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- 講読会について
- 第一講| 第2章 質的研究-なぜ、いかに行うか/第3章 質的研究と量的研究 2023年5月16日
- 第二講| 第6章 理論的立場/第7章 認識論的背景:テクストの構築と理解 2023年5月23日
- 第三講| 第8章 質的研究のプロセス/第9章 研究設問 2023年5月30日
- 第四講| 第10章 フィールドへのアクセス/第11章 サンプリング戦略 2023年6月6日
- 第五講| 第13章 半構造化インタビュー/第14章 データとしてのナラティブ 2023年6月13日
- 第六講| 第15章 フォーカス・グループ/第17章 観察とエスノグラフィー 2023年6月20日
- 第七講| 第22章 データの記録と文書化/第23章 コード化とカテゴリー化 2023年6月27日
- 第八講| 第24章 会話、ディスコース、ジャンル分析/第25章 ナラティブ分析・解釈学的分析 2023年7月4日
- 第九講|第28章 質的研究の評価基準/第29章 質的研究の質-基準を超えて 2023年7月11日
- 第十講| 第30章 質的研究を書く/第4章 質的研究の倫理

ようやく“終わり”を告げつつある、COVID-19 Crisis。急速にその「かたち」を取り戻そうとするようで、確実に、しかし“見えにくく”変わっていく現代社会…。Chat GPTに「聞く前」に、むしろ「問うため」にこそ、私たちに必要な〈技法〉がある。
アフター・コロナを急ぐがゆえに、静かに深く広がる「学びの危機」に対峙するための、〈社会そのものを読み解く技法〉について考えます。
※ 大学研究会の主催ですが、お申込み者は、自由に一回からご参加いただけます。お気軽にご参加ください。
(どなたでもご参加いただけます!)
講読会フライヤーPDFはこちら
講読会について
講読書籍
『新版 質的研究入門 <人間の科学>のための方法論』
ウヴェ・フリック著 小田 博志 監訳 春秋社(2011年)
講読期間
2023年5月16日(火)~2023年7月18日(火) 全10回
開催時間
18:00-19:30ごろ(入退室自由)
参加方法
ご参加方法には、①一般参加会員、②継続参加会員、③傍聴参加の三種類があります。
- ①一般参加会員
その都度ごと参加の申し込みを行って参加いただくものです。
当日の講読に必要な資料を事前にお送りさせていただきます。
ご参加予定の講読会の一週間前までにこちらのGoogle Formよりお申し込みください。 - ②継続参加会員
継続的に講読会にご参加いただくということで登録される会員です。
講読会に必要な資料を事前にお送りさせていただきます。
※ 参加登録は一度のみで完了いたします。
※ また、継続参加会員が毎回必ず参加が必要というわけではありませんので、ご都合に合わせてお気軽にご参加ください。
お申込みはこちらのGoogle Formよりどうぞ! - ③傍聴参加
特に講読用の資料を希望せず、ZOOMでの傍聴のみを希望される参加のスタイルです。
一回のみのご参加でもお気軽にお申込みいただけます。
ご登録いただいた方宛てに、開催前にZOOMのURLをお送りいたします。
お申し込みはこちらのGoogle Formよりどうぞ!
第一講| 第2章 質的研究-なぜ、いかに行うか/第3章 質的研究と量的研究 2023年5月16日
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当日リポート
ようやく?!始まったまなキキ・オンライン講読会。現在は2023年5月。
今月8日には、新型コロナウイルス感染症も5類感染症に移行しました。
それ自体の是非はともかく、新型コロナウイルス感染症が、私たちの社会のカタチを確かに変えたことは確かです。そのひとつひとつを、ただ受け身的に流して「共感」していくのではなく、正面から向き合い、一歩踏みとどまって、考えていく――社会を読み解くための技法として、今回の文献に挑戦していきましょう、ということになりました。さて、その第一回目。
今回の内容は、特に「なぜ、質的研究なのか」という、意義と可能性に関する議論で構成されていたように思います。実は質的調査は、「これって科学なの?」と、「全然客観的ではない」と批判されてきたような方法論であったかもしれないものでした。
ですが、実は「科学的」で「万能」であるかのように思われてきた量的アプローチもまた、厳密に実施されないことには、まったく意味や価値のないものです。
今日、義務教育下でも、データ・サイエンス的な観点から統計的な内容を取り扱うことがありますが、そもそもそのデータがどのように集められたのか――サンプリングされたのか、といった前提が省略されてしまうことが多々あるそうです。でも、やっぱり、「適切なサンプリングができていない調査の価値はゼロ」なのです。盲目的に「万能」ととらえ、絵空事になっている可能性に気づけていないとしたら、それはとても危うい事態です。
量的調査・量的研究が有効に機能する領域は確かにある。でも、この調査法を有効に活用するためには、厳密なサンプリングやそれに伴うコストを無視することはできない――質的調査・質的研究の意義の問い直しは、いわば、量的調査の不可能性や限界を見直すことをきっかけに始まったといえるかもしれません。
