ユルくみんなで読むフーコー_まなキキオンライン講読会第3弾

イラスト:巨大蛙を倒す戦士 イベント

さんかくすと文がえます

 

…社会を覆う「コロナ禍」、遅延する「ワクチン」、長引く生徒・学生たちの「学びの危機」…。
だからこそ「社会は”防衛”されなければならない」…。では、「誰」によって?「どの」ように?
混乱し激変する今だからこそ、私たちに求められているのは、揺るがぬ思索の支柱なのではないか。
上から目線の専門家抜きで、「生権力」を自由に論じ合う、ユルく挑戦的な講読会をめざします。
「学びの危機」に抗うきっかけづくりのためにも、ぜひ、一緒に読んでみませんか?

※ 大学研究会の主催ですが、お申込み者は、自由に一回からご参加いただけます。お気軽にご参加ください。

(どなたでもご参加いただけます!)

講読会フライヤーPDFはこちら

 

 

講読書籍

『社会は防衛しなければならない』, ミシェル・フーコー著, 石田英敏・小野正嗣訳、筑摩書房(2007年)

講読期間

2021年5月25日(火)~2021年8月3日(火) 全11回

開催時間

18:00-19:30ごろ(入退室自由)

参加方法

ご参加方法には、①一般参加会員、②継続参加会員、③傍聴参加の三種類があります。

 

  • ①一般参加会員
    その都度ごと参加の申し込みを行って参加いただくものです。
    当日の講読に必要な資料を事前にお送りさせていただきます。
    ご参加予定の講読会の一週間前までにこちらのGoogle Formよりお申し込みください。
  • ②継続参加会員
    継続的に講読会にご参加いただくということで登録される会員です。
    講読会に必要な資料を事前にお送りさせていただきます。
    ※ 参加登録は一度のみで完了いたします。
    ※ また、継続参加会員が毎回必ず参加が必要というわけではありませんので、ご都合に合わせてお気軽にご参加ください。

    お申込みはこちらのGoogle Formよりどうぞ!
  • ③傍聴参加
    特に講読用の資料を希望せず、ZOOMでの傍聴のみを希望される参加のスタイルです。
    一回のみのご参加でもお気軽にお申込みいただけます。
    ご登録いただいた方宛てに、開催前にZOOMのURLをお送りいたします。
    お申し込みはこちらのGoogle Formよりどうぞ!


 

第一講| 一九七六年一月七日「従属化された知」他 /2021年5月25日

担当:大学生Mさん
当日資料はこちら

当日リポート

 講読会のタイトルのとおり、「ゆるゆる」と始まった講読会。
初回から100人以上の方に参加していただいて、ややドキドキしながらもスタートしました。

 
 取り上げるのは、本当に現在の私たちを様々な面で思想的に牽引し続けているミシェル・フーコーの議論。特に、コレージュ・ド・フランスが一流の教員たちに課す「最新の知見を反映した講義」のフーコー版ということで、著作とはまた異なる形でフーコーの議論に触れていくこととなりました。
 冒頭S先生からご説明いただいたとおり、今回取り上げる講義録は、フーコーがコレージュ・ド・フランスで教鞭を執るようになってから6年目のもの。この年の講義がまさに「生-政治」の議論の端緒となっていく、ということを受けてのセレクションとなりました。

 

 さて、大学生Mさんに報告していただいた内容を通じて――特に、フーコーが最後に提起した「政治とはほかの手段によって継続された戦争である」(P19, l1)という言葉と、それを受けての「社会を防衛することの意味」を理解しようとするところから議論は始まります。
フロアからも「権力を行使することが戦争なのだとしたら、国家に存在する憲法や法律はどのような役割を持つのだろう?」という質問が挙げられました。

 
 そもそも、ある種、衝撃的な「政治とはほかの手段によって継続された戦争である」という言葉は、フーコーが戦争に関する議論を実施してきたクラウゼヴィッツ(『戦争論』などを執筆)の「戦争は、他の手段によって継続された政治である」という言葉を逆転させて提起したものです。そしてその狙いは、まさに、その「権力」というものを論じようとするところにありました。

