ユルくみんなで読むフーコー_まなキキオンライン講読会第6弾

イベント

さんかくすと文がえます

「Fact」と”Fact”が、「真理」と“真理”が激しくぶつかり合い、社会が粉々に分断されていくこの世界において、学問に、科学に、思想に、何ができるのか。Post COVID-19の荒廃した時代の中で、ミシェル・フーコーの〈真理・自己・権力〉の議論を手がかりに、「生きるもの」としての統治のあり方を再考します。
※ 大学研究会の主催ですが、お申込み者は、自由に一回からご参加いただけます。お気軽にご参加ください。

 

(どなたでもご参加いただけます!)

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講読会について

講読書籍

ミシェル・フーコー講義集成 < 9>「生者たちの統治」
(コレージュ・ド・フランス講義1979-80)
ミシェル・フーコー著   廣瀬 浩司訳 筑摩書房(2015年)   

講読期間

2022年10月11日(火)~2023年1月24日(火) 全12回

開催時間

18:00-19:30ごろ(入退室自由)

参加方法

ご参加方法には、①一般参加会員、②継続参加会員、③傍聴参加の三種類があります。

 

  • ①一般参加会員
    その都度ごと参加の申し込みを行って参加いただくものです。
    当日の講読に必要な資料を事前にお送りさせていただきます。
    ご参加予定の講読会の一週間前までにこちらのGoogle Formよりお申し込みください。
  • ②継続参加会員
    継続的に講読会にご参加いただくということで登録される会員です。
    講読会に必要な資料を事前にお送りさせていただきます。
    ※ 参加登録は一度のみで完了いたします。
    ※ また、継続参加会員が毎回必ず参加が必要というわけではありませんので、ご都合に合わせてお気軽にご参加ください。

    お申込みはこちらのGoogle Formよりどうぞ!
  • ③傍聴参加
    特に講読用の資料を希望せず、ZOOMでの傍聴のみを希望される参加のスタイルです。
    一回のみのご参加でもお気軽にお申込みいただけます。
    ご登録いただいた方宛てに、開催前にZOOMのURLをお送りいたします。
    お申し込みはこちらのGoogle Formよりどうぞ!


 

第一講| 一九八〇年一月九日「真理の現出化」 他 /2022年10月11日

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当日リポート

 ようやく始まりました、まなキキ・オンライン講読会の第6弾ということで、「みんなでユルく読むフーコー」(通称、ゆるフー)のパート3です。
 柴田先生から、なぜこの本なのか、ということもご案内いただきましたが、岸田首相の所信表明演説で「マスク着用」の話題が上がるほどに、このCOVID-19時代は、マスク着用にせよ、ワクチン接種にせよ、その是非を問う際に、人々が「正しい」と捉えるものがあまりにもバラバラで、私たちはさまざまな分断に直面しているともいえるのかもしれません。
 フーコーは、こうして私たちがバラバラになってしまう理由、みたいなことも、おそらく触れてくれている社会学者でもあり、思想家でもあるはずです。そんなわけで、今回もフーコーを読んでいこう、ということになりました。
 ちなみに、取り扱っている文献は、ミシェル・フーコーの講義録、ということになっています。いわゆるopen universityとでも表現されるような、フランスの最も叡智が集結したコレージュ・ド・フランスでの講義の様子が収録されています。誰に対しても開かれていて、且つ毎年新しい知見を提供することがオブリゲーションとして求められている講義です。
 今回も、この講義録を読み解いていきます。

 ということで、今回の内容は『生者たちの統治』とタイトルがつけられた1979年から1980年にかけての授業の第一回目の講義の内容でした。
ローマ皇帝セプティミウス・セウェルスとオイディプス王(古代ギリシアの悲劇作家ソフォクレスによる悲劇・フロイトの言うエディプス・コンプレックスの元ネタとなった物語)を対置させて紹介しながら、「真理の現出化」(アレテュルジー)について考えていこうとするものでした。

 そもそも「事実」と「真実」って違うのだろうか?何が違うのか?という疑問が、議論の中でも挙げられていました。一般的に、「事実」としてのfactに対して、「正しい」という価値判断を含んだものとして「真実」truthが位置付けられることもあるようですが、おそらく、何を「事実」と思うか、事実認定を試みる過程で、そもそも「真実」の意味を満たしてしまうのではないか、という指摘も柴田先生からされていました。つまり、「事実」とは、「真実」のことも同時に意味するようなものだ、と。
 国定教科書などで取り上げられているものは、(どんなに議論がされていても)それが「事実」とされた結果でもあるわけです。一概に、「うーん」と納得できない人もいらっしゃるかもしれませんが、それが「事実認定」の難しさをまさに物語っているといえるのではないでしょうか。

 ただ、今回のフーコーの講義の中で、間違いなく「真実」factとして認められるものは、セプティミウス・セウェルスの宮殿に描かれた星空でした。いわゆるホロスコープです。この皇帝が産まれた日の夜空の星々の位置に偽りはない。その星々において、「自分が王である」とする―ーそこに真理の現出がありました。

 今日は議論の中で、プーチンがウクライナ4州を併合した際の祝賀集会の様子の動画も一緒に確認をしました。その中でプーチンは「我々の中に真実があり、だからこそ、勝利する」といった発言をしていました。プーチンを前に大勢のロシア国民が拍手と喝采で迎えるその事実を以て―ーある種そうした”儀式”を通じて、プーチンにとっての(ロシアにとっての?)真理が現出されていたといえるでしょう。

 こうした「真理の現出」ともいえるような過程はさまざまな形で現れてきていたともフーコーは指摘していました。例えば、その中で、フーコーは、ある知識を持っているか、持っていないかという知識の不公平感があり、そこにから権力が生まれてきている、という指摘をかつてしていました。ですが、おそらくそれだけでは説明できないことがある、と気が付いたからこそ今年の主題になったのではないか、今回「知-権力」概念から「真理」の概念を考えていかなくてはならないとなったのではないか、という解説もされていました。

