まなキキオンライン講読会_第12弾(ゆるフーⅦ)『主体の解釈学』(2)

ものを書くウサギのイラスト オンライン講読会

さんかくすと文がえます

繰り返す災害・〈災悪〉、崩壊する国際秩序、深刻化する経済、形骸化する教育と私たちの「学び」、そして高齢化・少子化・過疎化…。自らの社会が、これほど〈危機〉に直面する時代に、私たちはどう主体となり、どう対峙していくのか。前期に続き「フーコー講義集成の最高峰」に対峙し、読み切り、議論しきります!


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※ 大学研究会の主催ですが、お申込み者は、自由に一回からご参加いただけます。お気軽にご参加ください
(どなたでもご参加いただけます!)

 

講読会について

講読書籍

ミシェル・フーコー講義集成 < 11 >「主体の解釈学」(2)
(コレージュ・ド・フランス講義1981-82)
ミシェル・フーコー著   廣瀬 浩司・原 和之訳 筑摩書房(2004年)   

開講時数が多く(章立てが多く)一度の講読会では読み終えない分量なので、前半10講義分を2025年度前期のゆるフーⅥで講読し、今回のゆるフーⅦで後半の講義14回を読み進め完読する予定です。

講読期間

2025年10月7日(火)~2026年1月27日(火) 全14回
※10月21日、11月18日、12月30日は休会です

開催時間

18:00-19:30ごろ(入退室自由)

開催場所

オンライン(ZOOM)開催

 

参加方法

ご参加方法には、①一般参加会員、②継続参加会員、③傍聴参加の三種類があります。

 

  • ①一般参加会員
    その都度ごと参加の申し込みを行って参加いただくものです。
    当日の講読に必要な資料を事前にお送りさせていただきます。
    ご参加予定の講読会の一週間前までにこちらのGoogle Formよりお申し込みください。
  • ②継続参加会員
    継続的に講読会にご参加いただくということで登録される会員です。
    講読会に必要な資料を事前にお送りさせていただきます。
    ※ 参加登録は一度のみで完了いたします。
    ※ また、継続参加会員が毎回必ず参加が必要というわけではありませんので、ご都合に合わせてお気軽にご参加ください。

    お申込みはこちらのGoogle Formよりどうぞ!
  • ③傍聴参加
    特に講読用の資料を希望せず、ZOOMでの傍聴のみを希望される参加のスタイルです。
    一回のみのご参加でもお気軽にお申込みいただけます。
    ご登録いただいた方宛てに、開催前にZOOMのURLをお送りいたします。
    お申し込みはこちらのGoogle Formよりどうぞ!


 

第一講| 一九八二年二月十日①「自己への配慮と立ち返り」 他
2025年10月7日

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当日リポート

 久しぶりの講読会が開催された本日、10月7日は、ガザが最も深刻なクライシスに置かれるきっかけとなる戦争の始まった日から2年、というタイミングでした。生きることの危機とか、生活の危機とか、そういうレベルではない危機――理念や理想の危機(例えば、当たり前のように享受するものかのように思われた「人権」がことごとく否定され、成り立たず、信じられなくなってしまうような事態)である、ということ。そして、そのガザのことを考えていくことが、わたしたちがわたしたちとして成立していくためにも必要かつ重要であると思われること。
 だからこそ、今回の講読会を通じて、ぜひガザのことも考えていきましょう、と思いを共有するところからはじまりました。

 今回のテーマ?は、「自己への配慮と立ち返り」。そもそも「立ち返り」とは、英語ではconversionと訳されるようなものです。…変換。かわること。変化…。
 何がどう変化するのか?という点について、講読会の議論では大きく二つの観点(視線を向ける対象の変化、視線を向ける目的となる”変化”)で整理されていたように思います。

 フーコーは、プラトンの時代、ローマ・ヘレニズムの時代、キリスト教の時代とそれぞれで現れていた「立ち返り」とその違いを解説していました。特にフーコーが注目しようとしていたのがローマ・ヘレニズムの時代における「立ち返り」ですが、この「立ち返り」については、視線を向ける対象の変化、という点で説明していたように思います。
 《視線》とは、そもそも自己から他者に向けられるもの、他者をみることを本質的な機能として備えた行為として理解できると思います。でも、視線を他者から自己に向ける、という「立ち返り」が、ローマ・ヘレニズムの時代で鍛錬されてきた、といいます。