 
 また、「ローカルな性格」とはいったい何なのだろう?という疑問もチャットで投げかけられました。フーコーは、この「ローカルな知」と位置付けたものを、「学問的知識」と戦わせていこうとするわけなのですが、ここでの「ローカル」は、権威から一番遠いものと捉えることができて、「グラスルーツ的なもの」とも解釈しうるようなもの、という説明もされました。
「学問的知識」が規定されていくことによって、”資格を剥奪された”一連の知は、それぞれの場所でバラバラにあったともいえます。フーコーは、諸々の従属化させられた知をまとめていくような試みとして「系譜学」を提起し、それが「学問的知識」に対抗していく試み――「知の回帰」と位置付けるのです(p12)。
フーコーは、「従属化させらていた知」のことを、「機能的一貫性や形式的体系化のなかに埋もれ隠されてきた歴史的諸内容」のこと、ともしています(p10, l9)。まさに、「系譜学」は「従属化した諸々の知を働かせる戦術」(p14, l5)なのだとして、その「新たな科学」を考えていくためのissueとして、「戦争」のはなしを提起したのです。

 

 参加してくださった多くの方にとって、フーコーの「政治は戦争」という仮説が、ある種、衝撃的なものとして受け止められた背景には、まさに、これまでの「権力」論では議論されてこなかった、見えてこなかったある一つの抑圧構造を明らかにしようとするからこそであったともいえるかもしれません。
これまでの「権力」理解では、「支配における闘争」--誰かが誰かを支配する契約関係にあるものでした。ですが、「戦争」とは、我々が「防衛しようとする」ことがすなわち我々を「抑圧し、追いつめる」ある「権力」の形であるのではないか、とフーコーは議論しているようなのです……。

 

 あっという間の90分で(本当に冒頭の冒頭で、ごにょごにょ言っていたせいかもしれません…。すみません)、時間が足りないと思わさせられるのは、さすがというか、やっぱりフーコーといったところでしょうか…(フーコーに失礼な気もする…)。
来週も楽しみにぜひご参加くださいますとうれしいです。

 

参加者の皆さんからのコメント

ミシェル・フーコーは昔のひとであるのに現在にも通じるところがあって、考えや理論は時代を超えるのだとわかりました。戦争とは何か、政治とは何かなど突き詰めたら簡潔に一つにはまとまらないようなことでも、今回のイベントのようにみんなで考え、議論することに意味があるのだと思いました。知の在り方とは何かという点では、今までは科学的な実証をもとにしなければ根拠を持たないと、反科学的なことは排除されてきたけれど、本当の意味で理解するには排除してはならないのではないかと思いました。ローカルな性格とは最も権力から遠いことであると学び、なるほどなと納得しました。誰かが権力を持たなければ、人や国をまとめることができないので、権力は必要不可欠だけれど、権力からはなれて生活しているひとも、権力に服従せざるを得ないひともいるのだということを頭にとどめておきたいです。だからこそ、権力を持つものは乱用せず、なるべく多くの人の幸福を考えてほしいと思います。この感想を書いていて、本当に今のコロナの時代と同じことを言っているなと感じました。国や政府という権力の下に置かれた私たち国民は、権力に従わなければいけない。緊急事態宣言、休業要請を受け入れ守らなければならない。しかし、権力を持つ者には相応の責任が伴うと思うので、給付金はどうするのかなど、しっかりと国民の声に耳を傾け、対応していくべきだと思います。

抑圧としての権力、戦争としての権力は、今のコロナ禍での行動制限についても言えると思った。海外で行動制限に対する大規模なデモもこの考えが根底にあるということなのでしょうか。

フーコーにとっての権力の主体は市民である、我々が我々を抑圧する、という話がありましたが、それについてです。今、COVID19とか緊急事態宣言とかまんぼう、ですごく息苦しい日々です。何か一つするのにも、すごく気を使うし、正体の分からない息苦しさがあります。それは、緊急事態宣言とかまんぼうとかの、所謂、政府とか県とかの権力側からのものによってか、といえば、実際それもありますが、でも違う。この息苦しさの正体は、政府によってだけでは説明しきれません。おそらく、自粛しろ、とかマスクしろ、とかマスクするなとか、とか密になってるとかなってないとか、消毒したとかしないとか、人々の色々な声全てによって作られていて、つまり、今我々を縛っている息苦しさ、は市民、もっと言えば自分の周囲の人たち、によるものかなと思いました。
今回の話はそれと似ているのかな、と思ったのですが、そんな感じなのでしょうか?