では、質的調査・質的研究は、社会の現実に対して、どうしたら科学として有効で、妥当なアプローチをとることができるのか――、こうした問題意識の下で、実践や検討が蓄積され、質的調査・研究は進展してきました。そこに見出される質的研究・調査の「論理」を学び、議論していくことは、この講読会の目標の一つとも位置付けられそうです。
今日話題のデータ・サイエンスやAIの議論は、量的研究・調査と質的研究・調査の間にある緊張関係やそれぞれの限界を無視してパワーを持って突破してしまおうとするアプローチともいえるのかもしれません。恐らく、このアプローチが有効な局面もあるのでしょう。
ですが、フリックの議論に従えば、量的研究・調査では解明できないものが、質的研究・調査にはある――つまり、データ・サイエンスやAIでは説明できない社会の理屈や現実がある、と言えるはず。
質的研究・調査もまた、万能では決してない、ということ。でもその限界やゆがみを自覚的に捉え、なんとか妥当に克服しようとする/してきた方法論であるからこそ、学ぶことが多くあるはずです。
例えば、質的研究・調査のサンプリングが、サイエンスとして有効なcherry pickingとなるよう、どのようなコントロールが実践されているのか、質的研究・調査における「論理」とはどのようなものなのか、などなど、次回以降も楽しく読み進め、議論していきたいと思います。
参加者の皆さんからのコメント
今回の講演では、量的調査と質的調査において、一つの対象を研究する時に個々の研究方法をもつ弱点や盲点を補い合うために異なった方法論的なアプローチを組み合わせて用いるという、質的研究と量的研究を補完的なものとして捉えることを学んだ。質的研究と量的研究は、「データ」「方法」「結果」のそれぞれのプロセス・段階において、双方を組み合わせ、双方の補完的な関係を達成でき、それは扱いたい研究設問の性質に基づいて、特定の方法を使用するといった、適切性を吟味した上でどちらの方法をどのように組み合わせるのか決めるべきであると学んだ。
質的研究と量的研究の関係性において、「組み合わせる」という方法が出ていたが、データ・方法・結果のそれぞれの組み合わせにおいて、どうして質的研究または量的研究を、採用したのかという根拠の示し方が、また難しい点だと考えました。質的研究と量的研究のどちらを取り入れるのか、という論点において、どれくらいの情報量であれば、一般的に質的研究を採用すべき、量的研究を採用すべきという基準点が存在しないのか疑問を持ちました。
今回の講演において、第3章で紹介されたように、「質的データと量的データとを組み合わせる」「質的方法と量的方法を組み合わせる」「質的研究と量的研究の結果を結合する」という、質的方法と量的方法を補完的なものとして捉える方法が紹介されていた。これにおいても、論文を書く際には、なぜ結果において質的研究と量的研究を組み合わせたのか、なぜ方法において質的研究と量的研究を組み合わせたのかという、自分が正しいと思う根拠の提示の仕方が難しい点だと思いました。
質的研究と量的研究が相補的なものであると考えると(そうでなくても研究というものはそういうものなのかもしれないが)、先に方法を質的研究に絞るというのは望ましくない、質的研究のそもそもの目的に沿わないことなのだと感じた。 「一つの事例でしかないけど、それで結論づけていいのか」という質問にあるような、そこに事実があるにも関わらず、量的な実証データがないと研究として示せる感じがしないのは、これまで多くのことが量的研究によって示されてきたことによる偏見でしかないのだろうと思いつつ、量的研究の成果が膨大にある(と思われている)なかで当面の間は仕方ないのだろうとも思った。 質的研究の恣意性(?)・調査者の偏見が入ることに対する批判(H松さんのお話された例など)に対して、例え量的研究であっても、いわゆる科学的と言われる研究であっても、量的、数値的にまとめるために用いる枠組みや基準、対象が恣意的に選択されたり偏見に基づいて選択されたりする可能性は十分にあり、同じ批判はできるようにも思われた。
大変楽しく拝聴いたしました。こちらはあまりにも不勉強で、的外れな質問をしていまうのではないか、と思いつつ・・。 質的研究を支持していて、今後適切なやり方で実施していきたい、こと前提で、以下の質問です。 10日間の活動に参加した1人の対象者の様子を観察し、またその方の手記(日記や感想文のようなもの)を分析した研究で、「この人はこういう変化・成長を遂げたようだ」「その要因として、活動のこの特徴が挙げられる。」という報告がありました。変化を遂げた要因として挙げられたものの中で、「険しい道のりを長く歩き切る」などはわりと納得できたりするのですが、「そこにある木が自分(対象者)を見ている、自分は意識していない(感想文などに出てきたわけではない)が、無意識的に感じている、ということが対象者の成長を促した」という内容に、「うーん・・」となりました。 不勉強で、この研究が質的研究に分類されるのか自体、分かりませんが、こういうものも認められるのでしょうか?
