まなキキオンライン講読会_第13弾(ゆるフーⅧ)『主体性と真理』

オンライン講読会

さんかくすと文がえます

ホルムズ海峡の〈真理〉、ガザの〈真理〉、SNS上の〈真理〉、生成AIの〈真理〉、そして「性」と「生」の〈真理〉…。現代は、まさに〈真理〉と、それに依存する〈主体性〉が問われる社会となっています。「ある主体にとってのみ真理が存在するにもかかわらず、いかにして主体一般の真理が存在しうるのか」(同書 p.14 )。待望の翻訳を手掛かりに講読します!素人大歓迎!!

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※ 大学研究会の主催ですが、お申込み者は、自由に一回からご参加いただけます。お気軽にご参加ください
(どなたでもご参加いただけます!)

 

講読会について

講読書籍

ミシェル・フーコー講義集成 < 10 >「主体性と真理」(コレージュ・ド・フランス講義1980-81)
ミシェル・フーコー著   
 清水 雄大・坂本 尚志訳 筑摩書房(2025年)  

講読期間

2026年5月12日(火)~  2026年8月4日(火)全12回
※5月26日は休会です。

開催時間

18:00-19:30ごろ(入退室自由)

開催場所

オンライン(ZOOM)開催

参加方法

ご参加方法には、①一般参加会員、②継続参加会員、③傍聴参加の三種類があります。

 

  • ①一般参加会員
    その都度ごと参加の申し込みを行って参加いただくものです。
    当日の講読に必要な資料を事前にお送りさせていただきます。
    ご参加予定の講読会の一週間前までにこちらのGoogle Formよりお申し込みください。
  • ②継続参加会員
    継続的に講読会にご参加いただくということで登録される会員です。
    講読会に必要な資料を事前にお送りさせていただきます。
    ※ 参加登録は一度のみで完了いたします。
    ※ また、継続参加会員が毎回必ず参加が必要というわけではありませんので、ご都合に合わせてお気軽にご参加ください。

    お申込みはこちらのGoogle Formよりどうぞ!
  • ③傍聴参加
    特に講読用の資料を希望せず、ZOOMでの傍聴のみを希望される参加のスタイルです。
    一回のみのご参加でもお気軽にお申込みいただけます。
    ご登録いただいた方宛てに、開催前にZOOMのURLをお送りいたします。
    お申し込みはこちらのGoogle Formよりどうぞ!


 

第一講| 一九八一年一月七日「象の寓話から」 他
2026年5月12日

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当日リポート

 いよいよ始まった講読会。しかも新しく講読していくのは、昨年末待ちわびた邦訳が出版されたばかりの講義録集成。それもなんと1981年のテクスト(40年以上前!!)。
 なぜ、いま、そんなに古いテクストを??と思ってしまいがちですが、ホルムズ海峡をめぐるイランと米国、イスラエルのやり取りを見ていると、まさに今こそ、真理が問われている、と思えます。誰もが、それぞれにとっての真理を主張しますが、何が真理と言えるのか、混とんとしているような現在。でも、自らが真理と思うものによって、主体は発動するし、生まれる、とも説明がありました。
 主体とは、自分で自分のことを決めて、管理して、統治していくことなのかもしれませんが、それは外在的なものに大きく影響を受けています。自分で自分のことを決めて、自分のために生きていくためにも、何かに依存しないといけません。そうしたことも前提として、自らを統治していくということ、主体性と真理について、ぜひ考えていきたいと思います。

 今回、フーコーが題材として取り上げようとしているのは、「セクシュアリテ」について。
何となくのイメージだと、「性」とは抑圧の対象としてみなされてきたようなものの筆頭と思えますが(むしろ、フーコーもそう議論してきた、と思ってしまいがちですが)、実は、フーコーは、セクシュアリテには、抑圧や排除の対象とみなされてきた側面も確かにあるけれど、社会にポジティブに受け入れられ、重視されてきたようなものでもある、と指摘しています。

 フーコーは、これまでに狂気や犯罪、病気などのテーマについても取り上げて議論をしてきました。そこでは、本人が「自分は狂っていない/犯罪者ではない/病気ではない」といくら主張しても、外在的に”真理”を語るもの(何かを正当化するもの?)によって、狂気や犯罪、病気がラベリングされてきました。まさに「ないほうがいいもの」として排除・抑圧の対象とみなされてきたのです。
 ですが、セクシュアリテは、明らかに自己認知、内発的に見出されるものでもあり、その本人の経験や告白と切り離せないような種類のもののようなのです。

 フーコーは、セクシュアリテをテーマに、真理を歴史-哲学的に議論していくと述べています。
「真理とは何か」を問うのでもなく(哲学的方法)、「どうやって真理に到達するのか」を問うのでもない(実証的方法)と明言しています。
 歴史的経緯の中で、何が真理とされ、どのような形でその真理が形作られてきたのか――といったことを問おうとしています。そうした歴史-哲学的アプローチこそが唯一、私たちが主体性と真理について考えうる方法なのではないか、とフーコーは考えているようです。

 セクシュアリテとは、生き物である以上、誰もが自分と切り離せないような話題です。私たちがあまりにも多様であるからこそ、そのあり方や志向性は、統制されるものでも、ルール化されるものでもないはずですが、そこには形/枠が与えられています。
 なぜか理屈は分からないけれど、道徳的・法的・宗教的に「こうあるべき」といった枠があり、共有されている…。場合によっては、生理的嫌悪感を持ってしまうようなセクシュアリテのありようもあるのかもしれませんが、なぜ生理的に受け付けないと感じるのか、そこには明確な理由があるようでいてないのです。(もしかしたら生権力の話題にもつながっていく?と議論されました)

 フーコーがこれからどのようにこの議論を展開していくのか、楽しみです!
次回は、もう少し「主体とは何か」といった内容にも触れていくことになるようです。ぜひ、楽しくゆるゆると読み進めていきましょう。

 

 

参加者の皆さんからのコメント

ギリシャ哲学では、その人物が実在したのか?から議論されてますが、フーコーは実在していたので、即議論できるのがいいです。
フーコー先生が始めようとしている歴史が、自分は苦手なのですが、皆様の解説などでなんとかついていけるかなと思います。この日もたくさんのみなさんのお話しで、楽しく参加させていただきました。ありがとうございました!セクシヤリテーについて、フーコー先生が講義していた1980年代を思い出して、考えられるよう頑張ります。

特にマイナセクシャリティについてのお話に興味を持ちました。授業を通して、マイノリティかどうかに関係なく、「本人が無理なく自然にいられること」が大事だと思うし、普通を押し付けず本人を尊重することが大切だと感じました。また、色んな方の意見も聞けてとても貴重な時間でした。ありがとうございました。

同じ宗教であるから全ての考えが等しい、あるいは、異なる宗教だからこそすべての考えが異なる、という訳ではないと学びました。私は特定の宗教を信仰している訳ではないため、その観点はありませんでした。また、セクシュアリテを考えることで主体性や真理への考えに繋がるというのは一見繋がりがなさそうだからこそ学びがありました。

今回の購読会で、私は病気や犯罪などとセクシュアリテの同義性、相違性、つまりセクシュアリテの両義性について学んだ。セクシュアリテとは「ない方が良いもの」とされることがある反面、主体的に受け入れられるものであることもあり、真理と主体性について考える上で最も良いと考えられる。
普段あまり読んだり話したりするような内容の話ではなかったため、興味深いと同時にとても難しかったです。今まで受けた大学の授業の中で最も難しい概念でした。

今回の講読会を通して、「真理」とは単なる客観的な事実ではなく、人がそれをどう受け入れ、自分自身をどう理解するかに深く関わるものだと学んだ。特にセクシュアリテの領域では、外部から与えられる真理だけでなく、主体自身の告白や経験が重要になる点が印象的だった。また、現在の性道徳が歴史的に形成されてきたことにも気づかされた。

この講義に参加した理由として、僕とは別の人が真理をどう解釈し述べようとしているのか気になったためなのですが、僕が求めていた講義とは違っていたかなと言うのが第一印象です。また、反省すべきなのがレジェメが配布された時点でそれを読もうと思わなかったところです。参加する際、とにかく新しいのに挑戦してみようと思い、説明を読まなかったせいで講義中内容があまり入って来なかったのが悔しいところです。初めのクマさんが話していた世間話のところはなんとなく自分に関係あるのだと関心を持てました。

講義中追いつくことが困難で理解が追いついていないのですが、フーコーが話す真理というのは、所謂人間にとっての真理なのでしょうか。このような文献を読むことが少なく知識も少ないものですが、個人的に真理と何回も出てきましたが、そこに入るのは真実になるのではないかと思いました。私個人の真理の見解としまして、真理と言うのは宇宙にとっての真実あるいは存在理由であり、それが人間に反映されるのか、また反映しても良いのかと疑ってしまいます。

フーコーの考える主体性とは、それだけで存在しているのではなく、まず諸々の義務の体系だと本質的に理解される真理があり、主体は、真なるものとして通っている事柄を主体自身で生み出す、または受け入れるか従属しなければならない、というものであったこと。人は自然環境に対して、道徳的模範、人々の行動に対する教訓を求めていたこと。

今回の講読会では、「主体性と真理」というテーマが、単なる抽象的な哲学の議論ではなく、私たち自身の生き方や自己理解にも深く関わる問題であることを実感しました。特に、セクシュアリテをめぐる「真理」が、外部から押し付けられるだけではなく、主体自身の経験や告白と結びついているという点が印象的でした。象の寓話から議論が始まった際は驚きましたが、歴史的背景や道徳との関係をたどることで、現代の価値観も長い過程の中で形成されてきたのだと理解でき、とても興味深かったです。

