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- 講読会について
- 第一講| 「統治の理性と実践」 他(1979年1月10日) 2024年11月5日
- 第二講| 「自由主義とはなにか」 他(1979年1月17日) 2024年11月12日
- 第三講| 「自由主義的統治術」 他(1979年1月24日) 2024年11月19日
- 第四講| 「新自由主義の統治実践」 他(1979年1月31日) 2024年11月26日
- 第五講| 「ドイツ新自由主義」 他(1979年2月7日)2024年12月3日
- 第六講| 「社会政策と調整」 他(1979年2月14日)2024年12月10日
- 第七講| 「新たなる資本主義」 他(1979年2月21日)2025年1月7日
- 第八講| 「社会保障と新自由主義」 他 (1979年3月7日)2025年1月14日
- 第九講| 「アメリカ新自由主義」 他(1979年3月14日)2025年1月21日
- 第十講| 「犯罪と行動管理」 他(1979年3月21日)2025年1月28日
- 第十一講| 「ホモ・エコノミクスと統治」 他(1979年3月28日)2025年2月4日
- 第十二講| 「市民社会とは何か」 他(1979年4月4日)2025年2月11日
社会と統治とを混同してはならない。社会は我々の必要によって産出されるが、統治は我々の弱さによって産出される…。
『ミシェル・フーコー講義集成 < 8 > 生政治の誕生』p.381
2021年1月のD.C.を忘れ、艱難辛苦の能登を忘れ、「自由の本質」を学び忘れた私たちが、取り戻すべき文化とはなにか。フーコーの新自由主義分析を参照点に考えます。素人歓迎!
※ 大学研究会の主催ですが、お申込み者は、自由に一回からご参加いただけます。お気軽にご参加ください!
(どなたでもご参加いただけます!)
講読会フライヤーPDFはこちら
講読会について
講読書籍
ミシェル・フーコー講義集成 < 8 >「生政治の誕生」
(コレージュ・ド・フランス講義1978-79)
ミシェル・フーコー著 慎改康之訳 筑摩書房(2008年)
講読期間
2024年11月5日(火)~2025年1月28日(火) 全12回
開催時間
18:00-19:30ごろ(入退室自由)
開催場所
オンライン(ZOOM)開催
ウニベルシタスでも参加を検討していたのですが、少し今回はウニブでの開催が物理的に難しいということになりました。本当に恐縮ですが、今回は完全オンラインでの開催とさせていただきます。
ご了承いただけますよう何卒宜しくお願い致します。
参加方法
ご参加方法には、①一般参加会員、②継続参加会員、③傍聴参加の三種類があります。
※お申し込み時、アドレスの誤入力にご注意ください!
- ①一般参加会員
その都度ごと参加の申し込みを行って参加いただくものです。
当日の講読に必要な資料を事前にお送りさせていただきます。
ご参加予定の講読会の一週間前までにこちらのGoogle Formよりお申し込みください。 - ②継続参加会員
継続的に講読会にご参加いただくということで登録される会員です。
講読会に必要な資料を事前にお送りさせていただきます。
※ 参加登録は一度のみで完了いたします。
※ また、継続参加会員が毎回必ず参加が必要というわけではありませんので、ご都合に合わせてお気軽にご参加ください。
お申込みはこちらのGoogle Formよりどうぞ! - ③傍聴参加
特に講読用の資料を希望せず、ZOOMでの傍聴のみを希望される参加のスタイルです。
一回のみのご参加でもお気軽にお申込みいただけます。
ご登録いただいた方宛てに、開催前にZOOMのURLをお送りいたします。
お申し込みはこちらのGoogle Formよりどうぞ!
第一講| 「統治の理性と実践」 他(1979年1月10日) 2024年11月5日
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当日リポート
久しぶりに始まったまなキキ・オンライン講読会。とうとう10回目となりました。(ゆるフーとしては5回目になります!)
