時をかける道のお話―中世篇

イラスト:ハーネスを付けたペットの白いウサギを散歩させている、かわいい女の子 社会:まなナビNAVI

▶(さんかく) を押(お)すと文が増(ふ)えます

いいくにつくろう鎌倉幕府かまくらばくふ

前回ぜんかい、古代こだいの道みちが成立せいりつしていく過程かていを確認かくにんしてきました。
その後ご、どんなふうに時代じだいは動うごいていったのでしょうか。

今回こんかいは、特とくに日本にほんの歴史れきしの舞台ぶたいがダイナミックに変化へんかしていった鎌倉時代かまくらじだいから戦国時代せんごくじだいに注目ちゅうもくしていきます。

 

H松
H松

平安時代へいあんじだいのあと、貴族きぞくたちを守まもっていた武士ぶしたちが台頭たいとうして、平家へいけと源氏げんじが争あらそう源平げんぺいの戦たたかいがあったんだよね。

M先生
M先生

そうそう~。このあたりの歴史れきしは『平家物語へいけものがたり』として琵琶法師びわほうしを中心ちゅうしんに語かたり継つがれてきたのです。どんな感かんじで語かたっていたのかは、言葉ことばでつなぐ、つながっていく②でも紹介しょうかいしているよ!

ぱんこさん
ぱんこさん

たしか、平家へいけは壇ノ浦だんのうらの戦たたかいで敗やぶれて、源氏げんじで活躍かつやくした源義経みなもとのよしつねも、岩手県いわてけんの平泉ひらいずみで死んでしまうんでしたっけ…。

U子さん
U子さん

源氏げんじも源氏で悲劇ひげきですよね…。『義経記ぎけいき』の中で義経よしつねのことは語かたられているけれど、義経のお兄さんにあたる源頼朝みなもとのよりともが最終的さいしゅうてきには幕府ばくふというものを鎌倉かまくらで開ひらくことになったんですよね。

 

壇ノ浦の戦いの舞台は、「街道の旅」でも訪れています。

時代じだいは1192年のこと。鎌倉時代かまくらじだいの始はじまりです。
考かんがえてみると、日本の歴史れきしが動うごいていく舞台ぶたいも、西日本にしにほんから東日本ひがしにほんへ、大きく移動いどうしたことが分かりますね。

時代じだいが動うごいた舞台裏ぶたいうら

それまで、日本の政治せいじは「朝廷ちょうてい」によって行おこなわれていました。
権力けんりょくは、天皇てんのうや上皇じょうこう、天皇らを補佐ほさする貴族きぞくたちの手のうちにあったのです。

源平げんぺいの戦たたかいで登場とうじょうする「源氏げんじ」や「平氏へいし」とは、もともと貴族きぞくたちを護衛ごえいする人たちでした。
権力けんりょくをめぐる戦いで活躍かつやくすることを通じて、貴族の仲間入なかまいりをしたのが、平清盛たいらのきよもりです。
太政大臣だじょうだいじんという地位ちいにつき、娘むすめを天皇の后きさきにし、孫まごを天皇の地位ちいに立たせようとします。
天皇のおじいちゃんとして、権力けんりょくを握にぎったのです。

 

M先生
M先生

つ、つよい。
この時代じだい、平家一強へいけいっきょうだったのか?

H松
H松

いや、結構不満けっこうふあんもたくさんあったらしいですよ。
不満ふまんが積つもって、結果けっか源氏げんじが討うって出る「源平げんぺいの戦たたかい」が起こり、鎌倉時代かまくらじだいがやってくるわけです。

平家へいけを討うち取った源頼朝みなもとのよりともは、朝廷ちょうていから征夷大将軍せいいたいしょうぐんに任命にんめいされます。
そして頼朝よりともは武力ぶりょくを握にぎり、政治せいじの実権じっけんをもっていくことになります。

 

ぱんこさん
ぱんこさん

征夷大将軍せいいたいしょうぐんって、もともとは奈良なら・平安時代へいあんじだいに、蝦夷えみし(古代こだい、関東以北かんとういほくの住人じゅうにんのこと)征伐せいばつのために送られた軍隊ぐんたいのリーダーに与あたえられていた役職やくしょくでしたよね。

