まなキキオンライン講読会_第9弾『官僚制のユートピア』

承認印を押すカエル オンライン講読会

さんかくすと文がえます

これほどまでに、自由を、共同を、そのための社会を求めてきたにもかかわらず、なぜ、その全てがますます、私たちの手から失われていくのか。裏腹に肥大する「規則(ルール)」と官僚制を論じた佳編から考えます。あわせて、Learning Crisis(学びの危機)や、能登半島復興についても論じます。素人歓迎!

※ 大学研究会の主催ですが、お申込み者は、自由に一回からご参加いただけます。お気軽にご参加ください
(どなたでもご参加いただけます!)

講読会こうどくかいフライヤーPDFはこちら

 

講読会について

講読書籍

『官僚制のユートピア――テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』 
デヴィッド・グレーバー著  酒井隆史 訳 以文社(2017年)   

講読期間

2024年6月4日(火)~2024年7月16日(火) 全6回

開催時間

18:00-19:30ごろ(入退室自由)

開催場所

ウニベルシタス(通称うにぶ:〒 187-0022 東京都小平市上水本町1-28-21明和荘E棟5号室
オンライン(ZOOM)開催

S先生
S先生

ウニベルシタスで参加のみなさんは、「まなキキ・ブレンド」を味わっていただけます!
オンラインで参加のみなさんも、baseなどを通じてまなキキ・ブレンドをお手元で味わっていただけます!
同じ香りで包まれながら、講読を進めていきましょう~!

参加方法

ご参加方法には、①一般参加会員、②継続参加会員、③傍聴参加の三種類があります。
※お申し込み時、アドレスの誤入力にご注意ください!

 

  • ①一般参加会員
    その都度ごと参加の申し込みを行って参加いただくものです。
    当日の講読に必要な資料を事前にお送りさせていただきます。
    ご参加予定の講読会の一週間前までにこちらのGoogle Formよりお申し込みください。
  • ②継続参加会員
    継続的に講読会にご参加いただくということで登録される会員です。
    講読会に必要な資料を事前にお送りさせていただきます。
    ※ 参加登録は一度のみで完了いたします。
    ※ また、継続参加会員が毎回必ず参加が必要というわけではありませんので、ご都合に合わせてお気軽にご参加ください。

    お申込みはこちらのGoogle Formよりどうぞ!
  • ③傍聴参加
    特に講読用の資料を希望せず、ZOOMでの傍聴のみを希望される参加のスタイルです。
    一回のみのご参加でもお気軽にお申込みいただけます。
    ご登録いただいた方宛てに、開催前にZOOMのURLをお送りいたします。
    お申し込みはこちらのGoogle Formよりどうぞ!


 

第一講| リベラリズムの鉄則(pp3-61)  2024年6月4日

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当日リポート

 久しぶりに始まったまなキキ・オンライン講読会の第9弾。ハイブリッドでの開催となりましたので、今日もうにぶからも3名の方が一緒に講読会に参加してくださっていました。(対面でご参加される方は、あらかじめ、まなキキまでぜひご一報いただけますようお願いいたします!)

 講読対象の文献『官僚主義のユートピア』を、なぜ今回、まなキキで講読しようということになったのか――その経緯を探る意味も含め、前半の30分ほど、第51回能登半島地震災害対策本部会議 を視聴するところから始まりました。
 この会議が開催された日の朝6時半、能登半島地震の余震で震度5強が記録されています。当日、能登半島輪島市の黒島地区で活動をされていたという柴田先生も「下から突き上げるような揺れで非常に怖かった」とのこと。ただ、そうした感想とは裏腹に、会議の様子は、参加していたという国会議員の発言は、非常に形式的なものでもありました。被災地におけるリアリティが、なぜか会議の場では(災害対策本部会議なのに)感じがたいものになっていました。

 当日は、災害ボランティアを仕切る行政担当部局である文化観光スポーツ部(年度前の県民文化スポーツ部)はお休みだったそうですが実際には、地震の影響で役所も災害ボランティアセンターも全部お休みになっていたそうですが、まさに、今回の能登半島地震をきっかけに見えてきたのは、「ユートピア オブ ルール」とでもいえるような状況であったかもしれません。本来、よりよく生きるためにあったかもしれないルールが、やがて、そのルールや形を守ることが最優先されるような目的となり、「生きること」が疎外されている状況――能登半島地震に象徴されるようなものだった、ということでの、今回の講読本としての選定に至ったのでした。

 今回の内容は、著者のグレーバーがどのように官僚制を問題として取り扱っているのかということを説明する内容になっていました。新自由主義批判の観点から、官僚制に対抗するものとしての市場主義が実は官僚制をより深刻化させ、日常にまで浸透させている、という内容になっていましたが、それってどういうことなのか、確認するところから始まっていました。

 デジタル大辞泉によれば、「官僚制」とは、
 巨大組織の運営にたずさわる専門的な人々の集団およびその組織・制度。
 合理的な規則や秩序に従って組織の目標を効率的に達成しようとする管理運営の体系・形態。
と説明されています。

 グレーバーが指摘していたのは、官僚制批判を通じて「効率化」や「合理化」を謳いながら、実は莫大な規則やペーパーワークを増大させ、本来目的とすることと大きな乖離を生むようになった(そして、そもそもそれこそがまさに官僚制だ)、という点にあったかと思います。
 講読会の中で例に挙げられていたのは、例えばマイナンバーカード。国民の「手間」を省くものとして喧伝され、導入されていますが、実際にこの運用をめぐって業務が増え、失態もあり、国民の側も毎回マイナンバーカードをコピーして提出しなくてはならない、などの事態に陥っています。
 市民活動を支えるという名目でさまざまな助成金や制度ができているかもしれませんが、実はその助成金制度によって、細かな事務手続きや報告義務が課され、本来の主眼である活動に割く時間が削られてしまう、といった本末転倒も発生しています。(定額減税の話題も)

