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- 講読会について
- 第一講| 「統治の理性と実践」 他(1979年1月10日) 2024年11月5日
- 第二講| 「自由主義とはなにか」 他(1979年1月17日) 2024年11月12日
- 第三講| 「自由主義的統治術」 他(1979年1月24日) 2024年11月19日
- 第四講| 「新自由主義の統治実践」 他(1979年1月31日) 2024年11月26日
- 第五講| 「ドイツ新自由主義」 他(1979年2月7日)2024年12月3日
- 第六講| 「社会政策と調整」 他(1979年2月14日)2024年12月10日
- 第七講| 「新たなる資本主義」 他(1979年2月21日)2025年1月7日
- 第八講| 「社会保障と新自由主義」 他 (1979年3月7日)2025年1月14日
- 第九講| 「アメリカ新自由主義」 他(1979年3月14日)2025年1月21日
- 第十講| 「犯罪と行動管理」 他(1979年3月21日)2025年1月28日
- 第十一講| 「ホモ・エコノミクスと統治」 他(1979年3月28日)2025年2月4日
- 第十二講| 「市民社会とは何か」 他(1979年4月4日)2025年2月11日
社会と統治とを混同してはならない。社会は我々の必要によって産出されるが、統治は我々の弱さによって産出される…。
『ミシェル・フーコー講義集成 < 8 > 生政治の誕生』p.381
2021年1月のD.C.を忘れ、艱難辛苦の能登を忘れ、「自由の本質」を学び忘れた私たちが、取り戻すべき文化とはなにか。フーコーの新自由主義分析を参照点に考えます。素人歓迎!
※ 大学研究会の主催ですが、お申込み者は、自由に一回からご参加いただけます。お気軽にご参加ください!
(どなたでもご参加いただけます!)
講読会フライヤーPDFはこちら
講読会について
講読書籍
ミシェル・フーコー講義集成 < 8 >「生政治の誕生」
(コレージュ・ド・フランス講義1978-79)
ミシェル・フーコー著 慎改康之訳 筑摩書房(2008年)
講読期間
2024年11月5日(火)~2025年1月28日(火) 全12回
開催時間
18:00-19:30ごろ(入退室自由)
開催場所
オンライン(ZOOM)開催
ウニベルシタスでも参加を検討していたのですが、少し今回はウニブでの開催が物理的に難しいということになりました。本当に恐縮ですが、今回は完全オンラインでの開催とさせていただきます。
ご了承いただけますよう何卒宜しくお願い致します。
参加方法
ご参加方法には、①一般参加会員、②継続参加会員、③傍聴参加の三種類があります。
※お申し込み時、アドレスの誤入力にご注意ください!
- ①一般参加会員
その都度ごと参加の申し込みを行って参加いただくものです。
当日の講読に必要な資料を事前にお送りさせていただきます。
ご参加予定の講読会の一週間前までにこちらのGoogle Formよりお申し込みください。 - ②継続参加会員
継続的に講読会にご参加いただくということで登録される会員です。
講読会に必要な資料を事前にお送りさせていただきます。
※ 参加登録は一度のみで完了いたします。
※ また、継続参加会員が毎回必ず参加が必要というわけではありませんので、ご都合に合わせてお気軽にご参加ください。
お申込みはこちらのGoogle Formよりどうぞ! - ③傍聴参加
特に講読用の資料を希望せず、ZOOMでの傍聴のみを希望される参加のスタイルです。
一回のみのご参加でもお気軽にお申込みいただけます。
ご登録いただいた方宛てに、開催前にZOOMのURLをお送りいたします。
お申し込みはこちらのGoogle Formよりどうぞ!
第一講| 「統治の理性と実践」 他(1979年1月10日) 2024年11月5日
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当日リポート
久しぶりに始まったまなキキ・オンライン講読会。とうとう10回目となりました。(ゆるフーとしては5回目になります!)