購読会の雰囲気ってこんなかんじなんだなと新鮮な気持ちで参加させていただきました。私も小中高の総合的な探求の時間で、クラスメイトを対象にアンケートをとり調査をした経験があります。この時、質問する項目が自分の望む結論を導くためのものではないか不安になったり、集計したデータをみてそのデータをどのように調査に反映すれば有効なのか疑問に思ったりしました。今もデータを扱うことに少し苦手意識のようなものがあります。今回、質的研究の存在を知って、アプローチの仕方は量的データだけではないことがわかりました。購読会を通して、どこでどんなアプローチができるのか、質的研究と量的研究の使いわけについて考え、自分で研究をデザインできるようになりたいです。
「質的研究」、「量的研究」という言葉をこれまでに聞いたことがなく、この講義で初めて耳にし、考えるきっかけになった。よりそのままの形の結果を重要視する質的研究と、客観性を大切にした量的研究を組み合わせた実証を図っていくことが大切なのだということを知った。AIなどが普及する世の中で、これからは自分の手で集めた結果と、技術がもたらしたデータをうまく対応させる力が必要だと思った。

質的と量的のどちらのアプローチを採用すればよいのか、その判断が難しいという議論がありましたが、実はスモールサンプルだから質的、マスサンプルだから量的とは言い難いのですよね。サンプルの量だけで決まるものなのではない。スモールサンプルだからこそ、積極的に質で語られるべきことがあるのです。
例えば、広島の原爆で亡くなった人の数を示すことは量的なアプローチですが、そのアプローチからは、伝えられないことがあるのです。石段に残された人影が示すさまじさは、質的でしか表すことができないもので、かつ非常な説得力を持つものです。フリックは、積極的に質をとる必要がある局面がある可能性を指摘していたともいえるかもしれません。
実際、量的のほうがエビデンスとして強いと思ってしまいがちですが、有効性が限られているところもあります。マイノリティー研究や歴史研究にも量的手法は使えられないところがあるわけです。
結局、量が多ければ多いほどいえるということばかりではなく、数が多くても言うことができないものがあるのです。結局、調査者が何を語ろうとしているのか、リサーチクエスチョンや研究目的によって変わりますし、質的な方法だからこそ、できるサイエンスがある、といえるのではないでしょうか。
そして、質的研究にも、技法があります。それに則っているか、否かで、それが研究といえるものなのか、語りにすぎないものなのか、が分かれてきます。
AIやデータサイエンスについても、この講読会の裏テーマ的なところがありますので、ぜひ論じていきたいと思います。客観的にみせようとして、主観的に陥ってしまっている例は、一部の量的調査やプーチンの主張などとも通じるところがあるかもしれませんね…。
第二講| 第6章 理論的立場/第7章 認識論的背景:テクストの構築と理解 2023年5月23日
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当日リポート
今回の講読会冒頭、G7のサミット会場で行われたゼレンスキーの講演動画を視聴しました。広島記念資料館の展示品ーー石段に残された影のエピソードが盛り込まれた、戦争を影にしよう、戦争を過去のものにしよう、という強い思いが訴えられた講演でした。
ある種、ゼレンスキーの「主観」が語られているわけですが、説得力がある……そんな時事的な話題とともに、第二回目の講読会が開催されました。
非常のボリューミーで、いろいろな専門用語が出てきていて、質的調査でのさまざまなアプローチとして、(1)象徴的相互行為論、(2)エスノメソドロジー、(3)構造主義がまずは紹介されていました。それぞれ、異なった理論的前提や対象の理解の仕方に基づいて展開されてきたアプローチではありますが、共通していた特徴もありました。
特に、認識論的原則--研究される現象や出来事をその内側から理解することを目指すという共通点は、「主観」をどう取り扱うべきか、という議論につながっていったように思います。
議論そのものは、「象徴的相互行為論とは?」という問いから始まりました。象徴的相互行為論の「象徴的」という言葉につい、惑わされてしまいますが、英語では「symbolic interactionism」と呼称され、「意味論」くらいに捉えるとわかりやすくなるかもしれないとも言及されてもいました。
人間における社会的相互行為を考える際に、行為者はひとつひとつの物事に意味を持ち、それに応じて行動するということ、そしてその物事の意味は行為者と他者との間の社会的相互行為から生まれていく…そのような立場から、社会を捉えようとしたもの、と説明されていました。(要確認)
その本人がどのように思ったり、考えたりするのか……というのはつまり「主観」ですが、この「主観」と正面から向き合い、どのように取り扱うかが、ポスト構造主義の過程でも議論されていったといえるのかもしれません。