 ですが、今日の社会では、なぜか「馬鹿真面目にルールを守る」ことが”盲信”されている、と講読会の中で指摘もされていました。想像力を働かせたら、「こんなことにどんな意味があるのだろう」と我に返るようなことなのかもしれませんが、それでも、ルールを忠実に守ることに囚われている。そして、「ちゃんと生きる」ことからどんどんずれていってしまう。
 「能力があれば正当に評価される」というのも”フィクション”だとグレーバーが指摘していた点も確認されました。学校の「成績がよい」というのも同様に”フィクション”――本質的な意味で、ものごとをよく理解しているということではなく、学校が生徒に強いるルールに”いかにうまく立ち回りこなすことができるか”ということがすなわち「成績がよい」と評価されているにすぎないのかもしれません。
 まさに、「官僚制のユートピア The Utopia of Rules」と題されたとおり、官僚制が”フィクション”をあたかもリアルであるかのようにみせている、といえるのでしょう。そして、そのフィクションをリアルであるかのように繕う官僚制が破綻するとき、クライシスとされるのかもしれない、という指摘であったかと思います。

 グレーバーは、官僚制が私たちの日常にまで侵食し、「生きること」を逆に奪っていったきっかけを「金融化」にあると説明していましたが、もっと広い射程で、もしかしたらフーコーの議論を援用する可能性も見出しながら、議論していけたら、とのことでした。
 ルールに対してしなやかに、確信犯的に身をこなしていくことができるよう、本質を見極めていくことができたら…と思いつつ。
 ぜひ、ひきつづき、議論していけると嬉しいです。次回も楽しみにご参加ください。

 

参加者の皆さんからのコメント

以前 規範主義的な友人がまともな企業に勤めるには最低限の規範が必要であると言っていたのを思い出した。規範的であることが求められるもとい評価される場において、社会的な地位と印象について規範主義の再生産が行われているのを感じた。

資格偏重主義という言葉が印象に残った。多くの大学生が就職に向けて資格を取得したり、何か「ガクチカ」と呼ばれるに値するものを得ようとする。このような風潮は、学生のことを生業で判断しているように感じるし、その学生自身の本質を見ていないように感じる。

この第1回しかフルタイム参加できないことが非常に悔やまれるほど、日頃得られることのなかなかできない学びを得ることができました。官僚制という言葉にそもそも触れることがなく、他にも理解が十分でない点がありますが、日常的な具体例を多く出していただけたので、いかにこの社会がルールによって縛られ、コントロールされているか考えることができました。そのルールは、本当にあるべきものなのか、コントロールされて本質を見失っていないか、自分の置かれている状況や社会的な状況に対して、常に内省していくことが求められるなと感じました。 資格化の話は、まさに自分自身の置かれた状況であると感じました。信頼を得るためには、その流れを経ることでまさにこうして実践してきたというように示すことができると思いますが、結局それがあるからよいというわけでなく、最終的に大事なのは技能であるはずなのでその過程だけで判断されてしまう社会というのはどうかと思います。 このことに気付いたうえでどう変えていけるのか?次回以降わかってくるのかなと思います。ありがとうございました。

「ルールを守るということが先立って、本来の目的が阻害されている」という言葉がとても印象的だった。何のために特定のルールを守っているのかわからなくなることがあったが、それは「官僚化」とも繋がっていることを知ることができた。また、学びの機会においても、勉強方法が形骸化し、内容に踏み込めないことがあると気づいた。

正直、フィクションばかりの(ルールを守る)世界の方が楽だし、生きやすいんじゃないかなって思ってしまう。難しいことは考えなくて良いし、そっちの方が社会はうまく回ると思うから。こんなことを考えてしまう私は官僚化社会に囚われているのかな、、、。

先日の地震の緊急会議があったことを初めて知りました。市長同士の情報の差があるということに初めて気づきました。これはここに限ったことではないものだと思いました。今回の話で印象に残ったのは効率を重視しすぎて、目的を見失っているということです。私も、受験勉強で効率を重視しすぎて勉強する目的などを見失っていました。日本の社会構造が効率重視であることから、小さいころからこのような思考になってしまっているのかなと気づいてこれから意識してみようと思いました。

講読会のはじめに視聴した能登地震の現状に非常に驚いた。被災地の復興に時間がかかっていることは知っていたが、現地でのトップによる話し合いですらあのように活気のない状態とは思っていなかった。「官僚制」と聞くと「国や企業」などの自分たちとは距離のあるところを想像していたので、災害時ですらあのようになってしまうとは相当身近なところにまで「官僚制」が染みついてしまっているのだなと思った。

官僚制と聞いてはじめは自分と遠いところにある話かと思いましたが、実は私たちの周りにあることと関わりがあるものなのだと今回の講読を聞いて思いました。自分にはとても難しい内容でほ全てを理解することができなかったのですが、冒頭でお話しされていた数日前に起きた能登地震の対策本部について、対策本部がどれほど形式的なものなのか、官僚化されたものだとおっしゃっていたのを聞き、少し身近なものとして考えることができました。次回以降はもっと理解できるように自分の知識を広げていきたいです。

石川県災害対策本部の会議の試聴の意味について最初は理解できなかったが、発表とディスカッションを視聴することでなるほどこれはフィクションだなと納得した。 購読会中にも匿名でコメントを残したが、官僚制の特徴である能力主義はフィクションであり、あることに関して向いているか向いていないかのゲーム、ということであったがルールに沿って適切に生きることは本当に民主主義に沿っているのかという疑問を持った。自由を求めれば求めるほど、それが自由すぎないように規制やルールが増える、この点も民主主義に反しているように思える。 今日の講義では自分が無意識的にルールに従っていることに気づかされたが、ルールをルールと知らずにいた方が「自由」に思えて幸せなのかもしれないと思う一方、東日本と能登の震災ボランティアの行動比較から、ルールを破った方がいいケースの時に意思決定ができるような思考力や判断力を持っておくべきであると感じた。

