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私たちが日ごろ触れるニュースや情報は、どんなふうに私たちの元に届けられているのでしょうか。どうしてその情報が「本当」といえるのでしょうか。
どんな手順を踏んで、その情報を手に入れたのか。人に聞いたのか、自分の目で直接見たのかによっても違うでしょう。
もしかしたら同じものを見ていても、「誰が見たか」によって、全然違ったものとして理解されることだってあるかもしれません。
私たちには、伝えられる情報や知識が「本当」にそうなのか、納得がいくまで悩んで考えて、心の底から「そうなんだ」と思えるまで、時間をかけることが許されています。学校で習うことは、そのための道具として必要なことが多いです。
学校で学ぶことにも「なぜ、そうなる」という疑問を持つこともあるかもしれません。皆さんが疑問に感じることと同じようなことに疑問を抱いて「研究」している大人も大勢います。
みんなが大切にしているのは、「分かっていること」と「まだ分かっていないこと」をすみ分けて考えることです。
「分かっていること」を少しずつ積み重ねて、じわじわと「分からない」を「分かる」ようにします。難しい言葉で言うと「論理的思考」とでも言えるでしょうか。
それでも、絶対的な真実があるのかどうかは、誰にも分かりません。長らく大勢の人がこの点についても議論してきました。
なぜなら、私たちが生きる時間はそれぞれに固有で(つまりものの感じ方や見え方、聞こえ方は私とあなたとで違うのです)、そして、一度過ぎてしまったらその時間は永遠に戻らないからです。
私たちにとって「絶対」といえるものはほとんどないのですが、それでも「どんなふうに生きたいか」、「どのような生き様が人として立派といえるのか」という理想は、自分にとっての目標として掲げることができます。ずっと、みんな、「どのように生きるべきか」、「どう死まで突き進むべきか」を考えてきたのです。もう亡くなった昔の偉人も、昔はみんな、みなさんと同じような子どもでした。そして、それぞれの人生を必死で生きて、「知らないこと」を知ろうとして、納得がいくまで考え抜いてきました。“分からない”ことを分かっているから、「知ろう」という気持ちになるのです。
どうやって調べたりできるかな。 昔は子どもだった、という大人はどんな言葉をのこしてくれたのかな。 次のページでみていきましょう。