量的調査において、まるで「客観」が成立しているかのように見えますが、実は、結果の解釈は、調査者の「主観」でもあるわけです。また、調査票の選択肢をどう選択するか、も回答者の「主観」にゆだねられています。
あらゆるものが主観的で、テクストとして示されるものは、すべて社会的に構築されたものである。むしろ、「客観的現実」があると信じていることのほうがクレイジーで、常に「主観」が入り込んでいる可能性を考慮して、社会的現実を捉える努力をしていかなくてはならないのではないか――テクストは、現実を表象したものとは捉えることができない「表象の危機」――…。そうした問題意識に立つことで、すべてが「主観的」であることを織り込んで社会的現実を理解しようとするプロセスが「ミメーシス(いわば世界を意味づけて捉えようとする)」を通じたプロセスとしても理解されようとしてきたのかもしれません。
結局、主観的であることを避けようがない中で、この「主観」をどのようにコントロールして、みんなにとっても妥当な「主観」を社会的現実として提示することができるのか、その技法を質的研究が生み出してきたといえるのかもしれません。
主観をコントロールした先に相互理解や相互解釈の余地を残すのではないか――そうした方法論について、今後も学んでいきたいと思います。
90分という限られた時間の中で非常に盛りだくさんで密な議論で、あっという間の時間となりました。(私のまとめもおぼつかず…涙)
また来週も頑張っていきたいですね!
参加者の皆さんからのコメント
今回の講読会は、わからない単語が多すぎて、内容の理解が困難でした。しかし、そこで唯一授業中に自分で質問してみて、少し理解できた、「象徴的相互行為論」についてまとめたいと思います。質的研究には、三つの視覚がある。一つ目は、個々人の主観的な意味づけを探る象徴的相互行為論の立場。二つ目は、日常のありふれた行為をその産物に関心を向けるというエスノメソドロジー的立場。三つ目は、心理的社会的な無意識の過程に目を向ける構造主義ないし精神分析的立場。の以上三点であった。一点目の、「象徴的相互行為論」とは、社会的相互行為から生じる自分にとっての意味をあらわるものである。この「主観的な意味」が、象徴的相互行為論の立場に立って実証研究を行うときに焦点が当てられる。キーポイントとなるのは、「主観的」「意味」であると理解した。
実証研究を行う際にカギとなるのは「主観」であり、出来事や経験に対する意味付けの方向で研究が行われる。また、科学的⾔明と規範的⾔明を区別する実証主義と、認識、知覚、知識は構築物であるとし、科学的事実は社会的構築物であるとする構築主義がある。事実は既に解釈を経たものであり、純粋な事実というものは存在しない。
自分は質的研究を実践したことがないので、わかりませんが、今回の講読会で質的研究には三つの基本的前提(視点)があると学んだ。三つの視点とは、一つ目に、象徴的相互行為論の立場に立って実証実験を行うとき、二つ目に、日常的な行為やその遂行、さらにそうした行為が遂行されるローカルな文脈の構想に関心を向けるエスのメソドロジー立場、三つ目に、心理社会的な無意識の過程に焦点を当てる構造主義の立場、の以上の三つであった。そこで、質的研究において、これら三つの視覚を組み合わせて研究を実施できるのか疑問に思ったのと、これら三つの視覚から同じ調査を実践した場合に、結果に影響は出るのか疑問に感じました。
社会は人々の主観によって構築されたもので、実証研究を行う際に、客観的な調査や調査結果であるということは不可能なのだということが分かった。客観的な調査結果を求めるのではなく、調査が主観的なものだと理解したうえで、多くの人が認めうる主観の相互理解を目指すことが必要だと感じた。
すべてのものは主観で見ていて、「客観的に見る」ということが基本なく、客観に限りなく近い主観として物事えお見るものだという視点を初めて知り興味深いと思いました。 難しい単語が多くあまり理解できていない部分もあったと思うので、個人的にも調べようと思います。
質的研究は量的研究では妥当なアプローチにはならない可能性がある。それを踏まえて、マイノリティーの話など一つの事象でも十分語れるテーマの場合、質的研究の方が量的研究よりもサイエンスである。加えて、質的研究の方が主観的でもあるが、客観性を見出すことも可能である。そのための質的研究には、主観的な状況を再構築する象徴的相互行為論や、メンバーが現実に作り出す方法を分析する社会的・主観的現実モデルなど三つの支える意見があり、その三つの意見は、共通点を持つ。つまり質的研究の方が根拠を提示するのに適する場合がある。
本題ではありませんが、最初のゼレンスキー大統領のスピーチのお話が印象的でした。授業内で同じ動画を見た際に、同時通訳の方が全くスピードに追いついていなくてほとんど何を言っているのか分かりませんでした。しかし今日のお話の中で、それはゼレンスキー大統領が直前で話す内容を変更しているということが原因として考えられると聞き、彼がその問題をよりリアルに聞き手に訴えたいのだと感じました。