S先生
S先生

資格がフィクションになっていることも、ルールを守ることの意味を問わなくなっていることも本当にそのとおりですね。いつのまにか、なぜ、そのルールを守る必要があるのか?ということを考えず、どれだけ守れているのか、になってしまうんですよね。それは、ご指摘くださっているとおり、そうした目的を見失ってルールにただ則ろうとするのが、やっぱり「楽」だからなのだと思います。と同時に、私たちはそのことによって、安易に、愚かになってしまっているということができるのかもしれません。
学校教育の現場では、学級裁判とか学級会議などを例にあげて考えてみても、フィクションとしてのルール、フィクションとしての平和、フィクションとしての統治を学んでいる、といえるのかもしれません。

 

第二講| 想像力の死角 (pp63-112) 2024年6月11日

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当日リポート

 今日は、うにぶに害虫が出現してしまったということもあり、ヒトはGに屈してオンラインに逃げ込んでしまった、という展開で講読会をスタートさせました。

 柴田先生は昨日能登から帰京されたとのことでしたが、最近は避難所の閉所式が相次いでいるそう。そんな中で、公費解体がようやく始められているのだそうです。公費解体とは、倒壊した家屋などを税金をつかって片づけることですが、私有財産の解体となるため、所有者すべての同意を得る必要があるものなのだといいます。ところが、能登の家屋の多くが(恐らく空き家になっているなどの事情もあり)所有者すべての同意が得られず解体が遅れていたという実情があるそうです。まさに超法規的な対応が求められるようなことなのですが、最近になって、主たる権利者の同意を得れば解体できることにする、と決められたことで、今、どんどん被災地の片づけが始められているといいます。
 最も解体が進められているのは、輪島の朝市。他にも危険な場所も多く、優先するべき場所はほかにもいろいろあるのでは?という声も少なくないそうです。こうしたありようからも、官僚制の不合理さ、ある種の暴力がうかがえる側面があるのかもしれません。

 今日の講読対象は、構造的愚かさや、構造的暴力にかかわる内容になっていましたが、まず、ルールそのものが悪いのではなく、愚かなルールそのものや、守る必要がないようなものを守らなくてはならなくする愚かな構造それ自体を批判した内容である、ということを確認するところから議論が展開していきました。
 守る必要がないようなルール、愚かなルール(例えば、マイナンバーの類)をなぜ守らなくてはならないのか。その理由は「お巡りさんが来るから」。そして「怒られるから」です。官僚とは、暴力をふるってルールを守らせようとするような存在ともいうことができるでしょう。
愚かさが暴力によって支えられているのです。

 構造的暴力として例に出されていたのは入試システムです。入試に出るから、という理由だけで、必要とは思えないものについても勉強しなくてはならない――年号の暗記などを強要される。そうしたある種の”ゲーム”を経て得た学歴ほど、フィクションとして捉えることができるだろう、と共有がされていました。(一方で、入試という制度があろうがなかろうが、私たちは学ぶべきこと・学びたいことを学ぶことはできるはずなのです)

 今回の講読対象の中には「解釈労働」という用語も出てきていました。相手との合意を得る努力、すなわちコミュニカティブなやりとりを持つ努力のことを「解釈労働」とグレーバーは表現していましたが、この「解釈労働」を回避するものとして官僚制における構造的暴力がある。
 さまざまなルールがある中で、みんなが合意できるルールも当然あります。その場合は、皆、そのルールが必要だと共有できているから、暴力がなくてもルールは守られます。でも、みんなが納得できかねるような「愚かな」ルールを暴力によって強いるのが、構造的暴力で、グレーバーが批判してきたものです。(そしてそれが官僚制によって維持される)

 ただ、<放課後>の時間の中では、「解釈労働」をふつうの人間関係に適用させて考えるのは、ちょっと違うのかも、という議論もありました。互いに完全な合意を得ようとすることは、永久革命のようなもので、そもそもそうした完全な合意形成が成り立つという発想そのもののほうがフィクションで非現実的であるということ、現実には、ほどほどなところである種妥協し、折り合っていくようなことが求められるのではないか、という話もされていました。
むしろ、問われねばならないのは、リソースの配分や継承の過程を正当化させるようなシステム:官僚制の暴力性です。
‥‥というよりも、どちらかというと、グレーバーは官僚制批判から射程を拡げて、あらゆる人間関係の問題も「官僚制」に由来する問題として議論しようとしすぎているのではないか、という批判が主だったかもしれない点が25日の議論で確認されました。「官僚制批判」として非常にクリアになっているものが、射程を拡げて他の対象も「官僚制」に由来する問題とみなして批判することがかえって、批判の鋭さを失わせることになっているのではないか、という意味合いです。

当日の議論の中では、「教育において様々なルールを教えるのにも関わらず、官僚制上の手続きについて学校で学ばせない…構造上の愚かさに目を向けさせないためなのかと疑ってみてしまうのですが…」というコメントもありましたが、まさにこの問いについてを、次回の講読文献の中で探求していくことができるようです。ぜひ、楽しみに次回(来週18日はお休みです!次回は6月25日です!)も読み進めていけたら、と思います!