主体は真理に依存すると学びましたが、他方で象の寓話に見られる恣意性から考えると真理もまた主体に依存しているように思えます。主体と真理は相互に依存する関係、あるいは循環する関係だと捉えてよろしいのでしょうか。

 

第二講| 一九八一年一月十四日「生存の技法」 他 
2026年5月19日

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当日リポート

 ホルムズ海峡をめぐるトランプ政権とイラン政府?の主張には相変わらず真理と真理のズレがあるように思えてならない、双方の主張を伝える報道動画を観るところから始まった今回の講読会。
 こういうとき、だからこそ歴史に学ぶことが意味を持つのかもしれません。
 フーコーがやろうとしていることもまさに、歴史に立ち返ること。「何が正しい」、「どうすべき」といった議論も、主張もフーコーはしていないのです。セクシュアリテの話をしているのにもかかわらず、「セクシュアリテとは何か」、「男とは――」、「女とは――」といった類の話は出てきていません。ただただ、歴史に立ち戻ったとき、その時代における「真理」がどのように立ち現れてきたのか、そのことを問おうとしています。性にかんするあらゆる前提や私たちが暗黙的に共有しているような価値観を、まさに換骨奪胎しようとする、そういう試みをしている本である、ということがいえそうです。

 ここでの「真理」とは、嘘に対する真実ともまた違う、と解説もしていただいていました。宇宙にとっての、社会にとっての、人間本性にとっての「真理」を取り扱っているわけですが、その「真理」も、絶対的な視点における普遍的な「真理」としては取り扱わないのです。時代や文化、社会、そして私たちが、何を「真理」としているのか、「真理」としてきたのかは常に変化してきた。だからこそ、それぞれの時代や状況、社会において、何が「真理」とみなされ、それがどのように「真理」とみなされるに至ったのか、そのメカニズムを歴史的に観ていこうとしています。

 そして、今回の行動会では、象の寓話で挙げられていたような話とは、「生の技法」として捉えられるようなものであった、ということが指摘されていました。
 「技法」というくらいだから、「いかに何をなすべきか how to do something」みたいな議論なのかな、と考えてしまいがちですが、「どう行動/活動すべきか」といった技法として捉えられるようになる以前は、「いかにあるべきか how to be/live」といった存在論的な議論であった、ということが指摘されていました。この生の技法を考えるうえで、「真理」は切り離すことができないもののひとつです。

 「いかにあるべきか how to be / live」、例えばどんな出来事に直面したとしても、しなやかに、自律性と独立性を保ち続けることができるような「平静さ」を獲得することが求められてきた、と挙げられていました。これは、もはや能力やノウハウの訓練とは程遠いようなものです。
 そして、その「平静さ」を獲得するために、
①師との関係を通じて「真理」を教えられること:他者との関係(マテーシス)
②学んだ内容を繰り返し省察することで、自分自身に内面化させていくこと:「真理」との関係(メレテー)
③自らの行動や振る舞いが、目指しているありよう―真理としてみなせうるのか、自己を吟味し、修練していくこと:自己との関係(アスケーシス)
が必要とされてきた、と紹介されていました。

 すべてのプロセスで「真理」は不可欠なものになっています。
 フーコーは、こうした生の技法を自己のテクノロジーや自己の技術などとも表現していました。主体であるために欠かすことができない「真理」というものがあり、象の寓話に代表されるような性的活動に関する生の技法に注目することで、真理の構造の話をしようとしているのだ、ということを確認することができたように思います。

 ここからより内容がどろどろと、どっぷりフーコーらしい?議論になっていくようですが、自分自身のことにあまりひきつけてしまわずに、社会一般、人間一般の話として少し引いて読んでいけるとよいかもしれない、と”放課後”でアドバイスもされていました。
 フーコーは価値判断をしているわけではなく、あくまでセクシュアリテを題材として真理の構造を読み解いていこうとしています。何を信じようが、どう振る舞いたいと考えようが、フーコー的には知ったこっちゃない、フーコーは、ある時代に何が「真理」とされていたのか、どういう経緯で「真理」とされるに至ったのか、その歴史、プロセスに注目しようとしている、ということ。そのことを心に留め置きながら、ぜひ読み進めていきたいと思います。

「生の技法」を詳細に検討することによって「主体性と真理」を良く読み取り、考えることができる。生の技法に関して学び、内面化し、吟味する必要がある。主体から真理を考えるのではなく、主体の前に自分自身についてなす経験は真理と真理に対してどのような効果があるのか。また、生の技法を通してセクシュアリテについて考えたい。

 科学とは、「ものをしっかり考える」ということ。そうした修練を通じて、サイエンスする主体として存在していけるよう、ひきつづき頑張っていきたいと思います。
 ということで次週26日はおやすみです。次回、6月2日にまた、お会いしましょう。

 

参加者の皆さんからのコメント

現在の私たちは、何をなすべきかということに視点が置かれることが多いと思う。これがキリスト教の変遷を経て形作られたものであると知り、現代人が抱える生きづらさのようなもののルーツが少し感じられた。前回の講義に参加できていなかったため少し不安があったが、初めに丁寧に振り返りをしてくださっていて助かった。理解が難しい部分がいくつかあったため、その部分をよく考えられるようにしたい。

内容が非常に密度が高く、一度聞いただけでは理解しきれない部分も多かったですが、「主体―真理」という視点からセクシュアリテや教育、社会のあり方を捉え直す議論がとても興味深かったです。特に、「how to do」と「how to be」の違いは、現代の教育や多様性の議論を考える上でも重要だと感じました。もう少し時間をかけて、具体例を交えながら考えてみたいと思いました。

「主体性と真理」に関して歴史に立ち返って、その時代の「真理」についてのみ問いている中で「いかに生きるべきか」から「いかにあるべきか」へと問いが変化していることが印象に残りました。

今回学んだのは、真理とは単に発見されるものではなく、人が「これが真理だ」と結びつくことで主体の経験そのものを形作るという視点である。特に、生の技法では、他者との関係・真理との関係・自己との関係を通じて、自分自身を変容させていくことが重視されていた点が印象的だった。また、現代の教育や社会が「how to do」に偏っているという指摘から、「どう生きるか」を考える重要性を感じた。

 

第三講| 一九八一年一月二十一日「夢の分析と性的関係」 他 
2026年6月2日

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当日リポート

 ナフサ不足を伝える報道動画から始まった今回。しかし、私たちが暮らす生活は、あまりにも多くの石油由来の製品であふれているのですね。まさに高度文明社会、大量消費社会。
 石油という一つの物質は、あまりにも多彩で多様なものへと姿を変え、私たちの夢のような便利な暮らしを支えてくれています。
 ナフサは足りてる/足りてない、どこかで目詰まりしているなど、さまざまな言い分はあるようですが、いずれにしてもadministratorというか、コントロールする側、統治する側がout of controlな状態なのかもしれません。(最近は、コメをめぐっても同じような顛末がありました。まだ解決されていないかもしれませんが)

 今回のフーコーの講義も、どこかそうした制御し、コントロールしようとする側の発想に対して拮抗するものの存在を示そうとし、そこに主体性が立ち現れているのではないか、といった議論をしようとしているのではないか、と指摘されていたように思います。
 例えば、今回取り上げられていたのは「夢」ですが、夢とは、その人がまさにそう思っていることを露骨に表しうるようなものとして、さまざまな文化で扱われてきたもののようです。そして、ギリシア人は、その性的行動にかんする夢を「法にかなうもの」、「法に反するもの」、「自然に反するもの」の3つに分類し、社会的な価値観を表出するものとして、理解/解釈しようとしています。ここでの、「法にかなうもの」とは、決して婚姻関係にある妻との性的行動、というようには規定しないのです。生殖をかなえるものかどうか、というようにも判断しません。「法にかなうもの」には、「自然にかなうもの」も含むようで、挿入の有無でどうやら「法と自然にかなう」かどうかを判断するようです。それが、ギリシア人の性的行動にかんする夢の解釈のしかたです。つまり、妻以外の女性、娼婦、男性などなどと性的行動をとろうが、それは「法と自然にかなうもの」なのです。

 実際には、私たちの性的な行動は多様にありえる、のかもしれません。
 例えば、「おいしい!」と思えるもののありようは多様で、特定の調理法、ジャンルでないと「おいしい」とみなせない、なんてことはありません。睡眠についても同様で、人によって、眠り方も眠りの質も、満足できる眠りの時間なども様々です。性的行動だって、同じようにいろいろなありようがあるはず。ですが、なぜか、象の寓話にもみられたように、一対の清らかな関係性が唯一絶対の”正しい”ありようで、倫理である、とみなされてきたし、みなしてもいるかもしれません。つまり、それ以外の性的行動の在り方は抑圧されてしまっているのかもしれない、とも考えられそうです。
 セクシュアルスタディーズや、ジェンダースタディーズ、フェミニズムの議論も、結局何を「正解」とみなすかは異なるにせよ、「正解」ありきで統治に加担しようとするものであったのかもしれません。フーコーは、「本当にそう?」と”正しさ”を求めるバトルフィールドに斬りこもうとしているのかもしれません。

…が、次回はまた急展開があるそうで…。楽しみに読み進めていきたいと思います!