…が、学祭シーズンと重なり、周知が本当に後手後手になってしまい、バタバタと始まった回となり失礼いたしました。それもこれも、アメリカ大統領選の結果がわかる前にぜひ始めてみたいという思いからでした。さて、その後、世界の中で民主主義の守護者を標榜してきたアメリカはどのような結論をくだすのでしょうか…。
冒頭では、大統領選の様子を告げる米国の報道番組を視聴するところから始まりました。開票時に不正が行われているのではないかというトランプ陣営からの指摘が紹介されていましたが‥‥。実はこの動画は2021年の大統領選を報じるものでした。(そして、連邦議会議事堂襲撃が起こったのでした)
2024年の大統領選もまた、funnyな様相を示しています…。
民主主義があってないようにも思えてしまうこうした状況は、社会の「危機」ともいえるものでしょう。この危機に国家理性はどう対応するのか――まさに『生政治の誕生』でフーコーが議論した内容を私たちの分析軸として、ぜひ考えていこうということが、講読会の狙いとして、まずは共有されたのかなと思います。
フーコーが今年議論していこうとしているテーマは、自由主義についてです。
「自由主義」と聞くと、いわゆる私たちが生まれながらに有している基本的人権や自由など自然権を尊重するような政治的態度と捉えてしまいがちですが、まったくそうとは言い難いことが、フーコーの議論では説明されています。
確かに自由主義は「自然」を重視するのですが、自由主義における「自然」とは、何も外部から力を加えなくてもうまく回るような状態、不自然さがなくちょうどいい塩梅で諸々が機能していくようなありのままのありようを「自然」とみなし、この「自然」がうまく保たれるようにすることを目指すもののようなのです。
わかりやすい例は「市場」です。売り手と買い手が集まって、お互いが買いたい値段と売りたい値段がうまく決まったらそれでハッピーなのです。自由主義はこの需要と供給が当事者間で(内部で)うまく調整されるような「自由」を尊びます。
自由主義にとって大事なのは、ひとりひとりの生ではないかもしれないのです。中世の王様にとっては財産の一部である民衆は大事にすることもありえます(逆に財産の一部でしかないので、あっけなく殺してしまうこともある)。
ですが国家にとっては国家という機構、システムそのものがうまく回っていることが、一番大事なことになる、というなかなか衝撃的な事実についても確認することができました。
国家理性が登場してきた背景には、一国が覇権を握って土地や民衆の財産を取得しようとするよりも、国家間で市場を開き商売をすることのほうが国家にとって合理的と判断しえたからです。
人間の自由ではなく、国家をうまく機能させること――
人がよりよく生きられているか、自由や平等といった理念に適合しているかどうかではなく、国家のよき運営に成功しているか失敗しているか――が、自由主義における課題となったということ…。
ここからどのように、議論が展開していくのか楽しみですね。
どうぞひきつづきよろしくお願いいたします。
参加者の皆さんからのコメント
他国を征服し、領土を広げることを目的とする国家から、商売をして儲けることや、そのためにいいお客さんを見つけることに価値を見出す国家へと転換したが、この転換には、国家理性の出現が大きく関わっていると分かった。国家理性とは、首相や大統領といった個人の問題ではなく、国家が何かを目指して動いている、一つの社会の結果だと学んだ。
くまさん先生の解説で難しかった内容の少しだけ手がかりが掴めたような感じがしました。質問なのですが、フーコーのいうところの「近代国家は他国を侵略しなくてもよい」というのは、例えば今のロシアの状態でいうと国家理性が中世の頃のようになっているのか、プーチンが「王様」のようになっているのか、はたまたロシアの場合民主主義国家ではないから関係がない話なのかが気になりました。多分、焦点は「近代国家」よりも「侵略より経済を重視する」資本主義的なお話だったのであまり関係がないかもしれません。理解が浅く申し訳ないです、、。とても興味深いお話でした。
Zoomの不具合で4限の時間から利用することができなかったため、今回は参加したかったが、資料を読むだけとなってしまった。『生政治の誕生』について学んだ。今年のテーマは、「統治術」と呼びうるようなものについての歴史の辿り直しとして、「政治的主権の行使」という非常に狭い意味について考えていくことを知った。とても難しそうなテーマだと思った。政治的主権の行使における統治実践の合理化についての研究は、最善のやり方で統治するために、統治実践の領域・様々な対象・一般的規則・相対的目標が打ち立てられたやり方を明らかにしていると学んだ。
今回の講読会を通じて、「統治」という概念が単なる権力行使ではなく、国家運営における戦略的な調整と合理化の積み重ねであると解釈した。特に、国家が経済や人口を管理しながら、国際競争力を維持するために合理性を追求する過程が印象的だった。また、「統治の成功」が道徳ではなく効果に基づいて評価される点が現代の政策にも通じ、国家運営には柔軟で冷静な視点が重要だと感じた。
何かと自由を切望しがちな世の中であり自分もそうだが、「自由」というものについてもう一度問い直す機会になった。自由を望み求めるとき、わたしは「政府」が一番に頭に出てくるがなぜそのように自分が考えるのかというところに自分のことながら関心を持った。皆が神に自由を望み尊ぶだけなら今の国家ができていない、それは建前であるという部分に共感するとともに、そこに自由を求めたり、それを信じ続けたいときもあるような気がしてそこに面白さを感じた。