 視線を自己に向ける、とはどういうことか?――「自分がどのような人間であるか」を説明することではない。「自己を認識の対象とする」という話(≒汝自身を知れ)ではない。
 講読会の中では、固定的な不動の確固とした自己があるとみなすのではなく、よりよい自分に変化していくことができるように、成長していくことができるように、変わっていくための運動としてみる……視線を自己に向けることとは、つまり「よりよくなるために自分をみようとする運動」なのだ、と解説されていました。

 よりよい自分になっていくために、その指針ともいうべきか、よりどころになるものはどのようなものなのだろうか(他者や社会なのか?)という疑問も挙げられていましたが、他者や社会から影響をうけて生きる、ということとは違うのではないか、と指摘されていました。
もしかしたら、社会に(暗黙的に)要請されるかたちで、自分は「○○(例えばユダヤ人)」と捉え、良き「○○」として生きようとしたら、結果として、自らが「○○」であるために、他者に変化を要求することになるのかもしれません。
 ですが、他者や社会からの影響を受けることなく、自己へ配慮する(よりよい自分のありようを目指す?)ことができていたら、もしかしたら、時に自らを修正しながら、自分にとっての生き方の核のようなものは変更せずに、他者と共にあるために変化していくこともできるのかも……そういう議論だったのだろうか、と思いました。

 「ちゃんと大人になる」、「ちゃんと人間になる」、といった表現でも解説されていましたが、これは「自立論」としても読んでいくことができるのだそうです。それは例えば、どのような人と接するか、状況に直面するかで、自分にとってのポリシーが変わらないこと(たしかに、ジャイアンはのび太に対しては「強い自分」が大事だが、常に、誰に対しても「強い自分」であろうとしているわけではなさそう)。自分が自分で選択して、自分として生きていくことができるように、自分にとっての目指すありようを自分の頭で考えて、研ぎ澄ませていくことができること?。そして、さまざまな出来事を自らの反証可能性のきっかけとして、自分を修正していくこと…。

…全然、できてないなと正直落ち込みまくりで、気分もどん底だったりすることもあったのですが、それを自分を変える原動力にすることさえできれば、自分が「よりよい自分へと変容していく知を得た」と理解してもよいことなのかもしれません(超ポジティブ思考かもしれないし、開き直りでしかないのかもしれませんが)。
しかし、巷にあふれる言説の多くが、「第三者に求められるために・必要とされるために・望まれるために、どうあるか」ばかりで、かつそのプレゼンテーションを絶えず求められている状況にあるなと思いつつ。だから、今、この本を読む意味もあるのかもしれないですね…。

次回は、自己に向けられた視線が、世界の事物や自然の認識に向けられた視線と対比させたときにどのような意味を持つのか、について話すと予告されています。予告通りとは言い難いようではありますが、楽しみに読み・学んでいけたらと思います…。

 

参加者の皆さんからのコメント

ガザで今起こっていることはあらゆる物事を考えるべき事案の出発点になり得るとあり、その例もいくつか挙げられていましたが、その中で政治体制、人権などは繋がりがわかるのですが、産業、生業がどのようにガザの問題と繋がるのかあまりピンと来なかったです。
ユダヤ教(キリスト教?)原理主義によってイスラエル政府の行為が正当化されているとあり、イスラム教も過激な原理主義グループが人権問題やテロなどを起こしたことがあると思った。もしかしたら、大昔に設立された宗教原理が現代に適合していないために、価値観などがずれて孤立している事も要因なのではないかと考えた。
他者や社会に望まれるような形ではなく、自分のためにより良い自分になるというのは、話にあったようにプラトンのパイドロスにもあると思った。確か知と愛を追うことで魂の位を上げるという内容だったと思うのですが、そうする理由は、現世のものは紛い物であり、真実を見るためということなので、これも周りの影響を受けて自分を形成していくことなのかもしれないと思った。
ネット環境が悪くて後半があまり聞けなかったのが残念ですが、次回までに少しずつミシェル・フーコーを自分で読んでみて、もっと理解できるようにしようと思いました。

フーコーについての知識がまったくない状態で今回の講読会に参加させていただいたため、レジュメをあらかじめ読んだとき、全く理解できずに焦っていたのですが、先生方がわかりやすく解説してくださったため、なんとなくわかった気がします。自分自身をみることで他者と切り離して自分を陶冶することができるという話だったと解釈しました。今のガザの話とも関連づけることができて、現代の環境でも通用する話だと思いました。また英語とフランス語の微妙な違いについても触れていて興味深かったです。