 

参加者の皆さんからのコメント

夢判断を単なる迷信ではなく、主体性や倫理、社会秩序との関係から読み解いていく視点がとても興味深かったです。特に、フーコーが古代のテクストから「自己のテクノロジー」を見出していく過程が印象に残りました。難しい内容でしたが、具体例を交えた解説で理解しやすかったです。

現代では性的なものと社会的なものを別の領域として考えがちだが、古代ギリシアでは両者が連続的に捉えられていたことが印象的だった。また、夢判断が未来予知ではなく、生き方や行動を導く「生の技法」として位置づけられていた点から、自己理解と倫理の関係について新たな視点を得た。

前回すっぽかしてしまいすみませんでした。物忘れ酷くて、困りますが、時々いいこともあります。社会性の無さをなんとかしたくて、頑張りすぎるところがあるので、疲れるんですが、予定を忘れるお陰でのんびりできます。
罪悪感は半端ないですが、振り返りもあるので、ありがたいです。

今回やっとフーコーが「社会」と言う言葉を使わないできた理由が理解できました。主体は自然にあり、一人の人間の主体の活動の話しをずっとしてきたからと言うことなのではないでしょうか?が私の理解です。
社会は規律であり、法律により属するものをまとめていて、政治も必要。やっとわかったつもりになってます。
それにしても、前段の、「前回は慌てちゃって混乱しててごめんね」と、言い訳しているのがかわいかったです。

社会の中にある複雑なものは、外から単純に把握したり制御したりできるものではないという視点を今回学んだ。ナフサや米のように、一つのものが多様な用途や関係の中で動いているのと同じように、人間の主体性やセクシュアリティも、自然に見えて実は社会や制度、言葉の中で意味づけられているのだと感じた。夢判断でも自分の行動を律する「生の技法」として扱われていた。

レジュメの後半で、女性が夢見る主体となるケースが「女性の本性(挿入されること)」や「男性の特権(挿入)」という文脈でしか語られていない点が非常に気になりました。
古代の夢判断において、女性の夢や性は、女性自身の内面や欲望として独立して存在するのではなく、どこまでも「大人の男性を中心とした社会秩序や権力構造」を補強するための反転モデルとしてしか扱われていないように見えます。
現代の感覚からすると、夢というきわめて個人的な領域にまで、そこまで徹底して「能動=男性」「受動=女性」というジェンダー規範や政治性が持ち込まれ、それが当時の“真理”とされていたことに、当時のセクシュアリテの非対称性と強烈な構造の歪みを感じました。興味深い。

正直、話が抽象的でかなり難しく感じた。今回の講読会が初めてだったこともあり、すぐには理解できない部分もあったのだと思う。特に、フーコーや主体性、セクシュアリティといった横文字や哲学的な考え方は、これまであまり触れてこなかったので難しかった。ただ、ナフサや米の話から、複雑なものを無理に整理しようとすると見落としが出る、という感覚は少し分かった。自分なりにもう一度振り返って理解を深めたい。

フーコーやアルテミドロスの時代では夢を幻影であると考えて終わるのではなく、夢から主体の最も秘めたる真理を判断しようとし、それが生きるための一つのやり方となっていたのはその時代の真理に大きな影響を受けていたのだと感じました。

第四講| 一九八一年一月二十八日「セクシュアリテの経験」 他 
2026年6月9日

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当日リポート

 昨今は、政治もSNS戦略が不可欠!になりつつあるようですが、政敵を貶めるような動画制作を業者に発注したとかしないとか、そんな報道も聞かれます。「スマホ農場」では閲覧数やイイネ数を稼ぐことを売り物にしているようで、それが選挙対策にも使われているのでは?いやいや…みたいなやり取りも動画の中で紹介されていました。が、こうした潮流はもう10年以上も前からケンブリッジ・アナリティカの一件で話題になっていた、ともいいます。私たちは、簡単にSNSやAIを通じて世論が操作されてしまうということを実例を以て知っているはずなのに、実際に判断や選択を迫られる機会には圧倒的に無自覚に陥ってしまう。《ちゃんと考えて行動する》という主体であろうとすることができなくなってしまっている。そして、実際に《ちゃんと考えて行動する》ということをできないようにする権力の在り方もあるのかもしれないのです。

 フーコーの議論もまた、私たちが「真理」と信じて疑わないものの、”そもそも”を突こうとする試みといえるかもしれません。フーコーは、運命的に決められた男性と女性という一対の組み合わせのみが性的行為の対象として唯一認められるもの、という私たちがもしかしたら信じて疑わない「真理」を疑ってかかります。
 ギリシアにおける性的行動にかんする夢解釈では、その夢の中で行われる性的な諸行為は、現実の社会的な諸関係や諸行為、出来事と連続的なものとして考えます。なので、性的行為の夢解釈で良い兆候/悪い兆候と判断される基準の一つとして、まず、同型性/異型性が挙げられています。
 いわば、社会的な関係性からみて違和感がないものが同型性といえるでしょうか。例えば、成人男性と奴隷が性的行為を行う場合、成人男性は奴隷の主人という関係性にあります。成人男性がそのまま能動的に奴隷と性的行為を持てば、それは同型性のものと捉えられますが、逆に成人男性が受動的になると、本来の社会的関係性とは異なる型となるので、それが夢の解釈にも影響してくるのです。(問題はヘテロセクシュアルか否か、ということではない、ということも強調されています。なので、ここでの奴隷の性は男性でも女性でもどちらでも同じ、ということになります)

 能動性―受動性も、重要な観点として挙げられていたものでした。この観点に立つ際は、性的行為の相手は特に問われず、性的行為を行う者自身についてが問われることとなります。
 講義のなかでは、この能動性とは相手を思って行為することとして説明されていたように思います。自分自身が気持ちよくなるかどうか、という観点に立った時、それは能動的なものにはならず、受動的なものになってしまうというのです。他者に対しての関係として、相手にどのように慮るか、配慮するかといった問題に向き合うのが能動性であり、そうして主体となっていくという議論のようでした。

 フーコーは講義の中で男性は挿入する存在ゆえに能動的なものとして捉え、その性的行為の対象として、女性、奴隷、少年を挙げていました。しかし、少年はやがて年をとれば、男性となり挿入する側―主体となっていくような存在でもあります。だからこそ、成人男性―少年の性的関係は、やがて主体となっていく存在としての少年にどのように配慮するか、という問題が問われ、論じられてきた経緯があることも紹介されていました。
 そこで登場していたのが「エロス」の概念です。エロスとは、「非常に明確な諸々の義務の集成であり、自らを導く技法あるいはむしろ他者を導きつつ自らを導く複雑な技法を含んでいるもの(P107)」といいます。だからこそ、成人男性と少年の間のエロスとは、「誰かを真理に至るまで愛すること、この誰か自身が認識の主体となるまで愛すること、その結果、認識の主体として教育の内部で作られた非対称の関係自体から正当な権利として逃れるまで、非対称的な性的活動の相関物の地位から逃れるまで愛すること(P108)」なのです。
 エロスという関係性は、真の教育の在り方として考えられるものなのかもしれません。”自分がどうか”、ではなく、”自分と関係を持つ誰かにとってどうであるか”、をとことん考えることこそが「主体的なありかた」として考えられていた――婚姻関係にある異性同士の性的行為のみが倫理となってしまったとき、むしろ、類的関係からの疎外が生まれてしまったのではないかという指摘も放課後の時間にされていました。

 他者との関係における自己のテクノロジーが、自己についての自己のテクノロジーへと移行していく様がこれから説明されるとフーコーは予告していましたが、誰かのために何かを考えたり配慮するのではなく、完全に自分事に陥ってしまうとき、他者という存在は自分の利益をあげるための資源や素材としてしかみなしえなくなってしまうのではないか、とも議論されていました。

 次回もますます過激に、本質的に議論していけたらうれしいです!(でも、ユルく!)

 

 

参加者の皆さんからのコメント

スマホ農場について近いようで遠い感じがしましたがAIを利用しているということだったので、より身近に感じました。振り返りが分かりやすかったです。くまさん先生の特別支援教育論を履修していますが、興味をそそる話法で受講していて楽しいです。女性を押し込めたというような現代とは全然違う倫理観の考えで興味深かったです。能動的行為とは、相手を慮るということにうまく言い表せませんがなるほどと思いました。違うかもしれませんが、教育的関係においてのところで、今テスト前ですが、勉強は自分自身を支配できるための自由な主体になるための真理に受け渡しなのかもしれないと思いました。深くて難しかったです。

今回の講義では、スマホ牧場などのSNSやAIの裏側にあるものを入り口として、本当に私たちは主体的に物事を決めているのかということについて考えを深め、フーコーの思想をもとに「主体性」や「他者との関係性」について学んだ。自分自身の利益だけではなく、他者への配慮や関係性を重視することが主体的なあり方につながるという議論が行われた。

私たちは普段「当たり前」だと思っている価値観や常識を無意識に受け入れていることが多いと感じた。私は普段よくある当たり前に触れながら生きているため、最初は、十分に理解できていない部分もあったが、自分自身の考え方や他者との関わり方について改めて考えるきっかけとなった。

過度に情報にコントロールされている時代において、私たち自身が主体でいることの重要性を学んだ。また、古代ギリシアでは社会的関係によって相手との性行為の価値が決まることが分かった。現代では自分の好みで性行為をしたり、結婚する相手を決めることはできるが、確かに昔の日本でも結婚する相手の社会的身分や社会的関係が重視されていたことに共通点を感じた。

今回の講読会を通して、性的行為に対する価値判断の基準は時代によって大きく異なることを学んだ。現代では同性愛か異性愛かが論点になりやすいが、古代ギリシアでは社会的関係との整合性や主体としてのあり方が重視されていた。また、エロスが単なる恋愛感情ではなく、他者を主体へと導くための関係として理解されていたことも印象的だった。

