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勝手に国語の特別企画、第2弾!
今日も、「まなキキオンライン講読会」の実践を通じて、
思想を学ぶ―『コンヴィヴィアリティのための道具』を読む体験を目指していこうと思います。
開催趣旨
― 社会が激変し、時代が揺れ動く時こそ、思想を学びたい。
「学びの危機」研究会では、今だからこそ意味がある学術書の講読会をオンラインで一般公開して開催します。
津田塾大学の研究者・大学院生が報告し、みんなで議論する形式です。
ぜひご参加ください。
第二講 概要
開催日時
2020年7月16日(木)
(前半)16時20分 ~ 17時50分 『情弱の社会学』
(後半)18時 ~ 19時30分 『コンヴィヴィアリティのための道具』
講読担当者(『コンヴィヴィアリティのための道具』)
H松さん
Ⅲ.多元的な均衡(109頁 ~ 186頁)
コメンテーター
M先生
購読文献情報
『コンヴィヴィアリティのための道具』
(クリックするとAmazonのサイトに移動します)
イヴァン・イリイチ著 渡辺京二、渡辺梨佐訳 ちくま学芸文庫(2015年)
2020年7月9日(木)18時 ~ 19時30分
Ⅰ. 二つの分水嶺(21頁 ~ 35頁)
Ⅱ.自立共生的な再構築(37頁 ~ 107頁)
2020年7月16日(木)18時 ~ 19時30分
Ⅲ.多元的な均衡(109頁 ~ 186頁)
2020年7月23日(木)18時 ~ 19時30分
Ⅳ.回復(187頁 ~ 217頁)
Ⅴ.政治における逆倒(219頁 ~ 240頁)
より理解するために―
『情弱の社会学』
(クリックするとAmazonのサイトに移動します)
柴田邦臣著 青土社(2019年)
リライトダイジェスト
講読会報告(H松)
論点.この章でイリイチが指摘したかったことって?
この章では、人類を脅かしている6つの危機を、イリイチはバランスの乱れという視点でそれぞれ論じています。物事にはバランスが存在するのだ、ということを前提に、人々がそのバランスを保っていくことを脅かしてしまう道具の「からくり」を描き出していく章です。
論点.生物学的退化(Biological Degradation)って?
この節でイリイチは、環境のバランスについて述べていきます。環境問題の原因は、人口過剰・豊かさの過剰・科学技術の欠陥の3つと一般的に考えられていて、解決策は「どの要因が最も環境に負荷をかけているか、そしてその要因を減少させる要因が何かを決めること」で追い求められていること(科学技術によって解決されると考えられていること)をまず指摘します。
イリイチの着眼点:今の科学技術が基づいている誤った仮説
そのうえで、科学技術を進歩させることが、果たして環境のバランスを保つことに繋がるのだろうか?とイリイチはこの章で提唱していきます。イリイチは、今の科学技術が価値の制度化の進展の下に生まれた誤った仮説に基づいていると論じるのです。
科学技術が綺麗さを定義し、徹底的に綺麗さを追い続けることで生じる環境危機があるのではないか?科学技術が、「良いこと」を定義し、それ以外の議論を許さないことでバランスが乱れ、自らが定義した「良いこと」を追い求めることで、私たち自身が科学技術の囚人になってしまうと、イリイチはこの節で科学技術とのつきあい方についての警鐘を鳴らしています。
論点.根元的独占(Radical Monopoly)って?
この節は、この章でもっとも核心的な考えが述べられている部分です。イリイチは、独占と言われている現象には、実は2種類の独占があったのだ!と冒頭で独占の種類について整理します。通常の独占と、根元的独占の2種類です。後者の独占のあり方が、物事のバランスをそもそも取れないようにするツールになっていることを様々な例から解き明かしています。
イリイチの着眼点:根元的独占という状態があること
通常の独占=商品やサービスを生産する手段に対する一企業による排他的な支配。
例)コカコーラが、その国の清涼飲料市場で圧倒的なシェアを占めること。
しかし…この状態でも、人々は喉の渇きを癒す際に他の選択肢を選択できる。市場内での競争も行われている。
例)喉が渇いたから、コカコーラではなく、水を飲もう。
根元的独占=ルールそのものを変更することで生まれる支配。
例)喉の渇きを癒す行為=コカコーラを飲む行為
この状態になると、人々は喉の渇きを癒すにはコカコーラを飲むことしか認められなくなる。他のものが認められない、ということは、競争すらも生まれていない状態。
例)水を飲んでも、喉の渇きは癒せない。コカコーラを飲むことで喉の渇きを癒さなければ!!
このように、「ーをーと呼ぶ」と定義づけてしまうような独占(根元的独占)が起こると、そのルールに従って満たされたかどうかが重要になってしまうとイリイチは指摘しています。
論点.計画化の過剰(Over programming)って?
