まなキキオンライン講読会_第10弾『生政治の誕生』

オンライン講読会

さんかくすと文がえます

社会と統治とを混同してはならない。社会は我々の必要によって産出されるが、統治は我々の弱さによって産出される…。

『ミシェル・フーコー講義集成 < 8 > 生政治の誕生』p.381

2021年1月のD.C.を忘れ、艱難辛苦の能登を忘れ、「自由の本質」を学び忘れた私たちが、取り戻すべき文化とはなにか。フーコーの新自由主義分析を参照点に考えます。素人歓迎!



※ 大学研究会の主催ですが、お申込み者は、自由に一回からご参加いただけます。お気軽にご参加ください
(どなたでもご参加いただけます!)

講読会こうどくかいフライヤーPDFはこちら

 

講読会について

講読書籍

ミシェル・フーコー講義集成 < 8 >「生政治の誕生」
 (コレージュ・ド・フランス講義1978-79)
ミシェル・フーコー著  慎改康之訳 筑摩書房(2008年)   

 

講読期間

2024年11月5日(火)~2025年1月28日(火) 全12回

開催時間

18:00-19:30ごろ(入退室自由)

開催場所

オンライン(ZOOM)開催

S先生
S先生

ウニベルシタスでも参加を検討していたのですが、少し今回はウニブでの開催が物理的に難しいということになりました。本当に恐縮ですが、今回は完全オンラインでの開催とさせていただきます。

ご了承いただけますよう何卒宜しくお願い致します。

参加方法

ご参加方法には、①一般参加会員、②継続参加会員、③傍聴参加の三種類があります。
※お申し込み時、アドレスの誤入力にご注意ください!

 

  • ①一般参加会員
    その都度ごと参加の申し込みを行って参加いただくものです。
    当日の講読に必要な資料を事前にお送りさせていただきます。
    ご参加予定の講読会の一週間前までにこちらのGoogle Formよりお申し込みください。
  • ②継続参加会員
    継続的に講読会にご参加いただくということで登録される会員です。
    講読会に必要な資料を事前にお送りさせていただきます。
    ※ 参加登録は一度のみで完了いたします。
    ※ また、継続参加会員が毎回必ず参加が必要というわけではありませんので、ご都合に合わせてお気軽にご参加ください。

    お申込みはこちらのGoogle Formよりどうぞ!
  • ③傍聴参加
    特に講読用の資料を希望せず、ZOOMでの傍聴のみを希望される参加のスタイルです。
    一回のみのご参加でもお気軽にお申込みいただけます。
    ご登録いただいた方宛てに、開催前にZOOMのURLをお送りいたします。
    お申し込みはこちらのGoogle Formよりどうぞ!


 

第一講| 「統治の理性と実践」 他(1979年1月10日)  2024年11月5日

当日資料はこちら

当日リポート

久しぶりに始まったまなキキ・オンライン講読会。とうとう10回目となりました。(ゆるフーとしては5回目になります!)
…が、学祭シーズンと重なり、周知が本当に後手後手になってしまい、バタバタと始まった回となり失礼いたしました。それもこれも、アメリカ大統領選の結果がわかる前にぜひ始めてみたいという思いからでした。さて、その後、世界の中で民主主義の守護者を標榜してきたアメリカはどのような結論をくだすのでしょうか…。

冒頭では、大統領選の様子を告げる米国の報道番組を視聴するところから始まりました。開票時に不正が行われているのではないかというトランプ陣営からの指摘が紹介されていましたが‥‥。実はこの動画は2021年の大統領選を報じるものでした。(そして、連邦議会議事堂襲撃が起こったのでした)
2024年の大統領選もまた、funnyな様相を示しています…。
民主主義があってないようにも思えてしまうこうした状況は、社会の「危機」ともいえるものでしょう。この危機に国家理性はどう対応するのか――まさに『生政治の誕生』でフーコーが議論した内容を私たちの分析軸として、ぜひ考えていこうということが、講読会の狙いとして、まずは共有されたのかなと思います。

フーコーが今年議論していこうとしているテーマは、自由主義についてです。
「自由主義」と聞くと、いわゆる私たちが生まれながらに有している基本的人権や自由など自然権を尊重するような政治的態度と捉えてしまいがちですが、まったくそうとは言い難いことが、フーコーの議論では説明されています。
確かに自由主義は「自然」を重視するのですが、自由主義における「自然」とは、何も外部から力を加えなくてもうまく回るような状態、不自然さがなくちょうどいい塩梅で諸々が機能していくようなありのままのありようを「自然」とみなし、この「自然」がうまく保たれるようにすることを目指すもののようなのです。

わかりやすい例は「市場」です。売り手と買い手が集まって、お互いが買いたい値段と売りたい値段がうまく決まったらそれでハッピーなのです。自由主義はこの需要と供給が当事者間で(内部で)うまく調整されるような「自由」を尊びます。

自由主義にとって大事なのは、ひとりひとりの生ではないかもしれないのです。中世の王様にとっては財産の一部である民衆は大事にすることもありえます(逆に財産の一部でしかないので、あっけなく殺してしまうこともある)。
ですが国家にとっては国家という機構、システムそのものがうまく回っていることが、一番大事なことになる、というなかなか衝撃的な事実についても確認することができました。

国家理性が登場してきた背景には、一国が覇権を握って土地や民衆の財産を取得しようとするよりも、国家間で市場を開き商売をすることのほうが国家にとって合理的と判断しえたからです。
人間の自由ではなく、国家をうまく機能させること――
人がよりよく生きられているか、自由や平等といった理念に適合しているかどうかではなく、国家のよき運営に成功しているか失敗しているか――が、自由主義における課題となったということ…。

ここからどのように、議論が展開していくのか楽しみですね。
どうぞひきつづきよろしくお願いいたします。

 

 

参加者の皆さんからのコメント

他国を征服し、領土を広げることを目的とする国家から、商売をして儲けることや、そのためにいいお客さんを見つけることに価値を見出す国家へと転換したが、この転換には、国家理性の出現が大きく関わっていると分かった。国家理性とは、首相や大統領といった個人の問題ではなく、国家が何かを目指して動いている、一つの社会の結果だと学んだ。

くまさん先生の解説で難しかった内容の少しだけ手がかりが掴めたような感じがしました。質問なのですが、フーコーのいうところの「近代国家は他国を侵略しなくてもよい」というのは、例えば今のロシアの状態でいうと国家理性が中世の頃のようになっているのか、プーチンが「王様」のようになっているのか、はたまたロシアの場合民主主義国家ではないから関係がない話なのかが気になりました。多分、焦点は「近代国家」よりも「侵略より経済を重視する」資本主義的なお話だったのであまり関係がないかもしれません。理解が浅く申し訳ないです、、。とても興味深いお話でした。

Zoomの不具合で4限の時間から利用することができなかったため、今回は参加したかったが、資料を読むだけとなってしまった。『生政治の誕生』について学んだ。今年のテーマは、「統治術」と呼びうるようなものについての歴史の辿り直しとして、「政治的主権の行使」という非常に狭い意味について考えていくことを知った。とても難しそうなテーマだと思った。政治的主権の行使における統治実践の合理化についての研究は、最善のやり方で統治するために、統治実践の領域・様々な対象・一般的規則・相対的目標が打ち立てられたやり方を明らかにしていると学んだ。

今回の講読会を通じて、「統治」という概念が単なる権力行使ではなく、国家運営における戦略的な調整と合理化の積み重ねであると解釈した。特に、国家が経済や人口を管理しながら、国際競争力を維持するために合理性を追求する過程が印象的だった。また、「統治の成功」が道徳ではなく効果に基づいて評価される点が現代の政策にも通じ、国家運営には柔軟で冷静な視点が重要だと感じた。

何かと自由を切望しがちな世の中であり自分もそうだが、「自由」というものについてもう一度問い直す機会になった。自由を望み求めるとき、わたしは「政府」が一番に頭に出てくるがなぜそのように自分が考えるのかというところに自分のことながら関心を持った。皆が神に自由を望み尊ぶだけなら今の国家ができていない、それは建前であるという部分に共感するとともに、そこに自由を求めたり、それを信じ続けたいときもあるような気がしてそこに面白さを感じた。

全体を通して、今までニュースを見たりしていて全く疑問に思わなかったことが不思議なくらい、今の政治にはおかしな部分があると感じてしまった。そして、「自由である」ということに対しての疑問が深まった。政治とても入りづらいイメージがあるが、自分の身近にある問題と考えて、問題意識を持つということが重要だと学んだ。

最近授業で、「帝国主義」「植民地化」などの言葉はよく耳にしていたが、「統治」という、あまり意味の違わなそうな言葉から世界を見てみると、少し感じることが違ってくると思った。民族自決により植民地化がなくなったとされる世の中だが、統治の関係は現在も続いているのではないかと感じた。植民地化と異なり、主権国家であることを認めて、その上で上の立場に立っているようなそんな感じがする。授業でも取り上げられていたが、「自由主義」という言葉も決して「完全な自由」というわけではないだろう。

国家にとって最も重要なのは国家であることをアメリカ人が私たちが思っている以上に認識していたとすると、現在開票が進んでいる選挙結果がトランプが優勢なのは、アメリカ国民がトランプの人柄や性格を選んでいるのではなく、自分たちに利益があるような「自由」の選択をしている可能性が理解できる。しかし、彼らの選択肢は限られており、各党の候補者を選ぶことはできないという制約の中での建前としての自由なのではないか。講義の中で触れられた能登半島の状況下においても、あの時点でないと選挙に参加できないという同じような自由の制約が見られると思う。

 

S先生
S先生

「自由」と聞くと、なんとなくひとりひとりを大事にしている発想と思ってしまいがちですが、マスとしての、集団としての維持が国家においては重要なのですよね、、それは間接的にひとりひとりをみているものにもなり得ますが…。
ひとりひとりの人が幸せに暮らすことができるように、導入された制度、システムであったはずの国家は、国家そのものの維持が目的となってしまっていて、結果的に「ひとりひとりが国家維持のために尽くせ」という論調になってしまっているのですよね。
そういう意味では、プーチンも同じです。ウクライナはあくまでプーチンにとっては「自国内」なのです。国境外とはtradeしても、国境内では無制限に統治が働くわけで、ある種ロシアの純粋な形の国家理性を体現するものとしてのウクライナ戦争があると考えることができるのかもしれません。
今回の「統治」という概念は、ポストコロニアルや植民地主義などといった概念よりも深い層の概念といえそうです。「自由を守るための統治」という言葉が矛盾に満ちているようにも感じられますが、それをどう論じていくのか。楽しみですね。

第二講| 「自由主義とはなにか」 他(1979年1月17日) 2024年11月12日

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当日リポート

 改めて今週もまた、米国大統領選の報道動画を観るところからスタートです。
なんだかんだで「歴史的」な、広く支持された大統領ということが結果からは示されているようですが、なぜ、トランプ氏が選ばれることになったのか――
 トランプ氏が「経済や自由の守護者」と評されるところに答えがあるのかもしれない、と講読会の中では議論されていました。
 報道ステーションという番組の中で、大越キャスターと車販売店オーナーの方へのインタビューのエピソードも紹介されました。
「(Q.民主党、特にハリス氏が信じられないのは)民主党を信じないというよりは価値観が違うんです。私は、週60時間以上、働いてきた。税金をたくさん払い、請求書も滞りなく支払い、住宅購入のために貯金もしました。なのに、ハリスは1軒目の住宅購入者に約380万円を支給するという。その財源が自分の払った税金だと思うと、はらわたが煮えくり返ります」(【報ステ】「小さな差が積み重なった」トランプ氏“政権奪還”の背景は…上院も制す

 ハリスもトランプも「自由」を代弁してきていました。でもその「自由」とは?
トランプがいう「アメリカン・ファースト」とはまさに、アメリカというstateのことであって、決して支持者がファーストとして扱われるわけではありません。
 ハリスもまた、アメリカの未来、ダイバーシティを守ると謳いましたが、そうした民主主義を具現する国家たるために協力せよ、と主張していたとも捉えられるのです。

