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- 講読会について
- 第一講| 一九八一年一月七日「象の寓話から」 他2026年5月12日
- 第二講| 一九八一年一月十四日「生存の技法」 他 2026年5月19日
- 第三講| 一九八一年一月二十一日「夢の分析と性的関係」 他 2026年6月2日
- 第四講| 一九八一年一月二十八日「セクシュアリテの経験」 他 2026年6月9日
- 第五講| 一九八一年二月四日「哲学者たちの倫理」 他 2026年6月16日
- 第六講| 一九八一年二月十一日「有機的統一体」 他 2026年6月23日
- 第七講| 一九八一年二月二十五日「師-真理-性」 他 2026年6月30日
- 第八講| 一九八一年三月四日「『エロス談義』の構造」 他 2026年7月7日
- 第九講|一九八一年三月十一日「制度の公共化」 他 2026年7月14日
- 第十講| 一九八一年三月十八日「言説と現実の関係」 他2026年7月21日
- 第十一講| 一九八一年三月二十五日「近代的主体性とギリシア的ビオス」 他2026年7月28日
- 第十二講| 一九八一年四月一日「欲望の誕生」 他2026年8月4日
ホルムズ海峡の〈真理〉、ガザの〈真理〉、SNS上の〈真理〉、生成AIの〈真理〉、そして「性」と「生」の〈真理〉…。現代は、まさに〈真理〉と、それに依存する〈主体性〉が問われる社会となっています。「ある主体にとってのみ真理が存在するにもかかわらず、いかにして主体一般の真理が存在しうるのか」(同書 p.14 )。待望の翻訳を手掛かりに講読します!素人大歓迎!!

講読会フライヤーPDFはこちら
※ 大学研究会の主催ですが、お申込み者は、自由に一回からご参加いただけます。お気軽にご参加ください!
(どなたでもご参加いただけます!)
講読会について
講読書籍
ミシェル・フーコー講義集成 < 10 >「主体性と真理」(コレージュ・ド・フランス講義1980-81)
ミシェル・フーコー著 清水 雄大・坂本 尚志訳 筑摩書房(2025年)
講読期間
2026年5月12日(火)~ 2026年8月4日(火)全12回
※5月26日は休会です。
開催時間
18:00-19:30ごろ(入退室自由)
開催場所
オンライン(ZOOM)開催
参加方法
ご参加方法には、①一般参加会員、②継続参加会員、③傍聴参加の三種類があります。
- ①一般参加会員
その都度ごと参加の申し込みを行って参加いただくものです。
当日の講読に必要な資料を事前にお送りさせていただきます。
ご参加予定の講読会の一週間前までにこちらのGoogle Formよりお申し込みください。 - ②継続参加会員
継続的に講読会にご参加いただくということで登録される会員です。
講読会に必要な資料を事前にお送りさせていただきます。
※ 参加登録は一度のみで完了いたします。
※ また、継続参加会員が毎回必ず参加が必要というわけではありませんので、ご都合に合わせてお気軽にご参加ください。
お申込みはこちらのGoogle Formよりどうぞ! - ③傍聴参加
特に講読用の資料を希望せず、ZOOMでの傍聴のみを希望される参加のスタイルです。
一回のみのご参加でもお気軽にお申込みいただけます。
ご登録いただいた方宛てに、開催前にZOOMのURLをお送りいたします。
お申し込みはこちらのGoogle Formよりどうぞ!
