将軍しょうぐん徳川家康とくがわいえやす関ヶ原せきがはらたたかいに勝利しょうりすると翌年よくとしの1601ねんにさっそくみち整備せいびをはじめました。

 

宿駅伝馬制度しゅくえきてんませいど

宿駅伝馬制度しゅくえきてんませいどとは、手紙てがみ荷物にもつ出発地しゅっぱつちから目的地もくてきちまでおなひとうまはこぶのではなくリレーのように交代制こうたいせいはこ制度せいどのことをいいます。この制度せいどととのえるために、幕府ばくふ街道かいどうのあちこちにある宿駅しゅくえきばれるむらに、ものをはこぶためのひとうま用意よういさせることにしました。そのため宿駅しゅくえき負担ふたんおおきくはありましたが、そのかわり税金ぜいきん免除めんじょされたり、ものをはこ業務ぎょうむ旅人たびびと宿泊しゅくはくさせることで収入しゅうにゅうることができたそうです。

ぱんこさん
ぱんこさん

この制度せいどととのえることでひとやもののうご きが便利べんりになり、江戸時代えどじだい街道かいどうがぐっと発展はってんしたんですね!

宿駅しゅくえきとは

U子
U子

つぎは、宿駅しゅくえきとよばれるむらがいったいどういう場所ばしょだったのかみていきましょう。

宿駅しゅくえきとは街道沿かいどうぞいにあるむらのことをいい、はるばるやってきた旅人たびびと宿泊しゅくはくさせたり、ものをはこぶためのひとうまあつめておく役割やくわりをあたえられたむらです。宿駅伝馬制度しゅくえきてんませいどたような仕組しくみは古代こだいからありましたが、江戸時代えどじだいになってより大規模だいきぼにその制度せいどととのえられたため、宿駅しゅくえき役割やくわりももっとおおきくなったのです。

宿駅しゅくえきとされたむらには、つぎのように役割やくわり ごとにいくつかの建物たてものがつくられていました。

 

宿駅の建物

本陣ほんじん  大名だいみょうなど身分みぶんたか ひと宿泊しゅくはくする場所ばしょ

脇本陣わきほんじん 本陣ほんじん予備よび

旅籠はたご  庶民しょみん宿泊しゅくはくする場所ばしょ

問屋場といやば 荷物にもつおく業務ぎょうむなどをする場所ばしょ

H松
H松

宿駅しゅくえきおおきな負担ふたんをこのように役割分担やくわりぶんたんしながらなんとかこなしていたのですね。

こうやって効率こうりつよくものをはこぶことが江戸えど商業しょうぎょう発達はったつにもつながったのかもしれません。

五街道ごかいどうはどんなみち

M先生
M先生

では宿駅伝馬制度しゅくえきてんませいどととのえられた「五街道ごかいどう」とはいったいどのようなみちだったのかみ ていきましょう!

東海道とうかいどう

東海道とうかいどうは「日本にほん大動脈だいどうみゃく」ともいわれ、古代こだいからとても重要じゅうようみちとされてきました。徳川家康とくがわいえやす関ヶ原せきがはらたたかいに勝利しょうりした翌年よくねんの1601ねん、まっさきにこのみち宿駅伝馬制度しゅくえきてんませいどととのえ、東海道とうかいどう整備せいびをはじめました。

ただ、このみち整備せいび徳川家康とくがわいえやすてきである豊臣家とよとみけなどに対抗たいこうできるようにと軍事目的ぐんじもくてきおこなわれたものだったので、このころはまだいまのように庶民しょみんがたくさん利用りようするみちではなかったようです。

そのあとも軍事上ぐんじじょう目的もくてきから各地かくち関所せきしょ設置せっちし、かわによってははしをかけることを禁止きんしするなどして、交通こうつう障害しょうがいもうけましたが戦乱せんらんがなくなり平和へいわ時代じだいになるにつれてやがておおくの人々ひとびとたびする庶民しょみんみちへと わっていきました。
関所せきしょ・・・国境こっきょうなど交通こうつう要所ようしょもうけられ、通行人つうこうにん通行物つうこうぶつきびしく監視かんししたところ

日本一有名にほんいちゆうめいみちといってもいいこの東海道とうかいどうですが、このころはまだおおきな問題もんだいをかかえていました。それはみち状態じょうたいわるです。これは江戸時代えどじだいよりあと時代じだいにきちんと解決かいけつされていくようです。

 

ぱんこさん
ぱんこさん

庶民しょみんたびする東海道とうかいどう…どんな様子ようすだったのかになりますね!