全体を通して、今までニュースを見たりしていて全く疑問に思わなかったことが不思議なくらい、今の政治にはおかしな部分があると感じてしまった。そして、「自由である」ということに対しての疑問が深まった。政治とても入りづらいイメージがあるが、自分の身近にある問題と考えて、問題意識を持つということが重要だと学んだ。
最近授業で、「帝国主義」「植民地化」などの言葉はよく耳にしていたが、「統治」という、あまり意味の違わなそうな言葉から世界を見てみると、少し感じることが違ってくると思った。民族自決により植民地化がなくなったとされる世の中だが、統治の関係は現在も続いているのではないかと感じた。植民地化と異なり、主権国家であることを認めて、その上で上の立場に立っているようなそんな感じがする。授業でも取り上げられていたが、「自由主義」という言葉も決して「完全な自由」というわけではないだろう。
国家にとって最も重要なのは国家であることをアメリカ人が私たちが思っている以上に認識していたとすると、現在開票が進んでいる選挙結果がトランプが優勢なのは、アメリカ国民がトランプの人柄や性格を選んでいるのではなく、自分たちに利益があるような「自由」の選択をしている可能性が理解できる。しかし、彼らの選択肢は限られており、各党の候補者を選ぶことはできないという制約の中での建前としての自由なのではないか。講義の中で触れられた能登半島の状況下においても、あの時点でないと選挙に参加できないという同じような自由の制約が見られると思う。
「自由」と聞くと、なんとなくひとりひとりを大事にしている発想と思ってしまいがちですが、マスとしての、集団としての維持が国家においては重要なのですよね、、それは間接的にひとりひとりをみているものにもなり得ますが…。
ひとりひとりの人が幸せに暮らすことができるように、導入された制度、システムであったはずの国家は、国家そのものの維持が目的となってしまっていて、結果的に「ひとりひとりが国家維持のために尽くせ」という論調になってしまっているのですよね。
そういう意味では、プーチンも同じです。ウクライナはあくまでプーチンにとっては「自国内」なのです。国境外とはtradeしても、国境内では無制限に統治が働くわけで、ある種ロシアの純粋な形の国家理性を体現するものとしてのウクライナ戦争があると考えることができるのかもしれません。
今回の「統治」という概念は、ポストコロニアルや植民地主義などといった概念よりも深い層の概念といえそうです。「自由を守るための統治」という言葉が矛盾に満ちているようにも感じられますが、それをどう論じていくのか。楽しみですね。
第二講| 「自由主義とはなにか」 他(1979年1月17日) 2024年11月12日
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当日リポート
改めて今週もまた、米国大統領選の報道動画を観るところからスタートです。
なんだかんだで「歴史的」な、広く支持された大統領ということが結果からは示されているようですが、なぜ、トランプ氏が選ばれることになったのか――
トランプ氏が「経済や自由の守護者」と評されるところに答えがあるのかもしれない、と講読会の中では議論されていました。
報道ステーションという番組の中で、大越キャスターと車販売店オーナーの方へのインタビューのエピソードも紹介されました。
「(Q.民主党、特にハリス氏が信じられないのは)民主党を信じないというよりは価値観が違うんです。私は、週60時間以上、働いてきた。税金をたくさん払い、請求書も滞りなく支払い、住宅購入のために貯金もしました。なのに、ハリスは1軒目の住宅購入者に約380万円を支給するという。その財源が自分の払った税金だと思うと、はらわたが煮えくり返ります」(【報ステ】「小さな差が積み重なった」トランプ氏“政権奪還”の背景は…上院も制す)
ハリスもトランプも「自由」を代弁してきていました。でもその「自由」とは?
トランプがいう「アメリカン・ファースト」とはまさに、アメリカというstateのことであって、決して支持者がファーストとして扱われるわけではありません。
ハリスもまた、アメリカの未来、ダイバーシティを守ると謳いましたが、そうした民主主義を具現する国家たるために協力せよ、と主張していたとも捉えられるのです。
今回のフーコーの議論の中では、「市場」が”自然”に基づけばおのずと適正な価格――真理を現出させるのだと、真理の形成の場やメカニズムとして説明されていましたが、国家理性の統治は《公権力への有用性》の原理に基づいて介入が測定されていたことも指摘されていました。
そして、市場における「交換」も、公権力における「有用性」も、《利害関心》がキーワードになっている、とフーコーはまとめているようでした。
この《利害関心》とは何か。利益を得ることだけではなく、「ちゃんと儲けたり、ちゃんと損したりする」ことの関心として、講読会の中では説明されていたように思います。
将来儲けるためには、儲け続けていることは不自然なのです。損をするから、また儲ける機会が巡ってくる。そうしたtradeが自然なものになるように、介入とは思わせないように介入することに巧みな技術が要された、といった説明もありました。
いわば、調整された損得のことを、「自由」とみなしているともいえるでしょう。ここにおいては、理念的な意味における自由はもはや建前でしかなくなっているという点についても確認されていたように思います。
「自由」を維持するための統治とはどのようなものなのでしょう。
最後に利害関心が多様な主体にもたれるほどに、統治も市場も機能するといった議論もありました。多様な主体が市場に参入すればするほど、市場は活発化し、「自由」は守られていく”はず”なのです。