 今回のフーコーの議論の中では、「市場」が”自然”に基づけばおのずと適正な価格――真理を現出させるのだと、真理の形成の場やメカニズムとして説明されていましたが、国家理性の統治は《公権力への有用性》の原理に基づいて介入が測定されていたことも指摘されていました。
 そして、市場における「交換」も、公権力における「有用性」も、《利害関心》がキーワードになっている、とフーコーはまとめているようでした。

 この《利害関心》とは何か。利益を得ることだけではなく、「ちゃんと儲けたり、ちゃんと損したりする」ことの関心として、講読会の中では説明されていたように思います。
 将来儲けるためには、儲け続けていることは不自然なのです。損をするから、また儲ける機会が巡ってくる。そうしたtradeが自然なものになるように、介入とは思わせないように介入することに巧みな技術が要された、といった説明もありました。
 いわば、調整された損得のことを、「自由」とみなしているともいえるでしょう。ここにおいては、理念的な意味における自由はもはや建前でしかなくなっているという点についても確認されていたように思います。

「自由」を維持するための統治とはどのようなものなのでしょう。
最後に利害関心が多様な主体にもたれるほどに、統治も市場も機能するといった議論もありました。多様な主体が市場に参入すればするほど、市場は活発化し、「自由」は守られていく”はず”なのです。
 誰もが、儲けたり損をしたりすることができる「フェア」な市場に参加しつづけて、多様な主体が適正に市場に参加しつづけていれば、リスクは回避され、生存しつづけていくことができる……といった発想を保証し、その土台となっている考え方が自由主義なのかもしれないのですが、実際のところどうなのか……。
「自由」を維持するための統治、とは何か。ひきつづき議論されていくようです。ぜひ楽しみに読んでいきたいと思います。 

 

参加者の皆さんからのコメント

普段様々な場面で使われる自由という言葉が、そもそもどういったものなのか改めて考える機会となりました。講義で焦点を当てている自由主義というテーマは難しく複雑な概念ですが、こうして市場や統治の在り方を考えることは、私たち自身が生きる社会をより豊かで公正なものに築くために、問い続けるべき重要な事であると感じました。全体を通して国家と市場経済の関係性の変化とそれに伴う統治の正当性や政策の在り方について深く考えさせられました。次回の講義でも更にフーコーの議論をもとに自由の本質について理解を深めていきたいと思います。

今回の講読会では前回学習したことから一歩踏み込んで「市場」についてさらに学習したが、前回では理解し切れずにモヤモヤしていたところを、今回の講義内容で少しスッキリさせることができた。その一方で、今回の講義でもまた新しい考え方が導入されていたため、それに対する理解がまだ追いついておらず、正確なコメントをすることは難しい。しかし、レジュメにおいてH松さんが「確認したいこと」や「話題提供」の中でおっしゃっていた疑問は私も同感であり、大統領や首相が変わると市場に多大な影響が及ぶことや、一人一人の利害関心に目を向けていると言いつつ、自国の冨を優先しているのではないか、という問いは、今後もフーコーの主張を読み解く上で、頭の片隅に置いておきたいと思う。

H松さんの講義内容と、それについての参加者同士の議論の中で、「なぜ多様性が求められているのか」ということについて、今まで考えたことの無かった別の視点から考えさせられた。参加者の一人であるしばたさんが、利害関心=多様性の源であり、ここでの統治術において最も重要なのは、マーケットの参加者が多様であればあるほど市場・マーケットは機能するということだ。「なぜ近代はこんなに多様性を重視するのか」という問いは、この話に由来があるかもしれない、と述べていた。この意見は、私の中でとても印象に残った。利害関心が多様性の原点であるとし、近年多様性が重視されている理由をそこに見出そうとする視点に驚かされた。近代の国際情勢を表現しているようで興味深いと感じた。近年、多様性が謳われる一方、実態が伴っていない上辺だけの多様性も少なからず存在している。多様性の受け入れに関して、まだまだ不十分な点が多いと思う。私たちは、キーワードを叫び続けるだけでなく、自分たちの意識と社会制度、すなわち、内面と外面の両方に着目し、改善すべき点を考えていく必要がある。私たちの意識の部分に関して、そもそも現代において多様性が必要とされているわけを、曖昧ではなくはっきりと理解しておくことは大切だと思う。それを知っているだけで、今までの自分の行動を見直してみたり、何かできることを行動に移したりする人が増えるのではないかと思う。理由は様々だが、その理解のために、今回のような利害関心・マーケットの点から多様性について考えることも大切だと感じた。

くま先生の「利害関心は多様性の源」だという視点、それはマーケットの参加者が多様になるほどマーケットに動きが出るという解説が興味深かった。その一方で統治が強化になるとのことだが、自由を維持するために個が何らかを犠牲にするというというか、何か一部分の不自由を差し出すのは健全な市場を保つために必要なことなのであると思う。また、統治が強化されるのは、市場にいる人々が多様であるならそこにさまざまな差があるのは当たり前で、統治のない条件下であったならばあまりにも不公平で、トレードによる不利益ではなく初めからある立場上の不利益、つまり社会的に作られた不利益も考えられることから、この市場と統治の話は福祉のトピックにもよく繋がっているのではないかと感じた。

 

S先生
S先生

市場における多様性が重要といった議論について、敏感に反応された方が多かったですが、この理解は常識的に捉えることができる議論のはずです。
例えば、あまりに消費者が一律的だと市場に出回る商品にはバリエーションがなくなってしまうのです。お金持ちの人もいれば、貧乏な人もいるから、売り出される商品にはさまざまな価格のついたさまざまな種類のものが出そろうことになるのです。ただ、それは裏を返せば、市場がうまく機能するためには経済的格差は不可欠である、ということでもあります。
とはいえ、度が過ぎた格差は、人が死んでしまうことにもなりかねないので、ある程度の介入が必要であるということ。市場を守るためにコントロールするものが国家であり、そのための技法が自由主義というように捉えることができるかもしれません。

 

第三講| 「自由主義的統治術」 他(1979年1月24日) 2024年11月19日

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当日リポート

 急に寒くなってきましたが、さすがゆるフー、講読会はより面白くなってきました。
 本日の講読会は、2本の動画を視聴するところから始まりました。一本目は兵庫県知事として選出された斎藤元彦氏の当選確実が出た瞬間の報道の様子。まるで感動的な、民意が叶ったかのような雰囲気でしたが、そういえば、同じく民意を受けて選出されたはずの議会から、斎藤氏は不信任決議を受けて失職(もしも、自身の主張を通すなら、議会の解散をして新たに民意を問うという選択肢もあったが、斎藤氏は辞任でもなく、失職を選びました)していたんですよね。なかなか失職した前知事が直後の知事選に出馬するということは珍しいことのようですが、今回、開票と同時に当確が出るようなことになっていました。
 二本目は、大統領選のことを取材したNHK・クローズアップ現代の一場面。Z世代の若者からの票を稼ぐために、ハリス陣営もトランプ陣営も、どんなふうな工夫を凝らしていたか、紹介されていました。

 いずれも、スマホで「歴史的」瞬間をとらえて、発信しようとする人びとの様子が映りこんでいました。いずれの選挙も、SNSをいかに活用したかが、勝因の分かれ目のように説明されていましたが、SNSをうまく活用していたか・否かで割り切れるようなものではないよね、とも共有されました。

 誰もが、「苦しい状況に置かれている私たちのために既得権益を再配分する」、「既得権益にカウンターして自由の守護者になる」といった、「自由」の代弁者として、「自由」を体現する者として、各々のストーリーを提示していたのかもしれません。この「自由」っていったい何なのでしょう。

 誰もが、「自由」を代弁する中で、結局のところ、どちらがより「自由」なのか、より「フェア」なのかを問おうとしていたともいえるのかもしれません。
 そして、その「自由」は、生きること・生活すること・日々の暮らしという「自由」をいかに守るのかといった経済的な「自由」こそが、フーコーが議論する「自由」とも接続していくもののように思われると確認されていました。「自由」を拘束するのではなく、「自由」を守る主体として、権力――国家理性が発動し、統治をおこなうのです。国家理性は市場に参入する存在ではないため、市場に参入した個々人よりも一段階上のフェーズから介入/非介入にかかわりうるのです。

 今日の内容は、国家理性が自由主義の下、一国が覇権を握る帝国的な発想から、お互いがよいお客さん・消費者として共存・共栄していくために市場を拡大させ、そうした「自由」な市場が国際的に「自然に」展開されていくことこそが平和構築の礎となるといった理解に至る展開が解説されていたかと思います。(「永遠平和は自然によって保証されるということ。…永遠平和の保証とはつまり、商業の地球規模の拡大なのだ、というわけです。」【P71L26-】)
 ただし、その過程ではリスクのマネジメントが必要になるという議論も指摘されていました。講読会では、マッチングアプリも、市場の議論で理解できるのかしら?という話題で盛り上がったりもしていました。

 マッチングアプリも人口管理などの観点でみれば、経済的な市場の応用事例として捉えられるのかもしれず、そのマッチングアプリの管理者は、いかに参入者が、「自由」に出会い、マッチングを成立させるか”統治”するような構造にあるものとみなせるのかもしれません。
 「民主主義的自由は、自由にとっての脅威として告発される経済介入主義によってのみ保証される」ともあるとおり、巧みに「自然」にみせるような介入があって、この「市場」における「自由」は保障され、国家理性はあらゆる「リスク」をコントロールしなくてはならない、ということでもあるようなのです。

 マッチングアプリも決して、「自由」なのかどうかは分かりません。身元を明らかにするような様々な管理体制が置かれたうえでの「自由」恋愛の市場が保証されたと謳う場ともいえましょう。いろいろな管理体制があっても、その市場の「自由」が守られるためならば――正当性が共有されていれば、そのような介入は”自然”を維持できるのかもしれないのです。

 「自由」というものが、どのように生まれてきたのか。この議論は、正当性というものがどのように生み出されてきたのか、という議論にも通じるとのこと。ドイツの事例を取り上げながら、(そして日本の戦後のことも同時に問いながら)議論できたら、とのことでした。楽しみですね。

 

参加者の皆さんからのコメント

講読会に参加して、「自由」とは何か改めて考える機会になった。アメリカ大統領選挙では自由やフェアの捉え方で主張が変化したように、自由の受け取り方が複雑化していると感じた。また、市場において消費者の多様性はなくてはならないことであり、経済格差が生まれることや統治のための介入がなされることを私たちはどう受け止めて行動するのか考えさせられた。

今回の講義を通じて、自由主義的統治術の進化とそれが持つ矛盾について深く考えるようになった。「生政治」とは、経済の自由化が進む中で、市場の自律性と同時に規律や監視が強化されるという、自由と制約の二重性に注目すべきである。18世紀の自由主義者たちが市場の自由を促進しつつも、それを維持するために国家や制度が管理・規制を強化する必要があるという点は、現代の経済や政治にも強く関連していると考える。現代社会において、グローバル化や自由貿易が進む一方で、企業や国家の規制が厳しくなる現実を見れば、この矛盾がますます顕著になるだろう。自由市場の拡大が必ずしも社会全体の利益につながらず、むしろ格差や不平等を助長するリスクがあることを認識し、その上で持続可能な自由のあり方を考えることが重要であると考える。

自由と言ってもその自由を維持するためには、それを管理することが必要で、矛盾する手段を持ちいらなければいけないというジレンマがあると勉強した。私たちの社会は自由を謳う統治者が多いが、実際にはそれを巧みに隠して、わたしたちに自由であるように見えて自由ではない社会を作り出しているのだと学んだ。

