まなキキオンライン講読会_第9弾『官僚制のユートピア』

承認印を押すカエル オンライン講読会

さんかくすと文がえます

これほどまでに、自由を、共同を、そのための社会を求めてきたにもかかわらず、なぜ、その全てがますます、私たちの手から失われていくのか。裏腹に肥大する「規則(ルール)」と官僚制を論じた佳編から考えます。あわせて、Learning Crisis(学びの危機)や、能登半島復興についても論じます。素人歓迎!

※ 大学研究会の主催ですが、お申込み者は、自由に一回からご参加いただけます。お気軽にご参加ください
(どなたでもご参加いただけます!)

講読会こうどくかいフライヤーPDFはこちら

 

講読会について

講読書籍

『官僚制のユートピア――テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』 
デヴィッド・グレーバー著  酒井隆史 訳 以文社(2017年)   

講読期間

2024年6月4日(火)~2024年7月16日(火) 全6回

開催時間

18:00-19:30ごろ(入退室自由)

開催場所

ウニベルシタス(通称うにぶ:〒 187-0022 東京都小平市上水本町1-28-21明和荘E棟5号室
オンライン(ZOOM)開催

S先生
S先生

ウニベルシタスで参加のみなさんは、「まなキキ・ブレンド」を味わっていただけます!
オンラインで参加のみなさんも、baseなどを通じてまなキキ・ブレンドをお手元で味わっていただけます!
同じ香りで包まれながら、講読を進めていきましょう~!

参加方法

ご参加方法には、①一般参加会員、②継続参加会員、③傍聴参加の三種類があります。
※お申し込み時、アドレスの誤入力にご注意ください!

 

  • ①一般参加会員
    その都度ごと参加の申し込みを行って参加いただくものです。
    当日の講読に必要な資料を事前にお送りさせていただきます。
    ご参加予定の講読会の一週間前までにこちらのGoogle Formよりお申し込みください。
  • ②継続参加会員
    継続的に講読会にご参加いただくということで登録される会員です。
    講読会に必要な資料を事前にお送りさせていただきます。
    ※ 参加登録は一度のみで完了いたします。
    ※ また、継続参加会員が毎回必ず参加が必要というわけではありませんので、ご都合に合わせてお気軽にご参加ください。

    お申込みはこちらのGoogle Formよりどうぞ!
  • ③傍聴参加
    特に講読用の資料を希望せず、ZOOMでの傍聴のみを希望される参加のスタイルです。
    一回のみのご参加でもお気軽にお申込みいただけます。
    ご登録いただいた方宛てに、開催前にZOOMのURLをお送りいたします。
    お申し込みはこちらのGoogle Formよりどうぞ!


 

第一講| リベラリズムの鉄則(pp3-61)  2024年6月4日

当日資料はこちら

当日リポート

 久しぶりに始まったまなキキ・オンライン講読会の第9弾。ハイブリッドでの開催となりましたので、今日もうにぶからも3名の方が一緒に講読会に参加してくださっていました。(対面でご参加される方は、あらかじめ、まなキキまでぜひご一報いただけますようお願いいたします!)

 講読対象の文献『官僚主義のユートピア』を、なぜ今回、まなキキで講読しようということになったのか――その経緯を探る意味も含め、前半の30分ほど、第51回能登半島地震災害対策本部会議 を視聴するところから始まりました。
 この会議が開催された日の朝6時半、能登半島地震の余震で震度5強が記録されています。当日、能登半島輪島市の黒島地区で活動をされていたという柴田先生も「下から突き上げるような揺れで非常に怖かった」とのこと。ただ、そうした感想とは裏腹に、会議の様子は、参加していたという国会議員の発言は、非常に形式的なものでもありました。被災地におけるリアリティが、なぜか会議の場では(災害対策本部会議なのに)感じがたいものになっていました。

 当日は、災害ボランティアを仕切る行政担当部局である文化観光スポーツ部(年度前の県民文化スポーツ部)はお休みだったそうですが実際には、地震の影響で役所も災害ボランティアセンターも全部お休みになっていたそうですが、まさに、今回の能登半島地震をきっかけに見えてきたのは、「ユートピア オブ ルール」とでもいえるような状況であったかもしれません。本来、よりよく生きるためにあったかもしれないルールが、やがて、そのルールや形を守ることが最優先されるような目的となり、「生きること」が疎外されている状況――能登半島地震に象徴されるようなものだった、ということでの、今回の講読本としての選定に至ったのでした。