 知識がどれだけあるか、ということで統治は果たされない、ということ―ー
それは、ドラえもんの出木杉君は統治者として描かれていないことからもうかがえるのかもしれません。一方でジャイアンはもしかしたら統治者として描かれているのかもしれない。プーチンが統治者となるのは、その言っていることが「正しく」、それに同意する人たちがいるからです。

 私たちが、「事実」を求めようとすればするほど、「真理」からは逃れられなくなってしまうのかもしれません。ただ、「科学」がそこでできることは、反証可能性を常に意識すること、なのかもしれない。仮説の域は脱しないにはせよ、ほぼほぼ事実と認めてもいいだろう、という蓋然性の高い事実に基づいて、ひとつひとつ積み重ねながら検討を重ねていくということ。私たちが「事実」を求めることが、つまり「真理」/「真実」にとらわれてしまう、ということとほぼ同義であることを意識しつづけるということ。
……こうした実践が実際にどのように体現できるのか、ということをも、これからの講読会の中で、皆さんと一緒に考えていくことができたら、と思います。
 次回は、オイディプス王に関すること。あらすじを理解してから参加していただくことをオススメします!

参加者の皆さんからのコメント

無学なので『セプティミウス・セウェルス???』の話は聖書の中の話ですか?
コリントという言葉から聖書の話かと思いました。プーチンに洗脳されていれば真理だからと言われているので、民衆に支持されるのは当たり前ではないでしょうか?マスクの話は自分で考えられるから、正しいか正しくないのかは判断できます。プーチンの話とは別次元のように思います。哲学的な話でinterestingでした。

聞きなれない言葉や知らないことが多く、とても新鮮な講義であったが難しかった。大学院では、このレベルの話が理解できないとついていけないのだと学んだ。情報が溢れすぎている現代では、先ずは知識を身に付け、ロシアのように間違った道に進んで行かないように、何が真か偽かを見極める洞察力をつけることが大切だと考える。

セプティミウス・セウェルスは権力の行使を正当化するために、真理の表明として真実である天空の星空を利用した。オイディプスの例は真理に翻弄される話であるが、何を真実と認定するかは難しい。事実は様々な形で成立しうるから、それを証明しようとするとそこに権力が宿ることにもなる。

何を正しいと言うか思うかは人によって様々である。それこそ事実と真実の違いは何か?という質問に対しても答えは人それぞれ違うのがそのことを示している。事実があると考えてその事実を求めることが真理論になり、事実と真実は一体的であるとも言える。

真理を現出させる儀式と権力行使の関係は単なる功利性にはおさまらない。統治があるところには必ず「真理の現出」があり、その「真理の現出」は経済合理性を目指す意味での真理とは次元の違うところで行われてきたのではないか。「fact」は様々な形で存在し得るが、あるfactをfactであると証明しようとする=真理の現出を目指す、ということでそこに権力が宿る。

 

白衣博士
白衣博士

「ゆるフー」なのか「ユルフー」なのか…も議論が残りそうですが。
また、ジャイアンは統治者じゃない、っていうかドラえもんに統治者は出てこなかったよね、とも思いつつ…
反証可能性については、触れておきたいと思います。フーコーの議論の中で出てくるものではなく、実はカール・ポパーがいう「反証可能性」の議論を使いながら、フーコーを理解していくうえでの補助線として活用出来たらという狙いもあります。
ところで、洗脳の仕組みについて考えてみると、よくその手段として使われる「プロパガンダ」も、別にだます仕組みとして用いられているわけではないことに気が付きます。プロパガンダは、ひたすら「正しさ」「美しさ」を演出することで、それによって統治をしようとするものです。「正しい方がベストだ」という主張することで力を得ようとしているのがまさに、現在の国家元首たちにももしかしたら該当するところですが、科学はそうは考えません。「自分が間違っていると疑ってかかる」姿勢に立つのです。

 何が真?偽?という問いは、真に対する偽が存在していることを前提にしていますが、本当に「真」以外はみな「偽」なのでしょうか。実は、私たちが直面しているものは、「真」と「真」の対立なのです。これを「ファクト」と「アルト・ファクト」などと表現したりしますね。「真」と「真」が対立し、より正しかったほう―ー説得力があったほうが権力を持つ、という構造になっています。

 実は私たちも、何かしらの「ファクト」に基づいて生きています。その中で、自分が言っていることが間違っている可能性を疑うことは、あらゆる反対や反論を受け付けて、その過程によって確かさを高めようとする試みでもあるのです。これが科学が持つ反証可能性の発想です。

第二講| 一九八〇年一月十六日「統治と真理の諸関係」 他/2022年10月18日

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当日リポート

 今日は、『オイディプス王』という物語にどっぷり浸りながら、フーコーが言わんとしたかったことを探っていくような回となりました。
 『オイディプス王』の主人公、オイディプスは、「父親を殺し、母親と交わる」という不吉な予言を受けて、なんとかその予言から逃れようと抗いながらも、成就してしまう、というような悲劇として描かれています。というか、その不吉な予言「父親を殺し、母親と交わる」が成就してしまった、という「真理」が明かされていく過程が描かれている、ともいえるような作品であったかもしれません。
(アリストテレスの悲劇の本質的要素には、「状況の転換」と新たな事実が暴かれて起こる「認知」がある、としていましたが、まさに「真理の道のりや働きがおのずから登場人物の運命の逆転をもたらす」(p27)ような作品となっていました。

 実は、神様の予言という形で、「真理」は最初から出オチ状態なわけですが、「本当か?」というようなコロス(コーラスの語源になっている、作品の進行役的な存在、とも説明がありました)のツッコミ?を受けて??、オイディプスやイオカステ(母であり妻でもある;つまり予言は成就してしまっている)、そして文字通りのキーパーソンたる召使や奴隷が、証言をしていくことを通じて、神様が予言した「真理」と同じ「真理」に、別ルートで到達する様が描かれていたのが、『オイディプス王』の物語でありました。