ローカルな知について、私は単純に、全員が共有しているわけではなく、一部のみで共有された限られた知と理解したのですが、間違いでしょうか。

今回のお話は中心と周縁についてのものであるように思えました。権力、科学、制度は自身を中心としそれ以外を周縁に追いやり抑圧していく性質を有しているもので、フーコーはそういった中心ー周縁といったあり方を否定し、中心のない知を確立しようとしたのではないかと考えました。権力は、それを有する者を防衛するための制度を構築し、その地位を固定化する、それが戦争の一形態としての権力の本質なのだと思いました。

戦争は抑圧が生まれることを知らずに自分のことを防衛しようとする市民によって起こるものだという考えを聞いて上流階級の人が持つ権利とは違う恐ろしさが市民が持つ権利に潜んでいるのだと思いました。

支配と被支配は対立しているものではなく、場合によっては同義なのかもしれないと考えた。つまり支配すると支配されたり、支配されると支配したりするということだが、特に後者が自分で仮説をかてておきながらもよくわからなかった。また、権力がこのように流動的であるとしたら、これは単なる支配闘争といいきれない複雑な構造をしているのだと思う。

白衣博士
白衣博士

 フーコーは「知」というものには2つの種類があって、一つが時には権威的にもなりうる「学問的知識」、もう一つがそうではない「現場知」のようなものだと言っているのかもしれませんね。特に、「学問的知識」のような知は、権力の在り方とも強く結びついているのかもしれず、その代表例として「戦争」を挙げ、議論して以降としているのかもしれません。

 コメントを拝読していても「権力観」というものについて考えさせられますね。「権力」とは誰かに持たれるものなのでしょうか?実はフーコーは、そうは言っていないようなのです。我々のことを考えてみると「自粛する主体」として生きています。これは「生かされている」というよりもそのような「生き方」を選んでいるのかもしれません。コロナウイルス感染症が拡大する中で、路上飲みする人たちに対して警察が取り締まっているわけではないんですよね。それを「やめさせようとする人々」がいて、そこには、権力の在り方を考えさせるヒントがあるような気がします。

 また、「中心のない知」というコメントをいただきましたが、まさにフーコーはそれを目指そうとしたのかもしれません。また、「ローカルな知」が「全員共有しているわけではない」のではないか、というコメントもその通りだと思います。一部のみしか持たないがゆえに「分断」が起こってしまうのかもしれません…。

 単純化しきれない複雑な構造を、まさにこのあたりを読み解いていこうとフーコーはチャレンジしているのだと思います!ということで今日も頑張っていきましょう。

 

第二講| 一九七六年一月十四日「戦争と権力」他 /2021年6月1日

担当:H松さん
当日資料はこちら

当日リポート

 かわいい似顔絵付きのレジュメを準備してくださったH松さんの明朗な声で報告をしていただき、今日もゆるゆると始まりました(似顔絵入りは、恥ずかしいそうでwebにはアップされていません)。

 

 議論は、なぜ「主体化=従属化」というキーワードなんだろう?という問いから始まります。なぜ「主体化」と「従属化」が=でつながるのか――、これは、個人が権力の主体にもなっていくからなのかもしれない…確かに、「人々はつねに権力の中継項でもある」(p32, l5)…とも書いてある、と話が弾みます。チャットにも「自粛警察」の権力について指摘するコメントが挙げられます。自粛警察は、本当の意味での警察=国家権力ではありません。つまり法に書かれた「主権」とも異なるものです。権力のシステムの内側にいるわけではない、司法のなかの存在でもない、私たち個人個人がとる行動が、「自粛警察」という形をとって権力を生んでいるようなのです。
 そして、「自粛警察」のような行動――マスクをしていない人を咎めたり、路上飲みしている人たちに対して「いかん」と思うようなこと――は、このコロナ感染拡大下にあってよろしくないことだから、健康の問題として受け入れ難いことだから、ということで正当化されます。フーコーは、実はこのような形で「権力」が生まれてきている、と指摘しているようなのです。

