まなキキ オンライン講読会 第一講

書籍『コンヴィヴィアリティのための道具』の表紙写真と「第一講」の文字 オンライン講読会

さんかくすと文がえます

 

  

勝手に国語の特別企画として、第1弾!
「まなキキオンライン講読会」の実践を通じて、
思想を学ぶ―『コンヴィヴィアリティのための道具』を読む体験を、皆様にも追体験していただけたら、と思います。

開催趣旨

― 社会が激変し、時代がれ動く時こそ、思想を学びたい。

「学びの危機」研究会では、今だからこそ意味がある学術書の講読会をオンラインで一般公開して開催します。
津田塾大学の研究者・大学院生が報告し、みんなで議論する形式です。
ぜひご参加ください。

第一講 概要

開催日時

 2020年7月9日(木)
 (前半)16時20分 ~ 17時50分 『情弱の社会学』
 (後半)18時 ~ 19時30分 『コンヴィヴィアリティのための道具』

講読担当者(『コンヴィヴィアリティのための道具』)

 M先生  
  はじめに(11頁~19頁)
  Ⅰ. 二つの分水嶺(21頁 ~ 35頁)

  当日の資料(PDF)

 K原先輩 
  Ⅱ.自立共生的な再構築(37頁 ~ 107頁)

  当日の資料(PDF)

※ PDFデータをダウンロードできない場合には、IES(inclusive_events@tsuda.ac.jp)までお問い合わせください。

コメンテーター

 H松さん

リライトダイジェスト

講読会・前編報告(M先生)

論点. 第一の分水嶺と第二の分水嶺の違いは何だろう?

例えば、第一の分水嶺の医療行為とは、

 ―アスピリンやキニーネ、滅菌された水、バランスのとれた食事や新鮮な空気や柔軟体操やきれいな水や石鹸、歯ブラシからバンドエイドやコンドームに至るまでの新しい考案物。

第二の分水嶺の医療行為として指摘されているようであるのは、

ますます高価且つ人工的で科学的に制御された環境内での家畜化された生活にのみ適合する種類の人間の育成に集中…
すべての新生児は健康であると証明がつくまでは患者とみなされるべき…

第一の分水嶺と第二の分水嶺における医療行為の違いは「生存」に対する選択肢があるかどうかということ、なのかもしれない。

第二の分水嶺における医療行為は「患者」に選択肢はない。「治療の対象」とみなされたら、それは”治療されるべき”ものとしてしか見なされず、その判断が「患者」自身には委ねられない。(ex. メタボ診断、AGA治療)

講読会・後編報告(K原先輩)

論点その1:なぜイリイチは道具をHand ToolsとPower Toolsに分けたのか

イリイチは第II章で道具の話をしています。講読会では、道具の分け方について議論になりましたが、ここではなぜイリイチがHand ToolsとPower Toolsという分け方をしているのかについて、簡単ではありますが講読会でのまとめをご報告します。

○Hand toolsとは何か?(p.59)

ハンマーやポケットナイフなどが例に挙げられている。「これは医者しか使ってはいけません」としない限り、Hand Toolsは誰もがその人の目的に応じて使える。「こういうことのためにしか使っていけません」という選択肢の制限がない道具がHand Toolsである。

○Power toolsとは何か?(p.60-1)

部分的に人体のそとで転換されるエネルギーにより動かされるもの。人間のエネルギーの増幅器の役目を果たすものもある。そのなかでも、ジェット機は、パイロット(人間)が単なる機械の操作をするだけの存在に引き下げられているという意味で、power toolsの極端な例になっている。

○誰が所有しても「破壊的」な道具(例:義務制の学校制度)は上記のどちらなのか?(p.69)

Power toolsの極地(=machine)なのではないか。例として車や教師が挙げられていた。車は高速道路で、特にmachineとして働き、教師は学校でまさにmachineとして働く。

○なぜイリイチはこのような道具の分け方をしたのか?

一見Hand toolsのほうが自由度が低く、Power toolsによってもたらされる自由度のほうが高い気がします(明らかにジェット機が発明されたことで、行ける範囲が広がり、自由度が増している気がします)。でも実はそうではなくて、人間の自由度を高めているように見えるPower toolsが、「これはよい」「これはダメ」という基準を設定したり、それによって行動の選択肢をむしろ狭めてしまうのだということを言いたかったのではないかと考えました。

論点その2:イリイチの「産業主義的社会」批判

現代に生きていると、産業主義的社会への批判の視点を持つことも、結構難しいなと思います(それが「当たり前」のため)。講読会では時間の都合上詳しく触れられませんでしたが、改めて、例としてあげられていたメキシコのよりよい輸送と、よりよい労働者の基準の規定についてまとめ、イリイチの批判について考えてみます。

○これまでの道具との関係性(メキシコの例より pp.89-97)

「よりよい」基準の設定による人の階層化について、イリイチはメキシコの輸送や住宅の例を挙げて説明している。これまでは手押し車などで物を運んでいた。それから鉄道や車が発明され、道路がつくられ、国内のどんな地点にでも数日で行けるようになり、非常に便利になった。また、すべての労働者に適切な住宅を供給するという計画を始めた。

しかし…スピードメーターが社会階級の指標になった。いまや資本主義国では、どれくらい頻繁に長距離の移動ができるかということは、いくらお金を払えるかによって決まる。つまり、速度がその人の属する階級と、同じ階級の仲間を決めている。

→「速度は効率指向型の社会を階層化する手段のひとつ」(p.92)

また、この住宅が、労働者にとって「よりよい」ものとされたが、最低の必要条件を細かく規定するもので、家賃は8割の国民の収入総額を超えたものだった。これまでは自分で自分の家を建てられた人たちも、その機会を奪われてしまった。このような住宅に住むことができたのは、jobを持っている人、「仕事(work)」をしている人だった。そのような人々はどんどん他のものも持つことができる(補助金、サービスなど)。そうではない人(持たざる者)は、基準を求めるようになり、満たされなくなっていく。

→「抽象的で実現不可能な目標を設定すると、その目標を達成するための手段が目的に変えられてしまう」(p.96-7)

○イリイチが言いたかったことはなにか?