 『オイディプス王』の物語では、既に、神様や予言者、占術師による「宗教的・儀礼的アレテュルジー」が真理を現出しているのに、そうではない手続きを通じて、真理を現出させようとする働きが示されていたことが描かれていました。
逆に言えば、真理の現出は、宗教的・儀礼的アレテュルジーがなくても、達せられうる、ということが、もしかしたら注目すべきポイントなのではないか、と講読会の議論も展開していきます。

 このもう一つの真理の現出を担うのが「奴隷たち」の存在です。そして彼らが果たした真理の現出は、「奴隷のアレテュルジー」と称されていました。
 奴隷のアレテュルジーが達せられるには3つの条件があるということも紹介されていました。
1.言われたことにのみ答える、「尋問」という形式をとること。
好き勝手に、言いたいことを話すのではなく、望まれたことについて回答する、というもの。
2.記憶されたものについて語ること。

フーコーの講義録では「追憶と記憶の掟」(p44)と紹介されていました。
3.まさにその場にいたこと、彼ら自身の目で見、彼ら自身の手で行動したということ。
のち、アウラという言葉で説明されるようなもの、とのことでした。

 この形態が私たちに連想させるのは、まさに「裁判」という方式です。
つまり、裁判の形式をとれば、真理に到達することができる、そういうテクノロジーとして、『オイディプス王』にでてくる奴隷のアレテュルジーを捉えることができるのかもしれません。
裁判において繰り広げられるのは、原告と被告のそれぞれが持つ「真理」を戦わせる、真と真のゲーム;真理のゲームです。
 その場に「神秘的なもの」は不要であり、かつ「真理」は各々に内在するということにもなります。
フーコーが『オイディプス王』を挙げながら議論したかったのは、この、真理の手続きのルールであり、かつ、この真理の現出は、「奴隷―ー真理に対する奴隷」にこそ、達成しうるもの、ということだったのかもしれない、とも解説をしていただきました。(実際、裁判においても、全員が真理の奴隷となる。)

 ここから、「真理」というものが、神様などから、あるいは天井の星空のような形で、外部からもたらされるものではなく、私自身やあるいはあなた自身から出て来うるものだ、ということに注目していくことになりそうです。
 これまでのフーコーでも「羊」が登場してきましたが、今回のフーコーにも「羊」が登場してくることになりそうです。じゃあ、タヌキや猫もまた出てくるのかな?という期待もしつつ、引き続き読み進めていきたいと思います。

参加者の皆さんからのコメント

今回の講読会で読んだような本にはたくさんのカタカナ用語(アレテュルジーやコロスなど)などがあるためまずは、言葉についての知識を身に付けることが重要だと感じた。また、普段の生活では絶対にこんな難しい本を読んでみようと言う気にはなれないため、フーコーの思想に関われる機会を得られたことが率直に嬉しい。

第一回の購読会に参加できなかったこと、またこのような難しい本を読んだことは初めてだったので、正直理解には追いつきませんでした。ですが、奴隷のアレテュルジー?が現代の裁判と同じ形式であると知った時、何か心の中がすっきりとした感覚がありました。貴重な体験ありがとうございました。

講読会のメンバーの方達?が、今回読む本について「私の考えはこうだ。」「私はこう思う。」など、一人一人が深い知識を持ちそれを表明することで、議論がより深いところになり面白くなっている様子を見て、一つのことに詳しくなるとそれについて語ることができるためより進んだ学びを得ることができると言うことを学んだ。皆さんが議論する様子を見て真の学びの様子を伺っている気分であった。

『オイディプス王』の話を理解していないためか、前回も含め、あまりよく分らなかったが、今日の柴田先生のお話で、やっとモヤモヤしていたものがすっきりとして納得した。人間は神や預言者なしで真実に到達できる方法として、裁判という形式をとっているということが分かった。回を重ねるごとに興味が湧いてくるようだ。

神の言葉は一方方向であるため、それを受け取る人が必要である。真理の現出には神や預言者の言葉だけでは到達できない。もう一つのルートとして、奴隷に尋問するように、問いかけに答えること、記憶されていること、その現場にいたことを証明する手続を経て真実に到達することができる。

オイディプス王の物語をもとに、真理がどのように現出するのかについて考えた。真理が現出するためのプロセスとして、神の語りが必要であるパターンがある。しかし、それとは別に奴隷が尋問形式で語ること、記憶された過去の事実であること、現場にいたという事実があれば神の預言なしで真理の現出が可能であるということがわかった。
現代では、神の預言ではなく人間の証言が真理を現出するという考えが一般的だと思うが、オイディプス王の物語の中では神による真理の現出が主流なものとされており、奴隷のみでの真理の現出が神に依存しない新たなプロセスとされていることを学んだ。また、奴隷による真理を現出するための条件が現在の裁判に似たかたちだということも学んだ。

オイディプス王の物語では、登場人物によって、事実の見方や捉え方が異なっており、それが各々の真理の違いになっていました。その物語では、登場人物がそれぞれの真理に従って行動しており、それが悲劇的な展開に繋がっていました。この物語は、世の中の縮図であると自分は考えました。神の意見や宣言は、同じであるのに人によって真理が異なっていました。

前回のフィードバックで、「この世界は真と偽で出来ているのではなく、真と真で出来ている」という話があり、正義の反対はまた別の正義であるという言葉がまさにぴったりだと感じた。プーチンは自分の考えを本当に正しいと感じていて、その信念を貫いているように感じる。どちらの考えがより正しいか、ではなく、論理としてどちらがより強いか、なのではないかと思わされた。今回は、真に到達するルートについて考えた。私利私欲のためではなく、あくまでも尋問という形式をとること、それをきちんと記憶されているということ、そして、現場にいたという条件が揃って初めて証言として成り立つ。だからこそ、奴隷的であると考えられる。奴隷がその役割を担うということはすごく意外であった。裁判の形式が埋め込まれていて、その形式が最も合理的であるということに気付かされた。それに加えて、「奴隷の方が到達できる」という先生の言葉にハッとさせられた。