第一講| 一九八一年一月七日「象の寓話から」 他
2026年5月12日
当日資料はこちら
当日リポート
いよいよ始まった講読会。しかも新しく講読していくのは、昨年末待ちわびた邦訳が出版されたばかりの講義録集成。それもなんと1981年のテクスト(40年以上前!!)。
なぜ、いま、そんなに古いテクストを??と思ってしまいがちですが、ホルムズ海峡をめぐるイランと米国、イスラエルのやり取りを見ていると、まさに今こそ、真理が問われている、と思えます。誰もが、それぞれにとっての真理を主張しますが、何が真理と言えるのか、混とんとしているような現在。でも、自らが真理と思うものによって、主体は発動するし、生まれる、とも説明がありました。
主体とは、自分で自分のことを決めて、管理して、統治していくことなのかもしれませんが、それは外在的なものに大きく影響を受けています。自分で自分のことを決めて、自分のために生きていくためにも、何かに依存しないといけません。そうしたことも前提として、自らを統治していくということ、主体性と真理について、ぜひ考えていきたいと思います。
今回、フーコーが題材として取り上げようとしているのは、「セクシュアリテ」について。
何となくのイメージだと、「性」とは抑圧の対象としてみなされてきたようなものの筆頭と思えますが(むしろ、フーコーもそう議論してきた、と思ってしまいがちですが)、実は、フーコーは、セクシュアリテには、抑圧や排除の対象とみなされてきた側面も確かにあるけれど、社会にポジティブに受け入れられ、重視されてきたようなものでもある、と指摘しています。
フーコーは、これまでに狂気や犯罪、病気などのテーマについても取り上げて議論をしてきました。そこでは、本人が「自分は狂っていない/犯罪者ではない/病気ではない」といくら主張しても、外在的に”真理”を語るもの(何かを正当化するもの?)によって、狂気や犯罪、病気がラベリングされてきました。まさに「ないほうがいいもの」として排除・抑圧の対象とみなされてきたのです。
ですが、セクシュアリテは、明らかに自己認知、内発的に見出されるものでもあり、その本人の経験や告白と切り離せないような種類のもののようなのです。
フーコーは、セクシュアリテをテーマに、真理を歴史-哲学的に議論していくと述べています。
「真理とは何か」を問うのでもなく(哲学的方法)、「どうやって真理に到達するのか」を問うのでもない(実証的方法)と明言しています。
歴史的経緯の中で、何が真理とされ、どのような形でその真理が形作られてきたのか――といったことを問おうとしています。そうした歴史-哲学的アプローチこそが唯一、私たちが主体性と真理について考えうる方法なのではないか、とフーコーは考えているようです。
セクシュアリテとは、生き物である以上、誰もが自分と切り離せないような話題です。私たちがあまりにも多様であるからこそ、そのあり方や志向性は、統制されるものでも、ルール化されるものでもないはずですが、そこには形/枠が与えられています。
なぜか理屈は分からないけれど、道徳的・法的・宗教的に「こうあるべき」といった枠があり、共有されている…。場合によっては、生理的嫌悪感を持ってしまうようなセクシュアリテのありようもあるのかもしれませんが、なぜ生理的に受け付けないと感じるのか、そこには明確な理由があるようでいてないのです。(もしかしたら生権力の話題にもつながっていく?と議論されました)
フーコーがこれからどのようにこの議論を展開していくのか、楽しみです!
次回は、もう少し「主体とは何か」といった内容にも触れていくことになるようです。ぜひ、楽しくゆるゆると読み進めていきましょう。
参加者の皆さんからのコメント
ギリシャ哲学では、その人物が実在したのか?から議論されてますが、フーコーは実在していたので、即議論できるのがいいです。
フーコー先生が始めようとしている歴史が、自分は苦手なのですが、皆様の解説などでなんとかついていけるかなと思います。この日もたくさんのみなさんのお話しで、楽しく参加させていただきました。ありがとうございました!セクシヤリテーについて、フーコー先生が講義していた1980年代を思い出して、考えられるよう頑張ります。
特にマイナセクシャリティについてのお話に興味を持ちました。授業を通して、マイノリティかどうかに関係なく、「本人が無理なく自然にいられること」が大事だと思うし、普通を押し付けず本人を尊重することが大切だと感じました。また、色んな方の意見も聞けてとても貴重な時間でした。ありがとうございました。