H松
H松

東海道とうかいどうはみどころがおおみちだったので、じつ 浮世絵うきよえ題材だいざいとしてとても人気にんきがあり、おおくの浮世絵師うきよえし東海道とうかいどう様子ようすえがいたんです!それをみると江戸時代えどじだい街道かいどう 雰囲気ふんいきすこしわかるかもしれません。

 

浮世絵うきよえでみる東海道とうかいどう

江戸時代えどじだい浮世絵うきよえ庶民しょみん大人気だいにんき 娯楽ごらくひとつでした。値段ねだんやすかったため、いまでいうアイドルのポスターや絵葉書えはがきうような感覚かんかくおおくのひとたのしまれていました。人気浮世絵師にんきうきよえしはたくさんいましたが、東海道とうかいどうえがいた人物じんぶつとしては歌川広重うたがわひろしげとく有名ゆうめいで、かれ東海道五十三次とうかいどうごじゅうさんつぎという作品さくひんひろ人気にんきはくしました。

東海道五十三次とうかいどうごじゅうさんつぎの「 五十三次ごじゅうさんつぎ」とは東海道とうかいどうにあった53の宿駅しゅくえきのことをいいます。この作品さくひんは、出発地しゅっぱつち日本橋にほんばし終着地しゅうちゃくち京都きょうとふくめたぜん55まい浮世絵うきよえからなる大作たいさくで、東海道とうかいどうでみられる庶民しょみんのなにげない日常にちじょう様子ようす自然しぜん風景ふうけいえがかれました。

 

H松
H松

東海道五十三次とうかいどうごじゅうさんつぎをはじめ、浮世絵うきよえ全国各地ぜんこくかくち美術館びじゅつかんることができます!メジャーな作品さくひんあつかうところ、通好つうごのみのマイナー作品さくひんをそろえているところなど美術館びじゅつかんによって特色とくしょく様々さまざまです。ぜひ自分好じぶんごのみの美術館びじゅつかんをみつけてみてくださいね!

ぱんこさん
ぱんこさん

また期間限定きかんげんてい展示会てんじかいなども各地かくちでよく開催かいさいされています!現在げんざい静岡県しずおかけん静岡市東海道広重美術館しずおかしとうかいどうひろしげびじゅつかんにて東海道五十三次とうかいどうごじゅうさんつぎをみられる展示会てんじかいがおこなわれているので、ちかくにおまいのかたなどはあし をはこんでみてはいかがでしょうか?

U子
U子

全国ぜんこく浮世絵うきよえがみれる美術館びじゅつかん一覧いちらん以下いかになります!!

日光街道にっこうかいどう

日光街道にっこうかいどう徳川家康とくがわいえやす廟所うまやどころ(おはか)が現在げんざい栃木県日光市とちぎけんにっこうしにある日光東照宮にっこうとうしょうぐううつされ、将軍しょうぐん日光参詣にっこうさんけい制度化せいどかされたことによって整備せいどかされたみちです。日本橋にほんばしから日光市にっこうしまではやく143kmで20宿やどありますが、このうち日本橋にほんばしから宇都宮うつのみやまでの16宿やど奥州街道おうしゅうかいどう宿駅しゅくえきとも共通きょうつうしています。

徳川家康とくがわいえやすのおはか日光東照宮にっこうとうしょうぐう

日光街道にっこうかいどう名所めいしょはなんといっても日光東照宮にっこうとうしょうぐうです。これは江戸幕府初代将軍えどばくふしょだいしょうぐん徳川家康とくがわいえやすのおはかとしてつくられた神社じんじゃで、1999ねんには世界遺産せかいいさんにも登録とうろくされました。現在げんざいではパワースポットとしてもられており、世界中せかいぢゅう から観光客かんこうきゃくがおとずれるとても人気にんきのスポットとなっています。

日光東照宮のイラスト

 

U子
U子

さすが世界遺産せかいいさんというだけあってどこもかしこも注目ちゅうもくポイントだらけなのですが、とく有名ゆうめい なものをわたしがピックアップした「みどころ」がつぎの3つです!日光にっこう機会きかいがあったらぜひたちよってみてくださいね!