第三講ありがとうございました。兵庫県知事選の終盤の斉藤候補への熱狂と、アメリカ大統領選での両陣営の熱狂を並べてみることで、フーコーのいう自由の生産と消費、民主主義を生き生きとしたプロセスにするために必要な、物語を創造することへのコミットメントが、スマホとネットによって実現されている状況が痛いくらいわかりました。とても面白かったです。 銃撃されるヒーロー、裁判で有罪判決を受けても立ち上がるヒーローが演じる逆転劇は、憲法や社会のルールを一旦無効にして国会議事堂に突入した<自由な>暴徒たちによって支えられました。一方で、全会一致の不信任決議を突きつけられても立ち続けるヒーローが奇跡の逆転を生むドラマは、私が、僕が、「自らの調査と判断の結果」、実は大手メディアの陰謀により騙されている世間を目覚めさせ、実は既得権益にしがみつく県議会、県庁役人、大手メディアによる斉藤改革潰しのためのニセ情報から覚醒したと自覚した<自由な>個人の集まりによって起こされました。 バーチャルというか情報環境ではリアル社会のルールを一旦白紙にすることができます、そこでは政治家でも市役所や県庁の役人でもないわれわれ個人が、政治的自由を生産し、消費することができる。だからこそバーチャルでの正義論は、単にリアルの反転ではなく、あるいは単純な二項対立の逆転に乗ってしまうのではなく、自分自身の倫理観を作っていくためのグラデュアルなプロセスなのだという捉え方が大切になるのではないでしょうか。メタバースとしての現在の社会における自由の意味は、リアル社会の境界や対立や固定観念を軽々と超えながらも、議決の結果が最終結論として固定化されるのではなく、常に状況とともに変容し得る柔軟な創造プロセスを目指すものになるのではないかと思います。そんなことができるのか、フーコーは情報テクノロジーをどのように考えていたのか、さらに関心が高まります。 マッチングアプリの件も興味深いやり取りで楽しかったです。

 

S先生
S先生

「自由」という言葉が、「自然であること」「なすがまま」「本来あるがまま」と捉えられてきたと確認してきましたが、「変な介入」を受けず、<私なりの私>が維持される、<私の意志>のまま成り立つ、みたいに捉えると、だいぶわかりやすくなるかもしれませんね。普遍的な価値としての「自由」と尊重されるきらいはありますが、そもそも「自由」があるところに「不自由」はつきものなのです。誰かが意志を通そうとすれば、当然我慢を強いられる人がいる。そもそも「真なる自由意志」が尊重されたり、「真なる集合的結論」が達成されたことなんてなかったはずなのです。私たちは私たちの自由意志を反映する国家を支持しようと思っているかもしれませんが、国家が私たちに応えてくれる、なんてことは幻想にすぎないのかもしれない――そんなことをフーコーは主張したかったのではないか、と考えたりします。

第四講| 「新自由主義の統治実践」 他(1979年1月31日) 2024年11月26日

当日資料はこちら

当日リポート

 本日の講読会。フーコーが講義した時代に想いを馳せながら内容理解に努めた回であったといえるかもしれません。1979年当時。「国家嫌悪」という言葉が自然に聴衆になじむような時代であったのです。1970年代といえば学生運動が非常に盛り上がった時代。現国家に対する否定感が募り、国家に対してポジティブな印象を持つなんて言語道断!みたいだったかもしれない時代です。
 当時、フーコーの講義を聞きに来る聴衆といえば、いわば「左翼的」学生ばかりであったかもしれない中で、フーコーが講義後半で語る社会主義批判?(批判というか、煽りというか?)は聴衆に媚びないスタイルで「いいよね」、「憧れるよね」という話題から今回の講義も始まりました。(たしかにかっこいい)

 社会主義について触れられた今回の議論は、ドイツを事例とした新自由主義の統治実践に関する内容でした。なぜ、イギリスでもフランスでもなく、ドイツだったのか――。
 戦後のドイツといえば、敗戦国のひとつ。そして、戦後最も経済的に飛躍を遂げた国の一つです。いわば、資本主義の目的を最も果たした国ともいえるような一例であったのです。

 同じように日本も、やはり敗戦国の一つであり、かつ戦後の経済成長が目覚ましかった国のひとつです。フーコーの議論の中では特に日本について触れられていませんでしたが、ドイツと日本に共通していたことは、もしかしたら、社会主義的要素を資本主義にうまく組みこんだ点である、ということが確認されました。
 日本独自の政策として、年金制度や国民皆保険制度などがありますが、考えてみれば社会主義的な発想に基づく制度ともいえるように思います。ドイツも、マルクス主義的思想を標榜していたドイツ社会民主党がその後政権を担います。(跪いて謝罪したことで有名なブラント首相もドイツ社会民主党)
 いうなれば、資本主義と社会主義は対立するものとして捉え難く、同じ次元で並列して捉えるべきものではなく、資本主義に実装されるパーツ程度のものとして社会主義をみなすほうが妥当なのかもしれない、と議論されました。つまり、資本主義と社会主義は「自由主義」を尊ぶという同根を持つもの、という理解です。事実、今日の社会で経済的に成功を収めている国々をみても、社会主義を謳いながら市場を導入する国、資本主義と社会主義をハイブリッドで実装するような国ばかりです。

 当然、理念としては区別して捉えられるべきことであるかもしれないにせよ、体現された実体は限りなく重なり合う部分が多い資本主義と社会主義。(「放課後」の時間、実際に土地の所有が国家であろうと個人であろうと、結局、「賃料」や「税金」などのような形で国にお金を支払っている実態をみれば、ほぼ客観的に同じ構造になっているよね、と確認されてもいました)
 ドイツは、「市場の自由を守る」守護者として国家が求められ、経済が先立つ形で、ドイツという国の戦後復興を遂げたとても分かりやすい例でした。
 自由主義的な経済に支えられ、国が豊かになっていき、そのことで「国家化」は強化され…やがては全体主義的なありようと表裏一体なものになる…という話題にも至りました。

 ここからは、次回の講義内容にもかかわってくるようです。ドイツという国に注目する以上、ナチズムに関する議論は避けられません。次回の内容も楽しみです!

 

参加者の皆さんからのコメント

正直、私は政治や経済に疎いのでなかなか理解することは難しかったけれど、今まで正反対に位置すると学んできた資本主義と社会主義が、実際のところ重なっている部分も多いという話に驚きました。と同時に、今の中国の経済の成長の仕方を見て、納得できるところも多いと感じました。どうしても中学・高校の授業では一つの項目に対して深く取り扱うことが出来ないために、二つの用語が対立構造として紹介されることが多いけれど、こうして深く学んでいくことで、類似点やこれまで学んできたこととは異なる視点が見えてきて、気づくことの多い講義でした。

Zoomのアドレス変更に気づかず、途中からの参加でしたが、大変面白い内容でした。同じ敗戦国であるドイツと日本が、どちらも奇跡と言われる経済復興を実現したこと。その理由の一つがどちらも国家主体を失った国であったこと。日本は天皇制の存続ということで「国体」を保持し続けたかに見えますが、当然のことながら占領下の日本において、主権はGHQにあり、日本国民にも天皇にも主体としての権利はなかった。その意味でドイツと同じように経済活動の主体として、国家化を目指したわけです。日本はさらに防衛力という国家主権も捨てて、経済に知恵を集中することで、国づくりに邁進したということですね。マーシャルプランと計画経済について、日本では戦時中の統制経済をリードした岸信介と優秀な官僚が中心となって、官民総動員で産業の選択と成長計画を作り、集中と選択による産業政策を実現します。国家主権はとりもどさなくても官僚機構はぶん回る。回りすぎてロックフェラービルを買ったことで、主権のあり場所を嫌というほど思い知らされた訳ですが、このまま主体的国家への道を目指さない道を行くのか、あるいは変化し続ける世界のパワーストラクチャーの荒波をサーフするために、国家化を目指すのか。次回の展開が楽しみです。

今回の講義では、新自由主義の統治術と、特にドイツを中心に国家の正当性がいかに変容したかを理解した。新自由主義は市場の自由や競争を重視し、国家の役割を縮小するように見えるが、実際には市場を活用した統治や政策の正当化を通じて、国家が新たな形で機能していることを示している。そして、経済的自由は市民社会と国家をつなぐ役割を果たし、政治的な正当性を生み出す。特にドイツでは、経済成長が国家の正当性と政治的統一を形成する基盤となった。

新自由主義は単なる経済理論ではなく、経済的自由を基盤に国家の正当性を再構築する実践的な統治システムであることを学んだ。また、経済成長が政治的安定や市民の支持を形成するという視点は、現代の政策を考える上でも重要である。さらに、社会主義と自由主義の関係が、思想や理想の対立にとどまらず、統治の実務性や合理性という観点から議論されている点も新たな学びだった。今回の講義を通じて、統治が経済的合理性に大きく依存する問題が明らかになった。

国家の役割が変化する中で、個人が主体性を持つ必要性が増していると感じた。市場や経済が中心的な価値観になると、創造性や多様性が損なわれる危険性があると思われる。また、国家を不断の生成過程として捉えるというフーコーの考えは、グローバル化や技術革新による国家の変化との関連性を考えさせられた。戦後のドイツの新自由主義が経済を国家正当性の基盤とした点が興味深かった。講義を通して、市場の自由が人々の格差や権利侵害を引き起こす可能性の不安を感じるとともに、自由主義と統制のバランスを再考し、持続可能な社会を目指す必要性があると思った。

 

S先生
S先生

資本主義と社会主義が対立して、資本主義が勝利した、みたいに感じている人が多いかもしれませんが、そうではなく、資本主義にも社会主義にも両方に市場主義、自由主義というものは存在しているという議論でしたね。ここで、「市民性」というものを考えたとき、もはや「経済的自由」を意味するものでしかないのかもしれません。
そういう意味でも「持続可能性」という言葉の使い方も、考えさせられるような気がします。一体それは、誰にとっての、何にとっての「持続可能」なのか。もともとSDGsという概念も持続可能な開発という文脈で登場しているもので、経済発展を継続していくための議論とも受け止めることができるのかもしれません。結局この「持続可能性」という言葉は、市場主義の保存という意味あいで捉えるべきなのかもしれず、なかなか意味深ですよね。

第五講| 「ドイツ新自由主義」 他(1979年2月7日)2024年12月3日

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当日リポート

 先週にひきつづき、ドイツの新自由主義についての議論が今日も繰り広げられて行きましたが、その前に視聴した動画は、斎藤知事が公職選挙法違反を疑われていることに関連した報道動画。SNS戦略を業者に委託した可能性がちらほらと伺えるような様子もあり、少し考えさせられてしまいます。
 今となっては、もはや既に昔になってしまった?のかもしれませんが、アメリカ大統領選でも不正選挙を疑わせるようなトラブルが起こったりもしていました。今回の講読対象は、ナチズムについて取り扱っていたわけですが、まさに、アドルフ・ヒトラーもまた、レニ・リーフェンシュタールといった映画監督/芸術家を起用し、SNSならぬ映画などを活用しながら、”合法的に”選挙で選出されてドイツの首相となったのでした。そして、「自由主義の代弁者」として現れた点でも共通しているのかもしれません。どのように合法的に選挙で当選を勝ち取るか、などの戦略をみていても、そこには「統治術」がかかわってきているといえるのかもしれないと議論されました。

 結局のところ、オルド自由主義者たちはいわば、ナチズムをだしにして、国家の正当化を果たす自由主義のあり方を提起していったともいえるのかもしれません。一見、ナチズムは国家主義者とみなされそうなところがありますが、どちらかというと、自由主義者たちはナチスは国家よりも党を重視していた存在であったとみなし、第二次世界大戦後、国家そのものを否定することには至りません。
 逆に、資本主義を擁護する存在として現れたヒトラーは、ドイツの国民がよい市場が得られるようにポーランドをはじめとする国外に軍事進出していったのであって、国家が大規模に介入しながら労働市場を確保していったとみなすことができるのです。まさに国家による市場管理です。
 オルド自由主義者たちは、「国家による市場管理」、国家が介入しすぎることが、全体主義に至った背景であると指摘し、その”転倒”を図るのです。

 「市場のよさ」を無視していたナチズムによる統治の反省から、国家が市場のためになるような統治を目指し、新自由主義が提起され、結果として、ドイツという国家化が進んだとフーコーは議論しているようです。

 ただ、今回のフーコーの講義終盤に登場した市場の本質性にかかわる議論。どうやら、市場の本質性として「交換」と「競争」があるとフーコーは示したいようですが(その、ウェイトの置き方に変化があったということらしいこと、またフーコーの説明はもしかしたら言葉足らずであるかもしれない点も解説されました)、恐らく「交換」と「競争」の性質には大きく異なる点がある。
 フーコーは、「交換」においても「競争」においてもprice「価格」という表現を用いていますが、恐らく、「価格」は「交換」を通じて生まれるものです。「競争」からはvalue「価値」が生まれる(「価値」は競争からしか生まれない)という理解も共有されました。