U子さん
U子さん

それが、頼朝よりともが実際じっさいに鎌倉幕府かまくらばくふという武士ぶしによって行われる政治せいじのしくみを切り拓ひらいていったことを受けて、天下てんかの武力ぶりょくをつかさどる武家政治ぶけせいじの首長しゅちょうの地位ちいを意味いみするようになったらしいです。

 

鎌倉時代かまくらじだいの「鎌倉かまくら」

鎌倉時代かまくらじだいの「鎌倉」とは地名ちめいでもありますね。
現在げんざいでいう神奈川県鎌倉市かながわけんかまくらしです。

 

M先生
M先生

源頼朝みなもとのよりともはなぜ、鎌倉かまくらの地に幕府ばくふを開ひらこうとしたのでしょうか?

 

もともと、この地は源氏げんじにとってゆかりのある地であった、ということが大きなきっかけであるようです。
そして同時どうじに鎌倉かまくらという土地は、南は相模湾さがみわん、東北西とうほくせいの三方さんぽうが山に囲かこまれていて、敵てきからの攻撃こうげきを受けにくいような場所ばしょでした。

ぱんこさん
ぱんこさん

考えてみれば、平氏へいしというライバルと闘たたかったばかりだし、いつ返かえり討うちに遭あうかわかりませんもんね。

U子さん
U子さん

朝廷ちょうていから征夷大将軍せいいたいしょうぐんの任命にんめいを受けるまでもひと悶着もんちゃくあったらしいですよ。

H松
H松

頼朝よりともに味方みかたする人も、よく思わない人もいた、と考えるとリアリティがあります。

 

鎌倉時代かまくらじだいの道

紆余曲折うよきょくせつを経へてできた鎌倉時代かまくらじだい。
古代こだいは、税金ぜいきんを徴収ちょうしゅうしたり、軍隊ぐんたいを送ったりするために、七道駅路しちえきどうろと呼よばれる道が成立せいりつしていったと学びました。

当時とうじできた道は、鎌倉時代かまくらじだいでも活用かつようされます。
特とくに、「東海道とうかいどう」は、この時代じだいに大きく発展はってんしていったようです。

 

H松
H松

我わがふるさと、静岡県しずおかけんを通とおる東海道とうかいどうでもあります。
現在げんざいの東海道新幹線とうかいどうしんかんせんも基本的きほんてきには、この「東海道とうかいどう」に基もとづいて出来上できあがっていくのかな?

U子さん
U子さん

まさに、そのあたりは、わたくしU子が中心ちゅうしんとなって書かくパート3の記事きじや、H松さんのパート4で詳くわしく見ていきたいところですね!

 

鎌倉かまくらは東海道とうかいどうをなぜ使ったか?

東海道とうかいどうは、京都きょうとと鎌倉かまくらを結むすんでいました。
政治せいじの舞台ぶたいが鎌倉かまくらに移うつったのであれば、それでもうよいじゃない、と思いたいところですが、京都きょうととは繋つながっている必要ひつようがあったようです。

その理由りゆうとして、以下の3つが挙あげられそうです。

  1. 京都きょうとの情報じょうほうをいち早はやく知しるため
  2. 京都・六波羅探題ろくはらたんだい(西国さいごくを治おさめる幕府ばくふの役所やくしょ)に行き来する武士ぶしのため
  3. いざというとき大軍たいぐんを送るため

 

ぱんこさん
ぱんこさん

なんだか…なかなか穏おだやかではありませんねぇ…。

M先生
M先生

かなり朝廷ちょうていを警戒けいかいしている感じですよね。
ちなみに、鎌倉かまくらー京都きょうとは、ふつうに歩くと16日、馬うまを飛とばして3日くらいかかったそうです。

 

東海道とうかいどうは、一般市民いっぱんしみんにとっては商品しょうひんを運はこんだり、京都きょうと・奈良在住ならざいじゅうの荘園領主しょうえんりょうしゅに税金ぜいきんを払はらう道として利用りようされていました。また、鎌倉時代かまくらじだいも後期こうきに近づくと、次第しだいに経済けいざいが発展はってんし、経済けいざいの道みちとしても活用かつようされたといいます。
しかし、当時とうじの東海道とうかいどうは道も険けわしかったり、山賊さんぞくも出没しゅつぼつしたりと、なかなか安全な道ではなかったそうです。

 

山賊
山賊

へっへっへ。
東海道とうかいどうが安全になるには、江戸時代えどじだいまで待つしかねーのさ!