  

 

参加者の皆さんからのコメント

現在の社会の中に、こういった構造的暴力は多数存在する。
ルールや規則というものは、社会秩序を保つ上で必要不可欠なもので、でもそのルールや規則がいかに本質を突いているかが重要だと感じた。ルールや規則が成立するのは、みんながそのルールや規則に合意しているもしくは暴力的に支配できる人がいるときという話を聞いて、後者はよくないけど、前者はかなり難しいことだと感じた。

世界は構造的暴力であふれているにもかかわらず、それが暴力だと気づく機会を与えられないまま、人々はルールに従う楽さに慣れてしまっているのだと気づかされた。学校は構造的暴力が顕著に表れる場所だと感じるとともに、ルールが楽だと思わざるを得ない状況を作り出していると思った。私自身、守る意味の分からない校則があっても、「先生に怒られるのは嫌だから」という理由で守ってきたし、必要性を感じない宿題も勉強も淡々とこなしてきた。「なぜ」を考えることを放棄し、ただ従うという楽な道を選んだだけなのに、教員からは「良い子認定」をされて何かと優遇された。もはや「なぜ」を考えることが馬鹿らしいとさえ思っていた。今回の講読会で、当時の私は考えなくていい楽さを体現しており、愚かだったのだと思わせられた。私のような人間は、日本の教育が必然的に生み出した問題作なのではないだろうか…。

構造的暴力の例として学校における学級裁判や入試が挙げられていたことが分かりやすく、理解が深まった。私が考えた例も学校に関係することで、校則がいい例であると思う。講読会の中でルールがあること自体が問題でない、愚かなルールが問題であるということであったが、校則も学校の秩序を守るため、他人に迷惑をかけないために最低限必要なルールは必要であると思う。しかし、中には髪型の校則(ツーブロック禁止、ポニーテール禁止など)や冬の寒い日でもタイツなどを着用してはいけなかったり女子がズボンを選べない校則など、意味のない、愚かなルールが存在し、子供たちがそれを守るのは「学校がそういうから」「先生が怒るから」と言った理由だ。
私が中高生の時はこのような校則に反発しても変わることはなかったが、最近ではニュースでも取り上げられているようにこのような校則を取りやめる動きが全国で出てきている。子供たちの強い訴えもあると思うが、社会的に構造的な愚かさが見直されているとも考えることができると思う。構造的暴力はいつまでも成立し続けるものではないのかもしれない。

特に入試の制度については強く共感しました。私自身、学校名のブランドを求めるがために本来の学びとは離れた、暗記だけに傾いていてしまったいたり、受験に特化した勉強をしてしまう今の現状が問題ではないかと個人的に強く感じており、学校名のブランドを求めるから、ではなくそもそもの入試制度自体に根幹があるとお話を聴いて自分の中でしっくりきました。ありがとうございました。

私は今回の講義で耳にした構造的暴力にとても共感しました。わたしは高校時代、物理や化学などの理科系科目がとても苦手で、自分が目指している職業にははっきりいって使えないのに定期テストで良い点数をとるという理由だけのために勉強をしたことを思いだしました。その点数だけを見てクラス分けをされたり受験する高校や大学を決めるのは確かに暴力のひとつだと思いました。自分の得意なことや好きなことを学ぶのではなく、半ば強制的に興味のないことを学んでいるのは今の学校生活で当たり前のことのようになっているけどあまりいいことだとは思わないし、問題なんだと改めて思いました。

官僚制によって行われる入試が勉強することの本質を失ってしまっているという話を聞き、はっとした。やらないと社会的に弱者になってしまうことが暴力的な強制力になり、勉強が好きじゃない人、向いていない人に無理やりやらせ、やらない人を怒り、蔑む社会であることに気づき、入試は官僚制の暴力であるということにすごく共感してしまった。現代ではさらに学歴社会が進み、企業には学歴によって決めつけられ、多くの人が学歴コンプレックスをもち、入試方法までも気にしていることも官僚制の暴力に翻弄されているのかなと思った。私たちは社会の中で、いつか将来役に立つと言い聞かせ、構造的な暴力である官僚制による強制に従っている、従わざるを得ないことに気づいた。

今まで何の疑問も持たず、ルールは守るもので、絶対的なものだと私は思っていた。
しかしそうではなくて、ルールは相互に合意するか暴力によって従わせるかによって機能するということを知って驚いた。教育の面で、中学校や高校では大学とは異なって卒業するために絶対受けなければならない教科が多くて、当日の参加者S井さんも言っていましたが、たとえ興味がなくても無理やり学んでいる状況は構造的暴力になると思った。しかし、たとえ興味がないことに対して強制することによって、個々の才能や好きなことが開花する場合もあると思うので一概に興味がないからと言ってそれが構造的暴力になるとは言えないと思った。

“官僚制””構造的暴力”といった聞き馴染みのない言葉に困惑し、最初は難しそうだなと思っていましたが、話を聞いていくうちにどんどん理解が進み、学びを深めることができました。 入試や授業、成績の付け方など私達が当たり前だと思っていたものが”暴力”と言えることには衝撃を受けました。合意の覚えなしに興味のない学問を押し付けられ強いられる事を私達が自然に受け入れてしまっている現状の恐ろしさに気づきました。 ルール全てが悪という訳ではありません。私達の意識外に存在する愚かなルールについて今後よく考えていきたいと思いました。 有意義で貴重な時間を過ごすことができました。ありがとうございました。

官僚制がますます形骸化しているように感じた。もちろん官僚制が求められる集団は存在しているが、やはり必要でない集団も存在しているため、最終的に何を目的とするのかを常に考えて行動することが重要なのではないかと考えた。たとえば軍隊や、政党などの官僚機関において、上官の命令を受けることは前者の官僚制がシステムとして必要とされているが、一方で未知のことを探究したり、人間の能力について考える教育という分野ではそもそも行動をするにあたっての目的がまるっきり異なっているため官僚制が存在することがおかしいという結論になるのではないかと思う。大学という教育機関では普通、官僚制には反する形が取られるはずだが、実際には文部省の達しのもと講義が行われている。これの理由として近代化を進めるにあたって国家が大学を形成していたため、大学が官僚制の一環として従属した形で存在しており今もなおその名残があるのではないかと考えた。