今回は特に、現代の価値観をそのまま当てはめて古代の社会を理解することの難しさを感じた。私たちにとって当たり前だと思われている性的な区分や倫理観も、歴史的に形成されたものであることがよく分かった。また、他者を主体として育てていくというエロスの考え方は、教育や人との関わり方を考える上でも興味深かった。内容は難しかったが、フーコーが問い直そうとしている問題の輪郭が少し見えてきたように感じた。

第五講| 一九八一年二月四日「哲学者たちの倫理」 他
2026年6月16日

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当日リポート

 今日の講読会は、Anthropic(アンソロピック)社のAIにかんする話題から始まりました。Anthropic社が開発したAI、クロードミュトスは、コンピュータープログラムの「弱点」を見つけ出す能力が桁違いに優れているとされ、サイバー攻撃への悪用を懸念したアメリカや日本の政府などは相次いで対策の検討したことが最近話題にもなっていました。
 さらに、圧倒的な性能を持つ「Mythos(ミュトス)」という幻のAIモデルに、安全装置を組み込んで一般向けに公開されたバージョンであるフェイブル5(Fable 5)がその後登場しますが、その強力な性能ゆえに国家安全保障上の懸念から、提供開始直後にアクセスが停止される事態となった、と報道されています。

 ちなみに、Anthropic社とはアメリカのAI企業。いくら強力で圧倒的なAIをリリースしてしまったとはいえ、アメリカという国家が一般企業の商業活動を停止させることはできません。結局、何が起こっていたかというと、アメリカという国家がとった対策とは、国内での流通はみとめるが輸出を規制する、というものだったそう。ただ、実際のところは技術的に特定のIPアドレスからのアクセスをはじくことは難しい?だけでなく、アメリカ国内でしか流通させないという発想はそもそもAnthropic社が掲げる会社としての理念に反するという事情もあって、最終的にAnthropic社自身で公開を中止した、というのが内幕であったようです。

 国家がAIの利活用をコントロールしようとする――それと似たようなことが、2000年代にもあった、ということも紹介されていました。当時はインターネット、IPアドレスを国家が管理しよう、という動きがあったのだといいます(その経緯はリンク先などでも紹介されているようです)。ですが、最終的にはNPOがIPアドレスを管理するということで幕引きとなったようですが、その後、インターネットはさらに爆発的に一般に波及していくことになります。
 いわば、今回のように国家が介入しようとしてくる傾向は、AIが私たちの社会に広く浸透していく兆し、黎明期が訪れたと理解してもよいことなのかもしれません。 インターネットがスーパーコンピューターからパーソナルコンピューターへとダウンサイジングしていくことで膾炙していったように、AIもまた、今とはまた異なる姿で波及していくことになるのかもしれません。そして、おそらく私たちの社会における最後の情報化、最終形態としてもとらえることができる現象になるのではないか、と指摘されていました。

 フーコーの講義と、一見、どう関連するの??という話題であったかもしれませんが、フーコーが取り上げる「婚姻」という制度もまた、国家が性生活や生を集中的に管理するシステム、国家介入のツールとして導入したものとしてとらえている点で非常に類似しているのです。
 私たちは、法廷婚を当たり前のものとして受け止め、それを前提として生きていますが、そもそも法廷婚とはかかわりなく、性的行動は行われうるし、子どもたちも生まれ育ちえるわけです。実際に、法廷婚とはかかわりのない形で性の多様なあり方は広がってもいます。ですが、なぜか私たちは、法廷婚ーすなわち婚姻という制度に与することが、幸せな人生を得る条件と前提化してしまっている可能性もあるのです。
 AIもまた、生権力として機能していくことになるのでしょう。ですが、「結婚」や「AI」そのものをうまく扱うことで、私たちは主体性を育てる契機にもしていくことができるのかもしれません。テクノロジーやさまざまな道具を使って、主体性を削られるのではなく、主体性を育てていくためには、私たちは主体性とはどんなものか、やっぱり学んでおく必要があるのでしょう。

 そんなこんなで読み進めた今日の講読対象は、結婚/婚姻がどのように特別なものになっていったか、その変遷をたどる内容になっていました。性的行動の能動性について考えたとき、そこにはどうしても相手が必要になります。相手がいてこそ、他者を慮ったり、慮られることが叶います。主体である師においてもそれは同様で、弟子の存在がなければ、師であることはできません。
 哲学者は、哲学的に生きるためにも生活のための煩わしさなどからは解放されなければならない、とみなされ、だからこそ結婚はするべきではないと思われてきたのです。ですが、同じように哲学的生に生きる人がパートナーになるのなら、その結婚は自律的/主体的に生きることを支えることとなりえる――そうして、社会的諸関係と連続する一形態でしかなかったはずの結婚が、特別なものへと変容していくプロセスを追い始めたのが今回の回であったのかと思います。

 ここから、さらに結婚がどのように国家における性生活を管理するツールとして用いられるようになったのか、話題が発展していくようです。次回もぜひ楽しみに読み進めていきたいと思います。
 放課後の時間中に茨城県を震源地とする地震も発生しました。皆さんが安全に楽しく来週も集って読み進めていけますように。

 

参加者の皆さんからのコメント

社会が快楽という制御し難い対象に対し、婚姻関係という例外的な公認の場を設けることで秩序のバランスを保ってきた歴史的過程を学んだ。また、結婚の長短を巡る古代の議論やフーコーの記述から、人間の思考はその時代の通念に縛られやすく、時代を超えた先進性や普遍性を持つことの難しさについても批評的な気付きを得た。

今回の講義から、古代の性道徳は、社会秩序との同型性や主体の能動性を基準とする倫理的知覚によって構成されていたと学びました。また、結婚への性の局在化や快楽の価値剥奪が、後に性倫理形成に影響し、人間が自己を統御する技法とも結びついていたという点も理解できました。性や結婚の意味は時代ごとの価値判断の中で変化するということは新たな発見でした。

快楽を無害化することについて学びました。家父長制の支持のような結婚の長所を哲学者は挙げているのが現在ではちょっと、と思ってしまう部分があると思います。生きることにきゅうきゅうするのは自律的ではないということを学びました。結婚のメリットについて、見方によっては家父長制ではないことにもフィードバックをいただき、学びました。

今回の講読を通して、結婚は昔から特別な制度だったわけではなく、社会の中で徐々に特別な意味を与えられてきたことを学んだ。また、主体的に生きることと結婚が必ずしも対立するものではなく、同じ価値観をもつパートナーとの関係は主体的な生を支える可能性があることも印象に残った。私たちが考える当たり前を考え直す作業は、難しかったが興味深かった。

時代によって社会のあり方に違いがあるからこそ、フーコーの時代での社会形態を今の時代に適用したり、反対に今の時代の考え方をフーコーの時代に適用したりすることは不当であるということを理解した上で分析する必要性があると学びました。

AIにも輸出規制ができ、Claudeのアクセスリンクに制限をかけられることや、アンソロピック社はオープンAIから独立したカウンターカルチャーを持っていて、社長も反戦運動を行っていた過去などその背景を知れた点が面白かった。また、柴田先生の考えるこれからのAIの存在について、国家と対峙していく点や集中形態から分散形態に移り変わっていく点はすごく興味深い内容だった。

柴田先生が冒頭にお話しされていたAIの話がとても印象的でした。AIと婚姻がどのようにつながるのかに注目して聞いていましたが、どちらも生権力であるという主張は自分には目新しく映り、とても新鮮でした。
フーコーの婚姻に対する話は、自分には難しかったですが、時代が移り変わるとともに性的な関係や婚姻に対する人々の考え方が変わるという説明は面白いと感じました。

国家管理が十分にできなかった結末が心配になりました。AIとアンソロピック社について初めて知ったことが多かったです。集中方式はもうなくなりつつあって、分散方式に移ってきていることは高校の時の国語の教科書の論説文で読んだことがありました。今から大昔の人がそんなことを考えていたとはと前回に続き複雑な感じです。前回よりも理解しやすかったです。快楽を無害化することは良いことではないかと思いました。家父長制の支持のような結婚の長所を哲学者は挙げているのが現在ではちょっと、と思ってしまう部分があると思います。生きることにきゅうきゅうするのは自律的ではないということが実際には難しいのではないかと考えました。見方によっては家父長制ではないことにもフィードバックをいただき、学びました。

地震は突然来ますから、今回のようなこともあるんだと改めて思いました。

一人では読みきれないフーコーですが、振り返りや、レジメにによりいつも「そうなんだ.そういうことなんだ」とストンとおちてきて、みなさんの努力を横取りしてる気分です。すみません。でも、感謝しかありません。ひよこさんもまとめ方がうまくてわかりやすかったです。
哲学の結婚と現代の結婚は違っているようでそうでものか、本当に違うのかという話しも次はできるのかとも思います。楽しみです。

第六講| 一九八一年二月十一日「有機的統一体」 他 
2026年6月23日

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当日リポート

 イランとアメリカの停戦合意がされました。ホルムズ海峡もまた開かれることとなりました。ですが、停戦合意の内容をちゃんと確かめると、どちらかというと開戦前の状況よりも事態は悪化しています。例えば、ホルムズ海峡を閉鎖するか否か、外国の船を通すか否かを、イランの手の内でコントロールすることを許容するような内容でもありました。こんなことになるなんて、もしかしたら当事者たちも想像していなかったかもしれません。多くの方が、命を落とす事態にもなりながら、こういう末路に至ったことをどう考えればいいのでしょうか。
 今回の講読会はこうした話題からはじまりました。