真理の現出の部分で奴隷という単語が出てきた時、王に支配されているような存在を思い浮かべていました。物語の中ではその意味での奴隷でもあるのかもしれませんが、「記憶というかたちでしか真理を語れない」とあるように神以外の人間を表すものに近いのかなと考えていたので、柴田先生の真理に対する奴隷という話しを聞き、奴隷と真理の現出の部分が理解しやすくなりました。

白衣博士
白衣博士

Mせんせいに、「本当にタヌキとかキツネとか、でてきたんですか」と聞いたら、過去の記憶を頼りに、かつご自身の目で見たということで、証言してくれていましたね。まさに、「奴隷のアレテュルジー」がなされていたともいえます。
奴隷のアレテュルジーが裁判の形式を持つ、という話をしてきましたが、このような形での真理の現出は決して歴史的に普遍なものではなかったということは興味深いことですよね。裁判における証人が奴隷である必要があるというのは、その証言が私利私欲に基づくものであってはならない、ということの裏返しともいえるかもしれません。ただ、そうした奴隷のアレテュルジーの中に権力や統治の仕組みが入ってくる、そういう可能性がこれから論じていけるのかもしれません。

講読会への参加そのものの感想についてもお寄せくださりありがとうございます。マインド・マッピングって流行っていたりしますが、ぜひフーコーの頭の中をマッピングして理解しよう、という意識を持って講読に臨めると、また別の次元から理解が深められるかもしれません。
フーコーが取り組もうとしていることは、「真理の現出(アレテュルジー)」であって、どのような真理であるかを問うのではなく、その真理がどのようにプレゼンテーションされるのか(理解され、つまびらかにされ、明らかにされるのか)ということだったといえるでしょう。その方法の一つが神様や予言者によるもので、二つ目が奴隷、証人によるもの。この後者に注目し、そのような真理の現出と権力の発動に注目していこうとしているわけですね。

 

第三講| 一九八〇年一月二十三日「真理陳述の手続き」 他 /2022年10月25日

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当日リポート

 ニュースでは、ロシアとウクライナの紛争を伝え、中国の党大会の模様なども報道されています。そこにあるものは、「偽」ではなく、やはり「真」。「ロシアが勝っている」とか「ロシアが苦戦している」とか、そうした「真」と「真」がぶつかり合っている、まさに真理のゲームとも理解できるような状況が報じられています。また、中国党大会での胡錦涛前総書記の途中退席。これも、何かしらの「真実」を現出したものであったのかもしれず、思惑と思惑がぶつかり合う、ある種の権力の存在を意識させられてしまうような出来事でした。
 だんだんと、真理を語る資格を持つ主体―ー奴隷?証人?…今まさにここにいる「個人」へとフォーカスが移っていく気配を感じながら、今日の話題に入っていきました。

 特に今回は、結局オイディプスは、なぜ罰を受けなくてはならなかったのだろう??という疑問から議論がスタートしていきます。オイディプスは決して性格がよいわけではなかったかもしれませんが、しっかりテーバイという都市に対して貢献もしていたのです。
 例えば、スフィンクスの謎を解くことでテーバイの街を救ったという事実。コロスもオイディプスを称賛していたのは、そういった事実があったからでした。それでも、オイディプスが罰せられてしまったのはなぜか、という問いを考えていきました。

 フーコーは、オイディプスがスフィンクスの謎を解いたりする行為のことは、グノーメーと整理していました(p76)。このグノーメーは、意見、思考法、見解、判断などとも説明されていましたが、講読会の中では、うまく知識を生かしたり、もうけたりするようなこと;役立っていること―ーと説明されていました。
 実はフーコーもかつて、権力や統治について論じるとき、こうした功利的な側面を強調してきた経緯がありました。(「効率的に統治するために有益な知識を構成したり形成したり集約したりする」(p25))今回の講読会の第一講目の内容でも、フーコー自身が語っていたとおりでもあります。
 ですが、どうやら統治において、それ(グノーメー)だけではダメだ、ということをフーコーは指摘したいようなのです。これまでフーコー自身がしてきた指摘を刷新するような新たな指摘を試みようとしているとみなせる統治に関する議論の新展開なわけです(わくわくっ)。
 このフーコーの統治に関する指摘に基けば、オイディプスが罰せられなければならなかった理由;グノーメーとはまた別のものをオイディプスが達せられなかった(持ち得なかった)が故、と理解できるのです。

 統治において大切なもう一つの条件とは何か:フーコーはそれをテクネー・テクネースとして説明していきます。テクネー・テクネース(究極の術、人間たちを統治する術→良心の指導、魂を指導する術, p58)です。これは、真理の現出を通じて統治する正当性:正しさを示し続けること、として講読会のなかでは説明がされていました。

 統治が行われる際、そこではもうけていたり、うまく機能していたりしているだけではだめなのです。うまく機能していると同時に、そこで行われている統治が「正しい」こと―ー歴史的な意味においても、社会的な意味においても正当であることが示され続けていなければならない…ということをフーコーは『オイディプス王』を通じて指摘していたのではないか、と議論されました。(神意という「掟」に書かれたとおりに何かが実践されている状況下ではおそらく「統治」は発動していない、ということも確認されました)

 『オイディプス王』において、私たちは最初からオイディプスが「正当性」を持ちえず、オイディプスが王としての「正しい」という真理を現出できずに終わる「悲劇」を知っていました。まさに、テクネー・テクネースを持ち得なかったから、オイディプスは、私利私欲から振る舞っていたと批判されたりして罰せられたんだなあと理解できるわけですが、現実世界における統治の世界では、誰も「真理」を知りえません。それでも、統治の場面では、各々が「真実」と信じるものを現出させていく、まさに真理のゲームが繰り広げられているといえるのかもしれません。

