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「書く」―孤独な作業
先ほどから見てきた通り、文字になって情報が伝えられるとき、その読み手の存在はなかなか意識することができません。
だから、一見すると情報は一方通行のように思えるのです。
「書く」ことが難しい理由はここにもあるようです。
オングさんは次のようにも書いています。
しかしながら[実は]、話すときにも、また、書くときにも、なんらかの受け手は[つねに]いなければならない。さもないと、どんなテクストも生み出されることができないだろう。だから、現実の人びとから離れたところにいる書き手は、虚構の[読み手や聞き手としての]人や人びとをひねりだすのである
「書き手の聴衆はつねに虚構である」(Ong 1977, pp54-81)。書き手にはふつう、どんな現実の受け手もいない(たとえたまたまいたとしても、メッセージを書くということ自体が、あたかもだれもそこにいないかのようにおこなわれることなのである。さもなければ、どうして書く必要があるだろう)。読者を虚構しなければならないということが、書くことをこんなにも困難なものにしている理由である。
W-J・オング著『声の文化と文字の文化』pp.360
※ 改行・太字はM先生による
今、私も誰がこの文章を読んでくれるのだろう、と思いながら書いています。そして、皆さんの姿をなんとな~くイメージしながらお手紙を書くが如く綴っているのです。
どうしたら、言いたいことが伝わるだろうと、考えながら書いています。
もし、皆さんが目の前にいたら、私が何かを話しても、それを聞いている皆さんが「よくわからない」とか「なるほどね」とか、そういう反応をくださるのだと思います。
もしかしたら、眉間にしわが寄っていたり、眠そうな顔をしている様子から、みなさんの気持ちを私は想像して、言い回しを変えたり、説明のスピードを調整できるのかもしれません。
質問に対して答えていくこともできるでしょう。
でも、文字だけの世界では、それがかないません。
だから、なるべくみんなが「?」と思うだろうなあ、というところを先回りして考えて、少しでも「?」が多くならないようにしようと思いながら書いているのです。
あんまりうまくいっていないかもしれませんが…涙
何か「出来事」について…例えば「遠足の思い出」の作文を書きましょう、という課題が出たとき、
もしかしたら、皆さんが「何を書いたらいいのかよくわからない」という気持ちになるのだとしたら、それは、もしかしたら、自然な感覚なのかもしれません。
だって、「作文」という文章を書く行為が、誰のためにあるのか、よくわからないですよね。
誰に伝えるための文章なのかよくわからないと、
何を説明すればよいのか・書けばよいのか、もよくわからなくなってしまうかもしれません。
だから、
「今日は、遠足に行きました。楽しかったです。おわり」
という作文になってしまうこともあるのかもしれません。
誰に宛てて書く文章なのか考える
ここからは、M先生なりのアドバイス、というか一つの案としての提案です。
これから作文を書く時、だれか「読んでほしい人」を頭に思い浮かべながら書いてみるとよいかもしれません。
例えばおじいちゃんやおばあちゃんでもいいかもしれませんし、
違う学校に通っている友達に宛ててもいいかもしれません。
弟や妹に宛ててもいいし、将来の10年後の自分などに宛ててもいいのかもしれません。
おそらく、どんなことを書くのか内容が変わってくると思います。
「遠足に行った」という経験を書くにしても、
この作文を読んでくれる人が誰なのかによって、説明が変わってくるはずです。
■ いつ・どこへ行ったのか。
■ お菓子は何を買っていったのか。
■ 行きの電車やバスの中でのこと。
■ 友達との会話。
■ 可笑しかったこと。
■ 読んでくれているあなたにもおススメしたいこと/一番に伝えたいこと。そしてその理由。
などなど。
その読み手と、会話をすることができないからこそ、
書き手であるあなたは、読んでくれる誰かが、どんなことを知りたいと思うか想像しながら書く必要があるのです。