能登半島地震の例では、解体の順番に対して地元民が意見を述べたり、不満を持っていたりすることが分かってもそれに対応してくれないことが分かった。官僚制とは、ルールを忠実に守ることから非効率が生まれ、なおかつ意見が通りづらいものなのだろう。その場合には、目的を持たないで行動することが楽ということに当てはまりそうだと考えた。  また、構造的暴力については、ルールや形式を重視しすぎるあまりに、形式や名前を得ることだけを目的にしていて中身が空っぽと同様であるように感じた。正直、日本にそのような大きな問題が当てはまることに意外性を感じた。しかし、その意外性を感じる時点で、わたしは構造的暴力に支配されてしまっていたのだと考えた。

 

S先生
S先生

本当にまさにその通りだなあという指摘をみなさんしてくださっていました。
入試の暴力性については本当にそのとおりですよね。時間を拘束し、無理やり考えさせ、無理やり探求させ、無理やりアクティブラーニングさせ、むりやり主体的にさせようとすることはまさに構造的暴力といえます。
ただ、一方で教育もまた構造的暴力なのか、という点については、そうではないのではないか、というのが私の立場です。「役に立たないこと」「好きではないこと」を学ばせるのは暴力と思ってしまいがちですが、教育には「学ぶべきこと」があるのです。例えば、九九を覚えることに苦痛を感じる人は決して少なくないと思いますが、それでもやっぱり九九を学ぶことはとても大事なことなのです。進化論を学ぶから多様な生物が存在することを尊重する重要性に気が付くことができるのです。人が市民として生きていくために必要なこととして、ある種の押し付けが必要なのだと思います。
入試と教育における「差」を挙げるとしたら、それを学ぶ必要について「理由がはっきりしている」ということなのでしょう。それはつまり、合意して、臨むことができるということです。開示され、共有され、相互承認されているかどうか、ということが入試と教育の差かもしれません。

 

第三講| 構造的愚かさについて(pp112-147) 2024年6月25日

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当日リポート

 今回はお休みを挟んでしまいましたが、前回とりあげた第二講の後半戦としての位置づけでした。1章の後半を読み進めていったことになりますが、なぜ、私たちが「愚かなルール」を守らなくてはいけないのか、というと、その愚かさを「おかしい」と指摘するとたんに暴力が発動してしまうことに由来する、ということは前回までで確認してきたとおりです。構造的暴力とは、まさに法的に正当化された暴力のことで、官僚制はそれをmanageするものでした。今日、注目していったのは、それ以外の官僚制の持つ役割であったのかもしれません。(放課後の時間には、managementではなくcoordinationというやり方もあり得る、という話も上がっていましたが、官僚制はあくまで一極集中させて言語道断、管理していくような運営方式なのかもしれません)

 それは、115頁にグレーバーが「それ自体が愚かさの諸形態であるというより、愚かさを組織化する方法」と言及しているとおり、私たちからその愚かなルールに対して「なぜ」と問う想像力を奪うように、「考える」ことを放棄させるように、官僚制は作られているということでした。

 今回の講読会では、前半の振り返りの中で言及されていたこともまた、今日の議論と大きくかかわることが多くを占めていたように思います。例えば、ごみのポイ捨ての例も語られていました。
ゴミをポイ捨てすることについて、多くの人がそれが法律的に禁止されているかどうかを問わず、「よくないこと」と捉えて、ポイ捨てはしない方がいいと判断し、そのように振る舞うでしょう。ポイ捨てすることは望ましくない、という点について、みんなが合意しているから、街はキレイに保たれているといえます。決して私たちは「ルールがあるから」「法律がそうと決めているから」ポイ捨てしないのではないはずなのです。
 官僚制は、この「合意」のためのプロセスを端折ります。そして、その「合意」不在のルールを守ることに、なぜか私たちは疑問を抱かなくなり、「従順に」「良い子」に振る舞っているかもしれないのです。やがて、「良い子」となり下がった私たちは、ルールに従ってさえいればいいと、ある意味で甘やかされて、想像力を失ってしまっているのかもしれない――そうした議論がされていました。

 能登半島地震でも、「被災地に足を運ぶことはしないでほしい」と呼びかけられていました。ですが、そのルールに従わない「悪い子(人?)」たちによって、機能していることがもしかしたらたくさんあったのです。社会が安定しているとき、ノーマルな状況にあるときは、なかなか「愚かさ」に気が付くことができませんが、クライシス下ではその亀裂の存在が明示化されるのかもしれません。

 官僚制がなければすべてがうまく回る、という議論ではないかもしれませんが、それでも官僚制による問題性をクリアーに指摘しているのがグレーバーの議論です。理不尽なものを理不尽なまま温存させる仕組みが官僚制で、それがどのように私たちの想像力を奪っていくのか。さらに、また次週の講読会の中で掘り下げていくことができそうです。

 冒頭で、創造性は批判することから生まれていくこと、だからウニブや講読会の場も、そうした批判精神に富んだ場を持ち続けたら、という話もありました。あーだこーだと思うことを率直に述べ、自らを省みることで、新たな気づきや発見の機会を持てたらと思います。来週も楽しみに講読していきたいと思います。

 

 

参加者の皆さんからのコメント

「良い子は生産的でない」というお話があったように、従っているだけでは何も生まれないと気づかされた。社会が生産性のある人材を必要としているならば、教育の場である学校では、ルールに従う「良い子」を求めてはいけないのではないだろうか。ルールに従う「良い子」は、「良い子」のまま大人になってしまったとき、社会で活躍することはできない。建前上かもしれないが、多くの企業が求めているのは主体的に行動できる生産性のある人材だからだ。従わないことを許さず、「良い子」を求める教育をしてきたのに、企業や社会が求めるのは、従う「良い子」ではなく主体性のある人材。そこにかなりの矛盾を感じる。教育の場で本当に必要なのは、ルールに従わない「悪い子」を「悪い子」として扱うのではなく、ルールの目的を一緒に考え、想像する機会を与えることなのではないか。