誰もが、儲けたり損をしたりすることができる「フェア」な市場に参加しつづけて、多様な主体が適正に市場に参加しつづけていれば、リスクは回避され、生存しつづけていくことができる……といった発想を保証し、その土台となっている考え方が自由主義なのかもしれないのですが、実際のところどうなのか……。
「自由」を維持するための統治、とは何か。ひきつづき議論されていくようです。ぜひ楽しみに読んでいきたいと思います。
参加者の皆さんからのコメント
普段様々な場面で使われる自由という言葉が、そもそもどういったものなのか改めて考える機会となりました。講義で焦点を当てている自由主義というテーマは難しく複雑な概念ですが、こうして市場や統治の在り方を考えることは、私たち自身が生きる社会をより豊かで公正なものに築くために、問い続けるべき重要な事であると感じました。全体を通して国家と市場経済の関係性の変化とそれに伴う統治の正当性や政策の在り方について深く考えさせられました。次回の講義でも更にフーコーの議論をもとに自由の本質について理解を深めていきたいと思います。
今回の講読会では前回学習したことから一歩踏み込んで「市場」についてさらに学習したが、前回では理解し切れずにモヤモヤしていたところを、今回の講義内容で少しスッキリさせることができた。その一方で、今回の講義でもまた新しい考え方が導入されていたため、それに対する理解がまだ追いついておらず、正確なコメントをすることは難しい。しかし、レジュメにおいてH松さんが「確認したいこと」や「話題提供」の中でおっしゃっていた疑問は私も同感であり、大統領や首相が変わると市場に多大な影響が及ぶことや、一人一人の利害関心に目を向けていると言いつつ、自国の冨を優先しているのではないか、という問いは、今後もフーコーの主張を読み解く上で、頭の片隅に置いておきたいと思う。
H松さんの講義内容と、それについての参加者同士の議論の中で、「なぜ多様性が求められているのか」ということについて、今まで考えたことの無かった別の視点から考えさせられた。参加者の一人であるしばたさんが、利害関心=多様性の源であり、ここでの統治術において最も重要なのは、マーケットの参加者が多様であればあるほど市場・マーケットは機能するということだ。「なぜ近代はこんなに多様性を重視するのか」という問いは、この話に由来があるかもしれない、と述べていた。この意見は、私の中でとても印象に残った。利害関心が多様性の原点であるとし、近年多様性が重視されている理由をそこに見出そうとする視点に驚かされた。近代の国際情勢を表現しているようで興味深いと感じた。近年、多様性が謳われる一方、実態が伴っていない上辺だけの多様性も少なからず存在している。多様性の受け入れに関して、まだまだ不十分な点が多いと思う。私たちは、キーワードを叫び続けるだけでなく、自分たちの意識と社会制度、すなわち、内面と外面の両方に着目し、改善すべき点を考えていく必要がある。私たちの意識の部分に関して、そもそも現代において多様性が必要とされているわけを、曖昧ではなくはっきりと理解しておくことは大切だと思う。それを知っているだけで、今までの自分の行動を見直してみたり、何かできることを行動に移したりする人が増えるのではないかと思う。理由は様々だが、その理解のために、今回のような利害関心・マーケットの点から多様性について考えることも大切だと感じた。
くま先生の「利害関心は多様性の源」だという視点、それはマーケットの参加者が多様になるほどマーケットに動きが出るという解説が興味深かった。その一方で統治が強化になるとのことだが、自由を維持するために個が何らかを犠牲にするというというか、何か一部分の不自由を差し出すのは健全な市場を保つために必要なことなのであると思う。また、統治が強化されるのは、市場にいる人々が多様であるならそこにさまざまな差があるのは当たり前で、統治のない条件下であったならばあまりにも不公平で、トレードによる不利益ではなく初めからある立場上の不利益、つまり社会的に作られた不利益も考えられることから、この市場と統治の話は福祉のトピックにもよく繋がっているのではないかと感じた。
市場における多様性が重要といった議論について、敏感に反応された方が多かったですが、この理解は常識的に捉えることができる議論のはずです。
例えば、あまりに消費者が一律的だと市場に出回る商品にはバリエーションがなくなってしまうのです。お金持ちの人もいれば、貧乏な人もいるから、売り出される商品にはさまざまな価格のついたさまざまな種類のものが出そろうことになるのです。ただ、それは裏を返せば、市場がうまく機能するためには経済的格差は不可欠である、ということでもあります。
とはいえ、度が過ぎた格差は、人が死んでしまうことにもなりかねないので、ある程度の介入が必要であるということ。市場を守るためにコントロールするものが国家であり、そのための技法が自由主義というように捉えることができるかもしれません。
第三講| 「自由主義的統治術」 他(1979年1月24日) 2024年11月19日
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当日リポート
急に寒くなってきましたが、さすがゆるフー、講読会はより面白くなってきました。
本日の講読会は、2本の動画を視聴するところから始まりました。一本目は兵庫県知事として選出された斎藤元彦氏の当選確実が出た瞬間の報道の様子。まるで感動的な、民意が叶ったかのような雰囲気でしたが、そういえば、同じく民意を受けて選出されたはずの議会から、斎藤氏は不信任決議を受けて失職(もしも、自身の主張を通すなら、議会の解散をして新たに民意を問うという選択肢もあったが、斎藤氏は辞任でもなく、失職を選びました)していたんですよね。なかなか失職した前知事が直後の知事選に出馬するということは珍しいことのようですが、今回、開票と同時に当確が出るようなことになっていました。