同じ宗教であるから全ての考えが等しい、あるいは、異なる宗教だからこそすべての考えが異なる、という訳ではないと学びました。私は特定の宗教を信仰している訳ではないため、その観点はありませんでした。また、セクシュアリテを考えることで主体性や真理への考えに繋がるというのは一見繋がりがなさそうだからこそ学びがありました。
今回の購読会で、私は病気や犯罪などとセクシュアリテの同義性、相違性、つまりセクシュアリテの両義性について学んだ。セクシュアリテとは「ない方が良いもの」とされることがある反面、主体的に受け入れられるものであることもあり、真理と主体性について考える上で最も良いと考えられる。
普段あまり読んだり話したりするような内容の話ではなかったため、興味深いと同時にとても難しかったです。今まで受けた大学の授業の中で最も難しい概念でした。
今回の講読会を通して、「真理」とは単なる客観的な事実ではなく、人がそれをどう受け入れ、自分自身をどう理解するかに深く関わるものだと学んだ。特にセクシュアリテの領域では、外部から与えられる真理だけでなく、主体自身の告白や経験が重要になる点が印象的だった。また、現在の性道徳が歴史的に形成されてきたことにも気づかされた。
この講義に参加した理由として、僕とは別の人が真理をどう解釈し述べようとしているのか気になったためなのですが、僕が求めていた講義とは違っていたかなと言うのが第一印象です。また、反省すべきなのがレジェメが配布された時点でそれを読もうと思わなかったところです。参加する際、とにかく新しいのに挑戦してみようと思い、説明を読まなかったせいで講義中内容があまり入って来なかったのが悔しいところです。初めのクマさんが話していた世間話のところはなんとなく自分に関係あるのだと関心を持てました。
講義中追いつくことが困難で理解が追いついていないのですが、フーコーが話す真理というのは、所謂人間にとっての真理なのでしょうか。このような文献を読むことが少なく知識も少ないものですが、個人的に真理と何回も出てきましたが、そこに入るのは真実になるのではないかと思いました。私個人の真理の見解としまして、真理と言うのは宇宙にとっての真実あるいは存在理由であり、それが人間に反映されるのか、また反映しても良いのかと疑ってしまいます。
フーコーの考える主体性とは、それだけで存在しているのではなく、まず諸々の義務の体系だと本質的に理解される真理があり、主体は、真なるものとして通っている事柄を主体自身で生み出す、または受け入れるか従属しなければならない、というものであったこと。人は自然環境に対して、道徳的模範、人々の行動に対する教訓を求めていたこと。
今回の講読会では、「主体性と真理」というテーマが、単なる抽象的な哲学の議論ではなく、私たち自身の生き方や自己理解にも深く関わる問題であることを実感しました。特に、セクシュアリテをめぐる「真理」が、外部から押し付けられるだけではなく、主体自身の経験や告白と結びついているという点が印象的でした。象の寓話から議論が始まった際は驚きましたが、歴史的背景や道徳との関係をたどることで、現代の価値観も長い過程の中で形成されてきたのだと理解でき、とても興味深かったです。
主体は真理に依存すると学びましたが、他方で象の寓話に見られる恣意性から考えると真理もまた主体に依存しているように思えます。主体と真理は相互に依存する関係、あるいは循環する関係だと捉えてよろしいのでしょうか。
第二講| 一九八一年一月十四日「生存の技法」 他
2026年5月19日
当日資料はこちら
当日リポート
ホルムズ海峡をめぐるトランプ政権とイラン政府?の主張には相変わらず真理と真理のズレがあるように思えてならない、双方の主張を伝える報道動画を観るところから始まった今回の講読会。
こういうとき、だからこそ歴史に学ぶことが意味を持つのかもしれません。
フーコーがやろうとしていることもまさに、歴史に立ち返ること。「何が正しい」、「どうすべき」といった議論も、主張もフーコーはしていないのです。セクシュアリテの話をしているのにもかかわらず、「セクシュアリテとは何か」、「男とは――」、「女とは――」といった類の話は出てきていません。ただただ、歴史に立ち戻ったとき、その時代における「真理」がどのように立ち現れてきたのか、そのことを問おうとしています。性にかんするあらゆる前提や私たちが暗黙的に共有しているような価値観を、まさに換骨奪胎しようとする、そういう試みをしている本である、ということがいえそうです。