 今回の事態からいえるのは、これから化石燃料の取引にコミットできるかどうか、化石燃料を利活用できるか否かが、それぞれの境遇や立場によって劇的に分かれ、それが結果的にとてつもない格差を生み出しうる、という可能性が生まれたということです。私たちは、化石燃料に絶対的に依存していて、それなしで生きることはとても困難です。しかし、それをコントロールすることができない立場にも追いやられつつある、という現実…。この強い依存関係を通じて、私たちの生、生きる環境が大きく左右されかねないということ。そのことを今回の事態は強く知らしめた、ということは言えそうです。
 だからこそ、私たちは、何かに強く依存しながら生きているからこそ、その対象を理解してどうコントロールしていけばよいのか、そのことについて考えねばならないのかもしれません。

 フーコーの講読会で話題に出てきている「結婚」。これは、男性と女性というそれぞれ特有の機能を持つ相反する性(いわば、産ませる性と産む性)が強い相互依存関係を結ぶようなものでもあります。だからこそ、ギリシアもキリスト教も、この相互依存関係をどのように扱うか、考えてきた経緯があるのかもしれません。また、ここに「生権力」の気配もはらみつつあるようです。
 人間という生き物は、群れを成して生きるとともに、男と女という異なる性の組み合わせを作ってともに生きていく、そういう存在として捉えることが”自然”と理解されてきました。その関係性も、ただ性的行動をともにするだけのものから(一方がもう一方に尽くすような片務的なもの)、お互いが役割を以て相補的に依存しあう関係性(双務的なもの)、お互いがほとんど一体化してしまうような異型的なものまでさまざまに議論が展開されてきました。やがてキリスト教に引き継がれていくことになるのは、ストア派が唱えた異型的な関係性で、相互依存的にお互いを理解し合っていくような関係性に、生権力的な要素が注入され、より複雑化していくことになるようです。

 結婚とは、必ずしも本当の意味で仲の良い者同士が共生することには至らないことも多々あるようです。自分とは混ざり合わない人と暮らす――ダイバーシティと簡単に称されるこの世界で、異なる「真理」を叫ぶような人たちと世界をともにすることは、そもそもきわめてタフなことで、どちらかといえばディストピア的な事態なのかもしれません。普遍的な真理として普及されてきたようなものも、もしかしたら暴力的に、そして一時的に世界を覆っただけに過ぎないのかもしれず、私たちは、そういう相互依存関係から脱せない世界でどう在れるのか、考えていく必要がありそうです。

 その過程で、「家父長制」など、悪の権化的に象徴的に取りざたされる概念は、もしかしたら操作的に生み出されてきた概念で、「正義」を振りかざすうえで便利なものとして扱われてきた、と冷静に捉えたほうがよい局面もでてくるのかもしれません。私たちにとっての「当たり前」は当たり前ではないかもしれない、ということにも立ち返りつつ、議論していきたいと思います。 

次回以降、男と女という異なる性がペアで生きるという自然に、「絶対的な真理」が付加されながら「結婚」が異型化していく議論が展開されていくということでもありました。
講読会の折り返し地点も通過しました。ぜひ、ひきつづき楽しみに読み進めていきたいと思います。

 

参加者の皆さんからのコメント

今回の講読会を通して、私たちが当たり前だと思っている結婚観が時代や思想によって大きく異なることに驚いた。現代では恋愛感情や個人の幸福が結婚の中心として考えられることが多いが、古代ギリシアでは社会や共同体の維持という視点が強かったことが印象的だった。特にストア派の「身体と魂の共同体」という考え方は、結婚を単なる制度ではなく、共に生きる実践として捉えている点が興味深かった。結婚について改めて多角的に考えるきっかけになった。

今の生成AIの国による管理という新しいテーマから、大昔の哲学者が考えた結婚の話へとつながっていく流れがすごく面白かった。私たちが今普通だと思っている、お互いの気持ちや心のつながりを大事にする結婚の形が、昔から当たり前だったわけじゃないと知ってびっくりした。時代や社会の仕組みに合わせて、結婚の目的が作られてきたっていう視点は新鮮だった。子供や財産を増やすためのビジネスみたいな関係から、夫婦がひとつの体みたいに息を合わせる関係へと変わっていく分析を聞いて、当たり前を疑うことの大事さがよく分かった。国やシステムにただ流されるだけじゃなくて、自分なりの考えを持って生きるにはどうすればいいかを、歴史と今の時代の両方から深く考えさせられた。

いつの時代も国家が介入することは珍しくなく、「結婚」や「AI」も当てはまることを知りました。私は結婚というものがごく当たり前のものだと思っていましたが、婚姻は事実婚でも成立するものだと思いますが、あえて法律に関わっていることを考えると社会的な枠組みのなかで性生活がコントロールされてきたのだと思いました。

私たちは何かに強く依存しているからこそ、その対象をどのようにコントロールしていけばいいのかを考える必要がある、という点がとても印象に残った。男女の依存関係の話からは逸れるが、私たちが過度に情報にコントロールされているからこそ、どのようにその情報と向き合っていくかを考えることの必要性を改めて考えさせられた。AIが普及している時代において、AIが私たちを支配する時代が来てしまったら、私たちの主体性は完全に失われてしまうだろう。

私たちは化石燃料とコントロールできない、絶対的な依存関係にあり、使える世界と使えない世界が現れるのではないかということ、アメリカにとって中東は必要でイスラエルはイランにとって必要不可欠だということを聞き、その将来がもう近いのではないかと思いました。フーコーは2つ性があり、片方が片方に依存している、強い依存関係にあるということを言いたいのではないかと聞いてよりわかりやすくなりました。当たり前だと思っていたことがどこまで当たり前じゃないかを議論しなきゃいけないことは学校などの小さな単位でも言えることではないかと考えます。多様いうことがどっちでも良いということも学び、自分の思っていた多様は誤っていたかもしれないと思いました。私はアリストテレスとクセノフォンの主張が似ているように思えるとディスカッションの際に言ったところ完全に尽くす側と尽くされる側の奴隷化友愛かつまりお互いがお互いに必要かという点で相違点であることを知れました。

講読会を通じて、セクシュアリテとは単に個人の欲望や本質ではなく、真理と結びついた社会的言説によって経験されるものでもあることを学んだ。また、生の技法とは何をすべきかではなく、いかにあるべきかを問い続ける営みであり、他者との関係や自己省察を通じて自己を形成していく過程であることが印象に残った。

今回の内容は難しい部分も多かったが、本当のセクシュアリテとは何かを問うのではなく、なぜ私たちはそれを真実として受け入れようとするのかを考える視点が新鮮だった。また、現代社会ではどう生きるかよりも何をすべきかが重視されがちであるという指摘から、自分自身の生き方や価値観について改めて考えるきっかけになった。

第七講| 一九八一年二月二十五日「師-真理-性」 他 
2026年6月30日

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当日リポート

 先週にひきつづき、ホルムズ海峡をめぐるアメリカ・イランの停戦協定の覚書に関する話題をめぐる報道動画から議論が始まりました。かつて、停戦をめぐる協議とは、生死に関して相当に差し迫った状況で展開されるものであった一方で、今回の一連の経緯はいかにも現代的と思えるようなもの。イランはまだまだ戦う気満々で、アメリカのほうは、アメリカ独立250周年を祝う7月4日の建国記念日までに「勝利」の成果をあげたいという思惑を感じさせます。

 ところで、Independent Dayにおける「独立」とはどのような意味が込められているのでしょうか。FreedomやLibertyなどといった語は、日本語では「自由」などと訳されますが、より原語に近いニュアンスを挙げるとすると「自己決定権」といえるようなものであるといいます。
 自分で自分のことを決めること。自分の運命は自分で決めるということ。他者に自分が決定することを左右されかねない状況から脱すること――、この発想は、特定の権威的な政党に依存することがないといった意味合いで、社会主義や共産主義的な発想とは対立し、どちらかというと自由主義や資本主義と相性のよいような発想であったといえるものです。トランピストたちにおいても、経済的事情などさまざまな背景から「自分たちで自分たちの運命を決める」ことから遠ざけられていたような存在でした。トランプを支持した背景には、こうした「自己決定権」への渇望があったかもしれないのです。

 ただし、「自己決定権」とは、自ら積極的に何かに依存することを前提として認めることで成り立つような構造的な特徴を持つものでもあります。かつて、自立生活運動の中で展開されてきた運動も、圧倒的に介助を必要とする脳性麻痺者などを代表とする障害のある人たちが、何をもって「自立」を実現しうるのか―理論的に、実証してきたようなものでもありました。私たちは、みな、程度の差こそあれ、何かに依存しながら生きているのです。常に何かに依存している中で、そのことを自らで折り込んだうえでコントロールしていくような、依存しながら自己決定していく、という生き様を以て「自立」を体現したのが、自立生活運動でした。
 おそらくフーコーも同時代の中で生きており、互いに参照し合うような関係にあったともいえそうです。私たちは、何かに依存しながらもどのように「自由」であることができるのか――。イヴァン・イリイチがジェンダーという概念を社会科学の中に持ち込んで論じたのも、人類があらゆる文化の中で、性別役割分業を展開してきたという事実認識が背景にあったのかもしれません。男性と女性は、そのようにして互いに依存しあいながら、「主体」的に生きてきたかもしれないのです。