H松
H松

ということもあって?!、当時とうじは海上かいじょうの道も発展はってんします。
太平洋側たいへいようがわの海上交通かいじょうこうつうが発達はったつしていくのでした。

 

新あたらしい道:鎌倉街道かまくらかいどう

権力けんりょくの中心地ちゅうしんちである京都きょうとに通つうじる道がたくさんできたように、新しい権力の中心地、鎌倉かまくらにもつながる道が作られます。
これが「鎌倉街道かまくらかいどう」と呼よばれるものです。

鎌倉幕府かまくらばくふは、京都きょうとの朝廷ちょうていを常つねに警戒けいかいしていることが伺うかがわれてきました。
何かがあったとき、ただちに対抗たいこうすることができるように、関東かんとうの武士ぶしたちがすぐに集結しゅうけつすることができるように、関東地方かんとうちほうを縦断じゅうだんし鎌倉かまくらに至いたる軍事道路ぐんじどうろを3本(上道うえみち・中道なかみち・下道したみち)作ったのだそうです。

群馬県ぐんまけん・栃木県とちぎけん・埼玉県さいたまけん・東京都とうきょうと・神奈川県かながわけんを縦たてに貫つらぬき鎌倉かまくらに集中しゅうちゅうするような道です。
時代を経へると、鎌倉街道かまくらかいどうは、軍用道路ぐんようどうろとしてだけでなく、商品しょうひんや人を運ぶ道路どうろとしても発展はってんしていきます。

 

M先生
M先生

平家物語へいけものがたりは、「祇園精舎ぎおんしょうじゃの鐘かねの声、諸行無常しょぎょうむじょうの響ひびきあり…」と始まります。
この世のものはすべて常つねに変化へんかしていて、ほんのしばらくもとどまるものはない、という仏教ぶっきょうの教おしえですが、平家へいけに漏もれず源氏げんじの天下てんかも終おわる時代がきます。

ぱんこさん
ぱんこさん

鎌倉時代かまくらじだいが終焉しゅうえんを迎むかえ、関東かんとうの中心地ちゅうしんちではなくなると、鎌倉街道かまくらかいどうは本来ほんらいのルートからはずれ、村と村を結むすんだり、山や丘に沿そって曲がりくねった道に変化していったそうです。
かつての、本当の鎌倉街道かまくらかいどうは、今や林の中であったりするのだとか…。

U子さん
U子さん

鎌倉時代かまくらじだいも終おわってしまうのか。このあと、どんな展開てんかいがあるのでしたっけ?
早速さっそく見ていきましょう~

▼ 鎌倉街道かまくらかいどうを歩あるいてみたい人はこちら。実際じっさいの散策さんさくコースが紹介しょうかいされています

 

ポスト・鎌倉時代かまくらじだい

鎌倉時代かまくらじだいの終焉しゅうえん

鎌倉時代かまくらじだいは、「御恩ごおんと奉公ほうこう」という言葉ことばで象徴しょうちょうされるような、将軍しょうぐんと御家人ごけにんの絆きずなのもとに成なり立っていました。
例たとえば、戦いくさで領地りょうちや利益りえきを獲得かくとくしたら、戦で活躍かつやくしてくれた兵士たちにもちゃんとお礼でこたえていたのです。今でいう、お給料きゅうりょうに近い感覚かんかくで捉とらえることができるでしょうか。

 

M先生
M先生

働はたらいたら、働いた分だけ報酬ほうしゅうを得える。これ、重要じゅうよう。

H松
H松

ところがそうもいかない事件が勃発ぼっぱつしてしまうんですよ~

ぱんこさん
ぱんこさん

えっ!なんでしたっけ?何があったんだ??

Fさん
Fさん

ふっふっふっふ。

U子さん
U子さん

そ、その声は…フビライ…!!
分かった…。元寇げんこうだ!