 

 こういう形で、権力が発動しているのだ、ということをフーコーはまず、指摘したかったのかもしれません。私たちは、マスクをして行動したり、アルコール消毒をしたり…「何かを守るように動く」よう「統治」されている、ともいえるのかもしれません。「みんながやらないとだめだ何かを守らないといけない」と思わせる、この統治の在り方は、従来型の統治とは全く異なるものです。そしてフーコーは、これが新しい権力:「規律型権力」と呼んだのです(いわゆるパノプティコン[ベンサムの一望監視装置を発展させたもの]など)。
フーコーは、この「規律型権力」について、法律では議論したり、対抗していくことができない、とも指摘しています。この章では、この規律権力に立ち向かっていくためには、「新しい司法、反規律的だが同時に主権の原理から解放された司法の方向にむかうべき」(p42, l10)とも触れていますが、その”新しい司法”のあり方については、簡単には明らかにはならないようです(コレージュ・ド・フランスでの講義が10年目を超えたころに、その答えと受け止められるような議論があるとか…ないとか…。頑張って読めるといいですね…!!!)

 

 この「規律型権力」について、”異常”、”病気”、”差別”などの文脈で考えてみるとわかりやすいかもしれない、という説明もされました。この異常や病気、差別などの「排除」の動きは、法律で定められているものではありません(むしろ、その逆ですね)。でも、そういう「排除」の動きが発動している。これは、私たち、個人個人の内側のほうから発動されていることなのかもしれないのです。

「権力」がどういったルートで発動しているのかを、フーコーのテキストを通じて考えさせられた時間となったのではないでしょうか。

  

参加者の皆さんからのコメント

 

 「司法システムとは、全面的に王が中心に合わされていて、最終的にはその事実およびその結果を消し去るためにこそ作られているのです。」というフーコーの指摘がとても印象的でした。現在でも、政治家が国民の税金によって捻出された国家資金を私的なことに不正使用していたことが問題になることがありますが、このようなニュースを見ると、法律を作る政治家が私たち国民は気づかない、自分たちにだけわかる抜け道を作って政治家が得をするようにしているのではないかという考えも生まれてしまいます。

 H松さんのレジュメがわかりやすく整理されていて、説明も丁寧でとても理解しやすかったです。ありがとうございました。

私たちには権力は一切ないにもかかわらず正当性を持たせて他人にいわば疑似権力として自粛を押し付けている。このような問題が起こった原因はマスメディアにあるのではないだろうか。そもそもマスク警察、自粛警察などという言葉自体を作ったのはメディアであり、その存在を作り上げたのも彼らでではないのだろうか。フーコーの言説にマスメディアの話は出てこなかったが、現代社会ではマスメディアは多大な権力をもっており、このような権力の話をするにあたって彼らの存在は無視できない。
“「規範化社会」というものが現在のコロナ禍において大きく関わっているということに驚いた。
また、最後に柴田先生がおっしゃっていた、何を差別するのか、何を我々は排除しようとするのかということに私たちの「権力の行使」が関わっているということにとても興味を持った。法律上では差別や排除はいけないものであるということになっているのに、実際にはそれが完全に解決する見込みはない。これが「権力」と繋がっているということをもう少し考えて見たいと思った。”

今日もテキストが難しかったですが、違う時代を生きたフーコーの話が現代の文脈でも当てはまることが面白かったです。今まで自分が権力の中継点となっていることに気づかずに権力を使っていたことも結構あったのではないかと考えました。