 市場における自由とは、もはや「競争する自由」です。しかし、常に競争を生み出し、競争で価格を決め続けていくためには多大な介入も必要となってしまうことにもなるのです。それは結局、市場における「自然」とはかけ離れたものになっていくということ。競争には、ルールとジャッジが不可欠であり(スポーツと一緒)、そこに「統治術」が求められるようになっていったということ…。
 このあたりの議論が、次回以降のフーコーの講義に含まれてもくるようです。「競争」への参加をけしかけられて、それを「自由」と諭されても、なんだか癪だなあと感じますし(さらに、その「競争」に乗れないお前は努力が足りんとか叱責されるのとか、腹立たしいですね)、そこから降りるありようはないものかしら?と思いますが、そのあたりのヒントも探りつつ、議論しつつ、読み進めていきたいです。

  

参加者の皆さんからのコメント

今回の講義を通じて、新自由主義と国家の関係性についての理解が深まった。オルド自由主義者たちが、国家と市場の新たな役割を模索する中で、市場の監視下にある国家という概念を打ち出した点が印象に残った。これは、国家が単に市場を管理するのではなく、市場の原理に基づいてその役割を再定義する試みであり、現代にも通じる斬新な視点だと感じられた。また、ナチズムの経験がこの思想形成に影響を与えたことも興味深かった。ナチズムの国家権力の肥大化が、新自由主義における競争を維持する国家という枠組みを形作るきっかけとなったということは、歴史的な反省と未来への示唆を含んでいると思われた。

オルド自由主義の分析から引き出せることとは、市場経済に関して非難されてきた不備や、市場経済に反する根拠として伝統的に持ち出されていた破壊的効果について、実はそれらを市場経済のせいにしてはならず、逆に国家の責任としなければならないということ、国家及び国家に固有の合理性に内在的な不備の責任としなければならないということであると勉強した。しかし、ナチズムを生み出したのは国家というよりも、国家を超越した権力を持ってしまった政党である。

市場は、競争によって価値を決める仕組みだと学び、その市場を支える思想が自由主義であると理解しました。また、SNSも新自由主義の一部として捉えられるという視点が非常に興味深いと感じました。ただし、競争は単なる交換とは異なり、必ずルールとそのルールを判定するジャッジが必要であり、その仕組み自体が統治術の一部であると学びました。この点について考えた時、SNSにおけるルールとジャッジにはどのような例があるとかを想像してみました。例えば、SNSプラットホームで設定される「利用規約」や「コミュニティガイドライン」がルールの役割を果たしており、それを監視・判定する仕組みとしてAiによる投稿の検閲や、ユーザーによる通報システムがあります。これらは一見中立的に見えるものの、運営会社の利益や価値観が反映されており、完全には公平とは言えない可能性があります。このように、SNSにおけるルールとジャッジを通して新自由主義的な統治術などのように作用しているかをさらに掘り下げて考察する必要性を感じました。

今回も素晴らしい学びの会でした。ありがとうございました。 後半でオルド自由主義が市場の自由を交換から競争にずらしたとの記述がありました。この意味を考えてみると、同じ市場の機能でも、交換は等しい価値であること、競争としての市場は異なること、差異が価値であることと考えられます。市場全体が同じであることによるつながりだとすると、その先にはすべての存在を等価、同族であるとしてつながる、全体的、統制的、閉鎖的なイメージが広がります。同じであるとする単位を拡大させて、自給自足の世界を作るのが国家の役目ということでしょうか。一方差異が本質である市場は、格差が価値であり、その格差をバランスさせる市場の競争をできるだけ邪魔しない政策と、競争による自由市場を国家間連携で広げていくことが国家の使命になると考えられます。 同じであることを交換の条件とする市場と違いを認めて違いを価格として取引する市場と、市場の効率、生産性で比べると、同じであることを見出して交換するのはとても効率が悪いので、トップダウンで無理やり決めてしまう全体的権力が優勢になりますが、効率第一で競争の市場を運営すると、弱者と強者のギャップはどんどん拡大して行きます。その結果が経済成長にどう影響するのか。そこにレッセフェール以外の統治術はないのか、気になります。ナチスを産んだ等価交換市場の効率向上の方法、統治の合理性としての保護主義、統制的内政、計画経済、介入主義は、競争をベースとした市場運営においても、ナチズムの再来を招かないためには、やはり禁じ手なのでしょうか。

 

S先生
S先生

考えてみると、ナチズムと新自由主義は親和的なところがあるのでしょうね。ただ、<市場をどれだけ大切にするか>、その仕方で違いがあります。ナチズムも市場を大事にはしていましたが、その市場はあくまで「国家のため」のものだったのです。だからこそ、介入主義で管理がされていたともいえますが、新自由主義は、その介入主義で管理がされているという点を反省点とし、介入すると市場は狂う、という認識のもと、市場が<なすがまま>となるような介入だけをするようになったということですね。国家のための市場から、市場のための国家になったということといえるでしょう。
市場において「交換」と「競争」の両方の概念が成り立つという話をフーコーはしていましたが、「交換」は売り手と買い手が商品を通じてニーズが一致して価格が決まる:等価性がその特徴ですが、「競争」は、売り手同士と買い手同士の競争によって価格が決まることが特徴になります。つまり、差異があることが大事で、格差が安定的に開いていることが「競争」が中心的な市場における重要性になるのです。
SNSが広く社会に受け入れられていることを踏まえても、今の私たちが生きる社会が新自由主義の空気感で満ちていて、それが当然になっているということが伺えます。SNSが利用規約などの形でルールを決めて、発信内容には働きかけず、ルールをコントロールするところが、やがて生権力という発想につながっていきます。

第六講| 「社会政策と調整」 他(1979年2月14日)2024年12月10日

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当日リポート

  今年最後のゆるフーとなりました。冒頭、視聴したのは、アサド政権が崩壊したシリア情勢を報じるBBCの報道動画です。動画の中で多くの人が「自由」という言葉を繰り返します。「平和」や「正義」といった言葉も同じように用いられていましたが、考えてみるとこうした光景は実は、これまでも何度か遭遇してきたものでもあることに気づきます…(トリポリ、バグダード…)。果たしてシリアの状況は私たちが思っているように展開していくのでしょうか。
 今回のアサド政権崩壊は軍事クーデターによって引き起こされたもので、アサド政権そのものは選挙を通じて民主主義的に樹立した政権であったことについても考えさせられます。強権的であったともいわれるアサド政権よりも、自由主義が勝利したということなのかもしれません。考えようによっては、市場を大事にし、ヨーロッパ的なものの「介入」をよしとしないイスラム原理主義は新自由主義と相性がよいのかもしれません…。

 価格を恣意的に決めたりするような直接的な「介入」は、新自由主義において歓迎されません。
そうではなく、市場が自然な状態で成立するように「枠組み」に介入する:その対象は、「技術、科学、法、人口にかかわる所与の総体」であって、社会全体にかかわるような「介入」です。

 新自由主義における「介入」のありようをフーコーは3つの観点から説明しています。その特徴は、プロスポーツと関連付けてもとても理解しやすいものである、と解説もありました。

 まず、一つ目に「独占」です。どのような競争も勝敗が決まれば終わりが訪れます。でも、「競争」が終わってしまっては市場は成り立ちません。競争が再び成り立つように、”積極的に介入”していきます。その介入の仕方が二つ目の「適合的行動」と言えるようなものなのかもしれません。市場がうまく成り立つように条件を整えていくのです。そして、三つ目が「社会政策」。一見、社会政策とは平等化を目指す政策と捉えてしまいがちですが、新自由主義においては社会政策はとにかく「差異化」や「格差」を維持させることを目指すのです。リスクに直面したとき、市場に参入するプレーヤーが減ってしまうことは問題です。従来なら社会が責任をもってリスクに直面した個人を守る、という発想になったかもしれませんが、新自由主義は個人が一人一人己でリスクに向き合うことができるよう、保険制度などを使えるようにすることを社会政策として位置づけます。

 プロスポーツでも、強い・有名な球団は、有望な選手などをチームに招きがちです。そのような意味で強豪チームは生まれますが、それでは面白くない。だから、ドラフトやフリーエージェントなどの「ルール」を用いるのです。そうして「競争」が守られるように一人一人のプレーヤーを育てていくのです。

 スポーツにおける「競争」はエンターテインメントとして成立しますし、楽観的に観ていられるような気もしますが、こうした「市場における競争」の原理は、私たちの生活全体を侵食していきます。「失業者」も「移動中の労働者」なのであって、市場に参入してこそ「市民」なのです。
フーコーの講義の聴衆は以前も触れたとおり、社会主義的な発想を持つ学生たちであったことを考えると、そもそもの前提として私たちが生きる社会が新自由主義を基盤としているのだ、という指摘は聴衆に対して非常に挑戦的なものであったともいえるでしょう。
 なんとなく絶望的な気持ちになりますが、そこから脱していくヒントは、この「市場」に参入できずにいる人たち、取りこぼされた人たちが、それでも生きていく生きざまにあるのではないか、と放課後の時間に語られてもいました。「競争」に一人一人の個人を追い立てていくのではなく、そのようにさせる社会を問い、価値というよりも、ひとつひとつの意味を考えていくようなそうした試みを来年も続けていけたら、と思います。

 それでは、みなさま。よいクリスマスと年末年始をお迎えください。
来年、またお会いできるのを楽しみに…!

 

参加者の皆さんからのコメント

今回もスリリングな内容をありがとうございました。フーコーの講義が行われた少しあとのイギリスはサッチャー、アメリカはレーガン、そして日本は中曽根。特にサッチャー政権の公共事業の民営化、各業界の規制緩和、法人税、所得税の引き下げと消費税(付加価値税)の引き上げなど、民営化、個人化は衝撃でした。国民であるためには、生きていくためのさまざまなサービスを、一人一人がそれらを提供してくれるさまざまなサービス会社と契約することが必要な時代。契約主体となり続けるために、「市場」のメンバーとして自分を経営し続けなければなりません。チコちゃんじゃないけど、「ボーッとしてんじゃ」生きていけないですね。
1980年頃、外資系企業に勤めていましたが、ある時にもらった表彰状に、”The Difference is You” と書かれていました。差異(価値)を作ったのは君だ、ということでしょうか。みんなの代表ではなく、別人、異人であることが価値の時代でした。(その後90年代から「チーム」が合言葉になるのは、Japan as No1への対策だったかもしれません)。
それにしてもフーコーの慧眼に毎回驚かされます。とともに同時代で読んでいれば、もう少しマシな経営、組織づくりができたのではないかと悔やまれますが、そのような気づきを与えてくださる、まなキキ読書会の皆様に感謝いたします。

質問です。1979年2月14日の講義、P181の9行目の「商品効果に従属した社会」という記述の「商品効果」とはどんな効果なのでしょうか。オリジナルの「l’effet-marchandise」の部分をdeeplで翻訳してもらうと、コモディティ効果と訳してくれました。日本語でコモディティ化というと、商品が一般化して誰もが作ることができて、価格が下がって誰もが買うことができる、したがって市場価値は下がるが市場全体の等質化が進む、そんなイメージですが、もしそういった意味でフーコーが「商品効果」という言葉を使っているのだとすると、交換の市場は等価値化、消費の平等化による商品価値の劣化を促し、それに対して新自由主義が唱えた競争の市場は差別化による商品価値の創造を目指したということでしょうか。ちょっとずれるかもしれませんが、市場を民主主義と置き換えてみると、同じ民主主義と言いつつ、その目指すところが全体の平等化、同質化に向かう方向と、個人間の多様性による差別化を個人の価値創造として尊重する方向とは、全く別の社会を生むように思われますが、どうなのでしょうか。

 

S先生
S先生

市場はもはや「交換」の場ではなく、「競争」の場になっていて、その「競争」をいかに維持するかということが大事になっています。能登も「なりわい支援」という形で大量の税金が投入されて中間支援組織が立ち上げられているようですが、その実態は不明です。能登の地域に根付いた食文化としての門前そば(よく収穫できる山芋をつなぎにして作られる、別においしいわけではない?!そば)は、「競争」市場においては恐らくとても弱いものなのです。でももしかしたら、「なりわい支援」という名のもとに、能登の豊かさは「競争市場」に乗りうるものへと実際の豊かさとは乖離したものへと変容させられてしまうのかもしれません。