量的研究では表せず、質的研究でしか表せないものがあるということを学んだ。例えば、核兵器が挙げられて、量的研究でどれだけの人間が死亡したか調べるよりも、ゼレンスキー大統領の演説内の影の話、すなわち、質的研究をする方が核兵器の残虐さがよく伝わる、という話があった。今回の講義を受ける前までは、数値やデータで表すことが最も大事なことだと思っていた。しかし、実際今日の話を聞くと、残虐な行為は、人の感情を聞き、共感をするという意味では質的研究のような他人の話が一番効果的なのかもしれない。
抽象的な部分は難しくて理解しきれていないが、今まで思っていたことが覆され、面白かった。
レジュメや説明がとても分かりやすく、勉強になりました。質的研究の歴史や質的研究に関する最近の議論の所は個人的に混乱しがちなポイントだったので、今回の講読会を通して頭の中の整理が出来て良かったです。 質問なのですが、感想フォームはいつが提出期限ですか。今回は感想フォームに入力をするのが遅くなって大変申し訳ございません。ありがとうございました。
初回に参加できませんでしたが、Mせんせいの復習とコメント・質問紹介で議論に参加したような気持ちになり、2回目に入りやすいです。ありがとうございます!
以前は質的研究の個別性が気になり、アプローチ自体に懐疑的だったのですが、多少勉強しているうちに、そもそも研究の「客観性」とは何か(そもそもあるのか)、と考えるようになりました。第1講と重なる部分がありました。 象徴的相互行為論が興味深かったです。
研究している人(=対象)の視点に立つ、というところです。もちろんルールや手順があって、研究すると思いますが、それが本当にその人の視点に立てているのか、ということは分からないと思います。本人が何を考えてある行動につながったか、ということを必ずしも外側から理解できるのか?と疑問に思うのです。重要なのは「本人が本当はどう思っているか」ではなく、「行為からどういう意味をもって行動したかと考え得るか」ということでしょうか。
7章の最後とも関わるかもしれませんが、だんだんわからなくなってきました。
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ゼレンスキー大統領の講演で使われていた「人影の石」の話は、「主観」であり、質的なものではありますが、”みんなが同意できるような主観”で、だからこそ、客観にきわめて近いものともいえるようなことであったのかもしれません。
実際に、絶対的な事実として科学は論じてこなかった、ということもこれまでの講読会でも議論してきましたね。例えば、天動説は数千年にわたって、ある種「事実」であり「客観」だった。でも、ガリレオガリレイやコペルニクスなどの「主観」を通じた問題提起を経て、発表されたり、報告されるといったコミュニケーションを経て、みんなが「確かにそうだ」と説得されて、「みんなが同意する主観」≒客観が確立してきたといえるのかもしれません。科学では反証可能性と呼びますが、反論がありうることを織り込んで、その反論に答え続けることを通じて、主観と客観を築いていくことが大事になるのですね。
だから、最初から客観的事実があると思い込んでしまわないようにすること。自分が独りよがりになってしまっていないか、思い込みになっていないか、ということを、特に社会科学はより注意して(変数も多いし、実験もできないからこそ)主観をコントロールしていく必要があるのでしょうね。
また、フリックが紹介していた質的調査の3つの異なるアプローチで、同じ対象に調査をしたとき差は出る可能性はあるのか、という点については、もしかしたら差は出るかもしれないです。どこにフォーカスをおくのか、ということももちろんあるかもしれませんが、力点による差なのか、そもそも差があるのはおかしいとして議論になるのか、それとも、調査者によってみえる社会的事実は異なっているという議論になるのかもわかりません。
いずれにしても、「事実」とか「客観」とか「正当性」、「正解」として社会的現実を語ろうとするのではなく、「妥当性を探っていく」--確かにそうといえるかもしれないと、みんなも納得できるようなそうした試みとそのためのコントールの技法が大事になってくるのだろうと思います。
また、「主観」についての話をたくさんしてきましたが、主観にもいろいろな意味があるのですよね。例えば”対象者の「主観」”もあるし、”調査者の「主観」”もある。調査者が知りたいのは、”対象者の「主観」”です。それをしりたいと思う調査者にも「主観」があるので、それをどうコントロールするのか、ということが大事になります。また、対象者の「主観」を探るためのさまざまな考え方や立場のようなものも説明されてきた、とも理解できるかもしれません。このあたりが、まさに「ミメーシス」の例を通じて説明されてきたところ、ともいえるのかもしれませんね。