 今回の講読対象では、性的行動がどのように「婚姻関係」の中に局在化していくことになったのか、そのプロセスを追っていくような内容になっていました。そもそも欲望があることが前提とされていた古代から、次第に哲学的生を生きるためには欲望がノイズになりえるという発想に至り、その後、キリスト教下では、欲望は最初からないものであるかのように捉えられるようになっていきます。現代では、キリスト教的な価値観にも由来するような貞淑さがあまりにも「常識」化しているわけですが、今回の議論は、いかに「真理」がたくみに読み替えられて”常識”が作られていったのか、といったことを考えさせられるものになっていました。
 「本能的な欲望を持ってはいけない」という考え方は、時代によって作られたものであり、そのように流布する必要も目的もあったのかもしれないのです。どうしてそのようになったのか――次回もひきつづき、展開を追っていくことになりそうです。欲望を持たないことが正当化されるようになったこと、自己の統治の過程として展開されてきたことが、果たして本当に自己の統治とみなせるようなものであったのか――みなさんと一緒に議論して考えていけたら、と思います。

 

 
 

 

参加者の皆さんからのコメント

前回と今回で2回目の参加となり少しはフーコーの考えが理解できたかなと思います。内容は今まで触れたことがないもので難しいと感じることが多いですが、自分に無かった考え方や物事の視点を知ることができとても学びになりました。

フーコーの議論をまとめたレジュメが非常に分かりやすくまとめられており良かったです。私の関心としては、フーコーはヨーロッパにおける流れを追っていますが、他方日本ではこのような流れになるのかということにあるので、フーコーの議論を参考にしつつ個人的に調べてみたいと思います。

古代では性と真理は両立不可能だったのが、キリスト教では性は「真理を語る対象」へと変化していったことを学べました。そしてこの転換が性を婚姻制度の中に閉じ込め現在の‟結婚”という概念をつくっていったのかなと思いました。また、医学・哲学・宗教において性と死の関係があり「性行為=死に近づく」という古代ギリシアの考え方(?)は新たな命を生み出すという点で死から最も遠いと思っていたのでとても興味深く面白い視点だと思いました。

フーコーは、ギリシアからキリスト教時代にかけて、性的快楽が真理を妨げるものから真理に到達する過程での分析対象となり、また婚姻の中のものになっていき、またそれをするにつき規範が設定されたことを議論で示していました。そこから性的快楽というものの位置付けが真理と寸断されつつ道具的になってくることを理解できました。しかしここで気になるのは、知識人以外の性的快楽の位置付けであり、それは実践の問題とも関わって、知識人の建前的な位置付けとは違ったものとなるのではないかと考えました。

全体的に、快楽についての恐怖や嫌悪のようなものが読み取れるように思えて面白いと感じる。 快楽に気を取られることについての恐ろしさは、性行為などではなくとも様々な場面で体験できるものであり、それらを禁忌としたりして制限することはとても素晴らしいことかも、とも思う。
自分の欲について知り、その上でそれらを制限するというのは、真理とかの以前に自分が生きやすくあるために整理するものとしてとても大事だと感じる。

性的なことへの厳しいルールはキリスト教のイメージが強かったから、それより何百年も前の古代ギリシアの時点ですでにこんなに厳しく管理されていたことに驚いた。性的な快楽が死体と同じくらいダメなものとされていたり、これがないと神様の真理がわからないとされていたのは、当時の宗教の考え方が徹底していてすごいと思う。また、夫婦であってもただの道具みたいに考えて、昼間の性交を禁止するような細かいルールがあったのを見て、昔の人は人間の欲望をコントロールすることにすごく必死だったんだなと思った。今と昔の価値観の違いが知れて面白かった。

第八講| 一九八一年三月四日「『エロス談義』の構造」 他 
2026年7月7日

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当日リポート

 イランとアメリカの戦争は、決して終結したとはみなせないかもしれない中で(イランではハメネイ氏の国葬が行われ、参列者が「復讐」を声高に叫ぶ様子も報道動画で視聴しました)、アメリカでは建国250年を祝います。「今、悲しいと感じていること」、「10年後の自分に言いたいこと」について、アメリカ国民にインタビューを実施している動画も視聴しました。さまざまなバックグラウンドのある人たちがカメラに向かって語るのは、自分たちが努力していくことを通じて自分も世界もハッピーになっていくのだ、というような純粋に「正義」や「正しさ」を信じるようなもの。まったく立場が異なるように思える人たちなのに、語っていることは結局同じようなことなのではないか――そうした疑問から講読会が始まりました。

 私たちは、男性であれば女性、女性であれば男性など、まったく異質なものに依存しながら生きていき、そのことで主体性を確立していく可能性をもっていた/いるのかもしれません。自分とは異なる他者を認め、それぞれの違いを踏まえて頼り支え合っていく――だからこそ、依存しながらもかつ主体である、ということが成り立つのかもしれません。

 さて、フーコーの講義をめぐる婚姻こそが”正しい”性的行動の在り方という議論の展開は、実は相当に不自然である可能性もあります。本能的な欲望(自然)というものが抑え込まれて「快楽を持ってはいけない」という不自然な価値観がどのように「真理」としてみなされるようになったのか―その構成のプロセスをたどっていくような展開を今日はたどっていたように思います。

 今回、大きく話題になっていたのは、婚姻関係として示される「唯一の愛」「大きな愛」。これは、少年愛に代表される”情愛”と女性愛として示されていた”性愛”が一体化したものととらえられるかもしれません。
 ”情愛”とは、いわゆるエロス。師が弟子を育てていく過程をエロスと呼んでいました。それは自分自身の快楽のために行われるのではなく、弟子が将来、主体となっていくことができるように、その相手のためを思ってなされる「教育」のようなものでした。
 一方の”性愛”は、女性の側も相手を「受け入れる」という導きによって主体的に性的行動に参与しているとみなすカリスという愛の在り方を認めるものとなっていきます。(それまで女性はただ「受動的」な存在でした)

 フーコーの講義の中で紹介されていたエピソードでは、ある美少年バッコンを愛する年老いた男性と、やはりバッコンに惹かれる年長の女性が登場していました。いままでの同型性や能動性といったアフロディテの倫理を踏まえると、年長の女性がバッコンと結ばれることはかなり違和感のあることなのですが、この年長女性もバッコンを導き、教育することができる主体としてプルタルコスの『エロス談義』では描かれています。(そして、少年愛でしか成り立たないとみなされてきた友愛が女性愛にも成り立つ可能性を指摘し、逆に少年愛の地位を貶めて?いくような論理が展開されます)
 ですが、年長の女性がバッコンを愛するのは、バッコンのためではなく、自分自身の欲望のため、という点でエロスとカリスには大きな差がありえます(女性は結婚することを欲しているのであって、決してバッコン自身のためを思っているわけではないようなのです。)その意味で、エロスに対してカリスは、疑似教育的なものといえるものなのかもしれない、と解説もされていました。

 「教育」が個人的な「欲望」へと置き換えられながらも、カリス的な愛はエロス的な愛とほぼ同じようなものとして扱われるようになり、やがてエロス的な愛:少年愛は、嘲笑の対象となっていくのです。放課後の時間には、「カリス的な愛の中でも主体化は可能なのかもしれない??でも、実はこれが包み込むような優しい愛を装う?生権力的な愛――司牧的権力の原点になりうるものなのではないか?」といった指摘もされていました。
 バッコンという少年が、どのように思うのか、だれを愛するのかについては、一切言及されないまま、明確に区別されていたはずのエロス:情愛(相手のためになるように相手を愛すること)とカリス:性愛(自分のために相手を導く)が、次第に同じ「愛(教育)である」と一体化させた解釈がなされるようになっていった過程が説明されていたように思います。(そしてバッコンは年長女性と結婚し、従順な夫として「共同性」を実現するようです)

 私たちは依存しながら生きていくわけですが、同じ依存であっても、その依存/導かれる対象によって主体化がなされたり、なされなかったりする可能性を考えさせられます。
 冒頭で観た動画について、<結局同じようなことを言っているように見える>ことが「逆に恐ろしい」、と解説もされていました。「真理」を追い求めすぎているのではないか、主体性の病とでもいえるような状況なのではないか、ともコメントされていました。
 自分と他者が異なる存在であって、その「差」や「違い」を認めることが、主体的にかつ依存しながら生きていく―主体化や自律の要件として考えられるのであれば、”共通性”に逆にとらわれたり、普遍的な「正しさ」に執着することは、私たちが主体的に生きることを逆に妨げうるのかもしれません。

 さらに話題は展開していくようです。ぜひ、みなさんと確認しながら読み進めていきたいと思います。

 

 

 

参加者の皆さんからのコメント

初参加でしたが、自分でも考えながら読み進めることができたため、大変有意義な時間でした。ありがとうございました。

古代ギリシャ・ローマでは、少年愛と結婚は別々の愛として捉えられていたが、プルタルコスは結婚を唯一の愛の完成形として位置づけたことを学んだ。また、夫婦関係では身体的な結び付きだけでなく、思いやりや相互の同意を基盤とした関係が重視されるようになり、愛の捉え方が大きく変化したことを理解した。

​昔の「少年愛」や「同性愛」の話というと、今の感覚とは全然違うものだと思っていたけれど、今回の講読会を聴いて少しイメージが変わった。特に、性的関係と友愛が両立できるというプルータルコスの主張が面白いと思った。(現代でも、よく男女の友情は存在するのか、みたいな議論がよく交わされているので)身体の快楽だけを求めているように見えて、実はその中に「他者への配慮やケア」や「徳」が含まれているという考え方は、意識はしていなかったが、今の時代の恋愛や人間関係にも通じる部分がある気がするなと思った。現代のLGBTQとかの議論よりもずっと前に、愛の発生源は男女関係なく両性に共通するものだと考え方があったことに驚いたし、人の考える愛の本質というのは昔からあまり変わっていないんだなと感じた。