ここでの「真理」とは、嘘に対する真実ともまた違う、と解説もしていただいていました。宇宙にとっての、社会にとっての、人間本性にとっての「真理」を取り扱っているわけですが、その「真理」も、絶対的な視点における普遍的な「真理」としては取り扱わないのです。時代や文化、社会、そして私たちが、何を「真理」としているのか、「真理」としてきたのかは常に変化してきた。だからこそ、それぞれの時代や状況、社会において、何が「真理」とみなされ、それがどのように「真理」とみなされるに至ったのか、そのメカニズムを歴史的に観ていこうとしています。
そして、今回の行動会では、象の寓話で挙げられていたような話とは、「生の技法」として捉えられるようなものであった、ということが指摘されていました。
「技法」というくらいだから、「いかに何をなすべきか how to do something」みたいな議論なのかな、と考えてしまいがちですが、「どう行動/活動すべきか」といった技法として捉えられるようになる以前は、「いかにあるべきか how to be/live」といった存在論的な議論であった、ということが指摘されていました。この生の技法を考えるうえで、「真理」は切り離すことができないもののひとつです。
「いかにあるべきか how to be / live」、例えばどんな出来事に直面したとしても、しなやかに、自律性と独立性を保ち続けることができるような「平静さ」を獲得することが求められてきた、と挙げられていました。これは、もはや能力やノウハウの訓練とは程遠いようなものです。
そして、その「平静さ」を獲得するために、
①師との関係を通じて「真理」を教えられること:他者との関係(マテーシス)
②学んだ内容を繰り返し省察することで、自分自身に内面化させていくこと:「真理」との関係(メレテー)
③自らの行動や振る舞いが、目指しているありよう―真理としてみなせうるのか、自己を吟味し、修練していくこと:自己との関係(アスケーシス)
が必要とされてきた、と紹介されていました。
すべてのプロセスで「真理」は不可欠なものになっています。
フーコーは、こうした生の技法を自己のテクノロジーや自己の技術などとも表現していました。主体であるために欠かすことができない「真理」というものがあり、象の寓話に代表されるような性的活動に関する生の技法に注目することで、真理の構造の話をしようとしているのだ、ということを確認することができたように思います。
ここからより内容がどろどろと、どっぷりフーコーらしい?議論になっていくようですが、自分自身のことにあまりひきつけてしまわずに、社会一般、人間一般の話として少し引いて読んでいけるとよいかもしれない、と”放課後”でアドバイスもされていました。
フーコーは価値判断をしているわけではなく、あくまでセクシュアリテを題材として真理の構造を読み解いていこうとしています。何を信じようが、どう振る舞いたいと考えようが、フーコー的には知ったこっちゃない、フーコーは、ある時代に何が「真理」とされていたのか、どういう経緯で「真理」とされるに至ったのか、その歴史、プロセスに注目しようとしている、ということ。そのことを心に留め置きながら、ぜひ読み進めていきたいと思います。
科学とは、「ものをしっかり考える」ということ。そうした修練を通じて、サイエンスする主体として存在していけるよう、ひきつづき頑張っていきたいと思います。
ということで次週26日はおやすみです。次回、6月2日にまた、お会いしましょう。
参加者の皆さんからのコメント
「生の技法」を詳細に検討することによって「主体性と真理」を良く読み取り、考えることができる。生の技法に関して学び、内面化し、吟味する必要がある。主体から真理を考えるのではなく、主体の前に自分自身についてなす経験は真理と真理に対してどのような効果があるのか。また、生の技法を通してセクシュアリテについて考えたい。
現在の私たちは、何をなすべきかということに視点が置かれることが多いと思う。これがキリスト教の変遷を経て形作られたものであると知り、現代人が抱える生きづらさのようなもののルーツが少し感じられた。前回の講義に参加できていなかったため少し不安があったが、初めに丁寧に振り返りをしてくださっていて助かった。理解が難しい部分がいくつかあったため、その部分をよく考えられるようにしたい。
