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海の向こうには何がある?
みなさんは海の向こうに何があるか知っていますか?
日本は島国ですから、四方を海に囲まれています。
どの地点からどちらの方角を目指していくか、で行きつく場所は変わってきますが…。
例えば!最短距離でどこかにたどり着きたい、と考えるなら…
長崎県の対馬から北北西の方向に泳いでいくことをオススメします。
たどり着くのはおとなりの国、韓国は釜山。対馬と釜山の間の距離はなんと約50キロ。
車でだいたい1時間くらいの距離です。
(ですので、泳いでいくのはちょっと現実的ではないですね。25メートルのプールを1000往復する距離です。)

とりあえず私は無理。船で行く~!
対馬、という場所も、もしかしたらあまりイメージが浮かばないかもしれません。
長崎県の一部ですが、対馬も一つの島です。
ちょうど九州と韓国の間にあるのが対馬という島なのです。
そして、韓国と九州の間の海を「対馬海峡」と呼びます。
九州にも韓国にも近い対馬。
もしかしたら、かつてずっと泳いで行き来した人がいたかも分かりません。
そして、ついつい日本は鎖国していたりしていて国外との交流はなかった、と思いがちかもしれないのですが、対馬など、中継となる場所を拠点として、多くの文化交流がされてきたことが分かっています。

公式の記録としては、日本でも五十嵐憲さんが、2003年に約18時間半かけて泳いでいらっしゃるそうです。
(3日に分けて実施したそうです)
何を頼りに想いを伝えあったか?――
実際に、韓国と日本(対馬から出発していたかどうかは分かりませんが)の間の行き来はずいぶん昔から実施されていました。
例えば、660年、唐と新羅の連合軍が百済と戦った際、日本は百済に援軍を送っています。

戦いの名は「白村江の戦い」。663年に百済は大敗しています。
当時の日本は大化の改新の頃。日本の国政の在り方が豪族中心から天皇中心の政治へとうつり変わろうとしている頃です。

さて……
「援軍を送った」とさらりと書いてあります。
恐らく、急に援軍を送りつけたわけではなく、
百済から「援軍を送ってほしい」と頼まれた、と考えるのが自然でしょう。
(負けちゃいましたけど)
でも…どうやって?お手紙書くにしても…
百済と日本って、同じ言葉を話していたのかしら?って思いません?
どうやってお願いをして、どうやってお願いにこたえていたのでしょうか…?
カギとなるのは…漢字!
今、私たちが一生懸命勉強している「漢字」とは、実は、日本由来の言葉ではなく中国からやってきた言葉でした。
中国語という全く性質の異なる言語の下で発達したのが漢字で、その特殊な文字が、さまざまな中国文化とともに日本にやってきたのです。
ちょっと衝撃的ではありませんか?
もちろん日本語はありました。
みんな、今と全く同じような言葉づかいで話していたわけではないでしょうが、日本語を話して意見や情報を交換したり、気持ちを伝えあっていました。
では、文字がないと何が困るのか。―それは、記録を残すことができない、ということです。
漢字との出会いはいつごろだったのか―
つまり日本語を書き表す、日本語としての文字はいつ生まれたのでしょうか。
漢字の謎を解くヒント:金印
時代は白村江の戦いから、さらにずっと前にさかのぼる、とされています。
漢字との出会いがいつ頃であったのか、ヒントをくれたのは、とても小さなものでした。
‥‥
恐らくみんなのおうちにもあるはず、印(はんこ)です。
その印の名は「漢委奴国王印」と呼ばれるものです。
なぜそのような呼び名がついているか、というと、その印に掘られた文字が「漢委奴国王印」と書かれているためです。純金製の印です。
発見された場所は福岡県。
江戸時代に水田を耕していたお百姓さんに発見されたと考えられています。
記録によれば、印はそのまま土に埋もれていたのではなく大切に箱のなかに収められていたという…。

びっくりしただろうなあ…。
見つけた印は、お役人(郡奉行)を通じて福岡藩にわたります。
この印がどんなものかを検証したのは、儒学者の亀井南冥さん。
肥後物語の著者でもあります。まさにリアル・お宝鑑定ですね。
そして、
「これはれっきとしたものです。『後漢書』という書物に“金印”のことが書かれていましたが、まさにこれのことだと思われます!」
とみなしたとされています。
『後漢書』から探る―金印と漢字との出会い
亀井南冥さんが指摘した『後漢書』―とは、中国後漢朝の時代に書かれた歴史書です。
「中国四千年の歴史」という言葉はきいたことがあるかもしれませんが、長い中国の歴史の中で、中国のいわば“王様”の役割を果たしたのは、ずっと同じ一族であったわけではありません。
さまざまなバックグラウンドを持つ人たちが争いながら、どこからどこまでが自分たちが支配している土地なのか、ということもその都度争い、決めながら、国を治めてきました。
今でこそ「中国」、「中華人民共和国」という名前で呼んでいますが、だれがそのときのトップに立っていたか、で国の名前も変わったのです。
「後漢」というのもまさにその当時の中国の呼び名。25~220年の頃のお話です。


ただし、その後漢書も、後漢時代に書かれたわけではありません。
後漢の歴史を記した正史、とされていますが、その後、国の名前も変わり、さまざまな王国が争い合っていた南北朝時代に宋という国の人が書き始め…
続きを晋という国の人が書き…
最終的に北宋時代と呼ばれる時代に合体させて『後漢書』とされます。
もう、れっきとした超大作です。
その、『後漢書』とやらが見たい皆様へ。
もちろん原本ではありませんが、1624~43年に木活字印本として発行されたもののデジタル版を見てみることができます。聞いて驚くことなかれ。全120巻です。
そして、中国の歴史が気になってしまうみなさんへ
(後漢は「漢」という時代の中にあります)

脱線が長くなりました…汗
亀井南冥さんが指摘した『後漢書』、書かれていたのは85巻の東夷伝という伝の中。
東夷伝、つまり、中国の東方に住んでいる諸民族について書かれた伝の中に、
「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南界なり、光武、印綬を以て賜う」
と書かれていた、と。
後漢の光武帝が建武中元二年(57年)に、倭奴国からの使いに印綬を送った、という意味です。
この倭奴国が、日本のことを本当に指しているのか、などなど謎が多いのも事実。
ですが、残された史料(ただの資料ではありません、歴史的な資料:史料なのです)を組み合わせながら、注意深く検証してきて、“そのようである”と推定しているということになります。
金印に刻まれた文字、これが漢字との出会いであったと言われています。
少なくとも、この時点には「漢字」と出会っていた、ともいえる。
金印を通じた漢字との出会い――、『後漢書』によれば、どうやら57年までさかのぼるらしい。
私たちが今使う日本語の文字との出会いはこの時であった、と長い研究の末、分かったのです。
そうと解釈することができたのも、文字として残された記録があったからこそ。
なんだかロマンチックです。

その「漢字との出会いの謎」を解くきっかけとなった金印を実際に見てみたい、という方。
福岡市博物館に収蔵されているそうです。