 今回の内容は、著者のグレーバーがどのように官僚制を問題として取り扱っているのかということを説明する内容になっていました。新自由主義批判の観点から、官僚制に対抗するものとしての市場主義が実は官僚制をより深刻化させ、日常にまで浸透させている、という内容になっていましたが、それってどういうことなのか、確認するところから始まっていました。

 デジタル大辞泉によれば、「官僚制」とは、
 巨大組織の運営にたずさわる専門的な人々の集団およびその組織・制度。
 合理的な規則や秩序に従って組織の目標を効率的に達成しようとする管理運営の体系・形態。
と説明されています。

 グレーバーが指摘していたのは、官僚制批判を通じて「効率化」や「合理化」を謳いながら、実は莫大な規則やペーパーワークを増大させ、本来目的とすることと大きな乖離を生むようになった(そして、そもそもそれこそがまさに官僚制だ)、という点にあったかと思います。
 講読会の中で例に挙げられていたのは、例えばマイナンバーカード。国民の「手間」を省くものとして喧伝され、導入されていますが、実際にこの運用をめぐって業務が増え、失態もあり、国民の側も毎回マイナンバーカードをコピーして提出しなくてはならない、などの事態に陥っています。
 市民活動を支えるという名目でさまざまな助成金や制度ができているかもしれませんが、実はその助成金制度によって、細かな事務手続きや報告義務が課され、本来の主眼である活動に割く時間が削られてしまう、といった本末転倒も発生しています。(定額減税の話題も)

 ですが、今日の社会では、なぜか「馬鹿真面目にルールを守る」ことが”盲信”されている、と講読会の中で指摘もされていました。想像力を働かせたら、「こんなことにどんな意味があるのだろう」と我に返るようなことなのかもしれませんが、それでも、ルールを忠実に守ることに囚われている。そして、「ちゃんと生きる」ことからどんどんずれていってしまう。
 「能力があれば正当に評価される」というのも”フィクション”だとグレーバーが指摘していた点も確認されました。学校の「成績がよい」というのも同様に”フィクション”――本質的な意味で、ものごとをよく理解しているということではなく、学校が生徒に強いるルールに”いかにうまく立ち回りこなすことができるか”ということがすなわち「成績がよい」と評価されているにすぎないのかもしれません。
 まさに、「官僚制のユートピア The Utopia of Rules」と題されたとおり、官僚制が”フィクション”をあたかもリアルであるかのようにみせている、といえるのでしょう。そして、そのフィクションをリアルであるかのように繕う官僚制が破綻するとき、クライシスとされるのかもしれない、という指摘であったかと思います。

 グレーバーは、官僚制が私たちの日常にまで侵食し、「生きること」を逆に奪っていったきっかけを「金融化」にあると説明していましたが、もっと広い射程で、もしかしたらフーコーの議論を援用する可能性も見出しながら、議論していけたら、とのことでした。
 ルールに対してしなやかに、確信犯的に身をこなしていくことができるよう、本質を見極めていくことができたら…と思いつつ。
 ぜひ、ひきつづき、議論していけると嬉しいです。次回も楽しみにご参加ください。

 

参加者の皆さんからのコメント

以前 規範主義的な友人がまともな企業に勤めるには最低限の規範が必要であると言っていたのを思い出した。規範的であることが求められるもとい評価される場において、社会的な地位と印象について規範主義の再生産が行われているのを感じた。

資格偏重主義という言葉が印象に残った。多くの大学生が就職に向けて資格を取得したり、何か「ガクチカ」と呼ばれるに値するものを得ようとする。このような風潮は、学生のことを生業で判断しているように感じるし、その学生自身の本質を見ていないように感じる。