内容が非常に密度が高く、一度聞いただけでは理解しきれない部分も多かったですが、「主体―真理」という視点からセクシュアリテや教育、社会のあり方を捉え直す議論がとても興味深かったです。特に、「how to do」と「how to be」の違いは、現代の教育や多様性の議論を考える上でも重要だと感じました。もう少し時間をかけて、具体例を交えながら考えてみたいと思いました。
「主体性と真理」に関して歴史に立ち返って、その時代の「真理」についてのみ問いている中で「いかに生きるべきか」から「いかにあるべきか」へと問いが変化していることが印象に残りました。
今回学んだのは、真理とは単に発見されるものではなく、人が「これが真理だ」と結びつくことで主体の経験そのものを形作るという視点である。特に、生の技法では、他者との関係・真理との関係・自己との関係を通じて、自分自身を変容させていくことが重視されていた点が印象的だった。また、現代の教育や社会が「how to do」に偏っているという指摘から、「どう生きるか」を考える重要性を感じた。
第三講| 一九八一年一月二十一日「夢の分析と性的関係」 他
2026年6月2日
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当日リポート
ナフサ不足を伝える報道動画から始まった今回。しかし、私たちが暮らす生活は、あまりにも多くの石油由来の製品であふれているのですね。まさに高度文明社会、大量消費社会。
石油という一つの物質は、あまりにも多彩で多様なものへと姿を変え、私たちの夢のような便利な暮らしを支えてくれています。
ナフサは足りてる/足りてない、どこかで目詰まりしているなど、さまざまな言い分はあるようですが、いずれにしてもadministratorというか、コントロールする側、統治する側がout of controlな状態なのかもしれません。(最近は、コメをめぐっても同じような顛末がありました。まだ解決されていないかもしれませんが)
今回のフーコーの講義も、どこかそうした制御し、コントロールしようとする側の発想に対して拮抗するものの存在を示そうとし、そこに主体性が立ち現れているのではないか、といった議論をしようとしているのではないか、と指摘されていたように思います。
例えば、今回取り上げられていたのは「夢」ですが、夢とは、その人がまさにそう思っていることを露骨に表しうるようなものとして、さまざまな文化で扱われてきたもののようです。そして、ギリシア人は、その性的行動にかんする夢を「法にかなうもの」、「法に反するもの」、「自然に反するもの」の3つに分類し、社会的な価値観を表出するものとして、理解/解釈しようとしています。ここでの、「法にかなうもの」とは、決して婚姻関係にある妻との性的行動、というようには規定しないのです。生殖をかなえるものかどうか、というようにも判断しません。「法にかなうもの」には、「自然にかなうもの」も含むようで、挿入の有無でどうやら「法と自然にかなう」かどうかを判断するようです。それが、ギリシア人の性的行動にかんする夢の解釈のしかたです。つまり、妻以外の女性、娼婦、男性などなどと性的行動をとろうが、それは「法と自然にかなうもの」なのです。
実際には、私たちの性的な行動は多様にありえる、のかもしれません。
例えば、「おいしい!」と思えるもののありようは多様で、特定の調理法、ジャンルでないと「おいしい」とみなせない、なんてことはありません。睡眠についても同様で、人によって、眠り方も眠りの質も、満足できる眠りの時間なども様々です。性的行動だって、同じようにいろいろなありようがあるはず。ですが、なぜか、象の寓話にもみられたように、一対の清らかな関係性が唯一絶対の”正しい”ありようで、倫理である、とみなされてきたし、みなしてもいるかもしれません。つまり、それ以外の性的行動の在り方は抑圧されてしまっているのかもしれない、とも考えられそうです。
セクシュアルスタディーズや、ジェンダースタディーズ、フェミニズムの議論も、結局何を「正解」とみなすかは異なるにせよ、「正解」ありきで統治に加担しようとするものであったのかもしれません。フーコーは、「本当にそう?」と”正しさ”を求めるバトルフィールドに斬りこもうとしているのかもしれません。
…が、次回はまた急展開があるそうで…。楽しみに読み進めていきたいと思います!
