時をかける道のお話―中世篇

イラスト:ハーネスを付けたペットの白いウサギを散歩させている、かわいい女の子 国語(こくご)

さんかくすと文がえます

いいくにつくろう鎌倉幕府かまくらばくふ

前回ぜんかい古代こだいみち成立せいりつしていく過程かてい確認かくにんしてきました。
その、どんなふうに時代じだいうごいていったのでしょうか。

今回こんかいは、とく日本にほん歴史れきし舞台ぶたいがダイナミックに変化へんかしていった鎌倉時代かまくらじだいから戦国時代せんごくじだい注目ちゅうもくしていきます。

 

H松
H松

平安時代へいあんじだいのあと、貴族きぞくたちをまもっていた武士ぶしたちが台頭たいとうして、平家へいけ源氏げんじあらそ源平げんぺいたたかいがあったんだよね。

M先生
M先生

そうそう~。このあたりの歴史れきしは『平家物語へいけものがたり』として琵琶法師びわほうし中心ちゅうしんかたがれてきたのです。どんなかんじでかたっていたのかは、言葉ことばでつなぐ、つながっていく②でも紹介しょうかいしているよ!

ぱんこさん
ぱんこさん

たしか、平家へいけ壇ノ浦だんのうらたたかいやぶれて、源氏げんじ活躍かつやくした源義経みなもとのよしつねも、岩手県いわてけん平泉ひらいずみで死んでしまうんでしたっけ…。

U子さん
U子さん

源氏げんじも源氏で悲劇ひげきですよね…。『義経記ぎけいき』の中で義経よしつねのことはかたられているけれど、義経のお兄さんにあたる源頼朝みなもとのよりとも最終的さいしゅうてきには幕府ばくふというものを鎌倉かまくらひらくことになったんですよね。

 

壇ノ浦の戦いの舞台は、「街道の旅」でも訪れています。

時代じだいは1192年のこと。鎌倉時代かまくらじだいはじまりです。
かんがえてみると、日本の歴史れきしうごいていく舞台ぶたいも、西日本にしにほんから東日本ひがしにほんへ、大きく移動いどうしたことが分かりますね。

時代じだいうごいた舞台裏ぶたいうら

それまで、日本の政治せいじは「朝廷ちょうてい」によっておこなわれていました。
権力けんりょくは、天皇てんのう上皇じょうこう、天皇らを補佐ほさする貴族きぞくたちの手のうちにあったのです。

源平げんぺいたたかい登場とうじょうする「源氏げんじ」や「平氏へいし」とは、もともと貴族きぞくたちを護衛ごえいする人たちでした。
権力けんりょくをめぐる戦いで活躍かつやくすることを通じて、貴族の仲間入なかまいりをしたのが、平清盛たいらのきよもりです。
太政大臣だじょうだいじんという地位ちいにつき、むすめを天皇のきさきにし、まごを天皇の地位ちいに立たせようとします。
天皇のおじいちゃんとして、権力けんりょくにぎったのです。

 

M先生
M先生

つ、つよい。
この時代じだい平家一強へいけいっきょうだったのか?

H松
H松

いや、結構不満けっこうふあんもたくさんあったらしいですよ。
不満ふまんもって、結果けっか源氏げんじって出る「源平げんぺいたたかい」が起こり、鎌倉時代かまくらじだいがやってくるわけです。

平家へいけち取った源頼朝みなもとのよりともは、朝廷ちょうていから征夷大将軍せいいたいしょうぐん任命にんめいされます。
そして頼朝よりとも武力ぶりょくにぎり、政治せいじ実権じっけんをもっていくことになります。

 

ぱんこさん
ぱんこさん

征夷大将軍せいいたいしょうぐんって、もともとは奈良なら平安時代へいあんじだいに、蝦夷えみし古代こだい関東以北かんとういほく住人じゅうにんのこと)征伐せいばつのために送られた軍隊ぐんたいのリーダーにあたえられていた役職やくしょくでしたよね。