この節でイリイチが論じたかったことは、何でも前もって計画しすぎてしまうことによって、学びのバランスが乱されて生じる「学びの危機」があるということです。
イリイチは、学びのバランスは「環境に対する人間の創造的な働きかけから生まれた知識」と「人工的に作り上げられた環境に対する人間の些末化の結果を表した知識」のバランスによって決まることをまず指摘します。どのように知識が人々に与えられるのかによって、学びのバランスが変わってくると論じていくのです。前の節で論じた、根元的独占を生むような知識の伝達しかなされていないことが今の社会の問題にあるのだと、この節では整理をしていくわけです。
前もって「このように学ぶことが良いことである」と過度に計画され、定義づけられた学習が与えられることで、学びが「教育」に変わり、学びのバランスを乱していくのだとイリイチは指摘をしています。学ぶことが商品化し、教育への依存が起きること(根元的独占の状況が生まれること)で学校は第二の分水嶺を超えた状態になってしまったわけです。つまり、学ぶこと=学校で教育を受けることという意味にすり替わったということです。学校で学ぶことが教育を受けた証となり、学歴が生まれ、それ以外の場所で学びを得ても「無教育」と見なされてしまう理由もここにあるとイリイチは論じています。
学びを、ただ与えられるものと思ってしまうと、知識のバランスが崩れ、学びのバランスも崩れてしまう。学びとは何かを深く考えさせられる節です。
論点.分極化(Polarization)って?
この節でイリイチは、豊かな人と、貧しい人の極端な格差(権力のバランスを欠いた状態)によって生じる危機について語っています。
学びのバランスが崩れたことによって、人々が商品の根元的独占について盲目的になってしまい、より低い豊かさにもとづいてより幸せになるという考え方ができなくなってしまう。そして、権力が豊かな人にだけ集中すること(権力のバランスが欠いた状態になること)がこの格差を調整しようとすることへの無力感を生んでしまう。
このようにして貧富のバランスが乱れていくことで、貧しさのレベルも上昇していくのだと、イリイチはこの節で警鐘を鳴らしています。
論点.廃用化(Obsolescence)って?
この節でイリイチは、より良いものを人々が求めた結果、新しいものを使うことイコール良いこととみなす状況が生まれていると指摘します。
新しいこと、ということだけが無条件に「良いもの」の基準とされることで、消費のバランスが不均衡になっていると説いているのです。
論点.欲求不満(Frustration)って?
この節でイリイチは、様々な領域でそれぞれのバランスが乱れた結果、
求めても求めても終わらない状況(欲求不満という状況)が生まれてしまっていると指摘します。その状況を終わらせるには…。解決策として、イリイチは「管理に立ち向かう研究」の必要性を説きます。
解決策を一元的に考えようとする今の研究のあり方が、目的を欠いたものになっているのであれば、その研究そのものを管理する研究が必要とイリイチは指摘したのです。
科学技術の進歩の目的が、科学的課題を解決することにすり替わってしまったとき、「それは果たして科学なのか?」という批判的な目を向け、科学技術のバランスを保っていくことの大切さも、この節には書かれています。
皆様からの感想・コメント
H松さんの丁寧な読解で、イリイチの言ってることがよく整理できました。ただ全体的に、議論がイリイチが何を言いたいかという解釈に終始してしまったような気がして、自分もそれを追いかけるのに精いっぱいだったように思います。それを踏まえてどんなことを感じたか、考えたかという議論があってもよいと思いました。最後のH松さんのせっかくの「一緒に議論を深めたいこと」という問いかけについて、もう少し突っ込んでみたかったと思います。
少し考えてみました。まなキキは自立共生的な学びと言えるのか?という問いは、まずはH松さん自身が、さらにスタッフの皆さんがどう感じてらっしゃるか、どんな学びがあるのかをうかがってみたいです。2番目の「能力差」という問いは、少々唐突な気もしますが、分極化の話ともつながっているのでしょうか。あるいは、障害のある子どもたちの学びという「まなキキ」のテーマとつながっているのでしょうか。ここもH松さんの言葉をもう少し聞きたいです。
私自身は、障害のある人たちの働く場での支援をしています。「能力」って何だろうかと思います。ある物差しだけで測ると、「劣っている」とされる人たちの、秘められていた力がパーっと花開くような瞬間があるように思います。あるいは、ここがどうしてわからないんだろう?ともどかしく悪戦苦闘しながら、こうしたら伝わるのか、と発見する楽しさのようなものもあります。
「廃用化」の話は、新しさと速さに取りつかれた文明への痛烈な批判の言葉と受け取りました。早く進まないで、ゆっくりときに行きつ戻りつしてみる。障害のある人たちと付き合う中では、否応なくそんな時間に巻き込まれていくように感じる時があります。限度とか我慢とか、イリイチの独特の言葉遣いの魅力について、読書会を通じて少しずつ分かってきた気がしますが、我慢することは苦しいことではなく(そういう面ももちろんあるのでしょうが)、とても楽しく豊かなのだと思います。その豊かさが共有されていく社会の仕組みをどう作っていくのか、ということが大切な問いのように思います。 まなキキスタッフの皆さんの、いろんな体験談や感想なども、時折交えていただいて、どうしてイリイチを取りあげたのか、何を感じたのか聞いてみたい気がしました。
あたらめて考えさせられるような、大変有意義なコメントを頂き、本当にありがとうございました!!思わず長い時間発表してしまって、皆様とのディスカッションの時間が短くなってしまい、恐縮でした。ディスカッションの代わりにできればと思い、下記、私なりに…ですが、それぞれお答えします。
(1)まなキキが自立共生的な学びといえるか?