 

1274年と1281年の2回にわたって、日本はモンゴルと高麗こうらいの連合軍れんごうぐんからの攻撃こうげきを受けます。
(博多湾はかたわんの北部ほくぶにあたる「息おきの浜はま」に来襲らいしゅうしてきたのだそうです―アジアとの玄関口げんかんぐちであった九州きゅうしゅうとか本州ほんしゅうのはしっこあたりにきたらしい。)
当時とうじのモンゴルはすさまじく強つよく、当時最新さいしんの兵器へいきである爆弾ばくだんや毒矢どくやなどを駆使くしして攻撃してきたので、日本は本当にピンチでした。

 

M先生
M先生

当時とうじのモンゴルは、モンゴル帝国ていこくとして広大こうだいな土地を支配しはいしていました。
フビライのおじいちゃんのチンギス・ハンが強大きょうだいなモンゴル帝国の基盤きばんを築きずいたんですね。

 

最新さいしんの軍事力ぐんじりょくを前に、ボロボロになってしまいますが、いろいろな偶然ぐうぜんも重かさなって元軍げんぐんは撤退てったいすることになります。
ですが、この戦いくさは防衛戦ぼうえいせん。戦に勝かったからといっても、新しく分捕ぶんどることのできた土地も利益りえきは得えられませんでした。
むしろ、消耗しょうもうだけしたといえるでしょう。

頑張がんばって戦たたかったけど、何も得えられるものがなかった御家人ごけにんたちは、これを機きに不満ふまんを募つのらすのです。
これが鎌倉時代かまくらじだいの「おわりのはじまり」でした。

 

室町時代むろまちじだい

鎌倉時代かまくらじだいは、天皇てんのうが政治せいじをする力を取り戻そうと反乱はんらんが企くわだてられていく中で、終おわりを迎むかえていくことになります。

幕府ばくふの味方みかたをしていたかのように思えたはずの武士ぶし、例たとえば足利尊氏あしかがたかうじなども、後醍醐天皇ごだいごてんのうの味方みかたに寝返ねがえるなどして、力のバランスがどんどん崩くずれていった、ともいえるでしょう。

天皇中心てんのうちゅうしんの政治せいじを取とり戻もどすことを宣言せんげんした「建武けんむの新政しんせい」を経へて、権力けんりょくの中心ちゅうしんは京都きょうとへ戻もどってきますが、その後ごもなかなかうまくいきません。
天皇中心てんのうちゅうしんの政治せいじをよく思わない武士ぶしたちも少すくなからず存在そんざいしていたためです。

特とくに、この前まで味方みかたをしていたはずの足利尊氏あしかがたかうじなどは、またも立ち上がり、後醍醐天皇ごだいごてんのうを討うってしまうのです。
その後、権力けんりょくが分散ぶんさんする南北朝時代なんぼくちょうじだいを経へて、足利尊氏あしかがたかうじが征夷大将軍せいいたいしょうぐんになって室町幕府むろまちじだいが成立せいりつします。
征夷大将軍せいいたいしょうぐんは源頼朝みなもとのよりともが任命にんめいされていたことを、この記事でも触ふれてきましたよね。

足利家あしかがけが築きずく室町時代むろまちじだいも、16代まで一応は続つづきますが、政治せいじは不安定ふあんていな状態じょうたいが長く続いたようで、この時代は権力けんりょくが乱立らんりつしていきます。

 

H松
H松

なんだかんだいっても、この時代に、あの有名ゆうめいな京都きょうとの観光地かんこうち、金閣寺きんかくじや銀閣寺ぎんかくじが建たてられたんですよね

U子
U子

金閣寺きんかくじは、3代将軍しょうぐんの足利義満あしかがよしみつ、銀閣寺ぎんかくじは7代将軍の足利義政あしかがよしまさが築きずきました。

イラスト:金閣寺
金閣寺
イラスト:銀閣寺
銀閣寺

 

ぱんこさん
ぱんこさん

その銀閣寺ぎんかくじを建たてた足利義政あしかがよしまさの跡継あとつぎが、なかなか決まらなくて大変だったらしいですよ。

M先生
M先生

はい。「応仁おうにんの乱らん」を代表だいひょうとして知られる騒乱そうらんがつづくんです。
大変たいへんな時代だったみたいですが、室町時代むろまちじだいに築きずかれた義満よしみつの北山文化きたやまぶんか、義政よしまさの東山文化ひがしやまぶんかは、その後の日本ならではの芸術げいじゅつ…建築様式けんちくようしきや伝統でんとうを展開てんかいしていくきっかけにもなったのだそうです。

 