U子さん
U子さん

それが、頼朝よりとも実際じっさい鎌倉幕府かまくらばくふという武士ぶしによって行われる政治せいじのしくみを切りひらいていったことを受けて、天下てんか武力ぶりょくをつかさどる武家政治ぶけせいじ首長しゅちょう地位ちい意味いみするようになったらしいです。

 

鎌倉時代かまくらじだいの「鎌倉かまくら

鎌倉時代かまくらじだいの「鎌倉」とは地名ちめいでもありますね。
現在げんざいでいう神奈川県鎌倉市かながわけんかまくらしです。

 

M先生
M先生

源頼朝みなもとのよりともはなぜ、鎌倉かまくらの地に幕府ばくふひらこうとしたのでしょうか?

 

もともと、この地は源氏げんじにとってゆかりのある地であった、ということが大きなきっかけであるようです。
そして同時どうじ鎌倉かまくらという土地は、南は相模湾さがみわん東北西とうほくせい三方さんぽうが山にかこまれていて、てきからの攻撃こうげきを受けにくいような場所ばしょでした。

ぱんこさん
ぱんこさん

考えてみれば、平氏へいしというライバルとたたかったばかりだし、いつかえちにうかわかりませんもんね。

U子さん
U子さん

朝廷ちょうていから征夷大将軍せいいたいしょうぐん任命にんめいを受けるまでもひと悶着もんちゃくあったらしいですよ。

H松
H松

頼朝よりとも味方みかたする人も、よく思わない人もいた、と考えるとリアリティがあります。

 

鎌倉時代かまくらじだいの道

紆余曲折うよきょくせつてできた鎌倉時代かまくらじだい
古代こだいは、税金ぜいきん徴収ちょうしゅうしたり、軍隊ぐんたいを送ったりするために、七道駅路しちえきどうろばれる道が成立せいりつしていったと学びました。

当時とうじできた道は、鎌倉時代かまくらじだいでも活用かつようされます。
とくに、「東海道とうかいどう」は、この時代じだいに大きく発展はってんしていったようです。

 

H松
H松

がふるさと、静岡県しずおかけんとお東海道とうかいどうでもあります。
現在げんざい東海道新幹線とうかいどうしんかんせん基本的きほんてきには、この「東海道とうかいどう」にもとづいて出来上できあがっていくのかな?

U子さん
U子さん

まさに、そのあたりは、わたくしU子が中心ちゅうしんとなってくパート3の記事きじや、H松さんのパート4でくわしく見ていきたいところですね!

 

鎌倉かまくら東海道とうかいどうをなぜ使ったか?

東海道とうかいどうは、京都きょうと鎌倉かまくらむすんでいました。
政治せいじ舞台ぶたい鎌倉かまくらうつったのであれば、それでもうよいじゃない、と思いたいところですが、京都きょうととはつながっている必要ひつようがあったようです。

その理由りゆうとして、以下の3つがげられそうです。

  1. 京都きょうと情報じょうほうをいちはやるため
  2. 京都・六波羅探題ろくはらたんだい西国さいごくおさめる幕府ばくふ役所やくしょ)に行き来する武士ぶしのため
  3. いざというとき大軍たいぐんを送るため

 

ぱんこさん
ぱんこさん

なんだか…なかなかおだやかではありませんねぇ…。

M先生
M先生

かなり朝廷ちょうてい警戒けいかいしている感じですよね。
ちなみに、鎌倉かまくら京都きょうとは、ふつうに歩くと16日、うまばして3日くらいかかったそうです。

 

東海道とうかいどうは、一般市民いっぱんしみんにとっては商品しょうひんはこんだり、京都きょうと奈良在住ならざいじゅう荘園領主しょうえんりょうしゅ税金ぜいきんはらう道として利用りようされていました。また、鎌倉時代かまくらじだい後期こうきに近づくと、次第しだい経済けいざい発展はってんし、経済けいざいみちとしても活用かつようされたといいます。
しかし、当時とうじ東海道とうかいどうは道もけわしかったり、山賊さんぞく出没しゅつぼつしたりと、なかなか安全な道ではなかったそうです。

 

山賊
山賊

へっへっへ。
東海道とうかいどうが安全になるには、江戸時代えどじだいまで待つしかねーのさ!