この第1回しかフルタイム参加できないことが非常に悔やまれるほど、日頃得られることのなかなかできない学びを得ることができました。官僚制という言葉にそもそも触れることがなく、他にも理解が十分でない点がありますが、日常的な具体例を多く出していただけたので、いかにこの社会がルールによって縛られ、コントロールされているか考えることができました。そのルールは、本当にあるべきものなのか、コントロールされて本質を見失っていないか、自分の置かれている状況や社会的な状況に対して、常に内省していくことが求められるなと感じました。 資格化の話は、まさに自分自身の置かれた状況であると感じました。信頼を得るためには、その流れを経ることでまさにこうして実践してきたというように示すことができると思いますが、結局それがあるからよいというわけでなく、最終的に大事なのは技能であるはずなのでその過程だけで判断されてしまう社会というのはどうかと思います。 このことに気付いたうえでどう変えていけるのか?次回以降わかってくるのかなと思います。ありがとうございました。

「ルールを守るということが先立って、本来の目的が阻害されている」という言葉がとても印象的だった。何のために特定のルールを守っているのかわからなくなることがあったが、それは「官僚化」とも繋がっていることを知ることができた。また、学びの機会においても、勉強方法が形骸化し、内容に踏み込めないことがあると気づいた。

正直、フィクションばかりの(ルールを守る)世界の方が楽だし、生きやすいんじゃないかなって思ってしまう。難しいことは考えなくて良いし、そっちの方が社会はうまく回ると思うから。こんなことを考えてしまう私は官僚化社会に囚われているのかな、、、。

先日の地震の緊急会議があったことを初めて知りました。市長同士の情報の差があるということに初めて気づきました。これはここに限ったことではないものだと思いました。今回の話で印象に残ったのは効率を重視しすぎて、目的を見失っているということです。私も、受験勉強で効率を重視しすぎて勉強する目的などを見失っていました。日本の社会構造が効率重視であることから、小さいころからこのような思考になってしまっているのかなと気づいてこれから意識してみようと思いました。

講読会のはじめに視聴した能登地震の現状に非常に驚いた。被災地の復興に時間がかかっていることは知っていたが、現地でのトップによる話し合いですらあのように活気のない状態とは思っていなかった。「官僚制」と聞くと「国や企業」などの自分たちとは距離のあるところを想像していたので、災害時ですらあのようになってしまうとは相当身近なところにまで「官僚制」が染みついてしまっているのだなと思った。

官僚制と聞いてはじめは自分と遠いところにある話かと思いましたが、実は私たちの周りにあることと関わりがあるものなのだと今回の講読を聞いて思いました。自分にはとても難しい内容でほ全てを理解することができなかったのですが、冒頭でお話しされていた数日前に起きた能登地震の対策本部について、対策本部がどれほど形式的なものなのか、官僚化されたものだとおっしゃっていたのを聞き、少し身近なものとして考えることができました。次回以降はもっと理解できるように自分の知識を広げていきたいです。

石川県災害対策本部の会議の試聴の意味について最初は理解できなかったが、発表とディスカッションを視聴することでなるほどこれはフィクションだなと納得した。 購読会中にも匿名でコメントを残したが、官僚制の特徴である能力主義はフィクションであり、あることに関して向いているか向いていないかのゲーム、ということであったがルールに沿って適切に生きることは本当に民主主義に沿っているのかという疑問を持った。自由を求めれば求めるほど、それが自由すぎないように規制やルールが増える、この点も民主主義に反しているように思える。 今日の講義では自分が無意識的にルールに従っていることに気づかされたが、ルールをルールと知らずにいた方が「自由」に思えて幸せなのかもしれないと思う一方、東日本と能登の震災ボランティアの行動比較から、ルールを破った方がいいケースの時に意思決定ができるような思考力や判断力を持っておくべきであると感じた。

S先生
S先生

資格がフィクションになっていることも、ルールを守ることの意味を問わなくなっていることも本当にそのとおりですね。いつのまにか、なぜ、そのルールを守る必要があるのか?ということを考えず、どれだけ守れているのか、になってしまうんですよね。それは、ご指摘くださっているとおり、そうした目的を見失ってルールにただ則ろうとするのが、やっぱり「楽」だからなのだと思います。と同時に、私たちはそのことによって、安易に、愚かになってしまっているということができるのかもしれません。
学校教育の現場では、学級裁判とか学級会議などを例にあげて考えてみても、フィクションとしてのルール、フィクションとしての平和、フィクションとしての統治を学んでいる、といえるのかもしれません。

 