第三講| 第8章 質的研究のプロセス/第9章 研究設問 2023年5月30日
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当日リポート
今回も、本当にたくさんいただいたご質問を振り返っていくことで、論点を整理していきながら(柴田先生にまとめていただいているからこそですが)、今日の内容に入っていくことができました。たくさんのご質問をありがとうございます!(🥰)
今日の内容は、量的研究に対して、質的研究がもつ強みや特性を改めて確認することができるような内容になっていたかもしれません。8章は、「プロセス」とタイトルにあるとおり、まさに議論する内容や分析するための枠組みの「切り出し方」に関連する点が論じられていました。
もちろん、テーマを設定していったりする過程は、量的研究も質的研究もさまざまな試行錯誤があるわけですが、量的研究は、どうしても理論がそもそも前提としてあって、その検証という流れで進むことのほうが多い。でも、質的研究では、インタビューなどを経て研究を進めたりしていく中で、新たな観点に注目してみる必要性に気づかされたり、修正するなどして、紆余曲折しながら研究していくことが、そもそもの大前提になっている方法論といえるのかもしれません。ある種、研究に誠実な態度、といえる、ともコメントがありました。
質的研究として挙げられていた、Grounted Theory Aproach(GTA)の”Grounted”とは、そもそもどういう意味なのか――という確認も今回の講読会の中でされていました。
「根差した」というニュアンス…つまり「地に足をつけて」理論化していくようなアプローチとして理解できるのかもしれない、と議論されていました。
調査で得られたデータはその後分析されていくわけですが、この分析する際に使う「枠組み」、いわばtheoryの採用の仕方は、だいたい2パターンある、とも紹介されていました。
一つ目は、外来の概念を使う、ということ。例えば、フーコーの生権力の概念を使って現場を分析する、とかそういうやり方がありえるわけです。ただ、理論や概念の正しさを説明することができるような現場を選んでしまったり、理論ありきになってしまうことも起こしてしまいかねないことも言及されていました。
二つ目のやり方が、GTAのようなやり方です。現場に入ってみることで、「こういう理屈や概念で説明できそう」というふうに考える。現場に入って考えて、また現場に入って改めて考えて修正して…というプロセスを通じて、分析枠組みを築いていく、というようなやり方、といえるでしょうか。
この現場に入って立ち上げては、修正し、また現場に入って立ち上げていくようなtheory…のことを、「バージョン」としても説明されていました。それぞれのバージョンを理解したり解釈していく中では、もちろん外来の理論(フーコーとかオリバーの議論などなど)を使うことはもちろんある、とも確認されていました。
さらに9章では研究設問、リサーチクエスチョンともいえるようなものについても概説されていました。リサーチクエスチョンは、なぜか常に「問い」の形をしているべきと捉えられがちですが、むしろこの《問いの形》から離れ、「あいまいなもの」「漠然としたテーマ」(これが「感受概念」とされていたもの)として掲げ、いろいろな条件と照らし合わせながら(研究対象との近接性や方法論の選択などなど)大事な関心や問題意識を失う(=摩擦損失)ことがないよう、意識してコントロールしながら、「刈り込んで」いく必要があるものとも確認されました。いわば、刈り込み(shaping)をしていくその過程も、調査のプロセスに含まれている、といえるのかもしれません。
ここで、リサーチクエスチョンや研究設問とはいわずに、「battle fieldの設定」と捉えたほうがいいのかも、というアドバイスもありました。
量的研究では、どうしても数値をとろうと試みるので、無前提に刈り込みが行われてしまうものです。例えば選択肢をリッカート方式で5つ設けたとき、「2.3」や「4.9」などの隙間のデータはとりようがなく、零れ落ちていくわけですが、これをmanageすることは量的研究ではほとんどできないわけです。
逃げ道としてopen answerなど自由記述欄を設けたり、「その他」の選択肢を持つなどの方法もあるのかもしれませんが、それはどちらかというと質的なアプローチです。つまり、質的研究は、摩擦損失をmanageする強みも持つ方法論ともいえるのかもしれません。
こうして量的研究に対しての質的研究を議論して、どこがポイントになるのかをみてきましたが、次回はサンプリングに関するところです。こちらも量的研究と質的研究とで全く捉え方が異なっている、という指摘もありました。ぜひ、楽しみに勉強していきたいと思います。
参加者の皆さんからのコメント