H松
H松

ということもあって?!、当時とうじ海上かいじょうの道も発展はってんします。
太平洋側たいへいようがわ海上交通かいじょうこうつう発達はったつしていくのでした。

 

あたらしい道:鎌倉街道かまくらかいどう

権力けんりょく中心地ちゅうしんちである京都きょうとつうじる道がたくさんできたように、新しい権力の中心地、鎌倉かまくらにもつながる道が作られます。
これが「鎌倉街道かまくらかいどう」とばれるものです。

鎌倉幕府かまくらばくふは、京都きょうと朝廷ちょうていつね警戒けいかいしていることがうかがわれてきました。
何かがあったとき、ただちに対抗たいこうすることができるように、関東かんとう武士ぶしたちがすぐに集結しゅうけつすることができるように、関東地方かんとうちほう縦断じゅうだん鎌倉かまくらいた軍事道路ぐんじどうろを3本(上道うえみち中道なかみち下道したみち)作ったのだそうです。

群馬県ぐんまけん栃木県とちぎけん埼玉県さいたまけん東京都とうきょうと神奈川県かながわけんたてつらぬ鎌倉かまくら集中しゅうちゅうするような道です。
時代をると、鎌倉街道かまくらかいどうは、軍用道路ぐんようどうろとしてだけでなく、商品しょうひんや人を運ぶ道路どうろとしても発展はってんしていきます。

 

M先生
M先生

平家物語へいけものがたりは、「祇園精舎ぎおんしょうじゃかねの声、諸行無常しょぎょうむじょうひびきあり…」と始まります。
この世のものはすべてつね変化へんかしていて、ほんのしばらくもとどまるものはない、という仏教ぶっきょうおしえですが、平家へいけれず源氏げんじ天下てんかわる時代がきます。

ぱんこさん
ぱんこさん

鎌倉時代かまくらじだい終焉しゅうえんむかえ、関東かんとう中心地ちゅうしんちではなくなると、鎌倉街道かまくらかいどう本来ほんらいのルートからはずれ、村と村をむすんだり、山や丘に沿って曲がりくねった道に変化していったそうです。
かつての、本当の鎌倉街道かまくらかいどうは、今や林の中であったりするのだとか…。

U子さん
U子さん

鎌倉時代かまくらじだいわってしまうのか。このあと、どんな展開てんかいがあるのでしたっけ?
早速さっそく見ていきましょう~

鎌倉街道かまくらかいどうあるいてみたい人はこちら。実際じっさい散策さんさくコースが紹介しょうかいされています

 

ポスト・鎌倉時代かまくらじだい

鎌倉時代かまくらじだい終焉しゅうえん

鎌倉時代かまくらじだいは、「御恩ごおん奉公ほうこう」という言葉ことば象徴しょうちょうされるような、将軍しょうぐん御家人ごけにんきずなのもとにり立っていました。
たとえば、いくさ領地りょうち利益りえき獲得かくとくしたら、戦で活躍かつやくしてくれた兵士たちにもちゃんとお礼でこたえていたのです。今でいう、お給料きゅうりょうに近い感覚かんかくとらえることができるでしょうか。

 

M先生
M先生

はたらいたら、働いた分だけ報酬ほうしゅうる。これ、重要じゅうよう

H松
H松

ところがそうもいかない事件が勃発ぼっぱつしてしまうんですよ~

ぱんこさん
ぱんこさん

えっ!なんでしたっけ?何があったんだ??

Fさん
Fさん

ふっふっふっふ。

U子さん
U子さん

そ、その声は…フビライ…!!
分かった…。元寇げんこうだ!