室町時代むろまちじだいが不安定ふあんていな状態じょうたいで続つづいた背景はいけいには、各地かくちの「守護大名しゅごだいみょう」と呼よばれる人たちの力が強つよかったことがよく挙あげられています。
鎌倉時代かまくらじだいに守護大名しゅごだいみょうは、赴任ふにんした地域ちいきの軍事ぐんじを管理かんりすることを任まかされていましたが、室町時代むろまちじだいは、軍事力ぐんじりょくだけでなく、その土地の政治も携たずさわるようになっていたのです。

室町時代むろまちじだいの将軍しょうぐん・足利氏あしかがしによる政治せいじは、もはや実現じつげんしていなかったのです。
それぞれの守護大名しゅごだいみょうたちが各地かくちで勢力せいりょくを拡大かくだいするなか、室町幕府むろまちばくふが管理かんりしたり、整備せいびするような「道」は、登場とうじょうしようがなかったといってもよいでしょう。

 

戦国時代せんごくじだい、そして安土桃山時代あづちももやまじだい

一般いっぱんには、第16代将軍しょうぐん・足利義昭あしかがよしあきが織田信長おだのぶながから京都きょうとを追い出されたことで室町時代むろまちじだいが終おわりを迎むかえたと理解りかいされています。

室町幕府むろまちばくふの将軍しょうぐんは存在そんざいしていながらも、なかなか歴史れきしの表舞台おもてぶたいには出てこなかったような時代じだいが長く続つづきます。
それは、上でも説明せつめいしてきたとおり、各地かくちの守護大名しゅごだいみょうが力を持って乱立らんりつしていたことによります。そして、この不安定ふあんていな勢力争せいりょくあらそいの時代じだいは、「戦国時代せんごくじだい」と呼よばれます。

この時代じだいが生み出したヒーローは多く、ファンも多い時代じだいです。
かつての部下ぶかが、上司じょうしをやっつけて、立場たちばを逆転ぎゃくてんさせてしまうようなこともたくさんありました。

 

H松
H松

「下剋上げこくじょう」ですね。

ぱんこさん
ぱんこさん

「アイドル戦国時代せんごくじだい」なんて言葉ことばもありますが…

M先生
M先生

たくさんのアイドルがトップアイドルを目指めざしてそれぞれが頑張がんばっている姿すがたが、かつての戦国時代せんごくじだいを彷彿ほうふつさせるからですね。

U子
U子

アイドル戦国時代せんごくじだいに素敵すてきなアイドルがたくさん登場とうじょうしているように、この時代じだいにも、名将軍めいしょうぐんがたくさん登場とうじょうしたんですね。

 

守護大名しゅごだいみょうの持もつ力が大きくなり、それぞれがそれぞれの土地とちを治おさめていくようになることで、城下町じょうかまちが栄さかえていきます。
城下町とは、お城しろを中心に形成けいせいされた都市としのことです。
まなキキちゃんねるの、「まなキキ街道かいどうの旅たびonline」でも少し登場とうじょうしていますね。

イラスト:武田信玄
武田信玄

この、城下町じょうかまちが作られていく過程かていで、「道」も整備せいびされ、築きずかれていきます。

例たとえば、現在げんざいの山梨県やまなしけんのあたりの地域ちいき・甲府こうふを治おさめた武田信玄たけだしんげんは、氾濫はんらんを起おこしがちだった川に堤防ていぼうを築きずきます。「信玄堤しんげんつづみ」と呼よばれるものですが、その後も堤防がよりしっかりしたものになるように、ケヤキなどの大木たいぼくを植うえたとされます。
(現在げんざいは、信玄堤公園しんげんつづみこうえんになっているそうです。)

 

それぞれの守護大名しゅごだいみょうたちは、それぞれが治おさめる地域ちいきの道みちなどの環境整備かんきょうせいびも進すすめるため、「関所せきしょ」を置おいて、通行料つうこうりょうを得えようともしました。
つまり、通行料を使って道の整備せいびしようとしたのです。

ところが、こうした関所せきしょの存在そんざいは、自由じゆうな人の行いき来きを制限せいげんすることにもなります。そこに目を付けたのが織田信長おだのぶながでした。
織田信長おだのぶながは、領国内りょうこくないで誰だれでも商工業しょうこうぎょうを興おこせるようにした「楽市楽座らくいちちらくざ」を実施じっししたほか、関所せきしょを撤廃てっぱいしていきます。人が自由に行き来することで、人の交流こうりゅうも生まれ、それと共に物のやりとり、つまり商売しょうばいも活発化かっぱつかしていったのです。