 しかし、フーコーの議論を改めて歴史を踏まえてみてみると、フーコーの議論がどれほど予言的なのかということにも気づかされますね。学問とはそうあるべきと思わされるばかりですが、考えてみればフーコーはデータサイエンスとかそういったものを全く使わずに議論しているわけです。
 「商品効果」という用語については、フーコーはテクニカルタームとして扱っているわけではないかもしれません。あくまで、物自体の価値(商品価値や市場価値、交換価値と捉えてもよいかも)に意味を見出す市場ではなく、競争のダイナミズムに意味を見出す市場のあり方にシフトしていったという議論をしているのかもしれません。「商品としていいもの」ではなく「売れるもの」、競争に「勝つ」ことが大事とされるようになっていったという指摘が論理的には読み解けるかと思います。

第七講| 「新たなる資本主義」 他(1979年2月21日)2025年1月7日

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 2025年初回の講読会。2024年の元日に起こった能登半島地震からも一年が経ちました。年末年始を能登で過ごしたという柴田先生の話と、今年の元日を能登の方々がどう過ごしたかを報じる動画を紹介していただくところから始まりました。
 柴田先生は、ユネスコにも登録された能登半島における来訪神・アマメハギ(ナマハゲ的な👹)の慣習を見学させていただいたり、各地で開催されていた仮設の集会場での「年越しをすごしましょう会」の様子をお話くださっていましたが、兎に角人がいない、という印象を持たれたとのこと。
 東日本大震災のときも、発災から一年が経過するようになる頃から、人々がふるさとを離れる決断をするにいたり、人が町からいなくなっていく現象が見られたそうですが、能登においてもやはり、この2年目こそ覚悟をしなくてはならないのかもしれない、と話してくださいました。ただ、「人がいない」とはいっても、行政や支援団体が主催するものではなく、地元の人たちが開いた「年越し会」には多くの人が集まっていた、という話も併せて紹介されていました。
 支援団体等が主催する場ではあまり人が集まらない、といった事実からは、被支援者として位置づけられ続けることで感じる居心地の悪さのようなものが伺われます。支援される・助けられるというフェーズにとどまり続けることの辛さ、感謝しつづけることの辛さを私たちはどれくらい意識できているか――現実を生きる人たちの思いと、そこでなされる支援とのズレ、ギャップや乖離がありえるということ(ずっとこの1年間、ズレまくっていた可能性)。この乖離は、能登に限らずあらゆる場所に在り得て、もしかしたら見て見ないふりをしているかもしれないということ。今度の地震はその乖離を可視化するものだったのかもしれない、といった議論から始まりました。

 こうした乖離がいつ生まれて、なぜ生まれたのか、乖離…分断の契機をフーコーはまさに議論しているのではないか、という指摘から今回の議論が進んでいきました。

 今回の内容はドイツが法治国家として自由主義市場を守るように社会的介入(経済介入は行わない!)を行い、新自由主義を実現していったということが整理されていました。法治国家――国家は、経済主体としての「企業」が「自由」に振る舞うことができるようなお膳立て/土俵をルール(法律)を介して規定していくレフェリー(陸連やIOCのような、といった例えも出ていましたが)的な存在として位置づけられるようになった、という議論です。 

 ナチスドイツが市場の中身まで介入するようなかかわり方をしていた(フォルクスワーゲンを作らせるなど)のに対して、法治国家においては、形式、枠組み、形を整える以上の介入はしないわけです。というか、法律を通じて「競争」が市場の場で維持し続けさせることを、新たな資本主義の形として発明されたのでした。社会的介入が必要になる背景には、「競争」市場というものは、放置していたら必ずすぐに「独占」に陥ってしまうという事情があります。市場の中身には関与しないけれども、つねに市場で競争が維持されるように、そのためにその土俵、ルールといった形に介入する――競争市場というゲームをつくる存在としての法治国家として、ドイツの新自由主義が解説されていたのでした。
 生活保護法もまた、市場に再度参入することができるようなものとして、年金制度にまつわる法も、購買市場として人々を維持・確保するものとして捉えられ得るものになるのです。自由市場における競争に参加することが、この社会で生きていくための要件とされるようになった、といえるかもしれません。ただ、そうした競争市場というゲームにプレーヤーとして参加・振る舞うことが求められる生き様は、いわゆる「なりわい」と称されるものになり得るのでしょうか。このあたりから、いわゆる「乖離」というものが生まれる契機となったのかもしれないと、講読会では議論されていたように思います。改めてフーコーの慧眼に驚かされるような回となりました。

 次回以降のフーコーの議論はアメリカを舞台として進められて行きます。もしかしたら意外に感じられるかもしれませんが、社会福祉の観点からフーコーはアメリカを論じていくようです。私たちが無意識ながらに持ってしまう偏見(社会福祉といえばヨーロッパでは?的な)に囚われないフーコー(そして、フーコーは意外に最近の人でもある)の論展開に、また惚れ惚れさせられながら学んでいけるのかなと思います。
 ぜひ、今年も楽しみに読み進めていきましょう。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

参加者の皆さんからのコメント

今回の講義を通して学んだこととして、自由というものは大きな土台があってこそできることだということです。これはルールがもしなければ、自由というものは社会の崩壊を招くものになりますが、講義でも仰っていたのですが、ルールがなければゲームができない、逆に言えばルールがあれば自由にゲームができるということだと思います。そういった点で、自由を守るためのルールというものは大切だと学ぶことが出来ました。

市場の健全性を維持するためには、簡単に法律が変更されることを避ける必要があり、権力者が安易に法律を変えられない仕組みが重要であると思います。そのため、権力者を規制するための権力分立や司法の独立といった政治制度が、市場の健全な運営を支えるルールとなるのではないかと考えました。法律だけでなく、これらの政治的枠組みも持続可能な市場を維持するために不可欠であると感じました。

参加できず残念だったのですが、「法治国家」の限界についてのフーコーの講義を読みながら、兵庫県知事選挙やアメリカ大統領選挙で起きていることを指摘していると思いました。法律で犯罪者となったものが、国民に選ばれたという理由で、巨大な統治権力を握ることができる、あるいは内部通報制度を逆手にとって違法の疑いのある知事が、県民に再選されることで権力を握り直す、また、自分が当選しないことを目的とした立候補者の出現など。立法、司法、行政はそれぞれを監視し合うということが、幻想でしかないこと、あるいは行政の先食いを常に看過するものであることが、とてもわかりやすい現象として起きている感じです。

能登半島地震の被災地の年越しの様子のお話から、「乖離」の問題について考えさせられた。支援団体が主催した年越しのイベントに比べて地元の人々が開いた年越し会の方が多くの人が集まったという点から、支援のあり方を見直す必要性を感じた。この支援する側とされる側の感覚の違いが社会のズレを生じさせるのだと気づいた。また、政治と経済から見る乖離の問題に関心を持った。

 

S先生
S先生

フーコーの講義はよく読んでみると、そこまでたくさんの指摘や論点を挙げているわけではなく、本当にたくさんの資料を以て丁寧に一つのことを伝えていることがわかります。だからこそ分厚い議論になっていて、真似っこしたいことのひとつです。
ルールが大事というよりかは、ルールというものは恣意的に作られている、つまりある意味の不公平性があり得るという意識が大事になってくるのかもしれません。
同様に権力者を規制する権力分立というものは恐らく存在し得ません。その規制をする主体そのものが権力に他ならないからです。もしも、規制される権力がありえるとしたら、本当の権力を持つ主体は、規制する側なのです。だからこそ、権力は規制され得ないという本質的な矛盾があり得るのですね。持続可能な市場というものなど存在し得ない中で、そういうものがありえると無理やり見せようとすること――そこに恣意的なルールの存在を見出せるのではないでしょうか。

第八講| 「社会保障と新自由主義」 他 (1979年3月7日)2025年1月14日

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今日は、間もなく米国大統領、二期目の就任を迎えるドナルド・トランプ氏の発言――一見、ハチャメチャだなあと思ってしまうような――を紹介する報道動画から始まりました。「メキシコ湾をこれからアメリカ湾と呼ぶことにする」、「グリーンランドはアメリカ領にする」、「パナマ湾の管理権をアメリカが 取り戻す」‥‥。

 奇天烈発言とみなされがちですが、反論しようと思うと、意外とトランプ氏の言い分にも理があり、議論の余地を残したギリギリを責めているようです。
 例えば、私たちが普通に呼称する「日本海」は、「東海」や「朝鮮東海」などとも呼ばれ得ます。国際的な呼称となると、当然議論はあり得ますが、「さしあたり、自分たちは”こう”呼ぶこととする」という主張には反論し難い側面があります。
 ファクトチェックが「言論の自由」に対する侵害ではないか、という指摘も、(ファクトチェックは必要かもしれないにせよ)確かに反論し難いものです。そもそもファクトチェックとは誰がすべきなのか?国家がファクトチェックの主体となればそれは、言論統制そのものでしょうし、プラットフォーマーが主体となるならば、それもそれで問題がありそうです。議論の余地が確かにある指摘なのです。

 そんなトランプ氏、中国を敵対視する米国の振る舞いも報道されていますが、それは、自国が自由主義市場においてどれだけ有利になりうるか、そのセッティングに躍起になっているが故という解説もされました。習近平氏にとってもトランプ氏にとっても、ビジネスが最大の関心事であり、自由競争社会の中でどちらが勝つか、だけが彼らにとっての重要事項です。そして、私たちが「自由競争社会」で叶えられるらしき「自由」を望む限り、ますます中国は成長するし、トランプ氏のようなリーダーは生み出され続けるだろう、というところで本題へと入っていきました。

 私たちは、「自由競争社会」を望んでいるのでしょうか。
 私たちは、新自由主義経済の中で、実際に望むとも望まずともかかわりなく、「お金持ち」になることを望んでいることになっていて、そのために競いつづけるように強いられている、というのがフーコーの指摘といえるかもしれません。
 新自由主義経済下において、相対的貧困は許容されても、絶対的貧困は絶対に許されない大問題として捉えられ、それゆえに社会的に「最低限の生活」が保障されねばならない、ということになっています。ですが、フーコーによって、相対的貧困――貧困そのもの・格差そのものを生み出す理由はそのまま温存させたまま、ギリギリ生きていける範囲の保障をすることで、責任が果たされたことにされている、と鋭く指摘されたといえます。ひとりひとりの貧困の問題やその背景に対応していくのではなく、”働くことができない”くらいの貧困に対しては強制的に介入し、自由競争というゲームのプレーヤーとして再参入させ続ける、そのための介入がなされている、という指摘です。

 そうした状況について、フーコーは「さかさまになった社会契約」という表現でも説明しています(p249)。

それは、逆さまになった社会契約のようなものです。実際、社会契約において、それを望み、潜在的あるいは現働的にそれに署名した人々は、自分自身でそこから抜け出すまで、社会に属しています。これに対し、経済ゲームという考えの中にあるのは次のことです。すなわち、もともと経済ゲームに参加したいと望んだ者など誰もいないということ、したがってそうしたゲームに参加したいとはっきり望んだことは決してないにもかかわらずその内部にとらえられている者が誰一人としてそこから排除されないようにするのは、社会の役目であり、国家によって課されたゲームの規則の役目であるということです。

 いわば、私たちが社会に託したはずだったものが、もはや、国家に私たちが課される側へと転倒してしまっている――それは、本当に”自由”なのだろうかということが、フーコーの指摘といえそうです。 

もはや、自由競争から降りることを許さない新自由主義を前に、私たちは自由競争市場を「自由と平等が保障された場」と盲信するのではなく、その場は本質的な矛盾を孕む場であることを意識していくことが求められているのかもしれません。

次回は、教育という観点も含められた議論になるようです。どんな議論になっていくのか。読み進めていきたいと思います。

 