 ここからは、テクネー・テクネースで真理の現出に貢献していた奴隷や証人といった一人の個人について考えていくことで、「アウラ」=私という視点、真理を語る資格を持つ「個人」としての私に、議論を進めていくことになりそうです。
 ギリシア神話から、少し離れて次の話題へと展開していく…ということで次回の講読会開催まで少し日があきますが、読み進めていくのが楽しみですね。どうぞよろしくお願いいたします。

 

参加者の皆さんからのコメント

私は今日初めて参加したので、話の内容に全然ついていけなかったです。カタカナの用語がたくさん出てきて理解が難しかったのですが、「権力を振るうには正しさが必要」という意見にはとても納得がいきました。また自分の正しさを証明しようとしすぎるが故に、独裁的な政治になってしまうこともあるのかなと思いました。また今度参加しようと思いました。

真理を真理と思わせることが権力を維持する上で必要だけど、それが私利私欲に見えると権力を失いかねないというジレンマがあり、統治することの難しさ、危うさを感じました。知というものを、誰がどのようにコントロールするか、も重要な点だろうと思いました。民主制についての言及もありましたが、知がコントロールされている以上、無知な人は発言権を持てず、民主制など実現できないのではないか(まさにロシアや中国のような)と考えさせられました。

第二のアレテュルジーとは自分から出発するものである。また自分が正しいことを証明するためのものがテクネー・テクネースであり、真実に基づいて勝つことが必要である。今までは権力は私たちをうまく動かして儲かるように活かせばよかったけど、フーコーはそれだけではいけないと否定し、「正しい」ということも重要だと主張した。

権力とは正しくないといけないということを学びました。権力を振るうのは私利私欲はだめで、自分が正しいということを証明するためのものであり、かつ利益も出さなければいけないという難しいものだと改めて分かりました。またこれを求めていった結果、自国の正しさを証明し合う戦争が起こるということも分かりました。

オイディプスはなぜ権力を失ってしまったのかということについて考えさせられた。権力には、きちんと役立っていることと、真偽を発見し続けて真実に基づいていなければならないという二つの側面がある。私は、うまく統治できていればそれでいいと思っていたが、そうではないということを学び、その上で現在のロシアや共産党の状態を見ると、非常に腑に落ちるところがある。

権力には「役立っていること」と「真理を解明し発見し続けること」の2つの技があり、片方が欠けてしまうと統治者ではいられなくなることがわかった。オイディプス王はポリスに対して悪いことはしていないが、真実に叛いたために権力の座から引きずり下ろされてしまい、権力の使い方が私利私欲に見えてしまったことが問題点であった。それゆえ、統治は真理に基づいていなければならなく、統治の正当性を論証しなければならないと言うことができる。今回の話を聞いて、真理は権力に深く関わっているということを始めて知った。

白衣博士
白衣博士

 「真理」というものが、神様とかそういう誰か他者から与えられるものなのではないかもしれず、証人としての「個人」がいて、それを通じて「真理」が構成されているのだ、ということが明かされていたように思いますが、とてもおもしろいところですよね。
 先日、米中会談や米国議会の中間選挙もありましたが、いずれも「私利私欲」とは無縁だということを主張しますし、政敵の批判も相手の「私利私欲」の存在を指摘するようなところが多いですよね。でもフーコーが言う「真理」とは、私利私欲とは切り離されたような「奴隷」のような存在による証言が重要な意味を持っていたわけです。
 ちなみに、トランプはビジネスマンとして、あるいは腕のいいトレーダー、商売上手な存在として評価を受けている側面があるようですが、その彼がこだわるのは「fact」だったりするんですよね。権力とは有用性だけでなく、「正しさ」が重要というのは、そのようなところにも象徴的に現れているように思います。

第四講| 一九八〇年一月三〇日「真理の二つの体制」 他 /2022年11月15日

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当日リポート

  2週間の時間が空いてしまいまして、久しぶりの講読会となりました。その間に世界も劇的に変化していて、また次回までの一週間にもいろいろなことがあるのかもしれません。
 そのいろいろな「何か」の中に含まれるかどうか、は分かりませんが、まなキキのイベントも開催されます。よろしければ、ぜひご参加ください。笑。

 今回の講読会で、まず確認されたのは、フーコーは「イデオロギー」による分析はやらない(p86)、って言っているけど、じゃあフーコーがやろうとしているという議論はどういうものなの?というあたりからでした。
 「イデオロギー」による分析とは、もしかしたら多くの、普通の研究が取り上げがちな方法ともいえるのかもしれません。それは例えば、「狂人とは〇〇である」とか「狂人になる原因は〇〇なので、△△によって狂人化を防ぐ」などのように、”狂気/狂人がある”ことを前提にされるような議論であり、問いです。
 でも、フーコーがしようとしているのは、「なぜ、この社会は狂気を必要としたのか」ということなのです。フーコーにとっては、狂気そのものがあっても、なくてもどちらでも構わないかもしれないのです。ただ、「狂気」と呼ばれるようなものが議論されなくては・取り沙汰されなくてはならなくなった、その”そもそも”の事態を問おうとしている、ともいえるのかもしれません。
 そうしたアプローチを採ろうとするからこそ、権力から自由になって議論ができるし、「権力」を正しく取り扱うことができる、と考えたと解説がされました。

 ここでいう、「狂気」はもちろん「権力」や「福祉」、「障害」などの言葉に置き換えて、考えていくこともできるかもしれません。というか、フーコーはそういう試みを続けてきた、ともいえます。所与のものとしてそれぞれを取り扱うのではなく、こうした概念がなぜ、必要とされてきたのか、というようなことを問う、ということ、ともいえるのかもしれません。

 ちなみに一見、こうした議論をすると、アナーキズムを推奨しているようにみえるかもしれないけど、そうではないよ(でもアナーキズムを全否定しているわけでもないよ)ということもフーコーは指摘していました。(p89)権力がないほうがいいとか、そういうことを言っているのではないのです。「権力」そのものに対する評価をするのではなく(評価をしてしまうと、権力の存在を前提とせざるを得ない)、「権力の自明性を疑う態度(p89)」に基づいて議論していくと説明しています。