みどころ①・新厩舎しんきゅうしゃ

新厩舎しんきゅうしゃとは神様かみさまうまをつないでおく馬小屋うまごやのこと。「ざる、わざる、かざる」の三猿さんざる彫刻ちょうこくがとても有名ゆうめいです。この彫刻ちょうこく人間にんげん一生いっしょう風刺ふうししているともいわれています。

みどころ②・陽明門ようめいもん

いつまでていてもきないので「日暮ひぐれもん」といわれたほどこまかい彫刻ちょうこくほどこされたもんで、日本一美にほんいちうつくしいといわれています。

みどころ③・ねむねこ

左甚五郎ひだりじんごろうというひとつくったといわれている、牡丹ぼたんはなかこまれてねむっているねこ彫刻ちょうこくです。目印めじるしがなければとおりすぎてしまうほどちいさな彫刻ちょうこくですが、1951ねんには国宝こくほうにも指定していされたうつくしい作品さくひんです。

 

奥州街道おうしゅうかいどう

奥州街道おうしゅうかいどうは、江戸時代初期えどじだいしょきには東北とうほくにいる大名だいみょう参勤交代さんきんこうたい中期ちゅうきには蝦夷地えぞち(当時とうじ北海道ほっかいどうのこと)開発かいはつ末期まっきにはロシアから蝦夷地えぞちまもるためによく使つかわれていたみちです。明治めいじには「陸羽街道りくうかいどう」と改称かいしょうされ現在げんざいでは大部分だいぶぶん国道こくどう4ごうとなっており、並行へいこうして東北自動車道とうほくじどうしゃどう八戸自動車道はちのへじどうしゃどうもとおるなど現在げんざいにも色濃いろこ影響えいきょうをのこすみちです。

 

松尾芭蕉まつおばしょうもとおったみち

松尾芭蕉まつおばしょう日本にほん代表だいひょうする俳諧師はいかいしです。代表作だいひょうさくおおくの小学校しょうがっこう中学校ちゅうがっこう教科書きょうかしょにものっている『おくのほそみち』という紀行文きこうぶんで、東北とうほく北陸ほくりくの2400kmのみちのりを150日間にちかんかけてあるき、その途中とちゅうんだなどがまとめられています。松尾芭蕉まつおばしょうはそんなながたびのなかで奥州街道おうしゅうかいどうにもあしみいれていました。

U子
U子

余談よだんですが、松尾芭蕉まつおばしょう奥州街道おうしゅうかいどうちよったのは、まぼろしはなはなかつみ」をさがすためだったといわれているんです。ふるくは平安時代へいあんじだいの『古今和歌集こきんわかしゅう』にも登場とうじょうするおはななんですが、いったいどんなはななんでしょう…

現在げんざいではヒメシャガやノハナショウブというはなが「はなかつみ」とよばれているそうなんですが、実際じっさいのところはまぼろしのままです。

松尾芭蕉まつおばしょう残念ざんねんながら、たびのなかでは「はなかつみ」をみつけることはできなかったと作品さくひんのなかでしるしています。

 

  • 旧奥州道中国見峠長坂跡きゅうおうしゅうどうちゅうくにみとうげながさかあと福島ふくしま

松尾芭蕉まつおばしょう足跡そくせきがのこっている場所ばしょの1つは、福島県ふくしまけんにある旧奥州道中国見峠長坂跡国見峠くにみとうげという場所ばしょです。国見峠くにみとうげ坂道さかみち非常ひじょうけわしいため奥州街道おうしゅうかいどうのなかでも難所なんしょといわれる場所ばしょでした。ここには『おくのほそみち』にもしるされている「気力いささかとり直し、路縦横みちじゅうおうんで伊達だて大木戸おおきどをこす」という松尾芭蕉まつおばしょう言葉ことば きざまれた記念碑きねんひがのこされています。