H松さんの声が聞き取りやすくて、ずっと聞いていたいくらいでした。レジュメもわかりやすかったので、難しい内容でしたがなんとか議論を追うことができました。

フーコーが考える支配というのは、社会集団の内側に位置して機能する従属化の構造だということと、権力を分析するには支配戦術・技術(規律型権力)を起点とすべきだということをH松さんの見解から学んだ。そして、H松さんのレジュメ・説明にあった、新型コロナウィルスによって生まれた「マスク警察」「自粛警察」とフーコーが論じていた「規律化社会」の関連付けについて関心を持った。フーコーの論考が現在の状況に重ね合わせて考えられることにすごさを感じた。フーコーが論じたことを深く考えるほど、私たちが置かれている状況も見えてきて、「今」を考えるきっかけとなった。

「社会は防衛しなければならない」のように、内容が抽象的で理解しづらいものに関しては、H松さんが挙げてくださった「マスク警察」のような分かりやすい具体例を示すことが、非常に有効的だと改めて学ぶことができた。権力は上から下に降りてくるのではなく、私たちの行動で発せられるということが、権力の性格が弱まる末端のところ、最低のレベルのところで捉えなければならない理由の納得につながった。
初めは全く訳が分からなかったが、具体例を聞いているうちになんとなく意味が分かった。私が学んだことは規律的権力はどこにでもあると言うことであり、これは学校にもあるのではないかと考えた。校則は法的拘束力はないが、守らなくてはいけないものであり、自由を制限しているものである。しかし生徒を守るためには必要なものだと多くの人は考えている。この解釈が合っているかどうかは分からないが、規律的権力について知り、考えることができて良かった。

権力を行使できるのは国民の上に立つものだという固定観念があったので市民も権力を発しているということを聞いた時は新鮮な感じがしました。SNSが普及している現代はより規律的に発せられた権力が力を持つのかなと思いました。また市民が市民を支配しあう世界がどうやって崩壊するのか疑問に持ちました。

規律型権力の話を聞いて、コロナ禍における自粛警察、マスク警察もそうだが、SNSにおける誹謗中傷を思い出した。自分の価値観や信念に基づいて、それに合わない考えや行動を批判する。こうした規律権力により、奪われている自由を取り戻すには、どのような司法が必要なのか考えなければならないと考えた。

白衣博士
白衣博士

たくさんのコメントをありがとうございます。
最初の3人の方のコメントを拝見していると、よく理解してくださっているんだなということがわかりますね。なんとなく私たちは権力というと、権力者であったり上の方から何者かに統治されている、というようなイメージを持ってしまいがちなのですが、<権力の発動>とはそのようには考えない、そうではない権力の在り方があるのではないか、ということをフーコーは指摘しているんですよね。
個人が中継点として権力の発動に機能することもあるんだ、ということに気づいて触れてくださったコメントだと思います。
そして、私たちは何かを「守る」という闘いをしているのですね。防衛するとはつまり戦争のことなのです。私たちを、何かから守ろうとするようにさせる…それが権力なのだとフーコーは言っているようです。いわば、我々は戦に動員させられている戦争の担い手なのですね。誰もが何かを守ろうとする中で、その総体を戦争状態であったり、総動員体制などと呼べたりするようなことが起きているのかもしれません。

 

第三講| 一九七六年一月二十一日「永続戦争の言説」他 /2021年6月8日

担当:Nomさん
当日資料はこちら(レジュメ)とこちら(図)

当日リポート

 イケメンボイスにあこがれながら、本日もゆるゆると議論がスタートしました。
 今回のテキストに出てくる「哲学や法」、そして「歴史的=政治的言説」は今回取り扱っている文献の第一講の「学問的知識」や「ローカルな知」に相当しているのだろうか?など、そのあたりの確認からスタートします。
 合理性を伴った「哲学や法」のようなものに対して、非合理的でありながら、ドロドロとした剥き出しの「ローカルな知」が神話(ストーリー)の力を借りながら正当性を持った真理を守ろうとしていった――ということが確認されますが、もともと「哲学や法」のようなものから「我々は社会から自分たちを守らなければならない」とされたものが、やがて、自らの内側(同じ社会の構成員のなか)に社会の敵を想定する人種主義を展開させて「社会を防衛しなければならない」という議論に至った、その展開について考えさせられます。