今回学んだことは、まず多様性ではそれぞれが激しく自己の真理を求め合っていること。次にギリシアの少年愛は、非自然的なため教育かつ友愛としていました。しかしプルタルコスは、少年愛を異性愛の領域に降ろし、よって友愛と性愛を両立させ、愛の発生が両性から可能とし、エロスは身体的結合で完成すること。そして、さらにカリスが登場し性愛を男女関係の友愛の下に包摂することでした。

米国独立250年に際しての様々なアメリカに住む人々のインタビューにおいて、様々な立場がアメリカの中に存在していることが見え、それはまさに多様性でありました。しかしその多様性の前提には共通点が存在しているということで、それは人間であり真理を求めるということに帰結します。それに関連して私は、もう少し広く見てみれば人間は動物の一部でありますから、人間を動物という共通項における多様性の一部として捉えるということによって、人間には欲望として抑制すべきものとして言われてしまう諸々のことを、別の捉え方ができるのではないかと思いました。

第九講|一九八一年三月十一日「制度の公共化」 他 
2026年7月14日

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当日リポート

 その後のイラン情勢はやはり楽観視できるものではないなあ、と実感するような報道動画からスタートしました(戦争を始めるのは簡単だが、戦争を終結させるためには大変な労力と歳月が必要)。ホルムズ海峡の航行をめぐって、いわば「みかじめ料」のようなものが発生するに至りそうな現実は、今後、無尽蔵に石油資源を利活用できないフェーズに突入したのだと愕然とさせられます。「安全な航行には対価が必要」という言葉のとおり、ホルムズ海峡の航行環境が不安定になることが新しい日常―ニューノーマルーに化すと、この事態をビジネスに利用されていくことにもなりかねません。このことが日本経済に与えるインパクトははかり知れないのではないか、といった指摘もされていました。
 どうなることやら…と不安も募りますが、ホルムズ海峡の航行を巡って、その守護者がだれであるのかといった「真理陳述」もさまざまに展開されているように思われます。「我こそがホルムズ海峡の守護者である」と競い合うように主張し合うことで、そもそもfree shipingが保障されようとしていた場であったことも、すっかり忘れ去られてしまいそうです。

 フーコーが今回取り上げている「結婚」というテーマも、結婚が”永遠に存在する愛”という、あり得ない/不自然な(と言い切ってしまっていいのか不安になるのは、やはり私自身も「真理」に捉われているのか?それとも願望?苦笑)”現実”を追い求める真理陳述のゲームのフィールドに化していったものとして理解することができそうです。
 例えば、デシデリウムという概念は、妻が不在であるにもかかわらず、妻への愛を懸命に訴える夫という文脈で「欲望」として紹介されました。その肝心の妻が夫を愛しているかどうかは触れられず(むしろ、前夫への愛が未だ続いていることが指摘されている)、その意味で”存在しえない”ものを唯一無二の求めてやまない対象として”欲望”するのです。
 「婚姻」や「結婚」が制度の中に取り込まれていくことによって、存在しえない「永遠の愛」的なものをひたすら求めていく、そういった”欲望の体系”の中に取り込まれていってしまうことになった、と、そのような指摘として捉えることができるのかもしれません。

 「永遠の愛」的なものは存在しえないからこそ、神のような崇高なものでもある――そして、生きていくうえで欠かすことができないものとして、偽装されていってしまうといった指摘もされました。「永遠の愛」に恋焦がれ欲望する真理ゲームに参加することこそが、唯一みずからを満たすための手段である、として回収されて行ってしまうような事態。
 それは、多様な性や多様な性的行動の在り方があって当然の中、セクシュアルマイノリティの「婚姻/結婚」を求めるという今日の主張においても認められるようなものなのかもしれません。「婚姻」こそが達すべき望ましいありよう、勝者のトロフィー的に崇めまつられているかもしれませんが、それはある種均一なものに回収され、包摂化されていくような事態とみると、この文脈における「多様性」はむしろ不自然で矛盾したものとしても見なせてしまうような気もします。(おそらくそれもわかったうえで、ということであれば、真理ゲームに回収されたことにはならないのかもしれませんが)

 婚姻/結婚こそが唯一、といった「真理ゲーム」に没頭してしまうことが大半でありながら、それでもそのゲームからおりる、という選択肢もありえます。何が”本当”の愛なのかは分かりませんし、私たちは結局真理ゲームに捉われ続けているかのように思えてしまいますが、繰り広げられている「真理ゲーム」をどこかで俯瞰して、”わかったうえで”依存したりマネージして考えていくこともできるのかもしれません。

 「永遠」に捉われて相手を手放すことができない愛としての「カリス」に対する「エロス」は、最後には手放さなければならないことを自覚のうえで相手を愛することとして説明されていました。そうした「エロス」的なものからも何かを学ぶことができるのかもしれない、とも指摘されていました。
 「愛」の形は、必ずしも主体化を伴うものではないし、さまざまなものがありえますが、それでも師ー弟子関係の「教育」――主体を育てる関係性は、エロス的なあり方以外に考えられません。エロス的な愛と区別して、さまざまな愛、性的行動の在り方があった時代から、エロス的な愛に偽装する疑似教育的な、「真実の愛」を装うような「カリス」的な愛が登場し、真理ゲームが展開されていったのだとしたら、むしろ冒涜的なことだと(個人的ながら勝手に)感じますが、その背景には何があったのか。

 次回、キリスト教的な話題も含まれて展開していくことになるそうです。ひきつづき際どいながらも汎用性のある議論に拡がっていくフーコーの議論を楽しみに読み進めていきたいと思います。

 


 

参加者の皆さんからのコメント

授業では、エロスは最後には必ず別れるものであり、他方カリスは永遠を求めるものであるという話がありましたが、私はこの二つの違いを日本的に表すとき、伝説や昔話の話型の一つである異類婚姻譚(いるいこんいんたん)の構造と、近松門左衛門が得意とした心中ものの構造で表せると思いました。つまり、前者の日本の異類婚姻譚の多くは、一度婚姻が成立した後には、人間と異類は分かれることになっており、後者の心中ものの話は、死の後も婚姻関係が継続すると考えて敢えて死んでいるわけですから、前者はエロス的で相手に配慮しており、後者はカリス的で存在しない永遠を求めているからです。

今回の授業を通して、福祉は特定の人だけに関係するものではなく、自分たち全員に関わるものだと感じました。これまでは福祉というと高齢者や障害者への支援というイメージが強かったのですが、病気や失業など誰もが支援を必要とする可能性があることを改めて考えさせられました。また、社会の仕組みや環境によって生きやすさが変わるという話も印象に残りました。普段はあまり意識することのないテーマでしたが、自分自身の生活や将来とも関係する内容だと感じ、とても興味深かったです。

今回学んだことは、まず夫婦観念の特徴における欲望で、それは結婚が公的になり生まれたとされる夫婦観念に、ある種の理想があり、実際理想は現実でないのに、それが現実となっていると思ってやっていくことが責め苦であり欲望であるということでした。次に、現実と異なることを真理として述べ、現実を従わせていくような真理ゲームの存在です。

昔の結婚や夫婦の愛について、政治や社会のルールだけじゃなくて、妻への思いやりや切なさみたいな感情が深く関係していたのが意外で面白かった。特に印象に残ったのは、フーコーの言説と現実についての話だ。「そうあるべきだ」と強い言葉で語られていることほど、実は当時の現実ではそれができていなかったから書いてあるのかもしれない、という考え方には確かにと思った。今まで昔の哲学者の本を読むときは「昔はみんなそう生きていたんだ」と思い込んでいたけれど、理想と現実のズレを埋めるために言葉が使われていたという視点を知って、歴史の考え方が少し変わった。

第十講| 一九八一年三月十八日「言説と現実の関係」 他
2026年7月21日

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当日リポート

 今日もイランとアメリカの戦争を報じる動画を参照するところから始まりましたが、まさに前回言及していたようなビジネス利用に関する話題が紹介されていました。トランプの動向をいちはやく伝える「トゥルース・ソーシャル」というSNSを利用することが、資本家たちの予測市場での「勝ち」に貢献するとかしないとか。私たちの暮らしを支えるエネルギーや、命が担保にされながら、だれかの儲けのために政治が動いているといった、どんどん現実とは乖離した「真理陳述のゲーム」が展開されている――といった指摘もされていました。

 むしろ、今日における状況は、フーコーが議論していた当時よりもよほど「真理の暴走」状況にあるのではないか、という私的もされていました。
 フーコーが指摘しているのは、婚姻や結婚、「真実の愛」的なものが、実際の現実とは乖離したまま「欲望」され、求められていくような、ゲーム化していく状況でした。そもそも、ローマ・ヘレニズム時代、当然少年愛的なものもあれば、たくさんの側室を抱えることもあるなど、まるで一対の男女が永遠の愛を誓いあう、などといったあり方とは程遠いものであったことが、歴史的な史料からも明らかにされています。そのような時代に、「婚姻/結婚の重要性」が説かれていたということ自体がそもそも不自然だったわけです。
 一方でストア派の哲学者たちは、だからこそ、異性婚や永遠の愛を真理陳述していき、それがキリスト教にも導入されていった――。現実の実態と「真理」とされたものには差があったはずですが、”永遠の愛”といった「真理」を求めていくにつれ、ゲーム性が帯びていき、次第に真理ゲームが実装化されていった、ということがあるようです。