…が、学祭シーズンと重なり、周知が本当に後手後手になってしまい、バタバタと始まった回となり失礼いたしました。それもこれも、アメリカ大統領選の結果がわかる前にぜひ始めてみたいという思いからでした。さて、その後、世界の中で民主主義の守護者を標榜してきたアメリカはどのような結論をくだすのでしょうか…。
冒頭では、大統領選の様子を告げる米国の報道番組を視聴するところから始まりました。開票時に不正が行われているのではないかというトランプ陣営からの指摘が紹介されていましたが‥‥。実はこの動画は2021年の大統領選を報じるものでした。(そして、連邦議会議事堂襲撃が起こったのでした)
2024年の大統領選もまた、funnyな様相を示しています…。
民主主義があってないようにも思えてしまうこうした状況は、社会の「危機」ともいえるものでしょう。この危機に国家理性はどう対応するのか――まさに『生政治の誕生』でフーコーが議論した内容を私たちの分析軸として、ぜひ考えていこうということが、講読会の狙いとして、まずは共有されたのかなと思います。
フーコーが今年議論していこうとしているテーマは、自由主義についてです。
「自由主義」と聞くと、いわゆる私たちが生まれながらに有している基本的人権や自由など自然権を尊重するような政治的態度と捉えてしまいがちですが、まったくそうとは言い難いことが、フーコーの議論では説明されています。
確かに自由主義は「自然」を重視するのですが、自由主義における「自然」とは、何も外部から力を加えなくてもうまく回るような状態、不自然さがなくちょうどいい塩梅で諸々が機能していくようなありのままのありようを「自然」とみなし、この「自然」がうまく保たれるようにすることを目指すもののようなのです。
わかりやすい例は「市場」です。売り手と買い手が集まって、お互いが買いたい値段と売りたい値段がうまく決まったらそれでハッピーなのです。自由主義はこの需要と供給が当事者間で(内部で)うまく調整されるような「自由」を尊びます。
自由主義にとって大事なのは、ひとりひとりの生ではないかもしれないのです。中世の王様にとっては財産の一部である民衆は大事にすることもありえます(逆に財産の一部でしかないので、あっけなく殺してしまうこともある)。
ですが国家にとっては国家という機構、システムそのものがうまく回っていることが、一番大事なことになる、というなかなか衝撃的な事実についても確認することができました。
国家理性が登場してきた背景には、一国が覇権を握って土地や民衆の財産を取得しようとするよりも、国家間で市場を開き商売をすることのほうが国家にとって合理的と判断しえたからです。
人間の自由ではなく、国家をうまく機能させること――
人がよりよく生きられているか、自由や平等といった理念に適合しているかどうかではなく、国家のよき運営に成功しているか失敗しているか――が、自由主義における課題となったということ…。
ここからどのように、議論が展開していくのか楽しみですね。
どうぞひきつづきよろしくお願いいたします。
参加者の皆さんからのコメント
他国を征服し、領土を広げることを目的とする国家から、商売をして儲けることや、そのためにいいお客さんを見つけることに価値を見出す国家へと転換したが、この転換には、国家理性の出現が大きく関わっていると分かった。国家理性とは、首相や大統領といった個人の問題ではなく、国家が何かを目指して動いている、一つの社会の結果だと学んだ。
くまさん先生の解説で難しかった内容の少しだけ手がかりが掴めたような感じがしました。質問なのですが、フーコーのいうところの「近代国家は他国を侵略しなくてもよい」というのは、例えば今のロシアの状態でいうと国家理性が中世の頃のようになっているのか、プーチンが「王様」のようになっているのか、はたまたロシアの場合民主主義国家ではないから関係がない話なのかが気になりました。多分、焦点は「近代国家」よりも「侵略より経済を重視する」資本主義的なお話だったのであまり関係がないかもしれません。理解が浅く申し訳ないです、、。とても興味深いお話でした。
Zoomの不具合で4限の時間から利用することができなかったため、今回は参加したかったが、資料を読むだけとなってしまった。『生政治の誕生』について学んだ。今年のテーマは、「統治術」と呼びうるようなものについての歴史の辿り直しとして、「政治的主権の行使」という非常に狭い意味について考えていくことを知った。とても難しそうなテーマだと思った。政治的主権の行使における統治実践の合理化についての研究は、最善のやり方で統治するために、統治実践の領域・様々な対象・一般的規則・相対的目標が打ち立てられたやり方を明らかにしていると学んだ。