参加者の皆さんからのコメント

 自宅にて当講読会に参加しようとしたが、Wi-Fiの不具合によりzoomへ入室しての受講は叶わなかったため、今回は資料を読む形での参加となってしまった。
 この当日資料を読んで感じたのは、フーコーの視点がいかに現代社会の課題を洞察しているかという点である。特に、新自由主義が福祉政策を市場原理に組み込みつつも、一定の階層を維持する仕組みを明確に見抜いている点に感銘をとても受けた。
 また、国家の役割が縮小される中で、人々が企業のように自己責任を負うべきとされる社会の構図は、現在も議論されるテーマである。この議論が、経済格差や労働環境の問題と密接に関連している点からも、フーコーの分析は依然として重要だと考える。
 彼の視点を現代に適用することで、社会政策と経済構造の問題を新たに理解する契機になるだろう、と私は思案した。

国によって主義や重要な部分に違いがあり、近隣諸国で影響を及ぼし合っていることが印象的だった。

今回も面白くてビビッドな会でした。1979年当時のドイツの状況、政権与党である社会民主党の、社会主義ベースの政府が新自由主義政策を導入したのは、矛盾するように見えながら政府の権力を経済統制として表現することで、政権の力をアピールできたということでしょうか。ややこしいのは、イデオロギーを掲げた政党という集団が国家権力を担うとき、経済政策の狙いとその結果が、自ら主張しているロジックを裏切る結果になったり、実はそれを意図的にやっていたりということがあること。フランスのジスカールデスタン大統領とか、とびきり頭のいいエリート集団が編み出す経済政策についての、テクニカルな疑問や心配は、おそらく全てうまく言いくるめられてしまったんだろうなと思いました。

アメリカのフェイクニュースについて情報の正確性や妥当性を検証するためにファクトチェックをすることは重要だと思うが、思想・表現の自由の観点から見ると必ずしも必要な行為では無いと感じた。今回の内容に関して、経済をゲームだと考えたことがなかったので、ゲームの規則からアメリカ、オルド、フランスの自由主義について改めて考えることが出来た。

負の所得税という概念が大変興味深かった。日本においても生活保護に対する風当たりが強い。しかし、彼らを「社会が適切とみなす消費の一定の域にまで到達することのできない人々」と捉えるのであれば、彼らは決して贅沢をしていないのにもかかわらず裕福である人々のように健康を完全に保証することができない人々であるため、保障がなされるというのは人々を守る義務がある国の行為として妥当であると考えられると思う。負の所得税は絶対的な貧困が唯一の問題であるという立場を取っているため、フーコーのいうゲーム・競争・企業のメカニズムが最下層以外で機能していれば、私としては相対的貧困について回るような議論を一掃できるのではないかと考える。

 

S先生
S先生

フーコーの議論、ドイツ、フランス、アメリカとみてきたかと思いますが、それぞれの国の「違い」はあるようで、実は類似するところが多い、という指摘がされていたのではないかと思います。国家の役割も、縮小するどころか肥大してたということも言及されていたかもしれません。
 ファクトチェックについてもう少し丁寧に説明をすると、ファクトチェックをする主体が組織である以上、そこには党派性(下心やイデオロギー、利益を出そうとする思惑や信仰など)が紛れ込まない保証がどれだけあるのでしょうか。「専門家」が誰かの発言のお墨付きを下すという構造そのものが、言論の自由と矛盾を持ちうるところがありますよね。
 また、負の所得税についてですが、絶対的貧困に介入するということそのものに道義的な問題があるのではありません。何もしなかったら本当に見殺しにすることになるので、やることは重要です。ただ、生活保護という絶対的貧困に介入することで、もっと重要な問題(背景にある社会システムそのもの)を問うことをしないことになりえる、ということが問題になります。
新自由主義の自由競争は、いわば「人が死ぬほどけがをするゲーム」です。どう効率的にけが人にばんそうこうを貼っていくか、みたいな議論をするよりも、本当に問われるべきなのは、人がどんどん死ぬようなゲームをやるべきなのかどうか、ではないでしょうか。フーコーはどちらがいい、悪いといった議論はしていませんが、新自由主義社会のありさまを分析した結果を整理してわかりやすく示してくれているのではないでしょうか。

第九講| 「アメリカ新自由主義」 他(1979年3月14日)2025年1月21日

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当日リポート

 2025年1月20日のトランプの就任式を終えての講読会となりました。まず、トランプ就任直前・直後の様子を報じる動画を視聴していきましたが、トランプは「今週、私は公私のあらゆる側面で人種や性別を社会的に操作しようとする政府の政策も終わらせる。我々は肌の色にとらわれない、実力主義の社会を築く」とも就任演説で言及していました。今後、DEI(Diversity, Equality, Inclusion)の取り組みを縮小していくという方針は、既に多くの企業が追従しているとも報じられていた一方で、そうはいっても、慎重な姿勢がとられることになるのではないか、というコメントも紹介されていたかと思います。ただ、外形的にはトランプの方針に追従し、DEIの理念を心のうちでは守っていく――そういった現状維持のやり口にどれほどの意味があるのでしょうか。DEIの本質とは何で、その本質はどのように(名ばかりではなく)本当の意味で機能しうるのでしょうか。

 トランプの主張は、おそらくDEIを完全否定するものではないかもしれません。DEIが競争社会において、ビジネスにおいて、プラスになっていればいい、という観点で判断しているようにも思われます。来週の内容にも関わってくるかもしれませんが、「福祉」は社会の負担になっているばかりではなく、市場を支える仕組みとしても機能しうることはフーコーも指摘しているところのようです。
 トランプは、DEIがアメリカの分断の要因の一つにあり、だからこそ、DEIの理念を撤廃し、肌の色や性別にとらわれない、実力でみんなが参加していくことができるような社会を目指す、と言っているようです。…が、そもそも、DEIの理念がどのような経緯で提起されてきたかというと、まさに、「肌の色や性別にとらわれない、実力でみんなが参加していくことができるような社会を目指す」過程に依るものだったはずなのです。今、DEIの本質的な意味を問われているともいえるかもしれません。

 今日のフーコーの講義の内容もまた、なかなか衝撃的なものでもありました。
アメリカの新自由主義の特徴として説明された「人的資本理論」とは、生きることすべてが資本になった、ということでもあります。
肌や髪、目の色など生まれながらに持っているその身体も、何に時間をかけて、どのように人と接して、どのような体験を積んできたかといった思い出もすべて、生活全部が、お金に換算されるようなもの――競争され、評価されるようなものとして捉えられるようになったという発想です。

 古典的な経済理論においては、この世界には二種類の人間しかいないと説明されてきました。「資本家」と「労働者」です。資本家は、労働者の労働力や労働時間を買い、労働者は自らの労働力やそのために費やした時間を売った売値を、賃金として生きる――ここで起こりうる資本家による収奪や、労働者の疎外の問題が論じられてきたといえます。が、新自由主義においては、みんなが企業家で、資本家になるのです。みんなが企業家/資本家なので、収奪も疎外も起こりえません(といいたいところですが、実際には「心が枯れる」。それは、国家理性によって収奪され疎外されているからなのだと28日に解説が補足されました)
 自らに備わった先天的・後天的な”スペック”を資本とし、それをいかにうまく運用するか(自己投資して育て鍛えるか、工夫して売り込むか)考え、それで「所得」を得ていくのだという発想です。

 なるべく「所得」は多い方がいい。そして、「所得」は、自分のスペックを高めていくことで、増やしていくことができるもの、と考えられます。もはや教育は、お金を稼ぐための投資です。ここでの「自由」や「平等」は、もしかしたら、資本を最大化して活かすための土台でしかないのかもしれません。「心が枯れる」といったコメントもありましたが、一生懸命に生きようとすることが、市場を活性化させることにしか繋がらないかもしれないという事実は、本当に愕然とさせられるところがありました。「主体的な力」や「総合力」も、まさによりよく自分に投資して自分を活かしていくための力と捉えられ得、「人生すべてを持って勝負しよ」というメッセージが、新自由主義のもたらしたものともいえそうです。このあたりから、「生政治」という議論につながっていくようです。
 フーコーを購読してきて、この新自由主義の土俵上にいる以上、「自由」や「平等」、DEIについての言及が、市場の論理から逃れられないかもしれない可能性を意識できたような気がします。本質的な意味を問うためにこそ、新自由主義下の社会で生きるとき、私たち自身がみずからを相対的に捉えて考えていかねばならないのだろうと感じます。

 

参加者の皆さんからのコメント

このような格差が生まれてしまった社会保障制度が“温存し続けている”のが問題だという言葉が非常に印象的でした。現在の社会制度(生活保護など)は、いっぱい絆創膏を貼るということでその場を凌ぐような制度でしかない。人が死なないようにする、根本的な解説を目指したいがなければならない。

「アメリカ自由主義は、フランスやドイツと異なり、ただ単に統治者たちによってもしくは統治の場において形成され定式化された経済的かつ政治的な一つの選択ではない。」という言葉が一番今回の講義を聞き印象に残った。今回のアメリカの大統領選挙においてトランプ大統領が返り咲き、他国からすると好き勝手に行動しているように見えてしまうが、それはこの性質も影響しているのではないかと感じた。国を分断してしまう性質も兼ね備えていると思うので、慎重に取り扱わなければいけないと感じた。

『でも、結局のところ、人間という生き物は、「もてたい」し、「お金持ちになりたい」し、「ちやほやされたい(必要とされたい)」、そういうものでしかない、と言われたら否定できないような気もする。』というM先生のコメントがありましたが、私はこのご意見に対して、確かに!とも思いましたがそのときに、高校の保健体育かなにかの授業で習った「自己超越」ということばを思い出しました。貢献することを、見返りを求めずにできる段階。そういう人があふれたら、今回お話ししてくださった内容のなかで成り立たくなってくる部分も出て来るのかなと思いました。

質疑応答の際にも送信したとおり、「『売れる/売れない』『将来性がある/ない』といった文脈にでの理解に回収されていってしまう」前後の感想部分にもても胸を打たれた。
 私は野心がある方だと思う。正直に言えば、過去私を蔑ろにした人たちを見返したい、つまるところは「下克上」をしたいのである。高校に入学してからの数年間はその下克上精神からあらゆる物事に熱心取り組んでいだと思う。
 けれど、全てがうまく行くわけではない。努力したって芽が咲かないことだってある。そんな時にSNSを見ると、心が想像しえない勢いで枯れていってしまう。大きな虚に飲み込まれるような、そんな感覚を肌で感じるのだ。私がやりたいことは誰のためにあるのか?そう疑問を抱くこともあった。
 「私たちが自分のためにと行なっていることは、結果的には市場を整えるための土台に過ぎない」、「我々のよりよく生きるために行う工夫というのは、市場をより拡大するためのシステムでしかない」、「私たちが商品そのもの」。こういったレスポンスを受けて、率直にそんなの”茶番”じゃないか、と感じた。勝負でいうと、八百長に当たるのだろう。なんだか切ない気持ちになりつつも、こうした現状に対して諦念を抱くのではなくほどほどに自分のやりたいことを実現できるよう取り組んでいこうと思った。それが仮に巡りに巡って市場に還元されようとも。

今回の授業で人的資本理論について学び、先天的要素と後天的要素について考えさせられた。所得によって教育に投資できる量や質が異なり、それによって能力に差が出てしまうため所得の多い家庭の子供は優秀に育っていき少ない家庭の子供は持っている能力を生かしきれないという結果に陥る可能性が高いという事は仕方ないというしかないのかもしれないが改善すべき課題であるように感じた。また、先天的要素は遺伝的なものであるのでこれについても生まれ育った家庭によって差が出てしまい結果的に先天的要素と後天的要素のどちらも生まれ持ったものになってしまっているような気がした。

「耳だけ参加」でしたので、応答できず申し訳ありませんでした。今回も大変感慨深い内容でした。「人的資本」という言葉で、ASTD(American Society for Training & Development)のことを思いました。1943年に発足した人材育成と組織開発の団体はインダストリアル・プロフェッショナルを育成する団体として、さまざまな企業研修を提供してきました。現在も名称を変えてATD(Association for Talenet Development)として、リーダーシップやチームビルディング、 脳科学やAIと企業活動など、年に一度世界中から人事、研修関係者が1万人くらい集まって、ヒューマンキャピタルに関するセッションを開きます。ATDJapanの関係者であったにもかかわらず、今回のフーコーの講義で、この組織も新自由主義の考え方に端を発していたのかと、改めて気付かされました。
一方で人間存在を丸ごと資本の要素と考えることの是非はありますが、他方で資本効率の低下から脱却するために、戦争、略奪、奴隷化、植民地化などの暴力政策ではなく、デジタルなどの技術革新やカイゼンなど、インベンションをイノベーションにつなぐことで人材と組織の能力を源泉とした資本効率向上をドライブしたことは、人への投資、チームに関する研究の成果であったと思います。DEIの扱われ方も時代とともに変わっていきますね。Mせんせいのペーパーがよくまとめられていて、プロ・シューマーとして企業家の認識など、頭の整理ができました。ありがとうございました。