主体化のために視線を他者から自己に変更することを、認識をする主体と認識の対象との関係で考えてみると、他者の話は私にとって単に認識の対象でしかないですが、同じように自己を分析したり解釈することも、自分を認識の対象にすることでしかないので、ここでいうコンバージョンとは違っています。日本の弓道の例が引かれていましたが、弓の的と自分の関係を主体化するとは、対象である的とそれを狙う自分の関係を、双方向のものと認識し直すこと、自分が的を狙うとともに的が私を狙う関係にすることで、極端な話、的と自分が一体であると思えるところまで自己を変容させること、集中による自己の変容を目指すことを「立ち返り」と表現しているように思います。したがってここでの主体化は、対象だけでも自己だけでも成り立たず、この両者の距離を縮めて重ねようとすることで訓練されるのではないでしょうか。その場合対象は自分の目的であり、目的は自分でもあります。

 

第二講| 一九八二年二月十日②「真実と主体化」 他 
2025年10月14日

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当日リポート

 トランプ和平を通じて、ハマス拘束の人質の解放がもたらされました。支援物資も搬入されることとなります。crisisは予想外にはじまり、予想外におわるもの。ずっと果たされなかった停戦が実現した、という意味において、トランプはノーベル平和賞狙いで「他人事」的にこの問題をdealしてきた可能性は否めませんが、それでも評価されたり、議論されるべきなのかもしれない――そういう指摘から始まりました。
 右翼とはこういうもの、左翼とはこういうもの…そういったステレオタイプや一般的な常識では理解できないような、適用されないような時代が始まっているのかもしれず、その入り口がガザなのではないか…。決めつけでどうしても対象を理解したつもりになってしまいがちですが、そのような理解や認識の仕方は、自分にとっても、真実を知ることからどんどんズレてしまうという点で、恐らく不利益がある――。

 では、私たちは、どうふるまうべきなのか。グレタさんのようにイスラエルに突入することはできない。遠い地の出来事に自分たちをどうかかわりづけて考えたらいいのか、なかなか分からない、という感じもあるのかもしれません。

 私たちは、どうしても「世界」を対象にものを見ようとすると、さまざまな思い込みや前提、「常識」に邪魔されて、影響を受けてしまって、考えが揺らいでしまうこと、右往左往してしまうことがある。
 だからこそ、ガザのことを考えることを通じて、自分たちのことを、自分たちの危機のことを考えよう。自分たちの危機についてしっかり考えられた時、ちゃんとガザの危機についても考えることができるようになるのかもしれない――改めて、ガザについて考えることの意味を確認しながら議論が始まりました。

 また、この日、丁寧に取り上げられていたのは、「のび太を生み出してしまうこと」と「のび太化してしまうこと」という構造が、あまりにも私たちの日常になってしまっているのではないか、という指摘だったように思います。
 いじめっ子としてのジャイアンは、いじめられっ子であるのび太がいなければ成立しない。その意味でジャイアンはのび太に強く依存する関係にある。のび太がいなくなってしまったら、いじめっ子たるジャイアンの存在根拠は揺らぎ、自らを定義することができなくなるかもしれません。
 一方で、ガザ、ヨルダン川西岸は、イスラエル・アメリカにとってののび太的存在なのかもわかりません。イスラエルがイスラエルたりえるのは、ガザ、ヨルダン川西岸があるから…かもしれない。

 何者かに、何かに依存して自らを定義するのではなく、そういう存在なく「主体」となったところで、関係を結んでいくことができたなら――。自己へ配慮することを通じて、最終的には他者からの影響をコントロールすることも考えていく必要があるのかもわかりません(フーコーはそこまでは指摘していないようですが)。いじめっ子・ジャイアンが、のび太の存在を欠かすことができないという事実を自覚できていないのと同様に、私たちものび太を生み出している・のび太化させられている、という構造の中にあるのかもしれません。
 少しでものび太を生み出さないようにするために、自己への配慮;自己に視線を向けることの意味を確認することが、今日のフーコーの講義の内容になっていたように思います。

 パイデイアと称されたエピクロスの嫌悪の対象は、知識の豊富さをひけらかし、終始他人事的な態度で振る舞う評論家的な存在です。そうした意味で取り扱われる「教養」と対比的に挙げられていたのが、「自然研究」という知のあり方でした。
 講読会では、いわば、自分事として考えるような知、とも説明されていました。自然研究とは、自分を構成する要素である自然を研究するという意味で、自分のことを説明する、自分事として捉えることそのものです。自分を構成する要素として自然を捉えることができたら、そのように向き合えていたら、自然をおろそかにすることもないのかもしれません。

