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文字を通じた演出
例えば、M先生が好きな作家には、中島敦さんという人がいます。
1909年生まれの日本の小説家で、先生をしながら小説を書いていたのだそうです。
戦争中、パラオ南洋庁の役人を務めるのですが、喘息持ちだったそうで、33歳で亡くなった早熟な作家でした。
中島敦さんの作品でとても有名なのが『山月記』。
高校で学ぶ「現代文」の授業の中でよく取り扱われている小説です。
皆さんの中でも知っている、という方がいるかもしれません。
他にも『弟子』や『李陵』などといった代表作品があります。
どの作品もとっても面白いです。
ちなみに、今日のテーマにも近いかなあ…と思うのが『文字禍』という作品。
青空文庫にもあります。よかったら読んでみてくださいね。
中島敦さんの作品は、たくさんの漢字や熟語が登場します。
中国古典の歴史世界を題材にしたものや、古代伝説の体裁をとった奇譚・寓意物が多いのですね。
漢文調に基づいた硬質な文章の中に美しく響く叙情詩的な一節が印象的で、冷厳な自己解析や存在の哲学的な懐疑に裏打ちされた芸術性の高い作品として評価されている
ウィキピディア フリー百科事典
などとも書かれています。
既に、この説明文の中でも、「奇譚」や「寓意物」、「硬質」、「叙情詩的」、「冷厳」、「懐疑」など耳慣れない難しい表現が並んでいますが、まさに中島敦の文章とは、そういった漢字熟語のオンパレードなのです。
奇譚:珍しい話。不思議な物語。
寓意:ある意味を、直接には表さず、別の物事に託して表すこと。また、その意味。
硬質:質がかたいこと。また、かたい性質。
叙情詩:叙事詩・劇詩とともに詩の三大部門の一。作者の感情や情緒を表現した詩
冷厳:1. 冷静でおごそかなさま。2. ひややかできびしく、人間の感情がはいる余地のないさま。
懐疑:物事の意味・価値、また自他の存在や見解などについて疑いをもつこと。
goo国語辞書より
例えば、『山月記』の冒頭は、こんな感じで始まります。
隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。
もしかしたら、漢字だらけの文章ですから、
ひゃ~、読んでられない!意味不明だ。
わけわからん~
となるのかもしれません。
…が、
さっきの「ミナサン、コンニチハ。イカガ オスゴシデショウカ?」を思い出してみてください。
中島敦さんにとって、
『山月記』という物語の世界観は、
まさに、この難しい漢字や表現を使った書き方を通じてのみ、表現しうるようなものであった可能性が高いのです。
(本当のところはだれにも実は分からないのですが…)
…と考えると、「なんでこんなに無駄に難しい表現使うんだ!」という怒りも鎮まってはきませんか?
実際に、M先生も一番最初に『山月記』を読んだとき、目が回るような思いがしたことを覚えています。
用語が難しいし、意味も調べなければわからない。
でも、不思議なことに、読み進めていくうちに、『山月記』は、こういう書き方をしているからこそ、この魅力があるのだ、と思わさせられてしまうのです。
隴西:中国、甘粛 省蘭州の南東にある県。秦代に郡が置かれた。ロンシー。
博学才穎:ひろく種々の学問に通じ、才知のすぐれていること。また、その人。
虎榜:龍虎榜の略称。中国で、進士の試験の合格者を発表する掲示板。転じて、進士の及第者。
江南尉:長江の南の地方(江南)エリアを担当する「尉」という役人の職
補す:官職に任命する。ほす。
狷介:頑固で自分の信じるところを固く守り、他人に心を開こうとしないこと。また、そのさま。片意地。
恃む:1. 相手に、こちらが希望するようにしてくれることを伝えて願う。依頼する。2. たよりになるものとしてあてにする。力としてたよる。3. 用事や処置を他にゆだねる。まかせて、すっかりしてもらう。4. 何かをしてもらうために呼ぶ。また、注文する。5. 他家に行って案内を請う。6. 信用する。信頼する。
頗る:1. 程度がはなはだしいさま。非常に。たいそう。2. 少し。いささか。
賤吏:身分の低い役人
実は、『山月記』は中島敦のデビュー作。1942年に発表された作品です。
中国の『人虎伝』を題材に描かれた短編小説で、唐代、詩人となる望みに敗れて虎になってしまった男・李徴が、自分の数奇な運命を友人の袁傪に語るという変身譚。
主人公である李徴がどのような人物であったのか。
その李徴の想い、苦悩、友人である袁傪の気持ちなど、作品全体が持つ世界観や息遣いは、あの「難しいオーラを放つ書き方」にも宿っています。
それに、あの書き方こそが、その世界観を構成する重要要素にもなっているように思われるのです。
(あくまでM先生の解釈です。異なる印象を持つ方ももちろんいらっしゃると思います!)
でも、今回ご紹介した『山月記』の冒頭の文章で、李徴がどのような人物か触れられていますね。
めちゃくちゃ秀才で超難関試験に合格してしまうんだけど、めちゃくちゃ頑固でもあって、下級役人なんかにとどまっていられるか、という感じのプライドの高い人間だった、という感じでしょうか。(意訳しています)
いわゆる、この著者の“書きっぷり”は「文体」と表現できるようなものです。
文体とは、文章の様式のこと。
著者の個性的特色がみられる文章のスタイル、などとも説明されることがあります。
この、中島敦の文章の書き方、言葉の選び方、表記の仕方、すなわち「文体」が、中島敦の作品の魅力を一層高めています。
おそらく、「文体」は、そこに表現されている文章の内容そのものと大きく結びついて威力を発揮します。
なぜそのように表記されているのか、
なぜそのように表現する必要があったのか、
その理由はなかなか説明しがたい種のものでもありますが、著者にとっては、明確な意図があってそのように表記し、表現していた可能性があります。
無意識であったにせよ、そのように表現することが、作者にとって「当たり前」であり「自然」で、これ以外の表現は逆に不自然であった、とも捉えられるかもしれません。
読者は、著者の隠された意図に気づくこともありますが、ほとんど無意識に感じ取って、作品の持つ世界観として、受け止めていたりするのです。
逆に、著者の隠された意図や思いを汲み取ろうとするのなら、そうした一つ一つの表現や表記の仕方に注目することが重要になるとも言えます。