イラスト:織田信長
織田信長

さらに、街道かいどうを拡張かくちょうさせたり、脇道わきみちを作ったり、河川かせんに橋はしを作ったり…と人の行き来をより活発かっぱつにするような政策せいさくにも積極的せっきょくてきにかかわりました。商人しょうにんたちが夏なつの暑あつい日にも木陰こかげで休やすむことができるように、と道沿みちぞいに柳やなぎの木を植うえるなどの配慮はいりょもされていたそうです。
(柳の木が街路樹がいろじゅとして植うえられた道は「柳街道やなぎかいどう」とも呼よばれたそうですが、現在げんざいは「岩倉街道いわくらかいどう」として知しられています)

 

 

一緒いっしょに発展はってんしていったもの

飛脚ひきゃく

飛脚ひきゃくという言葉ことばを聞きいたことがあるでしょうか?

鎌倉時代かまくらじだいから江戸時代えどじだいまで、文書ぶんしょ・金銭きんせん・小貨物しょうかもつなどを送おくり届とどけることを仕事しごととした人たちのことです。

今でいう、宅配業たくはいぎょうや郵便屋ゆうびんやさんのような存在そんざいですね。
この、手紙てがみにはじまり、ちょっとした物ものを送り届けてくれるこの職業しょくぎょうが生まれたのは、鎌倉時代かまくらじだいからだったのだそう。

源頼朝みなもとのよりともが、天皇てんのうとは少し距離きょりの離はなれた関東かんとうの鎌倉かまくらで幕府ばくふを開ひらき、京都きょうとに六波羅探題ろくはらたんだいを置おいたことを、この記事きじの最初さいしょのほうでも触ふれましたが、京都きょうとと鎌倉かまくらとで情報じょうほうのやりとりをすることが、最初さいしょは目的もくてきの一つにあったようです。
なので、この郵便配達的ゆうびんはいたつてきな仕事しごとに従事じゅうじした人たちは、最初、六波羅飛脚ろくはらひきゃくなどと呼ばれます。

ところで、飛脚ひきゃくの方々かたがた、ずっとマラソンをして情報じょうほうを届とどけていた、というわけではないようです。
馬うまに乗のって、そして、馬に頑張がんばってもらって速はやく走ってもらって、目的地もくてきちまで行っていたのです。

ただし、馬も全力疾走ぜんりょくしっそうしていると疲つかれてしまいます。
そこで要所要所ようしょしょうしょに「駅えき」が置おかれました。

「駅えき」というと、現代げんだいに生きる私たちは、「電車でんしゃに乗のるための場所ばしょ」と考かんがえますが、もともとの「駅えき」は、まさに、この飛脚ひきゃくと呼よばれるような人たちをサポートするための場所ばしょだったのです。

「リレー式に人や物を伝送する中継所であった」と漢字辞典(学研・漢字源)にも書かれています。
乗り継ぎ馬を「駅」といい、中継所(宿場)へと意味を変えていったのです。

もともと、「駅えき」という字は、「馬うま」と「睪えき」という漢字かんじが組くみ合わさって生まれた漢字です。
「睪えき」という漢字は「数珠じゅずつなぎにつながる」というイメージを持っており、ある地点ちてんからある地点、そしてまた次の地点へと、宿場しゅくばごとに乗のり継ついでいく馬、また、そのように連つらなっている宿継やどつぎのことを指さすのです。

何かものを届とどけたり、伝つたえたりするためには、まず、「道みち」が整ととのえられていることが重要じゅうようです。
でも、「道」ができただけでは十分じゅうぶんではないのです。
その「道」を使う人が、休息きゅうそくをとって、また旅たびを続つづけることができるような、中継地ちゅうけいちもまた大事だいじな役割やくわりを果はたしていたのですね。

 

M先生
M先生

次の街道かいどうの記事きじは、ついに「江戸時代えどじだい」に舞台ぶたいを移うつします。
「道」をめぐって広がるドラマ…特とくに、駅制えきせいの話はなしもまた広ひろがっていきそうです。
U子さんにバトンタッチして、今回の記事きじはここまでとします。
読んでくださってありがとうございました!

 

参考

タイトルとURLをコピーしました