今回の講読会を通じて、「統治」という概念が単なる権力行使ではなく、国家運営における戦略的な調整と合理化の積み重ねであると解釈した。特に、国家が経済や人口を管理しながら、国際競争力を維持するために合理性を追求する過程が印象的だった。また、「統治の成功」が道徳ではなく効果に基づいて評価される点が現代の政策にも通じ、国家運営には柔軟で冷静な視点が重要だと感じた。
何かと自由を切望しがちな世の中であり自分もそうだが、「自由」というものについてもう一度問い直す機会になった。自由を望み求めるとき、わたしは「政府」が一番に頭に出てくるがなぜそのように自分が考えるのかというところに自分のことながら関心を持った。皆が神に自由を望み尊ぶだけなら今の国家ができていない、それは建前であるという部分に共感するとともに、そこに自由を求めたり、それを信じ続けたいときもあるような気がしてそこに面白さを感じた。
全体を通して、今までニュースを見たりしていて全く疑問に思わなかったことが不思議なくらい、今の政治にはおかしな部分があると感じてしまった。そして、「自由である」ということに対しての疑問が深まった。政治とても入りづらいイメージがあるが、自分の身近にある問題と考えて、問題意識を持つということが重要だと学んだ。
最近授業で、「帝国主義」「植民地化」などの言葉はよく耳にしていたが、「統治」という、あまり意味の違わなそうな言葉から世界を見てみると、少し感じることが違ってくると思った。民族自決により植民地化がなくなったとされる世の中だが、統治の関係は現在も続いているのではないかと感じた。植民地化と異なり、主権国家であることを認めて、その上で上の立場に立っているようなそんな感じがする。授業でも取り上げられていたが、「自由主義」という言葉も決して「完全な自由」というわけではないだろう。
国家にとって最も重要なのは国家であることをアメリカ人が私たちが思っている以上に認識していたとすると、現在開票が進んでいる選挙結果がトランプが優勢なのは、アメリカ国民がトランプの人柄や性格を選んでいるのではなく、自分たちに利益があるような「自由」の選択をしている可能性が理解できる。しかし、彼らの選択肢は限られており、各党の候補者を選ぶことはできないという制約の中での建前としての自由なのではないか。講義の中で触れられた能登半島の状況下においても、あの時点でないと選挙に参加できないという同じような自由の制約が見られると思う。
「自由」と聞くと、なんとなくひとりひとりを大事にしている発想と思ってしまいがちですが、マスとしての、集団としての維持が国家においては重要なのですよね、、それは間接的にひとりひとりをみているものにもなり得ますが…。
ひとりひとりの人が幸せに暮らすことができるように、導入された制度、システムであったはずの国家は、国家そのものの維持が目的となってしまっていて、結果的に「ひとりひとりが国家維持のために尽くせ」という論調になってしまっているのですよね。
そういう意味では、プーチンも同じです。ウクライナはあくまでプーチンにとっては「自国内」なのです。国境外とはtradeしても、国境内では無制限に統治が働くわけで、ある種ロシアの純粋な形の国家理性を体現するものとしてのウクライナ戦争があると考えることができるのかもしれません。
今回の「統治」という概念は、ポストコロニアルや植民地主義などといった概念よりも深い層の概念といえそうです。「自由を守るための統治」という言葉が矛盾に満ちているようにも感じられますが、それをどう論じていくのか。楽しみですね。
第二講| 「自由主義とはなにか」 他(1979年1月17日) 2024年11月12日
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当日リポート
改めて今週もまた、米国大統領選の報道動画を観るところからスタートです。
なんだかんだで「歴史的」な、広く支持された大統領ということが結果からは示されているようですが、なぜ、トランプ氏が選ばれることになったのか――
トランプ氏が「経済や自由の守護者」と評されるところに答えがあるのかもしれない、と講読会の中では議論されていました。
報道ステーションという番組の中で、大越キャスターと車販売店オーナーの方へのインタビューのエピソードも紹介されました。
「(Q.民主党、特にハリス氏が信じられないのは)民主党を信じないというよりは価値観が違うんです。私は、週60時間以上、働いてきた。税金をたくさん払い、請求書も滞りなく支払い、住宅購入のために貯金もしました。なのに、ハリスは1軒目の住宅購入者に約380万円を支給するという。その財源が自分の払った税金だと思うと、はらわたが煮えくり返ります」(【報ステ】「小さな差が積み重なった」トランプ氏“政権奪還”の背景は…上院も制す)
ハリスもトランプも「自由」を代弁してきていました。でもその「自由」とは?