 フーコーは、「イデオロギー分析」に陥ることなく、権力の行使において真理の現出が不可欠であること、その真理の現出には、奴隷的な証人としての「個人」のかかわりが不可欠であるということ。それが万人を救出するような構造になっているのだ、ということを説明していこうと思う、と宣言しています。
 そしてそれを考えていくうえでの題材とするのが、キリスト教の真理の体制でした。

 キリスト教における真理の体制には二つあり、一つが「信仰の体制」であり、もう一つが「告白の体制」としています。
 前者の「信仰の体制」とは、いわゆるオイディプス王での神託や預言に相当するような、神様のいうところを信じる、というようなこととして捉えられるかもしれません。
 今回、注目していくのは、後者の「告白の体制」のほうです。告白では、(1)真理の現出の遂行者はその本人であって、その本人が他者に強いられるわけでもなく、自ら自立的に実施するもので、(2)その告白を客観的にも認める証人としても両立しえ、(3)自分について語る、という再帰性の特徴を持つものです。
 キリスト教において、この「信仰の体制」と「告白の体制」が真理の裏側にあるものとして説明されていたわけです。

 「信仰の体制」と「告白の体制」は緊張関係にあるが、お互いに深く根本的な関係を持っているとされています。実際にプロテスタンティズムの特徴なども、この両者の結びつきを以て説明することができてしまうとフーコーはしています(p98)。
 フィロンの例を挙げつつ説明されていたのは、「告白の体制」においては「正しい行いをする」とか「神様に祈る」ということが救いの要件になるのではなく、「自分自身を内面化して告白していく」ということが救済の要件であり、それがキリスト教という真理を現出するものだ、ということだったのだと思います。実は、この発想は、ギリシアにおける太陽神信仰とも連なるものがあり、西洋社会における「統治」を理解するうえでも伏線となりうるような、通底する発想として捉えられるだろう、とも確認されました。つまり、フーコーが今回取り上げた「告白」という「真理の業」が、もしかしたらヨーロッパの民主主義ヨーロッパの個人主義などの根源的な部分にも相当するのかもしれない、ということです。

 ここからより、真理の体制についての理解を深めていくよう、議論を読み進めていけたら、と思います。真理の体制=イデオロギー、すなわち、真理の体制とは社会体制を示すようなもの、として読んでしまいたくなるかもしれませんが、真理の体制がもっと細かいことを指している可能性がある、と意識しながら読んで行けるとよいかも、とのことでもありました。
難しい!と思われるところもあるかもしれませんが、みんなと一緒に、ぜひ「ゆる」っと議論していきましょう。引き続きよろしくお願いいたします。

参加者の皆さんからのコメント

個人は、権力関係における主体であり、真理を現出する際の行為者、証人あるいは対象にもなる。キリスト教における真理の体制には、信仰の体制と告白の体制の二つがある。告白の体制として、裁きの対象となった場合には、自らの行いを自主的に、客観性をもって認めることによってゆるされるという考えが西洋社会に広まっている。

フーコーの考える無政府主義とは、政府のある社会を否定するのではなく、絶対的だと思われている政府の存在を一度抜きにして考えてみようというものだった。それは無政府主義に限らず、どのような論題においても適用されるものである。前提を疑うことが、議論の余地を広げ、真理に近づくことを可能にする。

権力の存在が前提とされて議論がされがちだが、そもそも権力があるべきなのかを問うべきだとフーコーは述べているのではないかという話を聞き、大学院生の方々との議論を聞き、フーコーの主張について考えさせられた。

イデオロギーではなく、根源を問うべきだというフーコーの考え方は、権力に限らず福祉や教育など様々な話題に応用できるということを学んだ。福祉の問題について考える際、福祉があることが前提として議論をしてしまいがちだが、そもそも福祉はあるべきなのかという根源を問う考え方をしてみることも必要だと学んだ。

 

白衣博士
白衣博士

社会に埋め込まれているエンジンのようなものとして、「告白」という真理の業があったというふうに、まずは理解することができるのかもしれませんね。また、まとめについて一点だけ修正させてください。前回確かに、ヨーロッパの民主主義にも通底していくようなものかも、とは話をしていたかもしれませんが、フーコーはそこまでは言及していなかったかもしれません。「ヨーロッパの個人主義」くらいまでを言及していたと、理解しておくのがおそらく妥当でしょう。
考えてみると、自分のことを大騒ぎして取り沙汰するような文化や思考、個人を確立させて物事を議論するというのは、ヨーロッパの特殊性ともいえるようなことなのかもしれないのです。いわば《主体の析出》が実践されていて、それが次第に民主主義や至上主義のベースになっていったとはいえるのかなあと思います。『鎌倉殿の13人』などをみていても、「北条家を守るため」、「源氏の復興」など、あくまで家の話しかされず、個人のことは語られていないのも面白いですよね。
今の私たちにとっては、「主体」があることがあまりにも当たり前になっていて、敢えて議論されることが少ないのですが、近代ヨーロッパから個人という発想が出てきているといえるのかもしれないですよね。また、政治や権力があることを前提に議論するのではなく、それがあってもなくてもよいという立場で議論すること。「あるべき」「ないべき」というイデオロギーの地平に立たず、それが議論される意味を知ろうとすることがフーコーが試みたものなのですね。

 

第五講| 一九七八年二月六日「真理の体制の帰結」 他 /2022年11月22日

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 先週の土曜日には千駄ヶ谷祭というイベントにまなキキは初参加し、そこには「えーあい先生」や「漢字ちゃん」という存在も出演していました。これらの人物?は、キャラクターにすぎない存在なのか、それとも実在した人物?なのか、という謎も少し取り沙汰されながら、今回の議論は始まっていたともいえるのかもしれません。えーあい先生だとか、漢字ちゃんだとか、こういう問題を取り扱う際に必ず出てくる「守らなければならないこと」/「義務」とはどういうものなのでしょうか?