二本目は、大統領選のことを取材したNHK・クローズアップ現代の一場面。Z世代の若者からの票を稼ぐために、ハリス陣営もトランプ陣営も、どんなふうな工夫を凝らしていたか、紹介されていました。
いずれも、スマホで「歴史的」瞬間をとらえて、発信しようとする人びとの様子が映りこんでいました。いずれの選挙も、SNSをいかに活用したかが、勝因の分かれ目のように説明されていましたが、SNSをうまく活用していたか・否かで割り切れるようなものではないよね、とも共有されました。
誰もが、「苦しい状況に置かれている私たちのために既得権益を再配分する」、「既得権益にカウンターして自由の守護者になる」といった、「自由」の代弁者として、「自由」を体現する者として、各々のストーリーを提示していたのかもしれません。この「自由」っていったい何なのでしょう。
誰もが、「自由」を代弁する中で、結局のところ、どちらがより「自由」なのか、より「フェア」なのかを問おうとしていたともいえるのかもしれません。
そして、その「自由」は、生きること・生活すること・日々の暮らしという「自由」をいかに守るのかといった経済的な「自由」こそが、フーコーが議論する「自由」とも接続していくもののように思われると確認されていました。「自由」を拘束するのではなく、「自由」を守る主体として、権力――国家理性が発動し、統治をおこなうのです。国家理性は市場に参入する存在ではないため、市場に参入した個々人よりも一段階上のフェーズから介入/非介入にかかわりうるのです。
今日の内容は、国家理性が自由主義の下、一国が覇権を握る帝国的な発想から、お互いがよいお客さん・消費者として共存・共栄していくために市場を拡大させ、そうした「自由」な市場が国際的に「自然に」展開されていくことこそが平和構築の礎となるといった理解に至る展開が解説されていたかと思います。(「永遠平和は自然によって保証されるということ。…永遠平和の保証とはつまり、商業の地球規模の拡大なのだ、というわけです。」【P71L26-】)
ただし、その過程ではリスクのマネジメントが必要になるという議論も指摘されていました。講読会では、マッチングアプリも、市場の議論で理解できるのかしら?という話題で盛り上がったりもしていました。
マッチングアプリも人口管理などの観点でみれば、経済的な市場の応用事例として捉えられるのかもしれず、そのマッチングアプリの管理者は、いかに参入者が、「自由」に出会い、マッチングを成立させるか”統治”するような構造にあるものとみなせるのかもしれません。
「民主主義的自由は、自由にとっての脅威として告発される経済介入主義によってのみ保証される」ともあるとおり、巧みに「自然」にみせるような介入があって、この「市場」における「自由」は保障され、国家理性はあらゆる「リスク」をコントロールしなくてはならない、ということでもあるようなのです。
マッチングアプリも決して、「自由」なのかどうかは分かりません。身元を明らかにするような様々な管理体制が置かれたうえでの「自由」恋愛の市場が保証されたと謳う場ともいえましょう。いろいろな管理体制があっても、その市場の「自由」が守られるためならば――正当性が共有されていれば、そのような介入は”自然”を維持できるのかもしれないのです。
「自由」というものが、どのように生まれてきたのか。この議論は、正当性というものがどのように生み出されてきたのか、という議論にも通じるとのこと。ドイツの事例を取り上げながら、(そして日本の戦後のことも同時に問いながら)議論できたら、とのことでした。楽しみですね。
参加者の皆さんからのコメント
講読会に参加して、「自由」とは何か改めて考える機会になった。アメリカ大統領選挙では自由やフェアの捉え方で主張が変化したように、自由の受け取り方が複雑化していると感じた。また、市場において消費者の多様性はなくてはならないことであり、経済格差が生まれることや統治のための介入がなされることを私たちはどう受け止めて行動するのか考えさせられた。
今回の講義を通じて、自由主義的統治術の進化とそれが持つ矛盾について深く考えるようになった。「生政治」とは、経済の自由化が進む中で、市場の自律性と同時に規律や監視が強化されるという、自由と制約の二重性に注目すべきである。18世紀の自由主義者たちが市場の自由を促進しつつも、それを維持するために国家や制度が管理・規制を強化する必要があるという点は、現代の経済や政治にも強く関連していると考える。現代社会において、グローバル化や自由貿易が進む一方で、企業や国家の規制が厳しくなる現実を見れば、この矛盾がますます顕著になるだろう。自由市場の拡大が必ずしも社会全体の利益につながらず、むしろ格差や不平等を助長するリスクがあることを認識し、その上で持続可能な自由のあり方を考えることが重要であると考える。
自由と言ってもその自由を維持するためには、それを管理することが必要で、矛盾する手段を持ちいらなければいけないというジレンマがあると勉強した。私たちの社会は自由を謳う統治者が多いが、実際にはそれを巧みに隠して、わたしたちに自由であるように見えて自由ではない社会を作り出しているのだと学んだ。