上記のメキシコの例は、産業主義的社会による道具との関係性の変化を示しています。上記2つの例の「しかし…」よりも前の段階では、人間のために道具が働いているように思われます(work for の目的語が人だった)。しかし、その後本来手段であるはずの道具がそうではなくなり、道具によって人の階層化が行われています(work for の目的語が道具になった)。論点1・2から、これまでの道具との関係性によって、本来手段であるはずの道具によって人が選別され、一見できることが増えたように見えながら、実は私たちの自由や選択肢を狭めている社会になっている(=産業主義的社会)ということが言いたかったのではないか、と考えました。

皆様からの感想・コメント

 何十年ぶりかの久々の「読書会」でしたが、M先生、K原さんの丁寧ていねい読解読解と、H松さんのコメントがあり、内容をわかりやすく整理することができました。イリイチの著作は、現代文明に根本から反省をせまるものでしたが、柴田先生の共感しつつも一歩距離を置いた突込つっこみが勉強になりました。いろんなやり取りや、自分もコメントをしたり先生の返しがあったりして、いろんな角度からイリイチの言ってることがつかめてきたように思います。「道具」を通して世の中のり方を考え直すとは、なんて斬新ざんしんなアイディアでしょう!
 あとは参加者の皆さんの顔や声がもっとけたら(見えたら)よいなあと思いました。どんな人たちが参加されていたのか、どんな感想を持たれたのか、知りたかったです。また、はじめてZOOM会議に参加したのですが、「挙手きょしゅ」のボタンというのが見当たらず、手をげることができませんでした。コメント受付というのはいいやり方だと思いましたが、声も聴けるとよかったです。
今回のイベントにお声掛けいただき、ありがとうございました。次回も楽しみにしています。

今日はありがとうございました。とても楽しかったです。
頓珍漢とんちんかんなことかもしれないのですが、あの後SNSを例に考えてみました。例えばTwitterは、人が「少しずつ我慢がまんして適切に」使えれば自由に貢献こうけんし得るものです。実際に、された芸能人の活動場所になり、活動の自由に貢献こうけんしたこともあります。ですが、人が我慢がまんをできずに不用意な投稿とうこうをすると、Twitterという道具は暴走して人の手にえない事態をまねきます。そう考えると、コンヴィヴィアリティかどうかはTwitterという道具自体にあるよりも、使う人とTwitterとの関係性にあるのではないかと思います。コンヴィヴィアリティを育むためには、人自体、道具自も大切ですがそれ以上に関係性がきもなのではないかと考えました。
まとまらなくてすみません。論点がずれているような気もしてきましたが、改めて今日はありがとうございました。来週も楽しみです!

昨日はありがとうございました。レジュメ、議論、非常に参考になりました。個人的には一度読んでそのまま放置していたので、再読の機会にもなっています。

 

M先生
M先生

みなさま、コメントくださり本当にありがとうございます。
すこしずつ内容が深まるにつれ、みなさんも発言しやすい雰囲気ふんいきになっていくとよいなあと思います。
挙手きょしゅ」のげ方は確認しておきます!

道具に自分の言動が規定されるのではなく、自分の可能性を道具を使ってどう切りひらいていけるのか―、twitterにしても織機おりきやミシンにしても、そしてZOOMにしても、これからの読書会を通じても考えていきたいなあと思います。

K原さん
K原さん

「まなキキ」オンライン講読会ということでこの本を読んでいますが、オンライン授業や「新しい生活様式」など、この議論をふまえて今こそ考えたい論点がたくさんあるように思います。人ではなく道具に焦点を置いているところがとても面白かったです。

皆様からチャットでリアルタイムでコメントもいただき、改めて道具について考えることができ、大変勉強になりました。ご参加くださった皆様、ありがとうございました!

 

購読文献情報

コンヴィヴィアリティのための道具
(クリックするとAmazonのサイトに移動します)

  イヴァン・イリイチ著 渡辺京二、渡辺梨佐訳  ちくま学芸文庫(2015年)


  2020年7月9日(木)18時 ~ 19時30分
    Ⅰ. 二つの分水嶺(21頁 ~ 35頁)
    Ⅱ.自立共生的な再構築(37頁 ~ 107頁)
  2020年7月16日(木)18時 ~ 19時30分
    Ⅲ.多元的な均衡(109頁 ~ 186頁)
  2020年7月23日(木)18時 ~ 19時30分
    Ⅳ.回復(187頁 ~ 217頁)
    Ⅴ.政治における逆倒(219頁 ~ 240頁)
 

より理解するために―

情弱の社会学
(クリックするとAmazonのサイトに移動します)

  柴田邦臣著  青土社(2019年)

  

タイトルとURLをコピーしました