まなキキの学びは、明確な正解を用意していない点で「おお、これは。自立共生的な学びだ!」とイリイチに言ってもらえないかなあ…と思っています。
学びのナビゲーターという言葉も、実はそういう意味でかなりこだわってウンウン唸って考え出した言葉だった記憶があります。ナビゲーターとは、航海士という意味があります。航海士は、「こういうルートに沿って進んだらよいのではないか?」というアイディアは出すけれど、自らがその船のオールを漕ぐことはありません。あくまで、そのアイディアを良しとして船のオールを漕ぐのは今からその道に進みたいと思っている船員その人です。その船に乗った人は、こんな航海士には従いたくない、と思えば船をいつでも降りることだってできます。海の上の道は無限にあって、どの道を選ぶかという選択肢はその船ごとだからです。
まなキキは、他の切り口(道筋)から学びたいと思ったとき、船を乗り換えられるように多数の選択肢を用意している…つもりです。子どもたちが自分から、この船のオールを漕いでいきたい!と選び取っていけるような工夫を、大切にしていきたいとコッソリ思っています。
まなキキは、それぞれのナビゲーターが純粋に学ぶことを深めていく過程で知った楽しさや面白さを紹介したり、共有する場として機能しています。その意味で、自立共生的な学びの在り方を示す一つのモデルになっていたら…と思います。
ただ、子どもたちにとっての『自立共生的な学び』になっているか、と言われると、分かりません。それを受け止めてくれる子どもたちがいて、かつ、学びのナビゲーターの言葉に関心を持って、自分なりに何かを考えたり調べてくれたときにはじめて子どもたちにとっての「自立共生的な学び」は始まるのではないかと思います。
そのときに、まなキキは子どもたちにとっての「自立共生的な学び」のための道具になりえるのかもしれません。まなキキが、さまざまな人たちが集い、「自立共生的な学び」を深める場のようなものになれたらいいな、と思います。それは、大人にとっても子どもにとっても。そして障害がある子どもたちや事情がある子どもたちにとっても、そのような場であれたらと思います。そのためにこそ、多くの人の手になじむ道具になりえるよう、みなさんの感想や指摘をいただきながら、今後も成長していけたらなと思います。
(2)能力差について
当日深められなかった点をコメントで掘り下げて頂き、ありがとうございました。この章を読んだときに、イリイチの問題意識の1つに「基準」を誰が作るのか?どのように作られているのか?
ということがあるように私は個人的に感じていました。
今、教育の現場や就労の現場には、能力を測る方法が多々あります。それによって、それぞれの人の能力差があるとされてしまっていると言えるのではないかと思います。コメントで頂いたように、分極化も起こっているとも思います。そのようなランク付けのあり方について、イリイチならどのように考えただろうか…?と思い、唐突ですが設問として書かせて頂いていました。
(3)イリイチを読んでみて思うこと
廃用化の節を読むと、「豊かさ」ってなんだろうか?としみじみ考えさせられます。新しい製品が続々と登場することによって、より便利に、物質的にもより豊かになっているはずなのに、実は同時に貧しさも生んでいるのだ、というイリイチの鋭い指摘には、思わず自省の念すら抱かされます。我慢といってしまうと、日本人としてはなんとなく、純粋に苦しいものというイメージを抱いてしまいがちだなとも思うのですが、イリイチは「節制ある楽しみ」があるじゃないかと、違った切り口を提供してくれているわけなんですよね。
これを所有していることが「豊かであること」なのだという、定義化された基準を鵜呑みにしてただ従うのではなく、それぞれが自分にとっての豊かさってなんだろうと考えることが、本当の豊かさに繋がるのだよと、イリイチは言いたかったのかなあとも思います。
と、こんなことを書いていたら、私が子どもの頃に読んで子どもながらに感銘を受けた「ガラスの地球を救え」というタイトルの本を思い出し、ふと読み返してしまいました。手塚治虫さんの作品です。
「人間がどのように進化しようと、物質文明が進もうと、自然の一部であることには変わりはないし、どんな科学の進歩も、自然を否定することはできません。それはまさに自分自身=人間そのものの否定になってしまうのですから。」という、今読み返してみると、あまりに深すぎる一文がありました。
イリイチを読んだ後に手塚治虫…というのはあまりに俗人的すぎる読み方なのかもしれませんが(笑)でも、考え方のエッセンスに繋がる部分があるなと感じました。
科学技術とのつきあい方を子どもたちと一緒に考えていきたいなともイリイチの講読会を通して、実は思っています。そのうち、まなキキ社会科で「科学技術とのつきあい方特集(仮題)」を取り上げる予定です!!