 ただ、今の学校現場でされていることは、自分事として考えるような知のあり方とは遠ざかり、どれだけ知識を蓄えたか、テストの点数や入試の評価に関わる知識を得られるか、ばかりに傾倒してしまっているのかもしれません。ある種、そうした学び方にとらわれてしまい続けている私たちは「のび太化」された存在で、この教育体制や制度こそがジャイアン的な存在とも見なせるのかもわかりません。

 危機への対峙で、ヒーローや救世主的存在に依存することはできません。危機に対峙するために、そのために学ぼうとすること、もがくことは、自分事としての知を獲得することにつながるのかもしれないと感じました。

 次回の内容も楽しみです。秋はイベントシーズンです。ぜひ、元気に楽しく交流しつつ学んでいきたいと思います。

参加者の皆さんからのコメント

今回からの参加だったのでついていくことができるかどうか不安だったのですが、前回の購読会の振り返りを丁寧に行ってくださったので楽しむことができました。
ジャイアンやのび太の例え話は、日々を自分の思い通りにしていくために気付かぬうちに何かに依存していていないだろうか?ということだと解釈しました。その例え話を通して自分は無意識のうちにジャイアンになっていないだろうか?と考えるきっかけになりました。それに関連して、いじめっ子はいじめられっ子が必要なのでいじめられっ子に依存していると考えることができて、いじめられっ子がいなくなると自らがいじめられっ子になることもしばしばあるという柴田先生のお話は、言われてみてれば納得できますが、考えたことのないようなポイントだったので刺激的でした。
今回の発表に関しては、パイディアの例としてコメンテーターの話がなされていましたが、SNSが発達した現代においてはパイディアが影響力を持つことも目立ってきたと感じています。個人的な政治思想が出てしまうので詳しくは慎みますが、平気でデマを流す政治家はそれの最たるものだと思います。
個人的な話になってしまい恐縮ですが、私は高校時代に不満を持ちながら定期試験の勉強をこなして、その甲斐あって指定校推薦で大学に入学しました。どんな不満だったのかというと、定期試験が参考書と全く同じ問題かつ同じ形式で出題されて、60分で100問を解く(1問1点)という内容だったのです。つまり、問題と答えを対応させて丸暗記しなくては解けないというものだったのです。例を挙げれば、「文頭にTomが来たら③を選ぶ。」というような具合です。この勉強が有用なのか無用なのかは言うまでもないでしょう。それを考えれば大学の勉強は柴田先生の反転授業のようなアクティブな授業もありますし、自己肯定できる主体の育成に与していると思います。

卒業後教員になることを視野に入れているので、いじめによる自己の確立の話に関心を持った。いじめっ子は存在を確立するために、いじめられる側に依存しているため、いじめられる側がいなくなった時にいじめっ子はいじめられるとありましたが、彼らの依存は自分の存在の弱さや、立場の確立されなさによる恐怖からなるのではないかと考えた。
そうであれば、よくあるいじめの対処として、いじめられた生徒が学校を休んだり転校したりするというのは、被害者に大きな負担を押し付けているだけでなく、なんの解決にもなっていないため無意味であるとわかった。いじめっ子がいじめられる側を求めている以上、次のいじめが起こってしまうので、必要なのはいじめた生徒に対する何らかのアプローチ(カウンセリングくらいしか思いつきませんでした)ではないかと思いました。

セネカやマルクス・アウレリウスの時代に真理と考えられた知は、「命令的」であり、「主体を変容させるもの」ですが、わかる者にはわかるということで、それは頭の良さとか理解力ではなく、自分が真理のもとに生きようとする態度、エートス的であるということですね。真理に向かう主体の変容こそが主体化のプロセスであるとすると、この時代における主体化とは、真理に従属しようと自己を変える過程であって、自己と真理の関係は、自己実現のために真理があるのではなく、真理の実現に集中して精進することが、主体的に自己を実現することになりますね。