第三講ありがとうございました。兵庫県知事選の終盤の斉藤候補への熱狂と、アメリカ大統領選での両陣営の熱狂を並べてみることで、フーコーのいう自由の生産と消費、民主主義を生き生きとしたプロセスにするために必要な、物語を創造することへのコミットメントが、スマホとネットによって実現されている状況が痛いくらいわかりました。とても面白かったです。 銃撃されるヒーロー、裁判で有罪判決を受けても立ち上がるヒーローが演じる逆転劇は、憲法や社会のルールを一旦無効にして国会議事堂に突入した<自由な>暴徒たちによって支えられました。一方で、全会一致の不信任決議を突きつけられても立ち続けるヒーローが奇跡の逆転を生むドラマは、私が、僕が、「自らの調査と判断の結果」、実は大手メディアの陰謀により騙されている世間を目覚めさせ、実は既得権益にしがみつく県議会、県庁役人、大手メディアによる斉藤改革潰しのためのニセ情報から覚醒したと自覚した<自由な>個人の集まりによって起こされました。 バーチャルというか情報環境ではリアル社会のルールを一旦白紙にすることができます、そこでは政治家でも市役所や県庁の役人でもないわれわれ個人が、政治的自由を生産し、消費することができる。だからこそバーチャルでの正義論は、単にリアルの反転ではなく、あるいは単純な二項対立の逆転に乗ってしまうのではなく、自分自身の倫理観を作っていくためのグラデュアルなプロセスなのだという捉え方が大切になるのではないでしょうか。メタバースとしての現在の社会における自由の意味は、リアル社会の境界や対立や固定観念を軽々と超えながらも、議決の結果が最終結論として固定化されるのではなく、常に状況とともに変容し得る柔軟な創造プロセスを目指すものになるのではないかと思います。そんなことができるのか、フーコーは情報テクノロジーをどのように考えていたのか、さらに関心が高まります。 マッチングアプリの件も興味深いやり取りで楽しかったです。
「自由」という言葉が、「自然であること」「なすがまま」「本来あるがまま」と捉えられてきたと確認してきましたが、「変な介入」を受けず、<私なりの私>が維持される、<私の意志>のまま成り立つ、みたいに捉えると、だいぶわかりやすくなるかもしれませんね。普遍的な価値としての「自由」と尊重されるきらいはありますが、そもそも「自由」があるところに「不自由」はつきものなのです。誰かが意志を通そうとすれば、当然我慢を強いられる人がいる。そもそも「真なる自由意志」が尊重されたり、「真なる集合的結論」が達成されたことなんてなかったはずなのです。私たちは私たちの自由意志を反映する国家を支持しようと思っているかもしれませんが、国家が私たちに応えてくれる、なんてことは幻想にすぎないのかもしれない――そんなことをフーコーは主張したかったのではないか、と考えたりします。
第四講| 「新自由主義の統治実践」 他(1979年1月31日) 2024年11月26日
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当日リポート
本日の講読会。フーコーが講義した時代に想いを馳せながら内容理解に努めた回であったといえるかもしれません。1979年当時。「国家嫌悪」という言葉が自然に聴衆になじむような時代であったのです。1970年代といえば学生運動が非常に盛り上がった時代。現国家に対する否定感が募り、国家に対してポジティブな印象を持つなんて言語道断!みたいだったかもしれない時代です。
当時、フーコーの講義を聞きに来る聴衆といえば、いわば「左翼的」学生ばかりであったかもしれない中で、フーコーが講義後半で語る社会主義批判?(批判というか、煽りというか?)は聴衆に媚びないスタイルで「いいよね」、「憧れるよね」という話題から今回の講義も始まりました。(たしかにかっこいい)
社会主義について触れられた今回の議論は、ドイツを事例とした新自由主義の統治実践に関する内容でした。なぜ、イギリスでもフランスでもなく、ドイツだったのか――。
戦後のドイツといえば、敗戦国のひとつ。そして、戦後最も経済的に飛躍を遂げた国の一つです。いわば、資本主義の目的を最も果たした国ともいえるような一例であったのです。
同じように日本も、やはり敗戦国の一つであり、かつ戦後の経済成長が目覚ましかった国のひとつです。フーコーの議論の中では特に日本について触れられていませんでしたが、ドイツと日本に共通していたことは、もしかしたら、社会主義的要素を資本主義にうまく組みこんだ点である、ということが確認されました。
日本独自の政策として、年金制度や国民皆保険制度などがありますが、考えてみれば社会主義的な発想に基づく制度ともいえるように思います。ドイツも、マルクス主義的思想を標榜していたドイツ社会民主党がその後政権を担います。(跪いて謝罪したことで有名なブラント首相もドイツ社会民主党)
いうなれば、資本主義と社会主義は対立するものとして捉え難く、同じ次元で並列して捉えるべきものではなく、資本主義に実装されるパーツ程度のものとして社会主義をみなすほうが妥当なのかもしれない、と議論されました。つまり、資本主義と社会主義は「自由主義」を尊ぶという同根を持つもの、という理解です。事実、今日の社会で経済的に成功を収めている国々をみても、社会主義を謳いながら市場を導入する国、資本主義と社会主義をハイブリッドで実装するような国ばかりです。
当然、理念としては区別して捉えられるべきことであるかもしれないにせよ、体現された実体は限りなく重なり合う部分が多い資本主義と社会主義。(「放課後」の時間、実際に土地の所有が国家であろうと個人であろうと、結局、「賃料」や「税金」などのような形で国にお金を支払っている実態をみれば、ほぼ客観的に同じ構造になっているよね、と確認されてもいました)
ドイツは、「市場の自由を守る」守護者として国家が求められ、経済が先立つ形で、ドイツという国の戦後復興を遂げたとても分かりやすい例でした。
自由主義的な経済に支えられ、国が豊かになっていき、そのことで「国家化」は強化され…やがては全体主義的なありようと表裏一体なものになる…という話題にも至りました。
ここからは、次回の講義内容にもかかわってくるようです。ドイツという国に注目する以上、ナチズムに関する議論は避けられません。次回の内容も楽しみです!