  • 文知摺観音もちずりかんのん福島ふくしま

2つ場所ばしょは、福島県ふくしまけん文化財ぶんかざいにも指定していされている普門院ふもんいんというおてらなかにある文知摺観音です。ここは百人一首ひゃくにんいっしゅうたなかにも登場とうじょうしたことがあり、むかしから様々さまざま文人墨客ぶんじんぼっかくおとずれている場所ばしょでした。松尾芭蕉まつおばしょうもそのうちの1人で、『おくのほそみち』にしるされている「早苗さなえとる 手もとや昔 しのぶずり」というはこの場所ばしょまれたです。

 

中山道なかせんどう

中山道なかせんどう古代こだい東山道とうさんどうをベースに整備せいびされたみちです。「中仙道なかせんどう」と表記ひょうきされることもありましたが、江戸幕府えどばくふは1716ねん中山道なかせんどうとして名前なまえ統一とういつすることにしました。このみち東海道とうかいどうとともに江戸えど京都きょうとむすみちでしたが、江戸時代えどじだいには東海道とうかいどうのほうが交通量こうつうりょうおお宿駅しゅくえき大規模だいきぼでした。中山道なかせんどう東海道とうかいどうよりも40kmも距離きょりながく、さらに山道やまみちなどけわしいみちおおかったため、ここをとおるのはなかなか大変たいへんだったそうです。そのため、参勤交代さんきんこうたいにも中山道なかせんどう東海道とうかいどうくらべて4ぶんの1ほどしか使つか われていませんでした。

 

中山道唯一なかせんどうゆいいつ温泉おんせん?!ー下諏訪宿しもすわしゅく

中山道なかせんどうには69もの宿駅しゅくえきがありましたが、下諏訪宿しもすわしゅく唯一天然温泉ゆいいつてんねんおんせんいていた宿駅しゅくえきでした。そのためたびつかれをいやすためにおおくのひとおとずれとてもにぎわったそうです。

ここには現在げんざいでも鉄鉱泉本館御宿まるや桔梗屋みなとやなど江戸時代えどじだいからずっと営業えいぎょうをつづける老舗しにせ温泉旅館おんせんりょかんがいくつかあり、長年多ながねんおおくの文化人ぶんかじんたちにもあいされてきました。当時とうじおもむきをのこした建物たてもの料理りょうり食器しょっきなどからもなが歴史れきし江戸時代えどじだい雰囲気ふんいきかん じることができます。

 

 

日本にほん4大関所だいせきしょ福島関所ふくしませきしょ碓氷関所うすいせきしょ

江戸時代えどじだい日本にほんには天下てんかの4大関所だいせきしょとよばれる4つの重要じゅうよう関所せきしょがありました。その4つの関所せきしょとは箱根はこね神奈川かながわ)、新居あらい静岡しずおか)、碓氷うすい群馬ぐんま)、福島ふくしま長野ながの)におかれていて、そのうち碓氷うすい福島ふくしまの2つが中山道なかせんどうにありました。なかでも福島関所ふくしませきしょ国史跡こくしせき指定していされているほど、歴史的れきしてき価値かちのある遺跡いせきです。

 

M先生
M先生

どちらも当時とうじかたちそのままではのこっていませんが、もん復元ふくげんされたり資料館しりょうかんがつくられているようなのでってみると関所せきしょ中山道なかせんどう歴史れきしまなぶことができますよ!

資料館しりょうかんには関連かんれんする古文書こもんじょ当時とうじ用具ようぐなども展示てんじされているので江戸時代えどじだい雰囲気ふんいきかんじることができるのではないでしょうか?

 

甲州街道こうしゅうかいどう

甲州街道こうしゅうかいどう日本橋にほんばし出発しゅっぱつして、八王子はちおうじ東京とうきょう)、甲府こうふ山梨やまなし)を中山道なかせんどう合流ごうりゅうする下諏訪しもすわ長野ながの)までつづく街道かいどうです。幕府ばくふはこのみち江戸城えどじょう甲府城こうふじょうむす軍用道路ぐんようどうろとして大切たいせつにしていて、江戸えどてき攻撃こうげきされたときは甲府城こうふじょうてこもり反撃はんげきのタイミングを見計みはかろうとしていました。

参勤交代さんきんこうたいではあまり使つかわれることのないみちでしたが、甲府勤番こうふきんばんという幕府ばくふ役職やくしょくがおかれていたので役人やくにん通行つうこうしたり、江戸中期以降えどじだいちゅうきいこうには江戸えどでの消費経済しょうひけいざい発達はったつをうけて物流ぶつりゅう需要じゅようすなど、このみち重要性じゅうようせいしてきました。