とてもわかりやすかったです。レジュメにも、自分なりの解釈や理解できなかった点なども記載されていたため、噛み砕いて表現してくださったところがとても良かったです。ありがとうございました。
今回はエスノメソドロジーや構造主義的モデルなど、自分の理解があやふやだった所の説明を聞けて勉強になりました。レジュメの構成も分かりやすかったです。ありがとうございました。
質的研究と量的研究の違いについて理解することが出来た。質的研究が典型的と思われる、代表者を研究対象にするのに対して、量的研究は研究テーマとの関係に基づいた人を対象とするという対象者の違いも分かった。すべての研究がリサーチ、アナルシス、コンクルージョンと段階を踏んでいるように見えるが、実際はそんなことがないということを知った。
私はこの購読会に初めて参加したため完全に理解できたということではありませんが、質的研究と量的研究がどのように違うのか理解することができました。量的研究は直線的なプロセスを辿って研究するが、質的研究はそうではないということ、グラウンデッドセオリーアプローチは循環的で全体を常に配慮しながら団愛的に取り組むということがわかりました。今回の購読会を通してますます次回の内容に興味を持ちました。来週も参加したいと思います。
質的研究では代表性よりも、研究テーマとの関連性を重視して調査対象が選ばれるというのが印象的でした。研究設問の設定と、研究設問のためのインタビュー方法や具体的な内容を決めることは質的研究では特に重要だと感じました。世界のバージョンとしての研究プロセスにおける理論についての話が難しかったです。
量的研究が直線的なプロセスを辿って行われ、質的研究は全体的な研究プロセスが依存しあっており、はっきり分けることができないGTAアプローチを採用していること。また、量的研究の直線的プロセスにおいて重視されるのが、データと調査結果の代表性であり、質的研究のGTAアプローチでは、代表性よりも研究テーマとの関連性を重視して調査結果が選ばれると勉強した。しかし、これらは著者が「量的研究は直線的プロセスを辿って行われるべきで、質的研究はそうではない。量的研究では代表性を重視すべきで、質的研究は関連性を重視すべき」と提言しているのか、それとも「これまでに行われてきた量的研究や質的研究を見てみると、こういった特徴が見られるよね」とまとめて言っているのかが疑問に思いました。
個人的には研究設問の理解が難しかったです。研究のやり方について考えることはあっても、設問自体を問題に取り上げて考えたことがなかったからだと思います。
用語、内容ともに難しく十分に理解できたとは言えませんが、研究の中でどうやってファクトを見つけ出すのか、主観をコントロールすることが大切になってくるということを学びました。また、量的研究は直線的だと言われているが本当なのかについて、確かに一概に規定して良いものなのか疑問に感じたので、今後考えていきたいです。
私の学科は卒業論文でフォールドワークが必須となっています。そのため、グラウンデッド・セオリーの部分で紹介されていた「どうしても選択を行う際に、自分が主観的に期待するものや、持っている傾向を追ってしまうが、これは行ってはならない。」という部分が特に印象に残りました。自分が求める綺麗な結果を導きたくなってしまうけれど、主観的な傾向を追うと認識が歪むとのことだったので、実際にフィールドに行って研究する際にはその都度視点が偏っていないか振り返る必要があると実感しました。
1,2回目の講読会には予定があり参加できなかったのですが復習をしっかりして下さったので、幾分か理解できました。質的研究と量的研究についてはセミナーで読み進めている「ヘンな論文」という著書に出てきてちょうど議論したところだったので内容が理解しやすかったです。K原さんは難しい内容の著書を要約する中ですべてを理解している訳ではないと思いますが、その中でも自分の意見をしっかりもたれていてすごいなと思いました。
グラウンデッド・セオリー・アプローチではデータや調査現場から理論的仮定を発見することや、調査対象を選ぶときは代表性より研究テーマとの関連性を重視することが分かりました。様々な側面が存在する調査現場では、どのように・誰に尋ねると自分がほしいデータを得られるのか考え、研究対象を限定することが重要であることも学べて良かったです。 個人的には、現場を観察して「ここの部分に注目しよう」と考えることが「感受概念」なのかなと考えていたのですが、いまいち自信がない(多分間違っている)ので、もう一度説明していただけると嬉しいです。
第四講| 第10章 フィールドへのアクセス/第11章 サンプリング戦略 2023年6月6日
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当日リポート
今回は、Mせんせいが不在だった講読会でした。代わりに食パンぱん子が「先週のまとめ」に挑戦します!