トランプがいう「アメリカン・ファースト」とはまさに、アメリカというstateのことであって、決して支持者がファーストとして扱われるわけではありません。
ハリスもまた、アメリカの未来、ダイバーシティを守ると謳いましたが、そうした民主主義を具現する国家たるために協力せよ、と主張していたとも捉えられるのです。
今回のフーコーの議論の中では、「市場」が”自然”に基づけばおのずと適正な価格――真理を現出させるのだと、真理の形成の場やメカニズムとして説明されていましたが、国家理性の統治は《公権力への有用性》の原理に基づいて介入が測定されていたことも指摘されていました。
そして、市場における「交換」も、公権力における「有用性」も、《利害関心》がキーワードになっている、とフーコーはまとめているようでした。
この《利害関心》とは何か。利益を得ることだけではなく、「ちゃんと儲けたり、ちゃんと損したりする」ことの関心として、講読会の中では説明されていたように思います。
将来儲けるためには、儲け続けていることは不自然なのです。損をするから、また儲ける機会が巡ってくる。そうしたtradeが自然なものになるように、介入とは思わせないように介入することに巧みな技術が要された、といった説明もありました。
いわば、調整された損得のことを、「自由」とみなしているともいえるでしょう。ここにおいては、理念的な意味における自由はもはや建前でしかなくなっているという点についても確認されていたように思います。
「自由」を維持するための統治とはどのようなものなのでしょう。
最後に利害関心が多様な主体にもたれるほどに、統治も市場も機能するといった議論もありました。多様な主体が市場に参入すればするほど、市場は活発化し、「自由」は守られていく”はず”なのです。
誰もが、儲けたり損をしたりすることができる「フェア」な市場に参加しつづけて、多様な主体が適正に市場に参加しつづけていれば、リスクは回避され、生存しつづけていくことができる……といった発想を保証し、その土台となっている考え方が自由主義なのかもしれないのですが、実際のところどうなのか……。
「自由」を維持するための統治、とは何か。ひきつづき議論されていくようです。ぜひ楽しみに読んでいきたいと思います。
参加者の皆さんからのコメント
普段様々な場面で使われる自由という言葉が、そもそもどういったものなのか改めて考える機会となりました。講義で焦点を当てている自由主義というテーマは難しく複雑な概念ですが、こうして市場や統治の在り方を考えることは、私たち自身が生きる社会をより豊かで公正なものに築くために、問い続けるべき重要な事であると感じました。全体を通して国家と市場経済の関係性の変化とそれに伴う統治の正当性や政策の在り方について深く考えさせられました。次回の講義でも更にフーコーの議論をもとに自由の本質について理解を深めていきたいと思います。
今回の講読会では前回学習したことから一歩踏み込んで「市場」についてさらに学習したが、前回では理解し切れずにモヤモヤしていたところを、今回の講義内容で少しスッキリさせることができた。その一方で、今回の講義でもまた新しい考え方が導入されていたため、それに対する理解がまだ追いついておらず、正確なコメントをすることは難しい。しかし、レジュメにおいてH松さんが「確認したいこと」や「話題提供」の中でおっしゃっていた疑問は私も同感であり、大統領や首相が変わると市場に多大な影響が及ぶことや、一人一人の利害関心に目を向けていると言いつつ、自国の冨を優先しているのではないか、という問いは、今後もフーコーの主張を読み解く上で、頭の片隅に置いておきたいと思う。
H松さんの講義内容と、それについての参加者同士の議論の中で、「なぜ多様性が求められているのか」ということについて、今まで考えたことの無かった別の視点から考えさせられた。参加者の一人であるしばたさんが、利害関心=多様性の源であり、ここでの統治術において最も重要なのは、マーケットの参加者が多様であればあるほど市場・マーケットは機能するということだ。「なぜ近代はこんなに多様性を重視するのか」という問いは、この話に由来があるかもしれない、と述べていた。この意見は、私の中でとても印象に残った。利害関心が多様性の原点であるとし、近年多様性が重視されている理由をそこに見出そうとする視点に驚かされた。近代の国際情勢を表現しているようで興味深いと感じた。近年、多様性が謳われる一方、実態が伴っていない上辺だけの多様性も少なからず存在している。多様性の受け入れに関して、まだまだ不十分な点が多いと思う。私たちは、キーワードを叫び続けるだけでなく、自分たちの意識と社会制度、すなわち、内面と外面の両方に着目し、改善すべき点を考えていく必要がある。私たちの意識の部分に関して、そもそも現代において多様性が必要とされているわけを、曖昧ではなくはっきりと理解しておくことは大切だと思う。それを知っているだけで、今までの自分の行動を見直してみたり、何かできることを行動に移したりする人が増えるのではないかと思う。理由は様々だが、その理解のために、今回のような利害関心・マーケットの点から多様性について考えることも大切だと感じた。