 フーコーは、「真理の体制」をいわば真理の義務、真理が強いる「守らないといけないもの」について説明していました。これは政治論とも科学論ともきりはなされるべきものだともしていたようです。
 例えば何かを強いることは、政治論につながっていきます。真理であるかどうかを問わず、義務は発動し得るのです。ジャイアンの言うことが「正しい」と思っていなくても、ジャイアンに従うことはあり得て、その義務に従属するか否かは、真理の体制とは関係なく行われます。政治論の範疇として説明することができるものなのだ、といいます。

 一方で科学論は、「何を真とするか」を問うていきます。何が真理とみなせるのか、という議論はいわゆる知識論や科学論に該当するものですが、いわば狭量な一つの見方にすぎないことをフーコーは指摘します。結局、ここで「真なるもの」が同定されても、すなわち義務が発動することにはならないのです。

 でも、真だと守らなければならないものが発動する=真理の体制と言えるようなものが、唯一存在しているとフーコーは指摘します。
 誰もが、えーあい先生や漢字ちゃんは、「実在しないだろう~」と思っていたとしても、えーあい先生やら漢字ちゃんを標榜する、その当人―ー個人や主体は、絶対にその真理を守らなければならないのです。自らがその真理の対象となった場合に、「自分自身の存在を真理として現出させる義務」が働くということをフーコーは指摘していたようです(p116)。
 そして、これをキリスト教の「告白の体制」という真理の業が練り上げ、昇華させ、洗練させ、そしてspreadさせていった、ということが説明されました。

 いわば、「主体」というものの存在が、真理の現出において重要な役割を担っていることが指摘されていったともいえるでしょう。それは、政治論とも科学論とも切り離されて論じられるような種類のものです。「私自身」が思っていること、自分が知っていることを開示していくことが、ある時点において求められ、制度化されていったともいえるのかもしれません。
 自分にとっての真実に向き合っていく過程とは、その当人である自分を切り刻むような、いわば辛くなるようなプロセスともいえるのかもしれない、とも講読会では共有されていました。安易にイデオロギーに則ってしまったほうが楽な議論なのかもしれない。けれども、そうではなく、自分自身が、取り沙汰される「権力」や「科学」に対して何を思い、考え、知っていると捉えていこうとするようなことが、フーコーのいうところの「知への意志」にも繋がっていくような試みなのかもしれません。

 キリスト教が、「告白の体制」を通じて練り上げていった思考様式が、こうした「知への意志」すなわち、個人主義的な発想の萌芽に深く関与していたのではないか?というフーコーの主張について、引き続きの講読会を通じて、ぜひフォローしていきたいと思います。

 

参加者の皆さんからのコメント

真理の体制の難しさを痛感した。フーコーは真理が何かを強いることが真理の体制になり、真理の体制というと、政治論か化学論の二つの議論に勘違いされがちだと言った。真理だから守らなければならないということが、何かを強いる義務論・権力論・政治論、つまりは何でもいいから強いられているという議論や、何を真とするかということを議論する化学論と我々は誤解しがちである。それらと真理体制論は別であるという主張をしたかったのだということを知り、真理の体制について学ぶことができた。

真理の義務が真理の体制になる。真理は政治論か科学論に誤解されやすい。何を真とするかとそれを守るかは関係ないが、真理の現出化において自らがその対象となった場合にそれに対する真理があるときは義務として自分に課される。

主体は真理の体制がなくても、真なるものに常に正直で、守らなければならないという点で特別な存在である。しかし、主体が真に従わなければつまり、自分を他人と異なる存在として認識できていないということである。それはフーコーによれば狂気であり、現代でもアイデンティティの喪失として問題になる。

真理は強制力を持っているため、真理の体制をとる必要がないと考える人がいるが、それは間違いである。真理が真を示しているということと、それが真だから従わなければならないということは区別しなければならず、真であるということ自体に強制力を起こすのは主体に対してのみである。

非常に難しかったので、正しく理解できているかわからないが、真理だから義務的にやらなければいけないことなのだというわけではなく、たいていの場合真理は義務的に行うこととは切り離して考えることができる。しかし、自分が真理の主体である場合には真理を必ず守らなければいけないということを学んだ。

本人だけは真であると信じ続けなければならないというのが、ロシアのプーチン大統領が自分の考えを心の底から信じ抜いて主張していることと繋がり、腑に落ちる部分があった。権力者でありながらも、最も真であるということを強く信じることを強いられているのは当の本人であるということがとても興味深いと感じる。

白衣博士
白衣博士

 ある意味当たり前のようなことなのですが、こうした形で「真実」が取り沙汰されるのをみると、本当に独特で、歴史的に特別に生まれてきているんだ、ということが分かりますね。漢字ちゃんとしーさんのやりとり(詳しくは「みんなで学ぼう漢字ちゃん」をご覧ください…)にしても、とてもふざけているような内容にも思えるのですが、やっている本人たちはいたって真面目です。でも、そうしないと、ある種「真実」というものは伝わらなかったりするんですよね。みずからがみずからの何を真とするかということを向き合うことが求められることを、フーコーは「真理の体制」としたんですね。
 「真理だから」と守る必要もなく、間違っていても押し通そうとする政治の世界と、何が真なのか問うて、どこからが真と想定しうるのか考える科学の世界が一点に交わるところを、フーコーは注目したわけですが、そこに「主体」が出てくるきっかけがあったんですね。「アイデンティティ」という言葉も、まさに露骨に「主体」を現していますよね。今となってはポジティブな意味も持つような言葉ですが、エリック・エリクソンは「アイデンティティ」という言葉を「アイデンティティ・クライシス」という文脈で使っていたわけです。ポジティブな意味がこうして付与されてきた経緯をみると、近代という時代は、主体を重視するところがあるのかも、と思えます。フーコーに関してはこうした「主体」のありかた、regime of truth・真理の体制をひとりひとりが持っていることを良いとも悪いとも言っていませんが、最近は真理の体制の暴走みたいな状況が現出しているようにも思えます。それが、プーチンやトランプなどにもみられるところにも感じられたりしますが、みなさんはいかがでしょうか。