 

絶景ぜっけいられる、犬目宿いぬめじゅく

犬目宿いぬめじゅく甲州街道こうしゅうかいどうのなかでも比較的小ひかくてきちいさい規模きぼ宿場町しゅくばまちだったそうですが、まわりの地域ちいきくら標高ひょうこうたかいため、ここからえる富士山ふじさん当時とうじから絶景ぜっけいだったそうです。そのうつくしさは浮世絵師うきよえし葛飾北斎かつしかほくさいが、さまざまな場所ばしょからえる富士山ふじさんえがいたシリーズ作品さくひん富嶽三十六景ふがくさんじゅうろっけい」の一つとしてここから富士山ふじさん風景ふうけいえがくほどでした。

 

ぱんこさん
ぱんこさん

北斎ほくさいえがいた色鮮いろあざ やかなあかあお富士山ふじさんえがきましたが、実際じっさい富士山ふじさんはどのようにえるのか、見比みくらべてみるのもおもしろいとおもいますよ!

江戸時代えどじだいみち使つかみちとは?


五街道ごかいどうは、はじめは軍事目的ぐんじもくてきで使われることが多かったようですが徐々じょじょ民衆みんしゅうにも使われるようになり、その使い道もだんだん広がっていきました。代表例だいひょうれいには次のようなものがあります。

 

参勤交代さんきんこうたい

江戸時代えどじだいの道の使い道でもっと代表的だいひょうてきなものは参勤交代さんきんこうたいです。これは江戸幕府三代将軍えどばくふさんだいしょうぐん徳川家光とくがわいえみつさだめたもので、全国各地ぜんこくかくちにいるすべての大名だいみょうがある期間きかんごとに自分の領地りょうちと江戸を自腹じばら往復おうふくしなくてはならない制度せいどでした。参勤交代には以下のようなルールがあったようです。

 

対象たいしょう

参勤交代さんきんこうたいを行ったのはおも大名だいみょうですが、それだけではなく幕府ばくふから「大名だいみょうじゅんじた資格しかく」をあたえられた一部の旗本はたもとも行いました。これらの区別くべつは、大名は領地りょうちで取れる米のりょうが1万石以上まんごくいじょう(1万人の成人男性せいじんだんせいが一年にべる米の量)で、旗本はたもとはそれ以下、というように分けられていました。

時期じき

関ヶ原せきがはらたたかいのあと徳川家とくがわけ家臣かしんになった外様大名とざまだいみょうは毎年4月、それ以前いぜんから家臣かしんだった譜代大名ふだいたいみょうは6月か8月がシーズンでした。基本的きほんてきには1年ごとに行うのがルールですが、幕府ばくふ重要じゅうよう役職やくしょくについていた大名だいみょうは江戸に住み込んでいましたし、関東かんとうの大名は半年ごとのみじかいスパン、遠方えんぽう蝦夷地えぞち現在げんざい北海道ほっかいどう)の大名は5年ごと、というように特別とくべつ配慮はいりょを受ける大名もいたのですべてがこのルール通りではなかったようです。

人数にんずう

大名だいみょう行列ぎょうれつを作って参勤交代さんきんこうたいを行いますが、その人数にんずう石高ごくだか(取れる米のりょう)によってことなりました。たとえば「20万石以上まんごくいじょうで約450人」、「10万石で約240人」「5万石で約170人」「1万石で約50人」というようにさだめられていました。しかし大名がかごはこぶ人、大量たいりょうのお金をはこぶ人、休憩きゅうけいのときに食事しょくじを運ぶ人など多くの人手ひとで必要ひつようだったことから実際じっさい行列ぎょうれつはこれよりも多くの人が動員どういんされました。

処罰しょばつ

もし参勤交代さんきんこうたいをサボったり、おくれたりすると処罰しょばつされてしまいました。たとえば現在げんざい青森県あおもりけん盛岡藩主もりおかはんしゅ南部重直なんぶしげなおという人物じんぶつは、到着とうちゃく予定よていより10日おくれてしまったことで、2年間江戸ねんかんえど蟄居ちっきょばれる謹慎きんしん刑罰けいばつを受けることになりました。