警察官による暴力に言及されている場面がありましたが、官僚制の下で考えさせられることなく想像力を持ちえないようにして管理されてきた人が警察官などになって自身の行為を疑うことなく官僚制の持つ暴力を行使してしまうのかなと考えました。幼い頃からの良い子となるための教育、官僚制の暴力に介入された常識を疑う、打開するトリガーが何か必要なのでしょうか。

警官が暴力的反応を示すのは、自身の権威や「状況を定義する」権利に対する反抗に対してであるということに、官僚制が持つ構造的な脆弱性を示していると感じました。そして、権力を維持するために暴力を行使することは、官僚制がその根底に持つ幼稚さや愚かさを露呈する愚挙であるということが分かりました。 また、公衆という概念は、国や権力者、官僚制という仕組みにとって都合のよい人口を指していることに関して、官僚制の影響力や権力構造がいかに社会全体に広がり、個々の行動に影響を与えているのかということを感じました。 近頃ニュースでしばしば話題となる選挙の投票や、通学や通勤など日常的に利用する公共サービス、更に国民としての基本的な義務などといった私たちが当たり前に行う行動や役割は、官僚制の枠組み内で組織化され、管理されているのだと気付かされました。そして、この枠組み自体が人々の想像力や創造性を制約する要素として機能していることに対して、人は無意識であるという恐ろしさを感じるとともに、この権力構造や社会制度についての批判的な視点を持つことの重要性を改めて意識しました。

愚かなルールを強いられることに喜びを感じる人はそう多くはないと想像するが、それでも尚官僚制的な社会が継続できるのは、この体制を崩壊させることへの恐怖を感じる人が多いからなのではないかと思った。都市計画からマーケティング戦略まで、色々な物事が組織的、合理的になされ、知らぬ間にその流れの中に組み込まれるような社会で日常生活を送っている。しかし、管理・統制された社会で生きているにも関わらず、生きることは不安定で、不確実なことである。人はその恐怖から逃れたいがために、無意識にルールに縛られた社会を求め、暴力的な支配の元で生きようとしている部分もあるのではないかと思った。

今回の内容が私にはなかなか理解することが難しかったです。最後のまとめとして話されていたルールがあることが私たちの想像力を制止させているということを聞いて少し理解できました。確かに世の中にあるルールについてなぜと考えることがなく、なぜと言っている人は悪いようになっているのをニュースなどでも見るなと思いました。

無知と思考停止はそのまま誰かへの間接的な暴力になるということを学びました。ルールは本来、社会生活をうまく回すため、生きていくためにあるもので、コミュニティに属する人間の合意の元実行されるべきなのに、それがルールである、というだけで守ることの恐ろしさに気付いていなかったな、と思います。私たちが普段従っているルールに対し、何故そのルールがあって、ルールによって何が為されて、何故そのルールを守らなければならないのかを考える機会が必要だなと考えました。

 

S先生
S先生

中国・深圳を訪れる機会が以前ありましたが、深圳の街も、ゴミ一つ落ちていなくて、とてもきれいな街でした。…が、区画ごとに監視カメラが設置されていて、ゴミのポイ捨てなどをした人がいれば、大きなモニターで晒されてしまうような、そういう「ルール」や「管理」の下に保たれている「きれいさ」だったりしたのでした。
「ルールがあるから守る」・「ルールがなくても守る」。いずれも結果は同じですが、それがどのような過程で達せられるのか、そのことをグレーバーは問おうと思っていたのではないのかと思います。
 とはいえ、実際に管理・統制下された社会とはラクチンな世界であることも間違いないと思います。「主体的に生きるべき」と思う理念的クマがいたとしたら、「平和に暮らせさえすれば、官僚制的世界でもいいや」と思う現実的クマもいて当然なのです。ですが、そもそも、議会も法律も憲法も、官僚制に対峙するために生まれたものだったのに、それが官僚制の象徴のようにみえてしまう世界になってしまっているのです。マイナンバーの問題も、実際のところ、バラバラに管理されてきた個人情報をマイナンバーで串刺しにして一元化するものですが、そのマイナンバーを管理するシステムがセキュアに維持されなければ、とてつもない悪夢が訪れることは想像に易いわけです。こうしたディストピアに気づくことが、まずは必要なのだと思います。
 また昨日(7月1日)で能登半島地震の発災から半年が経過しましたが、馳知事の演説やいろいろな語りの場や検討会で語られることと、日常の中で生きる方々(行きつけのお蕎麦屋さん)の声には相変わらずの隔絶があります。

第四講| 官僚制的テクノロジー(pp149-210) 2024年7月2日

当日資料はこちら

当日リポート

  今回も先週にひきつづき、「(強いられた?!)クマさん by 白衣博士」とともに、講読会を進めていきました。今回、講読対象となったのは、『官僚制のユートピア』の第二章。
「想像力」について議論する内容となっていました。

 「空飛ぶ車」がなぜ開発されないのか――ライト兄弟が世界初の有人飛行を成功させたのは1903年、第二次世界大戦がはじまるころには空母(航空機を多数搭載し、海上での航空基地の役割を果たす軍艦)が活躍し、パールハーバーを攻撃したのは1941年です――…。数百メートルかそこらを飛んだかどうかで喜んでいた時代から3-40年で劇的な進化を遂げています。
 そうした科学技術の発展・進展下を生きた人たちからしたら、2000年代には当然、空を飛ぶ車くらいは開発されているだろう、と考えるのは自然なことだったかもしれません。でも、そういう現実には至っていません。なぜなのか。