くま先生の「利害関心は多様性の源」だという視点、それはマーケットの参加者が多様になるほどマーケットに動きが出るという解説が興味深かった。その一方で統治が強化になるとのことだが、自由を維持するために個が何らかを犠牲にするというというか、何か一部分の不自由を差し出すのは健全な市場を保つために必要なことなのであると思う。また、統治が強化されるのは、市場にいる人々が多様であるならそこにさまざまな差があるのは当たり前で、統治のない条件下であったならばあまりにも不公平で、トレードによる不利益ではなく初めからある立場上の不利益、つまり社会的に作られた不利益も考えられることから、この市場と統治の話は福祉のトピックにもよく繋がっているのではないかと感じた。
市場における多様性が重要といった議論について、敏感に反応された方が多かったですが、この理解は常識的に捉えることができる議論のはずです。
例えば、あまりに消費者が一律的だと市場に出回る商品にはバリエーションがなくなってしまうのです。お金持ちの人もいれば、貧乏な人もいるから、売り出される商品にはさまざまな価格のついたさまざまな種類のものが出そろうことになるのです。ただ、それは裏を返せば、市場がうまく機能するためには経済的格差は不可欠である、ということでもあります。
とはいえ、度が過ぎた格差は、人が死んでしまうことにもなりかねないので、ある程度の介入が必要であるということ。市場を守るためにコントロールするものが国家であり、そのための技法が自由主義というように捉えることができるかもしれません。
第三講| 「自由主義的統治術」 他(1979年1月24日) 2024年11月19日
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当日リポート
急に寒くなってきましたが、さすがゆるフー、講読会はより面白くなってきました。
本日の講読会は、2本の動画を視聴するところから始まりました。一本目は兵庫県知事として選出された斎藤元彦氏の当選確実が出た瞬間の報道の様子。まるで感動的な、民意が叶ったかのような雰囲気でしたが、同じく民意を受けて選出されたはずの議会から、斎藤氏は不信任決議を受けて失職(もしも、自身の主張を通すなら、議会の解散をして新たに民意を問うという選択肢もあったが、斎藤氏は辞任でもなく、失職を選びました)していたのです。なかなか失職した前知事が直後の知事選に出馬するということは珍しいことのようですが、今回、開票と同時に当確が出るようなことになっていました。
二本目は、大統領選のことを取材したNHK・クローズアップ現代の一場面。Z世代の若者からの票を稼ぐために、ハリス陣営もトランプ陣営も、どんなふうな工夫を凝らしていたか、紹介されていました。
いずれも、スマホで「歴史的」瞬間をとらえて、発信しようとする人びとの様子が映りこんでいました。いずれの選挙も、SNSをいかに活用したかが、勝因の分かれ目のように説明されていましたが、SNSをうまく活用していたか・否かで割り切れるようなものではないよね、とも共有されました。
誰もが、「苦しい状況に置かれている私たちのために既得権益を再配分する」、「既得権益にカウンターして自由の守護者になる」といった、「自由」の代弁者として、「自由」を体現する者として、各々のストーリーを提示していたのかもしれません。この「自由」っていったい何なのでしょう。
誰もが、「自由」を代弁する中で、結局のところ、どちらがより「自由」なのか、より「フェア」なのかを問おうとしていたともいえるのかもしれません。
そして、その「自由」は、生きること・生活すること・日々の暮らしという「自由」をいかに守るのかといった経済的な「自由」こそが、フーコーが議論する「自由」とも接続していくもののように思われます。「自由」を拘束するのではなく、「自由」を守る主体として、権力――国家理性が発動し、統治をおこなうのです。国家理性は市場に参入する存在ではないため、市場に参入した個々人よりも一段階上のフェーズから介入/非介入にかかわりうるのです。