 また、56-57頁のあたりで触れられている重要なキーワードとして「真理」という言葉も挙げられます。上述した「哲学や法」のようなものも、「歴史的=政治的言説」も、どちらもそれぞれの「真理」を持っていて、それを正当化しようとした――だからそれぞれがそれぞれの真理を守るために戦ったのだ、ということに気づかされていきます。もはや、中立的な普遍的な「真理」というものは存在しないのだ、ということをフーコーは指摘しているようだ、ということにも気づかされます。
 オリンピックに関する議論もそうです。開催しようとする側にも「真理」があり、反対する側にも「真理」があります。どちらにも、双方に正当性があり、その正当性を主張しあっています。こうしたプロセスこそを、フーコーは新しい統治の形なのだと指摘しているようです。
 自分が守ろうとしているものも、何もかもが誰かを傷つけたり、損なっているかもしれない「真理」でしかないのかもしれない、となったとき、どうしたらいいのでしょうか。フーコーは、安易に解決方法のようなものを提示しません。ですが、ロジカルに考え抜いていった先に、今回の「生権力」に関する指摘がされるのだと、そうした話にも至りました(私たちもじっくり考えていきたいですね、)。

 また、53頁に書かれた内容を振り返ってみると、例えば6行目には「戦争、それは平和の暗号そのものである」とあります。「戦争、それこそが平和だ」なんて変な感じがしますが、私たちが「改革」を声高に叫ぶとき、実は平和だからこそ改革の必要性を叫ぶことができたのかもしれない、と気づくことができます。現在の平和を守り続けるために、改革という名の戦争が必要となるのだ、と考えると少しわかりやすくなるかもしれません。

 自分のよしとするものと、他人のよしとするもの――すなわち真理と真理がぶつかり合うから「戦争」だというのですが、実はその両者は全く異なるものではない可能性についても触れられました。例として出されたのは青森の南部地方と津軽地方の争いでしたが、異なっていることよりも、共有しているもののほうが多い可能性には、多くの人がうなずくことができるのではないと思います。国連の安全保障理事会の例も出されました。たくさんの真理と真理の衝突が内戦という形でさまざまに現れながらも、均衡が保たれている可能性…。対立し続け、闘い続ける――そのことが「統治」であり、現在の平和を保つのかもしれない、ということ。そして、何かを守ろうとして闘うということは、守られずにいるものがある、ということでもある…、そこに隠された意味も、実は非常に含蓄があるものなのかもしれない…といったあたりで議論がひと段落しました。

 ただ、何者かが敵を作り出しているわけではない、ということ。「真理」や「平和」を求めようとすることが、こうした闘争や戦争状態を生み出し、「統治」を実現させている可能性…そのようなことについて、考えさせられた回でした。来週も楽しみですね!

 

第四講| 一九七六年一月二十八日「人種闘争の対抗史」他 /2021年6月15日

担当:K原さん
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当日リポート

第五講| 一九七六年二月四日「ホッブズにおける戦争」他 /2021年6月22日

担当:M先生
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当日リポート

第六講| 一九七六年二月十一日「歴史の新しい主体」他 /2021年6月29日

担当:大学生M
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当日リポート

第七講| 一九七六年二月十八日「戦争の諸制度」他 /2021年7月6日

担当:Nomさん
当日資料はこちら

当日リポート

第八講| 一九七六年二月二十五日「知の規律化」他 /2021年7月13日

担当:H松さん
当日資料はこちら

当日リポート

第九講| 一九七六年三月三日「野蛮なるものの濾過」他 /2021年7月20日

担当:K原先輩
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当日リポート

 

第十講| 一九七六年三月十日「闘争の市民的背景」他 /2021年7月27日

担当:M先生
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当日リポート

第十一講| 一九七六年三月十七日「生権力の誕生」他 /2021年8月3日

担当:H松さん
当日資料はこちら

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