 科学技術はその後も進化や発展を遂げてきたかもしれませんが、冷戦終結後の世界(対立関係・競争関係が失われたという点で、ある種の「追い抜け・追い越せ」のモチベーションが圧倒的に崩れ去ったことは否定できない世界)で発展しつづけたのは、グレーバーがいうところの「官僚制的テクノロジー(Bureaucratic Technologies)」でした。官僚制的テクノロジーとは、管理のためのテクノロジーです。「管理運営の要請が、手段ではなく、テクノロジーの発展の目的」となっているようなあり方です。
 一方、「官僚制的テクノロジー」に対置されるのが、「詩的テクノロジー(Poetic Technologies)」です。「不可能であるような放縦な空想を実現させるための合理的・技術的・官僚制的手段の使用」を意味するものです。poetic・詩的といわれると、現実社会からすると突拍子のない空想で、意味がないもののようにも見えるかもしれませんが、実は、この「詩的テクノロジー」こそが、主体性を活かし、具体的な生産性につなげていきうるものだと指摘されていました。

 大学などは、それこそ創造性が発揮されるべき・されるような環境とみなせるはずですが、現実にはmanagement・管理の技術がどんどん導入され、そのことが生産性を阻害し、負担にしかなっていないということも問題点として挙げられてもいました。creativityを本来発揮させることを期待させるような場に、官僚制が導入されることで、評価主義的な観点も入り込んできていることも講読会の中で指摘されてもいました。
 グレーバーのいう資本主義が官僚制そのものであるという指摘は、まさに疑いようがなく、その資本主義が発展させてきたテクノロジーが管理のためのテクノロジーであったこと、そして、詩的テクノロジーはいまや風前の灯に陥っていることは注視すべきことなのかもしれません。
 本来、官僚制と対峙し得るような想像力を養う場であった大学が、管理テクノロジーを導入しはじめて主体性や想像力を語るようになることが、まさにLearning Crisisであるといった指摘もされていました。

 冒頭のフィードバックでも、規則やルールが判断力や思考力、考える力を奪うとありました。例えば、何かしらの評価基準を用いて、主体性や想像力のようなものを測りうると考えたり、何かしらの介入でコントロール可能という発想を持つようになってしまったら、そして主体性や想像力とは「そういうもの」だと思うように至ってしまったら、いよいよ、主体性や想像力は骨抜きにされて、本質的な意味での主体性や想像力は発現されなくなってしまうのかもしれませんある与えられた前提における意味での「主体性」や「想像力」しか発揮できなくなってしまうのかもしれません。
(ちなみに、放課後の時間、つい研究者たちも「evaluation 評価」と「analyzation 分析」を混同しがちという話題があがりました。「評価」とは、価値のスケールをもって対象を当てはめることを指します。研究は、「評価」ではなく「分析」をします。)
 まさに、こうしたLearning Crisisに対峙するためには、そうした官僚制的テクノロジーが持つ問題点に自覚的になるところから始めるしかないのかもしれません。ちなみに今回の議論はこれまでの講読会でも読んできた内容とも重なり、思い返すところも多い会でした(確かに、まさに『コンヴィヴィアリティのための道具』のbig tool とhand toolの議論でもありました)

 次回は「合理性」というキーワードについて考えていく骨太な議論となるそうです。ぜひ楽しみに読んでいきたいと思います!

 

参加者の皆さんからのコメント

空飛ぶ車はたしかにまだ存在しないなあと思ったし、今回の話を聞いて、その技術はもういらないのではないかと思った。技術進歩は目覚ましいことというイメージを勝手に持っていたが、実際はちっぽけなことであるようにも感じた。

ずば抜けた能力、浮世離れした人の居場所がなくなっているという話を聞いて、私は特に日本の教育制度についてそのようなことが顕著に見えると思った。私はニュースでギフテッドと呼ばれる子供が日本の教育制度に馴染めず、自由度の高い国の教育を受けてその能力を発揮しているというニュースを見た。大企業、学校、社会が普遍さを求めている、決まったかたちの「良い子」を求めているからなのではないかと思った。

「想像力」や「創造性」が権力によって押さえつけられてきたことが分かった。教育の現場において、出来不出来の評価をされると、良いものを作らなければいけないという意識が働き、創造性を備える機会が知らず知らずのうちに制限されていると思った。

研究費用を国から補助してもらうには実績が必要であり、資本主義のもとでは空想を現実にすることができず、想像力や創造性が失われていることが分かった。想像力が求められる官僚制の社会こそが、想像力を奪っていると気づくことが出来た。評価で差をつけるのは時には必要かもしれないが、官僚制の支配的な側面に気づかないまま、評価を受けると生産性のない社会的に良い子になってしまうと思った。

テクノロジーの急速な成長が抑制された背景には官僚制という政治的要因が潜んでいることに気づきました。前の授業から、官僚制は私たちの想像性を容易く奪ってしまうと学んでいましたが、実際に技術革新が停滞している例に触れて、私達が受けている大きな影響に衝撃を受けてしまいました。 テクノロジーの発展は科学技術的進歩を促し、社会への貢献に活かされるべきであるのに、官僚制が支配する世の中で、統制や社会的管理の手段として利用されることに危機感を覚えました。 創造性を育む場であるはずの大学でさえ官僚制が浸透し、評価主義的な観点が優先され、個々の主体性が阻害されてしまう実情は恐ろしいと実感します。この状況が改善される期待を持つことは出来るのかと不安を感じてしまいました。

 

S先生
S先生

主体性や想像力が奪われている現場は、大学に限らず小学校、もしかしたら今日では幼稚園も該当するのかもしれません。実は、戦後教育は、ごく一瞬を除いて、ずっと「主体性」や「創造力」を育てようとしてきたといえます。その裏腹に進んだのが管理テクノロジー。テクノロジーが進展する中で、「主体性」や「創造力」の意味が換骨奪胎され、与えられたゲームフィールドでうまくやる力と混同されるようになったといえます。そして大真面目にそれが「よきこと」と信じられている、というのが現状なのではないでしょうか。

優秀なゲーマーほど、promotionしていけるようなそんな世界では、本来求められているかもしれないような卓越した才能は管理されつぶされていってしまうのかもしれません。また、ギフテッドについての指摘もありましたが、ASDや自閉症などに限らず、私たちは何かしらの「得意」を与えられているという意味では皆、ギフテッドともいえるのだろうと思います。ただ、評価されるものが極めて限定的なもの、とも考えられるのではないでしょうか。