今日の内容は、国家理性が自由主義の下、一国が覇権を握る帝国的な発想から、お互いがよいお客さん・消費者として共存・共栄していくために市場を拡大させ、そうした「自由」な市場が国際的に「自然に」展開されていくことこそが平和構築の礎となるといった理解に至る展開が解説されていたかと思います。(「永遠平和は自然によって保証されるということ。…永遠平和の保証とはつまり、商業の地球規模の拡大なのだ、というわけです。」【P71L26-】)
ただし、その過程ではリスクのマネジメントが必要になるという議論も指摘されていました。マッチングアプリも、市場の議論で理解できるのかしら?という話題で盛り上がったりもしていました。
マッチングアプリも人口管理などの観点でみれば、経済的な市場の応用事例として捉えられるのかもしれず、そのマッチングアプリの管理者は、いかに参入者が、「自由」に出会い、マッチングを成立させるか”統治”するような構造にあるものとみなせるのかもしれません。
「民主主義的自由は、自由にとっての脅威として告発される経済介入主義によってのみ保証される」ともあるとおり、巧みに「自然」にみせるような介入があって、この「市場」における「自由」は保障され、国家理性はあらゆる「リスク」をコントロールしなくてはならない、ということでもあるようなのです。
マッチングアプリも決して、「自由」なのかどうかは分かりません。身元を明らかにするような様々な管理体制が置かれたうえでの「自由」恋愛の市場が保証されたと謳う場ともいえましょう。いろいろな管理体制があっても、その市場の「自由」が守られるためならば――正当性が共有されていれば、そのような介入は”自然”を維持できるのかもしれないのです。
「自由」というものが、どのように生まれてきたのか。この議論は、正当性というものがどのように生み出されてきたのか、という議論にも通じるとのこと。ドイツの事例を取り上げながら、(そして日本の戦後のことも同時に問いながら)議論できたら、とのことでした。楽しみですね。
参加者の皆さんからのコメント
第四講| 「新自由主義の統治実践」 他(1979年1月31日) 2024年11月26日
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参加者の皆さんからのコメント
第五講| 「ドイツ新自由主義」 他(1979年2月7日)2024年12月3日
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参加者の皆さんからのコメント
第六講| 「社会政策と調整」 他(1979年2月14日)2024年12月10日
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参加者の皆さんからのコメント
第七講| 「新たなる資本主義」 他(1979年2月21日)2025年1月7日
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参加者の皆さんからのコメント
第八講| 「社会保障と新自由主義」 他 (1979年3月7日)2025年1月14日
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参加者の皆さんからのコメント
第九講| 「アメリカ新自由主義」 他(1979年3月14日)2025年1月21日
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参加者の皆さんからのコメント
第十講| 「犯罪と行動管理」 他(1979年3月21日)2025年1月28日
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参加者の皆さんからのコメント
第十一講| 「ホモ・エコノミクスと統治」 他(1979年3月28日)2025年2月4日
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参加者の皆さんからのコメント
第十二講| 「市民社会とは何か」 他(1979年4月4日)2025年2月11日
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