参加者の皆さんからのコメント
夢判断を単なる迷信ではなく、主体性や倫理、社会秩序との関係から読み解いていく視点がとても興味深かったです。特に、フーコーが古代のテクストから「自己のテクノロジー」を見出していく過程が印象に残りました。難しい内容でしたが、具体例を交えた解説で理解しやすかったです。
現代では性的なものと社会的なものを別の領域として考えがちだが、古代ギリシアでは両者が連続的に捉えられていたことが印象的だった。また、夢判断が未来予知ではなく、生き方や行動を導く「生の技法」として位置づけられていた点から、自己理解と倫理の関係について新たな視点を得た。
前回すっぽかしてしまいすみませんでした。物忘れ酷くて、困りますが、時々いいこともあります。社会性の無さをなんとかしたくて、頑張りすぎるところがあるので、疲れるんですが、予定を忘れるお陰でのんびりできます。
罪悪感は半端ないですが、振り返りもあるので、ありがたいです。
今回やっとフーコーが「社会」と言う言葉を使わないできた理由が理解できました。主体は自然にあり、一人の人間の主体の活動の話しをずっとしてきたからと言うことなのではないでしょうか?が私の理解です。
社会は規律であり、法律により属するものをまとめていて、政治も必要。やっとわかったつもりになってます。
それにしても、前段の、「前回は慌てちゃって混乱しててごめんね」と、言い訳しているのがかわいかったです。
社会の中にある複雑なものは、外から単純に把握したり制御したりできるものではないという視点を今回学んだ。ナフサや米のように、一つのものが多様な用途や関係の中で動いているのと同じように、人間の主体性やセクシュアリティも、自然に見えて実は社会や制度、言葉の中で意味づけられているのだと感じた。夢判断でも自分の行動を律する「生の技法」として扱われていた。
レジュメの後半で、女性が夢見る主体となるケースが「女性の本性(挿入されること)」や「男性の特権(挿入)」という文脈でしか語られていない点が非常に気になりました。
古代の夢判断において、女性の夢や性は、女性自身の内面や欲望として独立して存在するのではなく、どこまでも「大人の男性を中心とした社会秩序や権力構造」を補強するための反転モデルとしてしか扱われていないように見えます。
現代の感覚からすると、夢というきわめて個人的な領域にまで、そこまで徹底して「能動=男性」「受動=女性」というジェンダー規範や政治性が持ち込まれ、それが当時の“真理”とされていたことに、当時のセクシュアリテの非対称性と強烈な構造の歪みを感じました。興味深い。
正直、話が抽象的でかなり難しく感じた。今回の講読会が初めてだったこともあり、すぐには理解できない部分もあったのだと思う。特に、フーコーや主体性、セクシュアリティといった横文字や哲学的な考え方は、これまであまり触れてこなかったので難しかった。ただ、ナフサや米の話から、複雑なものを無理に整理しようとすると見落としが出る、という感覚は少し分かった。自分なりにもう一度振り返って理解を深めたい。
フーコーやアルテミドロスの時代では夢を幻影であると考えて終わるのではなく、夢から主体の最も秘めたる真理を判断しようとし、それが生きるための一つのやり方となっていたのはその時代の真理に大きな影響を受けていたのだと感じました。
第四講| 一九八一年一月二十八日「セクシュアリテの経験」 他
2026年6月9日
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当日リポート
昨今は、政治もSNS戦略が不可欠!になりつつあるようですが、政敵を貶めるような動画制作を業者に発注したとかしないとか、そんな報道も聞かれます。「スマホ農場」では閲覧数やイイネ数を稼ぐことを売り物にしているようで、それが選挙対策にも使われているのでは?いやいや…みたいなやり取りも動画の中で紹介されていました。が、こうした潮流はもう10年以上も前からケンブリッジ・アナリティカの一件で話題になっていた、ともいいます。私たちは、簡単にSNSやAIを通じて世論が操作されてしまうということを実例を以て知っているはずなのに、実際に判断や選択を迫られる機会には圧倒的に無自覚に陥ってしまう。《ちゃんと考えて行動する》という主体であろうとすることができなくなってしまっている。そして、実際に《ちゃんと考えて行動する》ということをできないようにする権力の在り方もあるのかもしれないのです。
フーコーの議論もまた、私たちが「真理」と信じて疑わないものの、”そもそも”を突こうとする試みといえるかもしれません。フーコーは、運命的に決められた男性と女性という一対の組み合わせのみが性的行為の対象として唯一認められるもの、という私たちがもしかしたら信じて疑わない「真理」を疑ってかかります。