第五講| 規則ルールのユートピア(pp211-292) 2024年7月9日

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当日リポート

  くまさんの姿をした参加者の中の人(柴田先生)は、先週末、宇出津のキリコ祭りに参加する機会を持ったとのこと。暴れ祭りともいわれるようなこの祭りの盛り上がりは大変なものだったそうで、お神輿を担いだ肩が外れそう?外れた?痛みは辛いものの、今回の講読会の内容について考えさせられる体験だったといいます。お神輿を担いで回転させる(このあたりは百聞は一見に如かず、な印象…[回転って、こういう意味…??と写真や動画を観てびっくり。さすが暴れ祭り])ようなことは、独立した個人が集まって間合いや空気を読みあいながら主体的に行為してかなうようなものであったと感じたといいます。まさに、playともいうべきありようであった、とお話くださいましたが、なぜこうした重たいお神輿を若い衆が担がねばならないか、といったようなことはcommunityに関する議論が不可避で、20日のイベントでもお話いただけるとのことでした。

 今回の議論(3章)は、実は官僚制というものにある種の「魅力」のようなものがあり、それゆえ私たちは官僚制というものを手放せないのではないか、といった点についてのグレーバーの指摘で構成されていました。
 端的にいうと(まちがえているかも)、グレーバーは、「官僚制」とはある規則(ルール)のもとにお膳立てされたゲームフィールドでどううまく振る舞うか、そのかぎりにおいての「自由」をもたらすものであることを指摘しています。(「ゲーム」は、「ひとが規則(ルール)に完全に自発的に従属する」ことで成り立ち、かつ、快楽を与える [273頁] )
 一方で、これまで議論されてきた詩的テクノロジーとは、「ゲーム」よりも高次のレベルの概念として説明された「プレイ」にあたるようなものですが、私たちは「創造的綜合や即興を重視しながら自由を根本的にプレイのうちにみる反権威主義」ではなく、官僚制化された自由の観念が支配する世界に「安住」し、結果として科学や創造性が抑制されるような世界に在る、という指摘で締めていたように思います。
 そして、この異なる意味における「自由」が、混同されてしまっている、ということが大きな論点になっていたように思います。

 講読会の中でも、小学生に成績を付けることの心苦しさから議論が始まりました。
実は学習指導要領では、成績を付けることを必須としていないのだそうです。ただし、「入試」という制度においては内申点は求められることになる。ここに大きな矛盾があるのではないか、という指摘もされていました。本来成績をつける行為は必須とされていないはずなのに、受験や入試という制度は成績がつけられていることを前提として平然と進められている、という矛盾…。

 学びは、他人に評価されるために行っているわけではないはずなのに、学校が生徒や学生に強いるのは、こうした「規則(ルール)」のもとで「自由」に巧みにいきる様だといえます。
 グレーバーの議論では、ゲームと説明されるようなあり方が、私たちの暮らす社会では本来的な意味における「自由」と混同されがちであるということが指摘されていました。

 例えば、郵便システムやEメールなどの例も挙げられていましたが、まるで「自由」にそうしたシステムを活用しているようにみえるそれが、実は、管理型官僚制における目的(主に軍事的目的の利活用のため)下でかなえられた手段合理性を謳歌しているだけ――手段的には自由であっても、本来的な意味での自由は奪われている――であるとしても講読会内(放課後?)でも説明されていました。

 ゲームに対してプレイという概念は、「創造的エネルギーの純粋な表現」が目的それ自体になっていることとして説明されています。そしてそのプレイへの恐怖が官僚制を生んでいる、という指摘もありました。ファンタジーは、退屈で管理されきった[現実]世界のガス抜きの役割を果たしつつ、やっぱり管理された自由のほうが「ラクチン」で「安全」といったイデオロギー的植え込みに至っている、といった議論もありました。
 「プレイへの恐怖」……ある種「創造的エネルギーの純粋な表現」は恣意性を生むのかもしれません。だから、規則(ルール)が必要なのか?ということにはならない、という点も確認されました。
規則(ルール)で管理されない恣意的な世界では、恣意性に対して恣意性で応じることも可能なcommunicativeな世界でもあるかもしれないのです。
 (同時に、「恣意性を排除する」として「透明な」基準を設けていっても、最終的に恣意的に運用されてしまうからこそ官僚制なのだ、という指摘もありました。)

 言語の例も挙げられていました。「かくして自由とは、実のところ、みずからがたえず生成する規則に抵抗するという人間の創造性の自由なプレイのはらむ緊張である。そして言語学者がつねに観察しているのがまさにこれなのである。文法のない言語は存在しない。だが、文法を含むすべてが、あらゆる時点でたえまなく変転していないような言語もまた存在しない」(285頁、5行目)
 講読会の中では、グレーバーは、規則(ルール)というものを否定しているといった点も言及されていましたが(?)、恐らく、規則(ルール)とひとまとめに単純視することができないような、暗黙のルールBのようなものも存在している、という解説もありました。そのルールBは、常にフレキシブルに、変化し続けるものであるべきものだ、とも説明されていました。いわゆる官僚制的な規則(ルール)とルールB的なものを、混同しないようにすること。
 ルールB的なものが、フレキシブルに本来的な意味で自由に、存在しつづけるためには、「共感」ではなく「論理・ロジック」を通じてcommunicativeに妥当な折り合うポイントを見出す努力(≒解釈労働?)が求められるのかもしれません。

 次回は最終回。補論を通じて、理解を深めていけたら、と思います。

 

参加者の皆さんからのコメント

第六講| 構成的権力の問題(pp293-323) 2024年7月16日

 

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当日リポート

 

参加者の皆さんからのコメント

 

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