大学院生Mさんの発表を受けて、さっそく「テキストp.130にある、調査者が調査者という本当の役割を明かさずにフィールドに入ることは問題ではないか?」という質問がありました。また、これはテキストのp.135で触れられているような研究の倫理的な問題とも関係するのではないかと議論がありました。
例えばボランティア団体やNPO団体の調査を行うとき、私たちは純粋に「調査者」として現場に参入し、現場でノートと鉛筆と録音機を持って佇むことは可能なのでしょうか。
明らかに「よそ者」が現場に入ってきたと判断され、本音が聞き出せないかもしれません。一方で、何かボランティアの手伝いをしたり、NPO団体の活動に参加したりして現場に参入することもできます。むしろ、その方が対象者と「自然」なやり取りができるかもしれません。
しかし、このように調査者が現場に参加してしまうと、調査者によってその団体の実態が多かれ少なかれ影響を受けてしまいます。さらに、調査者の立場が外部的な「調査者」ではなくその団体の構成員に近くなればなるほど、批判的な視点や問題点など、その団体の不利益になるような指摘を研究として発表できなくなってしまう可能性もあります(going nativeの問題)。
ここで考えるポイントがあります。
1つは、その質的研究において純粋に「調査者」というアクターが現場で受け入れられるのかどうか、そして2つ目は「調査者」というアクターが現場に影響を与えずにいられるかどうかです。
どちらもその影響を0にすることはほぼ不可能かもしれませんが、大事なことは、これらをきちんと調査者の意識下に置き、コントロールすることです。得られるべきデータが得られるか、その調査が意味を持っているかどうかを考えることが重要なのです。手法の善悪の問題ではありません。
その点で、これは調査倫理の問題とは別物であると考えられます。
研究倫理は、例えばその調査対象や団体が何を許可しているのかについて、問題となるのです。言い換えれば、研究対象との合意形成の問題です。
サンプリングについては、「理論的飽和点」が話題になりました。
サンプリングは、計画的に事前にすべて決めてしまった方が分析的に見えるかもしれません。しかし、調査者が内部と関わり、その対象に対する理解や親密の程度が変化するにつれて、そのサンプリングの代表性も変化してしまいます。そこで重要になってくるのが「理論的飽和点」です。
例えば、この調査はどの団体の誰に聞けば調査できるのかが分かり、さらに対象から、調査を行なっている自分が「これは本当だ」と思えるような情報や状況を十分に調査できた状態のことです。
対象の団体にいる全員から話を聞く必要は全くなく、重要で必要な人物に辿り着き、「うそ」や「建前」で構成された調査ではなく、有益な調査を行うことが大切なのです。
その程度や見極め、つまり「理論的飽和」が分かるようになって初めて、質的調査が始まると言っても過言ではないのかもしれません。
この「理論的飽和点」は、1回や2回のインタビューや調査ではとても見極められないことがほとんどです。3年や5年をかけてフィールドに関わり、やっと身につけられるかもしれない感覚と言われていました。
その感覚が備わると、例えばインタビューの時に、「あ、この人は今建前を言っているな」とか、「あ、今この人はとても重要なことを述べたな」というように、ある種の「うそ / ほんと」が理解できるようになります。こうなって初めて、科学的に、また有益に、質的研究の分析が行えるのかもしれません。
「調査者」という立場にしても、サンプリングにしても、方法論的な善悪を考えるだけではなく、その調査の意味や目的、影響を丁寧に考えて、研究や調査を自らコントロールすることが非常に重要なのでしょう。来週は、それを乗り越えるための技法でもある、半構造化やナラティブの手法を学ぶことができるようです。
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第五講| 第13章 半構造化インタビュー/第14章 データとしてのナラティブ 2023年6月13日
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第六講| 第15章 フォーカス・グループ/第17章 観察とエスノグラフィー 2023年6月20日
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第七講| 第22章 データの記録と文書化/第23章 コード化とカテゴリー化 2023年6月27日
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第八講| 第24章 会話、ディスコース、ジャンル分析/第25章 ナラティブ分析・解釈学的分析 2023年7月4日
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第九講|第28章 質的研究の評価基準/第29章 質的研究の質-基準を超えて 2023年7月11日
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第十講| 第30章 質的研究を書く/第4章 質的研究の倫理
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