ギリシアにおける性的行動にかんする夢解釈では、その夢の中で行われる性的な諸行為は、現実の社会的な諸関係や諸行為、出来事と連続的なものとして考えます。なので、性的行為の夢解釈で良い兆候/悪い兆候と判断される基準の一つとして、まず、同型性/異型性が挙げられています。
いわば、社会的な関係性からみて違和感がないものが同型性といえるでしょうか。例えば、成人男性と奴隷が性的行為を行う場合、成人男性は奴隷の主人という関係性にあります。成人男性がそのまま能動的に奴隷と性的行為を持てば、それは同型性のものと捉えられますが、逆に成人男性が受動的になると、本来の社会的関係性とは異なる型となるので、それが夢の解釈にも影響してくるのです。(問題はヘテロセクシュアルか否か、ということではない、ということも強調されています。なので、ここでの奴隷の性は男性でも女性でもどちらでも同じ、ということになります)
能動性―受動性も、重要な観点として挙げられていたものでした。この観点に立つ際は、性的行為の相手は特に問われず、性的行為を行う者自身についてが問われることとなります。
講義のなかでは、この能動性とは相手を思って行為することとして説明されていたように思います。自分自身が気持ちよくなるかどうか、という観点に立った時、それは能動的なものにはならず、受動的なものになってしまうというのです。他者に対しての関係として、相手にどのように慮るか、配慮するかといった問題に向き合うのが能動性であり、そうして主体となっていくという議論のようでした。
フーコーは講義の中で男性は挿入する存在ゆえに能動的なものとして捉え、その性的行為の対象として、女性、奴隷、少年を挙げていました。しかし、少年はやがて年をとれば、男性となり挿入する側―主体となっていくような存在でもあります。だからこそ、成人男性―少年の性的関係は、やがて主体となっていく存在としての少年にどのように配慮するか、という問題が問われ、論じられてきた経緯があることも紹介されていました。
そこで登場していたのが「エロス」の概念です。エロスとは、「非常に明確な諸々の義務の集成であり、自らを導く技法あるいはむしろ他者を導きつつ自らを導く複雑な技法を含んでいるもの(P107)」といいます。だからこそ、成人男性と少年の間のエロスとは、「誰かを真理に至るまで愛すること、この誰か自身が認識の主体となるまで愛すること、その結果、認識の主体として教育の内部で作られた非対称の関係自体から正当な権利として逃れるまで、非対称的な性的活動の相関物の地位から逃れるまで愛すること(P108)」なのです。
エロスという関係性は、真の教育の在り方として考えられるものなのかもしれません。”自分がどうか”、ではなく、”自分と関係を持つ誰かにとってどうであるか”、をとことん考えることこそが「主体的なありかた」として考えられていた――婚姻関係にある異性同士の性的行為のみが倫理となってしまったとき、むしろ、類的関係からの疎外が生まれてしまったのではないかという指摘も放課後の時間にされていました。
他者との関係における自己のテクノロジーが、自己についての自己のテクノロジーへと移行していく様がこれから説明されるとフーコーは予告していましたが、誰かのために何かを考えたり配慮するのではなく、完全に自分事に陥ってしまうとき、他者という存在は自分の利益をあげるための資源や素材としてしかみなしえなくなってしまうのではないか、とも議論されていました。
次回もますます過激に、本質的に議論していけたらうれしいです!(でも、ユルく!)
参加者の皆さんからのコメント
第五講| 一九八一年二月四日「哲学者たちの倫理」 他
2026年6月16日
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第六講| 一九八一年二月十一日「有機的統一体」 他
2026年6月23日
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第七講| 一九八一年二月二十五日「師-真理-性」 他
2026年6月30日
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2026年7月7日
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第九講|一九八一年三月十一日「制度の公共化」 他
2026年7月14日
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2026年7月21日
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2026年7月28日
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