 

第六講| 一九八〇年二月十三日「主体性の歴史」 他 /2022年11月29日

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当日リポート

 今日は、H松さんの愉快な整理…「とっとと洗礼」と「ギリギリ洗礼」にも助けられ、説得力のある議論に「ううむ」と思わされた方も多かったのではないでしょうか。
 フーコーの議論の中で出てきた二つの真理の体制、「信仰の体制」と「告白の体制」がど区別できるのかを中心に確認されていきました。

 まず、「とっとと洗礼」と「ギリギリ洗礼」とはいったい何のことだったのでしょうか。
そもそも宗教というものは、困っている人たちが救いを求める経緯を通じて生まれていたもので、いずれにせよ、最終的には救済が訪れることがお約束になっています。そもそも救済のない宗教にすがる人はいないのです。
 ただし、何を以て救済の対象とするべきなのか、といったような問題に、どの宗教も課題を抱え、独自の解決策を見いだそうとしてきました。そして、キリスト教については結構特殊な解決法を提案したようだ、ということが今回の講読会で確認されたといえるでしょう。

 かねてより、キリスト教は、救済は「洗礼」によってなされると説明してきました。
救われるために、洗礼を受ける、という判断に至ります。
ですが、…となると、救ってもらえるならなるべく早めに受けておこう、という「とっとと洗礼」を選択する人たちが一定数出てきます。
一方で、洗礼を早々受けて、その後の生き方に制約が出てしまうと面白くないから、さんざん堕落の道をとことん楽しんでから、最後に洗礼を受ければいっか!という「ギリギリ洗礼」を選択する人たちも出てきてしまう、という問題に直面してしまうことにもなるのです。

 この問題を解決したのが、テルトゥリアヌスによって生み出された「原罪」という発想でした。万能である神が作った人間に欠陥はありません。ただし、生まれてから悪魔に騙され、たぶらかされてしまった経験を皆持っているのです。(アダムとイヴの智慧の実に象徴的ですね)
 洗礼を受ければ救われると思いたいところですが、いわば”前科持ち”の私たちは、洗礼を受けても、また悪魔に騙されたりたぶらかされてしまうかもしれないわけです。そのような、私たち自身の心の中に棲まう悪魔に打ち克ち続けないことには、本当の意味での救済は訪れないよ、ということをテルトゥリアヌスは唱えた、と考えられるわけです。

 いわば、そこには、「神への畏れ」以上に、自分自身――悪魔に誘惑されてしまうかもしれない己自身に対する畏れが発現していくことになります。そして、悪魔との闘いに負けてしまわないように、鍛錬し、悔い改めつづけることが必要(:修練)とされたのです。

 つまり、「原罪」という発想を手に入れたことで、キリスト教は、神様に与えられるコンテンツとしての真理をただ「教えられ」、知識として身に着けることだ気ではだめで、自分にとって開示される自らの真理についてを一生懸命開示し続ける、ずっと自分自身に正直であり続けなくてはならない「魂の真理」といった発想をつかった真理の体制を生み出したのです。

 このずっと悔い改め続ける、という発想が、やがてプロテスタンティズムの発想とも繋がっていくということは、プロテスタンティズムが「努力して報われる」という発想をベースにして発展したことを考えてみても、その連続性については納得することができるのではないでしょうか。
 我々が、どのような存在であるのか真理を現出していく、ということは、まさに訓練のたまものであり、かつ試練の構造にあって初めて成り立つものなのです。また、試練を現出し続けることが求められるような存在として「奴隷」という表現も対応していることが確認できるでしょう。
 こうした真理の体制を以て、《信仰の極》にあるような真理に対する知識だけではなく、自分にとっての正直さ…《魂の真理》が求められ、それに基づいて「主体」が確立していったといえるのだ、と指摘されていたように思います。
 フーコー自身はそこまでは言及していないとは断りもありましたが、こうした転換がいわば、人間の精神を神から離陸させていくことになった、ということも確認されていました。神にとっての真理について迫っていくというよりも、《魂の真理》においては、自分自身に対してとことん正直であることが求められることになります。それは最後の審判に至るまでの、生きている間の長い間、神というよりかは自分自身の判断基準を真理と見なすことが許されるということでもあるのです。

 講読会の中では、《魂の真理》という発想がいわゆるサイエンスのきっかけの一つにもなっていたのかも、という話がされていましたが、今日では、誰しもが自分にとっての「正しさ」みたいなものを主張してやまない状況ともみなせます。ある種、”ミニプーチン”や”ミニトランプ”的な振る舞いをしてしまいかねないような状況ともいえます。だからこそ、「真理の体制」や「主体」というものがどのように発現していったのか、丁寧にフーコーの議論を読み解いていくことは、とてもタイムリーで非常に重要なことのような予感がします。ちょうど「ゆるフー」も折り返し地点となりましたが、引き続き楽しく読み進めていきましょう。

 

参加者の皆さんからのコメント

 

第七講| 一九八〇年二月二十日「主体性と真理の関係」 他 /2022年12月6日

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第八講| 一九八〇年二月二十七日「法の体系と救いの体系」 他 /2022年12月13日

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第九講| 一九八〇年三月五日「自己と事由の開示」 他 /2022年12月20日

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第十講| 一九八〇年三月十二日「自己の探究と良心の検討」 他 /2023年1月10日

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第十一講| 一九八〇年三月十九日「指導・従属の諸特徴」 他 /2023年1月17日

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第十二講| 一九八〇年三月二十六日「生者たちの統治」 他 /2023年1月24日

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