追記です。1月24日の朝日新聞の11面に、マイケル・サンデルへの取材記事が掲載されていました。見出しが「新自由主義の欠陥、尊厳や承認の欠如、暗黙の侮辱への憤り」となっている一面の記事です。サンデル氏によれば、新自由主義的なグローバル化に民主党政権が十分に対抗しなかったことで、トランプの復権になったとのこと。取り上げられているバイデン政権の具体的な政策への評価を読むと、新自由主義路線からの脱却はかなり大変だと思いました。
サンデル氏は処方箋として、消費者としての市民ではなく、「生産者」としての市民となることを勧めています。しかし前回のフーコーの講義にあるように、個人を消費者としてのみならず、生産者としての企業家の集合体として捉え直したのが新自由主義であったとすると、サンデル氏の提言はすでに1970年代のフーコー、あるいは人的資本に基づく個人の捉え直しとしての新自由主義提唱者の範疇内の提言でしかないのか。ただ記事の最後に、社会の「共通善」という言葉が突然出てくるので、企業家としての個人の集合としての社会が、自由競争社会から別の社会、競争からたとえば協働とか共生の市場のような、市場あるいは社会の捉え直しがサンデル氏の底流にあるのかもしれません。

ケアに関する記事が目にとまりました。人的資本の意味合いの発想の一例かと思います。参考まで(K.F.)
朝日新聞、2025年1月23日(木)朝刊の記事。
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・ヤングケアラー支援:「コスト」でなく「投資」イギリスの研究者:
 大人にかわって家族の介護や世話を過度に担っている子どもが「ヤングケアラー」として認識され、支援が進みつつあります。来日したヤングケアラー研究の世界的な第一人者、英マンチェスター・メトロポリタン大学のソール・ベッカー教授に話を聞きました。
https://www.asahi.com/articles/AST1P7WPBT1PPLZB005M.html

 ――ヤングケアラー支援より、ヤングケアラーを作り出さないための対策が重要という声があります。
発見や支援へ 学校が大事
 ヤングケアラーをゼロにすることはできません。だからこそ、彼らが担うケアの量を減らす努力が大切です。特にとても幼い子どもへの支援が必要で、例えば5歳からケアが始まると、ケアラーとしての役割が子ども時代全体に及んでしまいます。子どもたちが最良の子ども時代を過ごせるようにするべきです。ヤングケアラーを発見し、支援につなげるには、学校が果たす役割が大きいです。
 ――日本社会へのメッセージは。
 支援は「コスト」でなく「投資」ととらえてほしい。子どもはいずれ未来の社会を担います。あなたの町にはたくさんのヤングケアラーがいます。彼らが学び、将来仕事に就いて、税金を納め、健康であることは社会にとっても大事なことです。彼らがケアしている家族を丸ごと支援し、子どもの負担を減らすような視点に基づく政策が必要です。

 

S先生
S先生

(当日リポート内でも赤字で追記しましたが)、マルクス主義が労働者/資本家と分けて整理した見方が、新自由主義下ではみんなが企業家になった、というのはまさにそのとおりなのですが、それでも、収奪や疎外は起こっているというのが正しいですね。収奪や疎外は、階級闘争によって生じているのではなく、国家理性によってもたらされているといえそうです。
私たちは、前提として国家ありきで議論してしまていますが、国家なき社会も可能なのではないでしょうか。国家理性というものを正面から議論していきたい、フーコーをそういう観点からも読んでいきたいなと思います。
 私たちには、生活保護なども唯一の選択肢とつい見なしてしまいますが、競争社会のプレーヤーとして維持し続けるこのシステムがなければ、革命が起こって競争社会は終焉していたかもわかりません。国や社会、他人を意識して生きることは、自分を傷つけ損なうような生き方になりかねません。競争社会の中で比較と評価に晒されて心を枯らすのではなく、そうした競争社会で躍起になって戦うことの愚かさを認知して相対化して捉えること(それは、自己超越ともいえるのかもしれませんし、フーコーはセルフ・コントロールと説明していくように思います)が重要なのかもしれません。
human developmentといった議論も新自由主義に呑み込まれていったものかもしれないし、サンデルの共通善の議論も、フーコーの焼き直しの側面は否めないのかもしれません。フーコー以降の私たちは、フーコーが議論したことをぐるぐるなぞっているだけかもしれませんが、そうであることを意識できるか、どうかでもだいぶ違うはずです。
ヤングケアラーの議論は難しいですが、かつて、数十年前まで家や地域の世話に時間を費やしてきた子どもたちはたくさんいました。いわゆる”ヤングケアラー”たちは、生活改善運動や子どもたちを投資の対象とみなすような社会の動きが広まるにつれて、家や地域を支える現場から姿を消しました。そのことを考えると、なんともいえないような気もしますが‥‥難しい議論ですね。

第十講| 「犯罪と行動管理」 他(1979年3月21日)2025年1月28日

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当日リポート

 大統領就任から数日で、いろいろなことがありました。その推移が丁寧に報じられていたのが不法移民のコロンビアへの強制送還のニュース。
 軍用機に乗せて、不法に米国に入国してきた移民(難民)を本国たるコロンビアへ強制的に送り返す措置を採ったトランプに対して、コロンビア側が拒否(「移民の尊厳が奪われている!」と主張)→関税をつりあげるぞと報復措置→コロンビアが強制送還に同意、という経緯のニュースです。
ある種、「関税」という切り札をちらつかせて、有無を言わさず同意させたクレイジーなやり口、とみなせますが、一方で、米国側に違法性はないし、そもそも難民として母国からいられなくなる(居たいと思えなくなる)ような統治をしたのはコロンビア側です。そして、そもそも「不法」移民なのであって、めちゃくちゃなようでいてトランプのやり口の筋は通っている、と言わざるを得ない。
 恐らく、トランプはdealを成功させるような条件が揃っている(コロンビアが米国経済にめちゃくちゃ依存しているなど)ことを踏んで、こうした「取引」を通したということ、ある種、難民問題解決のパッケージとして、「関税」というカードを使うという先例となっていく可能性(EUなどで追従する動きがある可能性)についても解説されました。
 いずれにしても、「アメリカと取引することは得」という新自由主義における「勝者」としての強みがあるからこそ効力を発揮する最たる例であったともいえそうです。

 また、今回の例から議論できることとして、もう一つ。結局「理念」だけでは解決策は出てこないこと。実際に人を生かしたり殺したりすることができる現実的な力として、新自由主義が存在している側面があり、その事実から目を背けてはならないのではないか、という点も挙げられていました。新自由主義がろくでもないことは、大学で学ぶ人たちの共通認識になりつつありますが、それでも新自由主義において現実的な解決策を提示されていることも、また確かです。必ずしもよい解決策とは言えないかもしれない新自由主義の「手」に対して、「理念」で戦うのではなく、やはりまた具体的な解決策を考え抜いていくことで対峙するしかないのかも、とも議論されながら講読会が始まりました。

 なんだかんだ言っても、どのようなstepを踏んで、今回の不法移民の強制送還が承諾されたのかということが、すべて可視化されている時点で、政治がオープンになり、国民の参加の余地が生まれ、議論をしっかりできるように至っていることは、ちゃんと評価されるべきなのかもしれないとも話されました。民主主義のダイナミズムと競争社会のダイナミズムを一緒くたにするのではなく、しっかりと分けて考えていくこと。どんなふうに実践できるかしら…と思いながら追い始めたフーコーの今日の議論は、新自由主義下においては、「いいか/悪いか」ではなく、「合法か(有用か)/違法か(害となるか)」だけが競争社会における重要事項になったということが指摘されていたようです。
 (1)禁止したり命令するような形で発動していた強制の権力のあり方は、やがて、(2)規律・訓練を通じて自らを矯正するように働きかける権力へと変容していき、(3)最後に統治されていることにもそもそも気が付かないような環境介入型の権力へと変容していったとフーコーは議論しているようです。
 その環境に働きかける「法」は、いわゆるサッカーでのレッドカードやイエローカードのようなもので、競争社会がうまく回るように”環境”を整えるものにすぎなくなります。「自由」が保障された場として盲信してプレーヤーとして振る舞う1人ひとりの「企業家」は、国家理性にとって都合よく(そして、本人も無自覚に)存在し、心をすり減らしていく存在になっているのかもしれません。
 そしてその場においては「よいこと」「よくないこと」の概念は消えていくことになるのです。

 前半のフィードバックの時間にも、放課後の時間にも、「新自由主義にどう対峙したらいいのだろう」という声が挙げられていましたが、競争社会の中で第三者に評価されるような他者依存的な自己のあり方から脱して、自分で自分をコントロールしていく――セルフ・コントロールしていく主体を意識していくことをフーコーは見出していくようです。
 この講読会も終盤になってきましたが、どのように議論がおちていくのか期待しながら読み進めていきたいです。

 

参加者の皆さんからのコメント

オルド自由主義では市場競争を支える社会政策を重視し、経済の調整と社会的安定の両立を目指しているが、実際は市場への過度な介入や政策の多義性が課題となった。また、新自由主義的視点では、犯罪や麻薬問題を経済的リスクとして捉え、市場環境に働きかけることの必要性を学んだ。

 経済原理が社会全体に広がる中で、規律と個人の自由のバランスをどのように保つべきかが重要な課題であると感じた。

今起きている問題について詳しく聞けてよかった。移民や難民の問題は大学で専門的に学んでいるがアメリカの政策は賛成できる面もある。自国の人々の生活や命を第一に考えた結果なら仕方ないと思う。犯罪率の増加や治安の悪化は起こっている事実なのでヨーロッパでも同様や事が起きてもおかしくないと思った。

 新自由主義がもたらす善悪と合法不法についての複雑さを学びました。トランプの移民政策は民主主義的観点からは正しいとは限らず、競争主義とは切り離して考える必要性について学んだ。また、合法と不法の違いが、単純に善悪を区別することなく自由競争のなかで扱われる現状に疑問を呈する必要性を学んだ。

オルド自由主義の考え方を学び、市場競争を支えるためには社会政策が必要であると思いながらも、経済の原理が社会に広がることで、個人の自由や自律性が損なわれる危惧を感じた。また、新自由主義的における犯罪や麻薬問題の捉え方に関して、経済効率やコスト削減ばかり優先され、個々の人間の状況がなおざりになる事の不安も感じた。社会の調整のためには犠牲もやむを得ないという姿勢には、残酷だと感じるが、事実今日の社会でもそういった考えは浸透しているとも思った。

支援される側が負担を感じることがあるという視点が印象に残った。支援は必ずしも歓迎されるものではなく、受ける側の状況や心情を理解することが重要だと学んだ。また、支援する側の自己満足にならないよう、時代と地域住民に寄り添った支援の体制が必要だと感じた。それと共に、現地に出向いている先生方ならではの視点を通じて、実際に被災地に足を運ぶことと、ニュースだけで状況を理解したつもりになることとの間には大きな差異があると痛感した。

今回も刺激的なセッションでした。途中でS先生が、「フーコーの関心は国家の統治から個人の陶冶に向かう」とおっしゃったことが印象に残りました。
新自由主義に基づく社会政策として、犯罪と刑罰が取り上げられ、本来道徳や倫理に基づくはずの正義の基準の適用について、犯罪を撲滅することが正義を実現することであるのではなく、経済合理性の視点で法を運用することこそが現実的な正義の実現なのだ、という主張と感じました。この犯罪と刑罰に関する説明から、Netflixの「憲法修正第13条」を思い出しました。刑務所が民営化されたアメリカで、刑務所の売上を維持するためには、刑務所にいる犯罪者が出所する数以上に、入所する新たな犯罪者が必要となり、監獄収容率を100%に近づけるための、経営努力がなされるわけです。売上拡大のためにやはり民営化された警察と連携して、微罪の黒人を大量に逮捕したり、勾留期間を犯罪者との取引で延長するなど、経済合理性を追求する姿が映し出されていました。
経済合理性の名のもとに、あるいはテクノロジーの恩恵と称して、医療、介護、教育などの制度の変更の中に、道徳や倫理の基準ではなく、経済合理性の基準が埋め込まれていくことに、ますます注意をする必要があると感じました。パターン・ランゲージに基づく制度設計やアルゴリズムの開発とか、行き過ぎるとまずいのかなと思います。