参加者の皆さんからのコメント
正直、私は政治や経済に疎いのでなかなか理解することは難しかったけれど、今まで正反対に位置すると学んできた資本主義と社会主義が、実際のところ重なっている部分も多いという話に驚きました。と同時に、今の中国の経済の成長の仕方を見て、納得できるところも多いと感じました。どうしても中学・高校の授業では一つの項目に対して深く取り扱うことが出来ないために、二つの用語が対立構造として紹介されることが多いけれど、こうして深く学んでいくことで、類似点やこれまで学んできたこととは異なる視点が見えてきて、気づくことの多い講義でした。
Zoomのアドレス変更に気づかず、途中からの参加でしたが、大変面白い内容でした。同じ敗戦国であるドイツと日本が、どちらも奇跡と言われる経済復興を実現したこと。その理由の一つがどちらも国家主体を失った国であったこと。日本は天皇制の存続ということで「国体」を保持し続けたかに見えますが、当然のことながら占領下の日本において、主権はGHQにあり、日本国民にも天皇にも主体としての権利はなかった。その意味でドイツと同じように経済活動の主体として、国家化を目指したわけです。日本はさらに防衛力という国家主権も捨てて、経済に知恵を集中することで、国づくりに邁進したということですね。マーシャルプランと計画経済について、日本では戦時中の統制経済をリードした岸信介と優秀な官僚が中心となって、官民総動員で産業の選択と成長計画を作り、集中と選択による産業政策を実現します。国家主権はとりもどさなくても官僚機構はぶん回る。回りすぎてロックフェラービルを買ったことで、主権のあり場所を嫌というほど思い知らされた訳ですが、このまま主体的国家への道を目指さない道を行くのか、あるいは変化し続ける世界のパワーストラクチャーの荒波をサーフするために、国家化を目指すのか。次回の展開が楽しみです。
今回の講義では、新自由主義の統治術と、特にドイツを中心に国家の正当性がいかに変容したかを理解した。新自由主義は市場の自由や競争を重視し、国家の役割を縮小するように見えるが、実際には市場を活用した統治や政策の正当化を通じて、国家が新たな形で機能していることを示している。そして、経済的自由は市民社会と国家をつなぐ役割を果たし、政治的な正当性を生み出す。特にドイツでは、経済成長が国家の正当性と政治的統一を形成する基盤となった。
新自由主義は単なる経済理論ではなく、経済的自由を基盤に国家の正当性を再構築する実践的な統治システムであることを学んだ。また、経済成長が政治的安定や市民の支持を形成するという視点は、現代の政策を考える上でも重要である。さらに、社会主義と自由主義の関係が、思想や理想の対立にとどまらず、統治の実務性や合理性という観点から議論されている点も新たな学びだった。今回の講義を通じて、統治が経済的合理性に大きく依存する問題が明らかになった。
国家の役割が変化する中で、個人が主体性を持つ必要性が増していると感じた。市場や経済が中心的な価値観になると、創造性や多様性が損なわれる危険性があると思われる。また、国家を不断の生成過程として捉えるというフーコーの考えは、グローバル化や技術革新による国家の変化との関連性を考えさせられた。戦後のドイツの新自由主義が経済を国家正当性の基盤とした点が興味深かった。講義を通して、市場の自由が人々の格差や権利侵害を引き起こす可能性の不安を感じるとともに、自由主義と統制のバランスを再考し、持続可能な社会を目指す必要性があると思った。
資本主義と社会主義が対立して、資本主義が勝利した、みたいに感じている人が多いかもしれませんが、そうではなく、資本主義にも社会主義にも両方に市場主義、自由主義というものは存在しているという議論でしたね。ここで、「市民性」というものを考えたとき、もはや「経済的自由」を意味するものでしかないのかもしれません。
そういう意味でも「持続可能性」という言葉の使い方も、考えさせられるような気がします。一体それは、誰にとっての、何にとっての「持続可能」なのか。もともとSDGsという概念も持続可能な開発という文脈で登場しているもので、経済発展を継続していくための議論とも受け止めることができるのかもしれません。結局この「持続可能性」という言葉は、市場主義の保存という意味あいで捉えるべきなのかもしれず、なかなか意味深ですよね。
第五講| 「ドイツ新自由主義」 他(1979年2月7日)2024年12月3日
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先週にひきつづき、ドイツの新自由主義についての議論が今日も繰り広げられて行きましたが、その前に視聴した動画は、斎藤知事が公職選挙法違反を疑われていることに関連した報道動画。SNS戦略を業者に委託した可能性がちらほらと伺えるような様子もあり、少し考えさせられてしまいます。