 

1274年と1281年の2回にわたって、日本はモンゴルと高麗こうらい連合軍れんごうぐんからの攻撃こうげきを受けます。
博多湾はかたわん北部ほくぶにあたる「おきはま」に来襲らいしゅうしてきたのだそうです―アジアとの玄関口げんかんぐちであった九州きゅうしゅうとか本州ほんしゅうのはしっこあたりにきたらしい。)
当時とうじのモンゴルはすさまじくつよく、当時最新さいしん兵器へいきである爆弾ばくだん毒矢どくやなどを駆使くしして攻撃してきたので、日本は本当にピンチでした。

 

M先生
M先生

当時とうじのモンゴルは、モンゴル帝国ていこくとして広大こうだいな土地を支配しはいしていました。
フビライのおじいちゃんのチンギス・ハンが強大きょうだいなモンゴル帝国の基盤きばんきずいたんですね。

 

最新さいしん軍事力ぐんじりょくを前に、ボロボロになってしまいますが、いろいろな偶然ぐうぜんかさなって元軍げんぐん撤退てったいすることになります。
ですが、このいくさ防衛戦ぼうえいせん。戦にったからといっても、新しく分捕ぶんどることのできた土地も利益りえきられませんでした。
むしろ、消耗しょうもうだけしたといえるでしょう。

頑張がんばってたたかったけど、何もられるものがなかった御家人ごけにんたちは、これを不満ふまんつのらすのです。
これが鎌倉時代かまくらじだいの「おわりのはじまり」でした。

 

室町時代むろまちじだい

鎌倉時代かまくらじだいは、天皇てんのう政治せいじをする力を取り戻そうと反乱はんらんくわだてられていく中で、わりをむかえていくことになります。

幕府ばくふ味方みかたをしていたかのように思えたはずの武士ぶしたとえば足利尊氏あしかがたかうじなども、後醍醐天皇ごだいごてんのう味方みかた寝返ねがえるなどして、力のバランスがどんどんくずれていった、ともいえるでしょう。

天皇中心てんのうちゅうしん政治せいじもどすことを宣言せんげんした「建武けんむ新政しんせい」をて、権力けんりょく中心ちゅうしん京都きょうともどってきますが、そのもなかなかうまくいきません。
天皇中心てんのうちゅうしん政治せいじをよく思わない武士ぶしたちもすくなからず存在そんざいしていたためです。

とくに、この前まで味方みかたをしていたはずの足利尊氏あしかがたかうじなどは、またも立ち上がり、後醍醐天皇ごだいごてんのうってしまうのです。
その後、権力けんりょく分散ぶんさんする南北朝時代なんぼくちょうじだいて、足利尊氏あしかがたかうじ征夷大将軍せいいたいしょうぐんになって室町幕府むろまちじだい成立せいりつします。
征夷大将軍せいいたいしょうぐん源頼朝みなもとのよりとも任命にんめいされていたことを、この記事でもれてきましたよね。

足利家あしかがけきず室町時代むろまちじだいも、16代まで一応はつづきますが、政治せいじ不安定ふあんてい状態じょうたいが長く続いたようで、この時代は権力けんりょく乱立らんりつしていきます。

 

H松
H松

なんだかんだいっても、この時代に、あの有名ゆうめい京都きょうと観光地かんこうち金閣寺きんかくじ銀閣寺ぎんかくじてられたんですよね

U子
U子

金閣寺きんかくじは、3代将軍しょうぐん足利義満あしかがよしみつ銀閣寺ぎんかくじは7代将軍の足利義政あしかがよしまさきずきました。

イラスト:金閣寺
金閣寺
イラスト:銀閣寺
銀閣寺

 

ぱんこさん
ぱんこさん

その銀閣寺ぎんかくじてた足利義政あしかがよしまさ跡継あとつぎが、なかなか決まらなくて大変だったらしいですよ。

M先生
M先生

はい。「応仁おうにんらん」を代表だいひょうとして知られる騒乱そうらんがつづくんです。
大変たいへんな時代だったみたいですが、室町時代むろまちじだいきずかれた義満よしみつ北山文化きたやまぶんか義政よしまさ東山文化ひがしやまぶんかは、その後の日本ならではの芸術げいじゅつ建築様式けんちくようしき伝統でんとう展開てんかいしていくきっかけにもなったのだそうです。

 