そして、あなた自身がその人に何を伝えたいのかを、考えます。
「あなたが伝えたいこと」を相手に分かって読んでもらうためには、
どういう順番で・どう説明するといいか、書き出す前にも整理してみたり、書いてからも何度も読み返したりしながら、考えるのです。
それは、文字になるからこそできる作業―推敲―なのです。
そしてそれは、自分の心の中で「誰か」との会話を思い描く必要がある、一人きりの作業です。
大人になるにつれ、読み手がどんな姿をしているのか分からずに文章を書くことは多くなります。
相手がどんな性格で、どんなことに興味を持っていて、どんな好き嫌いがあるのか…そういう個人的な情報は全くないままで、相手が「へ~」とか「ふむふむ。なるほどね」とか「おもしろいじゃん!」と思ってもらえるような文章を書く、ということは、なかなか真剣勝負です。
気に入ってくれる人もいるでしょうし、気に入ってくれない人もいるはずです。
それは当たり前のことです。
みんなに好き嫌いがあるとおり、文章にも好き嫌いがあるのです。皆さんにもあるはずです。
でも、だからこそ、いろいろな種類の文章を読んでおくことが大切になります。
どんなものの考え方をする人達が世界にはいて、どういうふうに物事をとらえているのか。
何を大切にしているのか。
そういう知識や、伝える方法のバリエーションを知ることは、あなたが「書く」という作業をするときの強力な支えになると思います。
伝えること―言葉・文字、そして電波
声の文化の中で、口承/口頭文学をいくつか紹介しました。
たぶん、文字で読むのと、音で聞くのとでは、印象がだいぶ違うのかもしれません。
同じように、もしかしたら点字で読んだり、手話で読む場合にも、印象が違うこともあるのかもしれません。
オングさんの『声の文化と文字の文化』を読みながら、点字や手話はそれぞれどちらに該当するのだろう?と考えながら読んでいました。
みなさんはどう思われるのでしょう?
もしも、そこに違いがあるとしたら、なかなかおもしろいことだなぁ、と思います。
私たちが、だれかに何かを伝えたい、と考えるとき、
どんなふうに気持ちを伝えることができるのか―――
例えば、同じ告白でも、直接「好き」と伝えたり、ラブレターを書いたり、電話で告白してみたり、まったく予測のつかない愛の告白の仕方がありえるかもしれません。
たかが「好き」という気持の伝達でも、伝え方によって伝わり方はさまざまに異なるかもしれないのです。
もしかしたら、言葉や文字に頼らなくても、これまでに、音楽や絵などでも伝えられてきたことはたくさんあったのかもしれません。
この絵画は、この音楽に込められた思いはなんだろう?と作者の気持ちに寄り添いながら鑑賞してみる、ということはなかなか楽しいです。
一方で、私たちはインターネットを使って、簡単にメッセージを発信できます。
誰が読んでいるのか分からないまま、ボタンひとつで情報を発信できます。
その発信の方法も、言葉に限らず、声であったり、映像であったりと多様です。
インターネットの力は、「声の文化、文字の文化」で語られた以上の大きな影響力を持つ可能性があります。
不特定多数に向けられた言葉が瞬時に放たれ、それが直ちに拡散されていく、というようなものです。
「印刷」されて流通していく文字は、書き手が悩んだり、書き直したり、推敲する猶予がある、とオングさんは書いていました。
インターネットは、感情が赴くままに、推敲の余地なしに発信できるような種類のものでもありますね。
だからこそ、気をつけねばならないことも、活用していくことができる点もありそうです。
このあたりのこともまたいずれ、皆さんと考えていけたら、と思います。
今日は、W-J.オングさんの『声の文化と文字の文化』から議論してみました。
ご紹介しきれなかったオングさんの興味深い指摘や議論はまだまだたくさんあります。
また、違った視点から論じている研究者もいると思います。
説明しきれずに、ここで一旦記事を終えることをお許しいただきたいと思いますが、また、さまざまな形で考えていきたいと思います!