 

伊勢参いせまい

江戸時代えどじだいには伊勢参いせまいばれる伊勢神宮参拝いせじんぐうさんぱいが大ブームになりました。庶民しょみんふくおおくの人が一生いっしょう一度いちどは行きたいと思う旅行りょこうだったようです。江戸周辺えどしゅうへんから伊勢いせに向かう場合ばあい、行きは東海道とうかいどうかえりは中山道なかせんどうとおるのが一般的いっぱんてきだったようです。

参拝後さんぱいごには京都きょうと大阪おおさか観光かんこうにいく人もいて、たくさんの人が道を使って移動いどうしました。こうしたお伊勢参いせまいりにかかった費用ひようは、旅人たびびといた日記にっきなどからることができます。江戸周辺えどしゅうへんから伊勢神宮いせじんぐうまではおよそ15hはくかかり、宿泊代しゅくはくだい食事代しょくじだい、川をわたるときの船代ふなだい休憩時きゅうけいじのお茶代ちゃだいなどを合わせるとかなりの出費しゅっぴだったそうです。

 

U子
U子

そんなにたかいおかねはらってでも行きたい!と思う人がたくさんいるほどお伊勢参いせまいりは魅力的みりょくてきたびだったんですね。

H松
H松

そうですね。そしてもし五街道ごかいどう整備せいびされていなかったら、庶民しょみんあいだでこれほどまでにお伊勢参いせまいりが流行りゅうこうすることもなかったのではないでしょうか。

 

 

茶壷道中ちゃつぼどうちゅう

茶壷道中ちゃつぼどうちゅうとは、幕府ばくふ京都きょうと宇治うじで取れたおいしい宇治茶うじちゃ茶壺ちゃつぼにいれて江戸えどまではこばせた行事ぎょうじのことです。

毎年まいとし4月か5月ごろになると、宇治うじから茶葉ちゃば生育状況せいいくじょうきょう報告ほうこくけた8人から14人のい人が茶壺ちゃつぼって江戸えど出発しゅっぱつします。宇治うじ到着とうちゃくすると、茶壷ちゃつぼ宇治茶うじちゃめられ厳重げんじゅうまもられながらかごせられ江戸まではこばれます。その取りあつかいには細心さいしん注意ちゅういはらわれたそうです。

茶壺道中ちゃつぼどうちゅうはとても権威けんいある行事ぎょうじで、これが通行つうこうするさいには大名だいみょうでもかごりなければならず、街道沿かいどうぞいの村々には街道かいどうのそうじがめいじられ、田畑たはた耕作こうさくきんじられたほどでした。

 

ぱんこさん
ぱんこさん

江戸時代えどじだいの人々にとってお茶はとても貴重きちょうなものだったんですね。でも今考えるとちょっとおかしいくらいお茶が大事だいじにされていますね。

M先生
M先生

そうなんです。正確せいかくなことはわかっていませんが、じつは「ずいずいずっころばし」という童謡どうよう人間にんげんよりお茶を優先ゆうせんするような茶壷道中ちゃつぼどうちゅう風刺ふうししていると言われているらしいですよ。

U子
U子

ずいずいずっころばし ごまみそずい
 茶壺ちゃつぼわれて とっぴんしゃん
 ぬけたら、どんどこしょ♪

部分ぶぶんですね!

H松
H松

この部分ぶぶん現代語げんだいごにすると、

 

ずいずいずっころばし ごまみそずい (ごまみそを作っていたら)

茶壷ちゃつぼわれて とっぴんしゃん(茶壺道中ちゃつぼどうちゅうがきたので、をピシャリとめた)

ぬけたら どんどこしょ(茶壺道中が通り過ぎ、やっと一息がつける)

 

となるみたいです。茶壷道中ちゃつぼどうちゅうは、幕府ばくふにとっては権威けんいあるイベントだったのかもしれせんが、庶民しょみんにはかなりめんどくさいと思われていたのかもしれませんね。

 


 

U子
U子

ここまで江戸時代えどじだい街道かいどう特徴とくちょうや使い道について見てきましたがいかがでしたか?

次の記事きじ担当たんとうはH松さんです。江戸時代えどじだいに作られた道は以降いこう時代じだいでどのように発展はってんするのでしょうか?!

 

参考さんこう

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