室町時代むろまちじだい不安定ふあんてい状態じょうたいつづいた背景はいけいには、各地かくちの「守護大名しゅごだいみょう」とばれる人たちの力がつよかったことがよくげられています。
鎌倉時代かまくらじだい守護大名しゅごだいみょうは、赴任ふにんした地域ちいき軍事ぐんじ管理かんりすることをまかされていましたが、室町時代むろまちじだいは、軍事力ぐんじりょくだけでなく、その土地の政治もたずさわるようになっていたのです。

室町時代むろまちじだい将軍しょうぐん足利氏あしかがしによる政治せいじは、もはや実現じつげんしていなかったのです。
それぞれの守護大名しゅごだいみょうたちが各地かくち勢力せいりょく拡大かくだいするなか、室町幕府むろまちばくふ管理かんりしたり、整備せいびするような「道」は、登場とうじょうしようがなかったといってもよいでしょう。

 

戦国時代せんごくじだい、そして安土桃山時代あづちももやまじだい

一般いっぱんには、第16代将軍しょうぐん足利義昭あしかがよしあき織田信長おだのぶながから京都きょうとを追い出されたことで室町時代むろまちじだいわりをむかえたと理解りかいされています。

室町幕府むろまちばくふ将軍しょうぐん存在そんざいしていながらも、なかなか歴史れきし表舞台おもてぶたいには出てこなかったような時代じだいが長くつづきます。
それは、上でも説明せつめいしてきたとおり、各地かくち守護大名しゅごだいみょうが力を持って乱立らんりつしていたことによります。そして、この不安定ふあんてい勢力争せいりょくあらそいの時代じだいは、「戦国時代せんごくじだい」とばれます。

この時代じだいが生み出したヒーローは多く、ファンも多い時代じだいです。
かつての部下ぶかが、上司じょうしをやっつけて、立場たちば逆転ぎゃくてんさせてしまうようなこともたくさんありました。

 

H松
H松

下剋上げこくじょう」ですね。

ぱんこさん
ぱんこさん

「アイドル戦国時代せんごくじだい」なんて言葉ことばもありますが…

M先生
M先生

たくさんのアイドルがトップアイドルを目指めざしてそれぞれが頑張がんばっている姿すがたが、かつての戦国時代せんごくじだい彷彿ほうふつさせるからですね。

U子
U子

アイドル戦国時代せんごくじだい素敵すてきなアイドルがたくさん登場とうじょうしているように、この時代じだいにも、名将軍めいしょうぐんがたくさん登場とうじょうしたんですね。

 

守護大名しゅごだいみょうつ力が大きくなり、それぞれがそれぞれの土地とちおさめていくようになることで、城下町じょうかまちさかえていきます。
城下町とは、おしろを中心に形成けいせいされた都市としのことです。
まなキキちゃんねるの、「まなキキ街道かいどうたびonline」でも少し登場とうじょうしていますね。

イラスト:武田信玄
武田信玄

この、城下町じょうかまちが作られていく過程かていで、「道」も整備せいびされ、きずかれていきます。

たとえば、現在げんざい山梨県やまなしけんのあたりの地域ちいき甲府こうふおさめた武田信玄たけだしんげんは、氾濫はんらんこしがちだった川に堤防ていぼうきずきます。「信玄堤しんげんつづみ」とばれるものですが、その後も堤防がよりしっかりしたものになるように、ケヤキなどの大木たいぼくえたとされます。
現在げんざいは、信玄堤公園しんげんつづみこうえんになっているそうです。)

 

それぞれの守護大名しゅごだいみょうたちは、それぞれがおさめる地域ちいきみちなどの環境整備かんきょうせいびすすめるため、「関所せきしょ」をいて、通行料つうこうりょうようともしました。
つまり、通行料を使って道の整備せいびしようとしたのです。

ところが、こうした関所せきしょ存在そんざいは、自由じゆうな人の制限せいげんすることにもなります。そこに目を付けたのが織田信長おだのぶながでした。
織田信長おだのぶながは、領国内りょうこくないだれでも商工業しょうこうぎょうおこせるようにした「楽市楽座らくいちちらくざ」を実施じっししたほか、関所せきしょ撤廃てっぱいしていきます。人が自由に行き来することで、人の交流こうりゅうも生まれ、それと共に物のやりとり、つまり商売しょうばい活発化かっぱつかしていったのです。