第三講| 一九八二年二月十七日①「統治性と自己」 他 
2025年10月28日

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当日リポート

 ガザのことも、能登のことも、ほとんど記憶のかなたになってしまいがちかもしれない今日この頃。それはつまり、どういうことなのか…、改めて喚起させられるような振り返りから始まった講読会でした。
 冒頭でみたニュースでは、国際司法裁判所(ICJ)が「イスラエルには国連やその関連機関によるパレスチナ・ガザ地区への人道援助物資の搬入を促進し、パレスチナ人民間人の基本的ニーズを満たす法的義務がある」という見解を示し、イスラエルがそれに反発したことを伝えるものでした。
 ですが、そもそもイスラエルがパレスチナを占領していることは、国際的な常識で考えてみれば既に違法なのです(プーチンは「なんでイスラエルはいいのに、ロシアはダメなのか」とずっと指摘しているらしい)。結果として、かなりICJはじめ、世界が相当イスラエルに妥協するかたちでガザの事態を収めようとしている、というのが実情であるようです。にもかかわらず、ICJの見解にイスラエルが反発している……この究極的なCrisis状況にあるガザを「解決」するという具体案が、アメリカのいうガザ分断案です。

 徹底的に根こそぎに破壊されたガザを、どのように新たに統治していくのか――とても厳しい状況に置かれているように思われますが、イスラエルの人々の多くは、こうした現状を肯定的に受け入れているとも紹介されていました。その背景には報道の偏りや、それこそ「偏見」や「ステレオタイプ」もあるようです。今でこそ、BBCの報道などが流れ始め、新たに判明してきたニュースによって、人々の反応も変わってくるかもしれない、という指摘もありましたが、まさに”世界を知らない”ことが、自己統治をゆがめているのかもしれないのです。

 現在のイスラエルは、パレスチナがあってこその大国ともいえます。まさにジャイアン(映画版以外)がのび太に依存して”いじめっ子”でいられているのと同じです。のび太やパレスチナ側にしてみれば、別にジャイアンやイスラエルがいようがいまいが関係ないのですが、ジャイアンやイスラエルにとっては、依存する対象なしには自分という存在が成り立たないのです。自己統治を自らの手放してしまっているという状況とも説明されました。しかも、ジャイアンは「のび太がいなければ自己定義できない」という事実をも自覚することができていないのです。
(だから、いじめ構造を解消するには、ジャイアンを除去するほかありません。そのためには、ジャイアンはのび太を必要として自己が成り立っている事実を自覚するところから始めるしかない、とも説明されていました)

 考えてみれば、攻撃対象がいてはじめて成立する論や立場、人というものは少なからず存在しています。「お前は間違えている」「私(のほう)が正しい」とも見なせるようなポジショニングは、フーコーが批判するような、「教養」的な知のあり方に起因するものなのかもしれません。
 それに対する知のあり方として、フーコーは、自らを自らたらしめる自然の中のロジック、因果関係を把握し、自然を鏡のように機能させて自らに立ち返る「自然研究」の重要性を指摘しようとしていたのかもしれない、とも共有されていました。

 自らがどのような構造のなかに生かされ、何を犠牲にして生きているのか、ということから目を背けて生きることは、ますます何かへの依存を強めていくのにもかかわらず、依存している事実認識からは遠ざかり、ジャイアン化していくことにほかならないのかもしれません。
 まさに自らが「排除する」主体の側になっているかもしれないこと、ジャイアン化した帰結としてガザがあるのかもしれないこと――フーコーも、「自己の自己への関係においてしか、政治的権力に対する第一にして究極の抵抗点はない」としていましたが、だからこそ自己への配慮、立ち返り(ヘレニズム的モデル)において重要な自然研究について、もっと理解を深めていくことができたら…と思います。
 次回も、さらにそのあたりを読み進めていくことにもなりそうです。ぜひ楽しみに議論していきたいと思います。

 

 

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第四講| 一九八二年二月十七日②「自己認識と世界認識」 他 
2025年11月4日

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第五講| 一九八二年二月二十四日①「表象と自己」 他
2025年11月11日

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第六講| 一九八二年二月二十四日②「真実を語ること」 他 
2025年11月25日

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第七講| 一九八二年三月三日①「聴くことと修練」 他 
2025年12月2日

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第八講| 一九八二年三月三日②「語り・真理・主体」 他 
2025年12月9日

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第九講|一九八二年三月十日①「パレーシアの概念化」 他 
2025年12月16日

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第十講| 一九八二年三月十日②「パレーシアと主体」 他
2025年12月23日

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第十一講| 一九八二年三月十七日①「生存の技法」 他
2026年1月6日

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第十二講| 一九八二年三月十七日②「生の技法と自己への配慮」 他
2026年1月13日

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第十三講| 一九八二年三月二十四日①「主体の試練と災悪の予期」 他
2026年1月20日

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第十四講| 一九八二年三月二十四日②「生の技術, 自己の試練, 哲学の修練」 他
2026年1月27日

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