 フーコーは、「科学」についても言及していましたが、それは知の権力化とも呼べるような有様を批判するような文脈として捉えられるものです。「真理」を追究しているようでありながら、結局はどれだけ自分が”すばらしい研究”をしたか、査読論文の本数や受賞経験などを示し合う、いわばジャイアン的殴り合いになっている、という批判です。
 婚姻/結婚にしても、「科学」の名のもとに明らかにされていく物事も、真理陳述のゲームを通じて、現実の実態とは乖離しながらも私たちの生き方を拘束するような「常識」に化し、私たちの生き方を縛る決めつけや制約になっているのかもしれません。
 そうではないものの考え方や見方の可能性をフーコーは「思想」や「哲学」という概念で志向していたようですが、講読会の中では、今だからこそそれをあえて「科学」ととらえ、考えていけたらという話もされていました。「真理」を追い求めるのではなく、そうではなく、何を現実としてみなせるのか、相当程度の同意を得られるような妥当な現実を示そうとすることが学問には求められているのかもしれない、といった指摘もされていたかと思います。

 今回の議論は混み入っていて、相変わらず上手にまとめられてはいませんが、申し訳ありません…。講読会も残すところあと2回。ひきつづき、頑張って読み進めていけたらと思います。暑さに負けず、がんばりましょう。

 

 

参加者の皆さんからのコメント

前回の感想の中で、福祉について他人事に考えていたが、病気や老後の場合を考えると他人事ではなく万人が関係することだと考えていた感想に共感した。自分もあまり深く考えたことがなかったのでこの機にちゃんと調べてみようと思った。

また本題では、キリスト教の厳格な性の道徳観は最初から独自に存在していたのではなく、ギリシア・ローマ古代のストア派などの思想を継承していたという点が特に印象的だった。普段当たり前と思っている道徳や規範も、歴史的な言説の積み重ねや変容の中で作られてきたのだと実感した。また、象のモデルの話や真理陳述のコストについての議論など、単なる行動のルールの分析にとどまらず、人間が自分をどう捉えるか(主体性)という根本的な問いにつながっていくフーコーの思考の深さに圧倒された。言葉と現実、そして自己の関係について、もっと深く考えてみたいと思った。

今回の講読会を通して、フーコーは真理を単なる事実の説明ではなく、人々の考え方や行動、主体性を形づくるものとして捉えていることを学んだ。また、キリスト教の性の規範も新しく生まれたものではなく、古代から受け継がれた規範に新たな意味づけが与えられたことを理解し、歴史や思想を考える新しい視点を得ることができた。

第十一講| 一九八一年三月二十五日「近代的主体性とギリシア的ビオス」 他
2026年7月28日

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当日リポート

 今回は、講読会の直前に起きた熊本地震の状況を確認するところから始まりました。被害に遭われた皆様に、心よりお見舞い申し上げます。
 まなキキの講読会も日本全国、ときには国外からも、広くたくさんの方にご参加いただいています。皆様が、安全に、穏やかな気持ちで、一生懸命考えたり、議論できることを願っています。

 そのあとに紹介していただいたのが、中国・Moonshot社によって開発されたK3モデルと呼ばれる最新のAI。中国ベンチャーによって開発されたもののようですが、これまで業界をけん引してきたOpenAI社やAnthropic社の製品に引けをとらない性能を持っているそう。
 単にAIを開発する各企業がしのぎを削っているのか、という話題かというとそうではなく、決定的に違うのはこの企業は、OpenSourceで情報をオープンにしている、ということなのだそう。皮肉なことに自由を謳うアメリカ国内にある企業で開発されたAIがすべてクローズドなのに対して、一見、閉鎖的と言われている中国の企業がすべてをオープンにしている、ということ。

 私たちが、何気なく思い込んだり感じていることが、実態とは異なる可能性がある、ということを考えさせられる事実でもありますが、講読会で強調されたのは、以前も指摘されていたようなAIをめぐって社会が劇的に変わるターニングポイントがここで現れたのではないか、ということです。情報が秘匿されず公開されているからこそ、今までとはまた異なる形でAIは私たちの暮らしにもっと違う形で、かつみえる形で使われていくことになる――その過程には、単なるユーザーとしてではなく、自分にあった形に加工しながら使っていくようなそうした新たなフェーズも含まれることになるだろう、とのこと。

 今回のフーコーの議論と重なるところがあるとすれば、AIも、婚姻も、「生きる」ということの多様性を失わせるものでありながら、一方で、生きるということに関するテクネ―;生の技法にもなりうる、ということなのかもしれません。
 フーコーの今回の議論では、欲望があることを前提にそれをコントロールするソクラテスと、欲望そのもの自体を喪失させていくようなコントロールの二種類が紹介されていました。いわば、コントロールの対象が自分自身の行動なのか、それとも価値のためのコントロールなのか――。価値体系での議論に身を委ねてしまうことは、それこそ、生きることを制約していくことになってしまうのかもしれません。「ちゃんと欲する」こと、その「欲望」に対して自分がどうあれるか考えてコントロールしていくこと。そうした自律のきっかけにAIもなりうるのかもしれず、知の主体として考えていくことができるようにAIについても使い方や依存のしかたを考えていけたら、と思います。

 さて、次回はいよいよ最終回。地震も暑さも台風なども、いろいろありますが、ちゃんと考えられる私たちであれますように。

 

 

 

参加者の皆さんからのコメント

今回は、キリスト教的主体性とギリシア的なビオスについて学んだ。キリスト教では共通の真理や目的を前提とする主体性が重視される一方、ギリシアでは個人が自ら目的を探究し続ける主体性が重視されることを理解した。また、古代ギリシア・ローマの倫理観とキリスト教の道徳観の連続性や相違点について、フーコーの思想をもとに考察した。

今回を通して、歴史や思想は単純に断絶しているのではなく、連続性を持ちながら変化してきたことを学んだ。また、フーコーは出来事を整理するだけでなく、それぞれの思想や言説がどのようにつながり、主体性や倫理観を形づくってきたのかを考察しているのだと思った。

第十二講| 一九八一年四月一日「欲望の誕生」 他
2026年8月4日

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当日リポート

 とうとう今日は最終回。難しいところもありましたが、いかがでしたでしょうか。
 冒頭では、4本の動画を視聴しました。これまでの講読会でも取り上げられてきたテーマに関するものです。一本目は、イラクで米軍が撤退することを報じたもの。二本目が、AIに関する報道。そして、三、四本目がアメリカが停戦を主張する裏でイスラエルもハマスも相手の出方を伺い、まだとても戦争が終わっているとは思えない実態を指摘するような報道でした。

 民主主義を謳うはずのアメリカがハノイ陥落、カブール陥落につづいてバグダッド陥落を引き起こそうとしているさまや、アメリカ国内の企業がクローズドな環境で開発したAIは、中国ベンチャーのオープンウェイトAIにひけをとるような状況なのです。
 その中で、何を真理とするのか、どのように真理を描き出すのかが躍起になって行われているのかもしれません。そして、私たちは、これまでの「常識」が見直される必要性にも気づきつつあります。米・トランプは自らの思うがままに政治や権力をコントロールしているかのようにもみえます。イスラエルもまた、力でものを言わせているかのようにも思えます。ですが、例えば今後のガザの統治の行く末次第で、アメリカもイスラエルもその命運が大きく分かれていくことにもなるのです。国家の命運を自らで統制できていると思っているようでも、実は外部の状況に大きく依存しているのが実態なのです。
 私たちもまた、生きるためにさまざまな外部のものに依存しています。そのことについてどう自覚し、そしてその前提のなかでどう主体的にあれるのか、が問われているのかもしれません。

 今回のフーコーの講義は、今年度をしめくくり、来年度(『主体の解釈学』)へと続くようなまとめが目指されていました。アフロディシアから欲望へと変質していったセクシュアリテの問題を語る中で、どうやらフーコーは統治性の問題について触れたかったようです。

 かつて、行為そのものが問われていた問題が、やがて行為の背景にある思いとの同質性が問われるようになります。行為の背景に、「本当にそう思っているのかどうか」が問われていくようになる――例えば、それは”よく統治しているかどうか”、と行為をみるのではなく、”よき統治者たりえているか”をみるようになるのです。”よき統治者”というある種の価値観が重要になっていくのです。

 そして、かつて主体的であるとは能動的であることを指したものが、いかに、あってはならない「欲望」(=原罪)を抑制し、節度をもってコントロールするか、といった受動的なものになっていったことが指摘されていました。幻想といってもいいような「理想」(一対の男女の永遠の愛)をかなえるように、その「理想」に足る自分となるよう客観視し、その「理想」をゆらがすような本来湧き出てしまってはならない「欲望」を抑えるようにコントロールすること――主体の在り方、そして統治の在り方が、アフロディシアの時代からキリスト教の時代にかけて大きく変化したことをフーコーは示したかったのではないか、と解説されていました。

 やがて今回の議論は次年度以降の講義録のなかでも展開していくようです。例えば、行為がどうなのかを問う発想は「自己への配慮」と対応し、自分がどういう人間か、社会的にどういう人間かを問うような発想は「汝自身を知れ」と対応していくようです。

 今回のフーコーの議論は、粗削りなところもあったのかもしれませんが、この後のフーコーの議論を方向付ける重要な転換点であったのかもしれません。
そのような意味でも、とても刺激的でわくわくする議論でもありましたが、なかなかきわどいところもあったし、難しさもあって、ドキドキするような時間でもありました。
 また来年度、フーコーのつづきを読み進めることを楽しみにしつつ、今年度の後半は、ユルゲン・ハーバマスの『公共性の構造転換』を講読する予定です。
 ぜひ、みなさんとさまざまに試行錯誤しながら議論していくことができるのを楽しみにしております。第13弾まなキキ・オンライン講読会にご参加くださった皆様、大変お疲れさまでした!またいずれ。

  

参加者の皆さんからのコメント

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