イラスト:織田信長
織田信長

さらに、街道かいどう拡張かくちょうさせたり、脇道わきみちを作ったり、河川かせんはしを作ったり…と人の行き来をより活発かっぱつにするような政策せいさくにも積極的せっきょくてきにかかわりました。商人しょうにんたちがなつあつい日にも木陰こかげやすむことができるように、と道沿みちぞいにやなぎの木をえるなどの配慮はいりょもされていたそうです。
(柳の木が街路樹がいろじゅとしてえられた道は「柳街道やなぎかいどう」ともばれたそうですが、現在げんざいは「岩倉街道いわくらかいどう」としてられています)

 

 

一緒いっしょ発展はってんしていったもの

飛脚ひきゃく

飛脚ひきゃくという言葉ことばいたことがあるでしょうか?

鎌倉時代かまくらじだいから江戸時代えどじだいまで、文書ぶんしょ金銭きんせん小貨物しょうかもつなどをおくとどけることを仕事しごととした人たちのことです。

今でいう、宅配業たくはいぎょう郵便屋ゆうびんやさんのような存在そんざいですね。
この、手紙てがみにはじまり、ちょっとしたものを送り届けてくれるこの職業しょくぎょうが生まれたのは、鎌倉時代かまくらじだいからだったのだそう。

源頼朝みなもとのよりともが、天皇てんのうとは少し距離きょりはなれた関東かんとう鎌倉かまくら幕府ばくふひらき、京都きょうと六波羅探題ろくはらたんだいいたことを、この記事きじ最初さいしょのほうでもれましたが、京都きょうと鎌倉かまくらとで情報じょうほうのやりとりをすることが、最初さいしょ目的もくてきの一つにあったようです。
なので、この郵便配達的ゆうびんはいたつてき仕事しごと従事じゅうじした人たちは、最初、六波羅飛脚ろくはらひきゃくなどと呼ばれます。

ところで、飛脚ひきゃく方々かたがた、ずっとマラソンをして情報じょうほうとどけていた、というわけではないようです。
うまって、そして、馬に頑張がんばってもらってはやく走ってもらって、目的地もくてきちまで行っていたのです。

ただし、馬も全力疾走ぜんりょくしっそうしているとつかれてしまいます。
そこで要所要所ようしょしょうしょに「えき」がかれました。

えき」というと、現代げんだいに生きる私たちは、「電車でんしゃるための場所ばしょ」とかんがえますが、もともとの「えき」は、まさに、この飛脚ひきゃくばれるような人たちをサポートするための場所ばしょだったのです。

「リレー式に人や物を伝送する中継所であった」と漢字辞典(学研・漢字源)にも書かれています。
乗り継ぎ馬を「駅」といい、中継所(宿場)へと意味を変えていったのです。

もともと、「えき」という字は、「うま」と「えき」という漢字かんじみ合わさって生まれた漢字です。
えき」という漢字は「数珠じゅずつなぎにつながる」というイメージを持っており、ある地点ちてんからある地点、そしてまた次の地点へと、宿場しゅくばごとにいでいく馬、また、そのようにつらなっている宿継やどつぎのことをすのです。

何かものをとどけたり、つたえたりするためには、まず、「みち」がととのえられていることが重要じゅうようです。
でも、「道」ができただけでは十分じゅうぶんではないのです。
その「道」を使う人が、休息きゅうそくをとって、またたびつづけることができるような、中継地ちゅうけいちもまた大事だいじ役割やくわりたしていたのですね。

 

M先生
M先生

次の街道かいどう記事きじは、ついに「江戸時代えどじだい」に舞台ぶたいうつします。
「道」をめぐって広がるドラマ…とくに、駅制えきせいはなしもまたひろがっていきそうです。
U子さんにバトンタッチして、今回の記事きじはここまでとします。
読んでくださってありがとうございました!

 

参考

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