第十一講| 「ホモ・エコノミクスと統治」 他(1979年3月28日)2025年2月4日

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当日リポート

 トランプが米国大統領に就任して、痛ましい事故も起こりました。軍用機と旅客機が衝突事故を起こして多くの犠牲者を出した件です。今回の講読会はこの報道動画の視聴から始まりました。亡くなった方々の中には、将来を期待された若者も多くおられたようですが、その方々のバックグラウンドは国籍も人種もまた多様なものでもありました。まさにその「多様さ」こそが、アメリカの強みと思われるものの、トランプがその後の記者会見で発した言葉は、「DEI」を尊重する航空会社、航空管制官のあり方が原因にある、という理解に苦しむものでした。

 なぜ、ここまでトランプがDEIにこだわるのか――トランプにとって、DEI政策は新自由主義における「介入」とみなされていることが背景にあるようです。自由競争下においては、操作的介入が競争市場≒”能力”主義(”能力”の高いものが勝ち残り、”能力”の低いものは淘汰されていく)を歪めるという認識のもと、市場への政治的介入を排除してきたことはこれまでも見てきたとおりです(ケインズ主義や統制経済の批判など)。ですが、本当にDEIは新自由主義を妨害するものだったのでしょうか?
 恐らく、この議論において、DEIは全く関係ないものだろう、と講読会の中では指摘されていました。新自由主義における”能力”主義/AblismとしてDEI政策の批判が適うとはき違えてしまっているところに、トランピズムの亀裂が見出せるのではないか、と解説がされていました。

 一方で、そもそも、事故に関わった人たちがマイノリティである、といった情報がトランプの耳に入って、それでああした発言に至ったのであれば、それはなかなか恐ろしい事態です。実は、第一期目の大統領就任の際、ワシントンD.C.にはトランプ就任に反対する/危惧する人たちでごった返し、大きな「抵抗」が見られたそうなのですが、今期はほとんどそうした「抵抗」も、逆にトランプを推す「熱狂」も見られなかったところからも、米国における空気が変ったことがうかがえるとのことでしたが、トランプの上記で指摘したような”混同”を指摘するような人間が周囲に不在で、トランプが裸の王様になっていると指摘することができないどころか、一緒に周囲の人間も魔法の衣を着ているものと盲信してしまっているような状況にあるのかもしれません。

 講読会では新自由主義における能力主義は説得力があるものの、その”能力”というものが「擬制的」なものなのではないか、その擬制性を批判していかねばならないのではないか、とも指摘されていました。
 今回の講読対象で議論されていたことは、競争市場において私たちは「意味」を見出すのではなく、interest(利害関心と翻訳されていました)に基づいて、例えば「好き・嫌い」といった感覚で判断していく存在とみなされるようになった、ということでした。「なぜその価格になるのか」「なぜそうなるのか」といった?はもはや問いません。競争市場において「?」を問うのは無意味、むしろノイズになるもので、与えられた環境で盲目的に利害関心/interestのみを問うことが新自由主義の基盤として不可欠、といった議論でした。

 interest/利害関心という語の意味を捉え方については放課後の中でも議論されていましたが、S先生としては「価値」と訳することもできるのではないかと指摘されていました。何かに対して「価値」を見出すとき、相対的に無価値化されるものも存在することになります。一方で、「意味がある」というとき、「意味がない」ものの存在を含意しないという点で、排他性はないのです。
 新自由主義下で「意味」を問えるのはただ唯一国家理性のみです。恐らく競争市場の中で「能力」を評価する主体もまた、国家理性のみなのです。

 こうした国家理性にどう対峙するのか。次回のフーコーの講義では「市民社会」が取り上げられることになるようですが、どのような議論になるのか楽しみです。どうやら、尻切れトンボで終わる、という噂もありますが、フーコーの講義集成が数年にわたり出版されていることに感謝しつつ、次のゆるフーにも期待を寄せつつ、最終回を味わいたいと思います。

 

参加者の皆さんからのコメント

今回の購読会では、経済学が統治の合理性そのものにはならないことやホモエコノミクスが経済的人間と言う意味であり、現実を受容する者と言う意味があると言うこと、18世紀のホモ・エコノミクスは自由放任で統治できないはずだったが、ベッカーのホモ・エコノミクスは「統治しやすい主体」となると言うことを学んだ。

私は今回の講演で共和党のトランプ氏が多様性に反対していることを以前から認識していたが、今回のアメリカで起きた航空事故について、「この事故の原因に多様性が挙げられる」、「多くの人には常識がある。彼らにはそれが欠けている」といった発言に衝撃を受けた。また、飛行機にはフィギュアスケート関係者が多く搭乗しており、生存者がいなかったことも合わせて彼の発言が命を軽んじてると感じたと同時に無責任さを感じた。これらのことから、統治において一人一人が自分自身の利害関係に従い、自由放任を妨害することは禁じられているが、自由放任を認めると今回のような事例が発生し続けるのではないかと考え、「統治」の難しさを感じた。

「神の見えざる手」について、「神の手」よりも「見えざる」ことこそが重要だとの指摘にやっぱりフーコーはすごい!と感嘆しました。フーコーの指摘は、ホモ・エコノミクスの自由な経済活動に主眼を置いた説明ではなく、全体を計画することの不可能性であり、AIを使ってもビッグデータをぶん回しても全体はつねに見えない。見てはならないということですね。
「汝自身を知れ」についての解釈を、「神ではない存在としての、人間であることをわきまえろ」としたように、全体を見渡すことができる経済主権者という存在はあり得ない、ということでしょうね。
我が国で戦時中、岸信介など新官僚と呼ばれたエリートたちが、満州国で大規模な計画経済の実験をやり、国家の全体経済の最適化を目論みました。さらに本国の経済全体を計画統制する夢を見続け、敗戦後も官民一体の産業政策、傾斜生産方式による産業計画を実施してきました。国家権力とは現代においても、全体経済の計画と運営を志向する存在ではないでしょうか。新自由主義は経済活動以外の行為や関係も、経済合理性の対象としますが、「このような全体計画を最適化するためのインプット、アウトプットプランは不可能だし、国家や行政権力主体はそれを夢みてはならない!」というのがフーコーの主張なのでしょうね。
アダム・スミスが諸国民の富とともに、道徳感情論を書いていたのは、現代の能力主義、効率第一という経済原理で医療も介護も教育も行われる時代を見据えていたからでしょうか。

 

S先生
S先生

結局、利益が関心によって決定づけられるという発想に至った背景には、経済学のあり方が大きく変容したことを理由に挙げていましたよね。それまでモノの価値について議論することが中心であった経済学は、やがて心理学のような要素を帯びるようになります。考えてどうこうするのではなく、好きがそのまま推し活につながるような、関心を奪い合うそうした動機付けや関心――interestのあり方が議論の中心へと変わっていったという指摘をしていた点も印象的でした。

 私たちがまるで「自由」であるかのように関心にしたがってものを見ようとしているということの問題を通じて、統治する/統治されるの議論をフーコーは進めていたのかもしれません。interestを自由に求めているように見えて、どのような価値がなぜあるのかに盲目になりながら競い合うことを強いられているのです。

 

第十二講| 「市民社会とは何か」 他(1979年4月4日)2025年2月11日

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※ 今回は特に、レポーターの理解不足もあり、要修正の個所が多くなっている可能性があります。随時修正や加筆もしてしまうかもしれませんが、ご了承ください…。

 とうとう今回の講読会も最終回となりました。このまとめも、どなたも見ていないかもしれませんし、不備不足を修正されぬままの発信になりかねないので、なんだか微妙だなと思いますが、記録として書き連ねておきたいと思います…。
 冒頭視聴したのは、アメリカによるガザ所有をめぐる議論から。ガザ地区の所有権をアメリカがいったん持ち、焦土と化した土地を再建させて新たな価値を持つ場所として復興させる、というプランです。「なんだか…」といった議論ではありますが、そうはいってもそれに代わる案を誰かが出せたのか、というと、そうともいえない側面が、事実、あります。実際、実効性がないアイデアではないかもしれないという点で、まったくありえないというわけではありません。

 一方、S先生は能登半島からの帰り道、電波がとぎれとぎれになりながらのご参加でした(言い訳がましいですが、結構聞き落としてしまっている部分もありそうです)。また能登半島の雪もひどい状況だったそうですが、これまでだったら「この程度の雪」といって片づけられていたかもしれないものが、今年はやはり災害といってもいいような状況であったとのこと。雪かきとは自宅の前だけがなんとかなっていればいいというものではなく、共同作業そのもので、それは地域力をあらわすようなものでもあるのだそう。「この程度の雪」とはなかなか言い難い状況は、被災を機に、地域がどうしても弱まってしまったことに由来するといえそうです。
 さて、ガザ地区といった「地獄のような場所」からパレスチナ人は出て行った方がいい、といった発言をするトランプが、日本のこうした現状をみたらなんていうのでしょうか。やっぱり能登半島の状況をみて、「こんなところに住んでいるからいけない」と発言するのかもしれません。

 そして、私たちは、トランプの主張をどうしても否定しがたい一面もあるのかもしれません。それは私たち自身もまた、interestを追い求める「自由」が保証された世界に生きていて、道徳や理念、倫理よりも”成果を出すこと”を第一に優先してしまう感覚に生きているからなのかもしれないです。皆、価値が高い人になりたいし、必要とされたい、求められたいと思いながら生きています。タイパやコスパを気にかけて、無駄な時間を過ごしたくないといった感覚にも囚われています。そうしたinterestに基づいた合理的な判断――どこまで関心を獲得できるかといった勝負に曝され、奪い合うものの、なぜ関心を得ることに躍起になるのか、求められるのか自体は問わない――に生きるとき、トランプの発想と実は地続きで本質的には何も変わらない、といった批判もされていたように思います。

 今回のフーコーの議論では、そもそも人間は本質的に自由ではないということが、ファーガンソンにおける「市民社会」概念の整理を通じて示されていたようです。ジャイアン的な自由から社会を守っていくといった社会契約説的な発想を想定してしまいがちですが、ファーガンソンによれば、人が3人、5人と集まった時点でそこには社会が存在し、その社会ではどうあっても権力や統治が生まれてしまうものであるといいます。そして、その市民社会も経済主体が持つ以上の「利害なき利害関心」というinterestによって結束していくようなものである…。
 「市民社会」とは権力に対峙し、「自由」そのものを体現するようなものとして捉えられがちですが、そうではなくて、権力や統治のあり方の一形態、システムのようなものである、という指摘をフーコーはしたかったようです。従来の統治のあり方――統治者の賢明さでも、計算力――でもなく、統治者の権力を失墜させかねないホモ・エコノミクスを統治可能にする近代的テクノロジーの一部として市民社会を説明していました。
 そしてこの「市民社会」というシステムが、自由主義経済に接続し、資本主義において市民社会は切り離すことができないようなものになっている、という指摘をしていたようです。結局、interestに基づく合理性:経済合理性を競い合うような場を機能させ続けるための統治技術としての「市民社会」、という説明は、なかなか衝撃的なものでもありましたし、民主主義がinterestに基づいて進められていきかねないということ(ヒトラーもトランプも民主主義的なプロセスから権力を握る立場に立った)、だからこそ、self governance を行う個人へとフーコーは視点をシフトしていったのではないか、という議論で講読会を終えることとなりました。

 終盤の講義は、少し複雑な構成になっていた背景には、講義と並行して実施されていたという演習での議論からの影響もあったのかも?といったコメントもありましたが、どのようにフーコーの議論がその後展開されていくことになったのか、また次回の講読会で読み進めていけたら、と案内もされました。ぜひ楽しみに、また講読していけることを楽しみにしています。

 

 

参加者の皆さんからのコメント

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