第二講| 想像力の死角 (pp63-112) 2024年6月11日

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当日リポート

 今日は、うにぶに害虫が出現してしまったということもあり、ヒトはGに屈してオンラインに逃げ込んでしまった、という展開で講読会をスタートさせました。

 柴田先生は昨日能登から帰京されたとのことでしたが、最近は避難所の閉所式が相次いでいるそう。そんな中で、公費解体がようやく始められているのだそうです。公費解体とは、倒壊した家屋などを税金をつかって片づけることですが、私有財産の解体となるため、所有者すべての同意を得る必要があるものなのだといいます。ところが、能登の家屋の多くが(恐らく空き家になっているなどの事情もあり)所有者すべての同意が得られず解体が遅れていたという実情があるそうです。まさに超法規的な対応が求められるようなことなのですが、最近になって、主たる権利者の同意を得れば解体できることにする、と決められたことで、今、どんどん被災地の片づけが始められているといいます。
 最も解体が進められているのは、輪島の朝市。他にも危険な場所も多く、優先するべき場所はほかにもいろいろあるのでは?という声も少なくないそうです。こうしたありようからも、官僚制の不合理さ、ある種の暴力がうかがえる側面があるのかもしれません。

 今日の講読対象は、構造的愚かさや、構造的暴力にかかわる内容になっていましたが、まず、ルールそのものが悪いのではなく、愚かなルールそのものや、守る必要がないようなものを守らなくてはならなくする愚かな構造それ自体を批判した内容である、ということを確認するところから議論が展開していきました。
 守る必要がないようなルール、愚かなルール(例えば、マイナンバーの類)をなぜ守らなくてはならないのか。その理由は「お巡りさんが来るから」。そして「怒られるから」です。官僚とは、暴力をふるってルールを守らせようとするような存在ともいうことができるでしょう。
愚かさが暴力によって支えられているのです。

 構造的暴力として例に出されていたのは入試システムです。入試に出るから、という理由だけで、必要とは思えないものについても勉強しなくてはならない――年号の暗記などを強要される。そうしたある種の”ゲーム”を経て得た学歴ほど、フィクションとして捉えることができるだろう、と共有がされていました。(一方で、入試という制度があろうがなかろうが、私たちは学ぶべきこと・学びたいことを学ぶことはできるはずなのです)

 今回の講読対象の中には「解釈労働」という用語も出てきていました。相手との合意を得る努力、すなわちコミュニカティブなやりとりを持つ努力のことを「解釈労働」とグレーバーは表現していましたが、この「解釈労働」を回避するものとして官僚制における構造的暴力がある。
 さまざまなルールがある中で、みんなが合意できるルールも当然あります。その場合は、皆、そのルールが必要だと共有できているから、暴力がなくてもルールは守られます。でも、みんなが納得できかねるような「愚かな」ルールを暴力によって強いるのが、構造的暴力で、グレーバーが批判してきたものです。(そしてそれが官僚制によって維持される)

 ただ、<放課後>の時間の中では、「解釈労働」をふつうの人間関係に適用させて考えるのは、ちょっと違うのかも、という議論もありました。互いに完全な合意を得ようとすることは、永久革命のようなもので、そもそもそうした完全な合意形成が成り立つという発想そのもののほうがフィクションで非現実的であるということ、現実には、ほどほどなところである種妥協し、折り合っていくようなことが求められるのではないか、という話もされていました。
むしろ、問われねばならないのは、リソースの配分や継承の過程を正当化させるようなシステム:官僚制の暴力性です。

当日の議論の中では、「教育において様々なルールを教えるのにも関わらず、官僚制上の手続きについて学校で学ばせない部分に構造上の愚かさに目を向けさせないためなのかと疑ってみてしまうのですが…」というコメントもありましたが、まさにこの問いについてを、次回の講読文献の中で探求していくことができるようです。ぜひ、楽しみに次回(来週18日はお休みです!次回は6月25日です!)も読み進めていけたら、と思います!

  

 

参加者の皆さんからのコメント

第三講| 構造的愚かさについて(pp112-147) 2024年6月25日

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当日リポート

 

 

参加者の皆さんからのコメント

 

第四講| 官僚制的テクノロジー(pp149-210) 2024年7月2日

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参加者の皆さんからのコメント

 

第五講| 規則ルールのユートピア(pp211-292) 2024年7月9日

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参加者の皆さんからのコメント

第六講| 構成的権力の問題(pp293-323) 2024年7月16日

 

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参加者の皆さんからのコメント

 

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