今となっては、もはや既に昔になってしまった?のかもしれませんが、アメリカ大統領選でも不正選挙を疑わせるようなトラブルが起こったりもしていました。今回の講読対象は、ナチズムについて取り扱っていたわけですが、まさに、アドルフ・ヒトラーもまた、レニ・リーフェンシュタールといった映画監督/芸術家を起用し、SNSならぬ映画などを活用しながら、”合法的に”選挙で選出されてドイツの首相となったのでした。そして、「自由主義の代弁者」として現れた点でも共通しているのかもしれません。どのように合法的に選挙で当選を勝ち取るか、などの戦略をみていても、そこには「統治術」がかかわってきているといえるのかもしれないと議論されました。
結局のところ、オルド自由主義者たちはいわば、ナチズムをだしにして、国家の正当化を果たす自由主義のあり方を提起していったともいえるのかもしれません。一見、ナチズムは国家主義者としてみなされそうなところがありますが、国家よりも党を重視していた存在であったとして、自由主義者たちは、国家を否定することはしません。
逆に、資本主義を擁護する存在として現れたヒトラーは、ドイツの国民がよい市場が得られるようにポーランドをはじめとする国外に軍事進出していったのであって、国家が大規模に介入しながら労働市場を確保していったとみなすことができるのです。まさに国家による市場管理です。
オルド自由主義者たちは、「国家による市場管理」、国家が介入しすぎることが、全体主義に至った背景であると指摘し、その”転倒”を図るのです。
「市場のよさ」を無視していたナチズムによる統治の反省から、国家が市場のためになるような統治を目指し、新自由主義が提起され、結果として、ドイツという国家化が進んだとフーコーは議論しているようです。
ただ、今回のフーコーの講義終盤に登場した市場の本質性にかかわる議論。どうやら、市場の本質性として「交換」と「競争」があるとフーコーは示したいようですが(その、ウェイトの置き方に変化があったということらしいこと、またフーコーの説明はもしかしたら言葉足らずであるかもしれない点も解説されました)、恐らく「交換」と「競争」の性質には大きく異なる点がある。
フーコーは、「交換」においても「競争」においてもprice「価格」という表現を用いていますが、恐らく、「価格」は「交換」を通じて生まれるものです。「競争」からはvalue「価値」が生まれる(「価値」は競争からしか生まれない)という理解も共有されました。
市場における自由とは、もはや「競争する自由」です。しかし、常に競争を生み出し、競争で価格を決め続けていくためには多大な介入も必要となってしまうことにもなるのです。それは結局、市場における「自然」とはかけ離れたものになっていくということ。競争には、ルールとジャッジが不可欠であり(スポーツと一緒)、そこに「統治術」が求められるようになっていったということ…。
このあたりの議論が、次回以降のフーコーの講義に含まれてもくるようです。「競争」への参加をけしかけられて、それを「自由」と諭されても、なんだか癪だなあと感じますし(さらに、その「競争」に乗れないお前は努力が足りんとか叱責されるのとか、腹立たしいですね)、そこから降りるありようはないものかしら?と思いますが、そのあたりのヒントも探りつつ、議論しつつ、読み進めていきたいです。
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第六講| 「社会政策と調整」 他(1979年2月14日)2024年12月10日
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第七講| 「新たなる資本主義」 他(1979年2月21日)2025年1月7日
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第八講| 「社会保障と新自由主義」 他 (1979年3月7日)2025年1月14日
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第九講| 「アメリカ新自由主義」 他(1979年3月14日)2025年1月21日
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第十講| 「犯罪と行動管理」 他(1979年3月21日)2025年1月28日
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第十一講| 「ホモ・エコノミクスと統治」 他(1979年3月28日)2025年2月4日
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第十二講| 「市民社会とは何か」 他(1979年4月4日)2025年2月11日
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