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二十四節気
白露
重陽の節句と同じころ、
旧暦では二十四節気に基づいて、9月7日から21日ごろを「白露」と呼びました。
二十四節気とは、一年を春夏秋冬の四つの季節に分け、さらにそれぞれを6つに分けたもので
「節または節気」と「中または中期」を交互に持つものです。
「処暑」から「白露」に変わるころ、朝の草花に露が宿り始める、ということを示しています。
昼と夜の気温差が大きくなることで、朝晩に空気が冷やされて露ができるのですね。
この朝の光に輝く露のことを、「白露」と表現しました。
「白露」は、秋の季語でもあります。
しかし、季節の節目節目を表す表現として、草露に目を向けて「白露」と名付けるなんて、なんだかロマンティックですよね。
でも、実はそれは観察に基づいて名付けられた言葉でもあるのですよね。
敬老の日
さて、そして9月のイベントの中に含まれているのが「敬老の日」。
国民の祝日として制定されていて、毎年9月の第3月曜日になっています。
「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことを目的とした祝日です。
実は、この祝日は、そこまで歴史の深いものではありません。
「敬老の日」として祝われるようになったのは、1966年からだそうです。
ですが、実は異なる名前で似たような趣旨の記念日はあったようです。
もともとは、兵庫県多可郡野間谷村(現在の多可町)で、
戦後の1947年9月15日に、村主催の「敬老会」を開催したことが始まりだったのだといいます。
1947年、というとどんな時代だったのでしょうか。
日本が終戦を迎えたのが、1945年ですから、戦争が終わってまだ2年。まだまだ戦争の傷跡が残っていた時代です。
当時の村長さんは、「老人を大切にし、年寄の知恵を借りて村づくりをしよう」と提案し、
ちょうど農作業の手が空く農閑期でもあった9月15日にお祝いをすることにしたのだそう。
戦争中、多くの子どもたちを戦地へと見送り、そして敗戦し、復興に向けて再出発せねばならないような時代です。
お年寄りをいたわろう、という試みは、やがて全国的に広まり、1951年には「としよりの日」と制定されるにいたったそうです。
当時の「お年寄り」と言ったら、55歳だったそう。
みなさんは、55歳のイメージはどんな感じでしょうか。
M先生的には、まだまだ現役で社会を引っ張っている世代…というイメージをどうしてもしてしまいますが、当時はもう「お年寄り」だったんですね…。
でも、この「としより」という言葉のイメージがよろしくない、ということで、
1963年に老人福祉法が制定されたことを受け、やがて9月15日は「老人の日」となります。
そして、ようやく1966年になって「老人の日」は祝日となり、
「敬老の日」と名前も改められる、という経緯をたどったのでした。
みなさんは、「年寄り」「老人」という言葉にどんなイメージを持ちますか?
最近は、アンチエイジングという言葉も耳にすることがありますね。
anti-aging:抗・老化、ということなので、言葉をかえれば「若さを保とう」という意味でもありますね。
皆さんの多くは誕生日を迎えることが楽しみ!という人が多かったのではないか、と思いますが、
大人になればなるほど、誕生日がきても嬉しくない、という人が増えたりします。
(でもお祝いしてもらえることは嬉しい、ので、ぜひ大人のみなさんにも「おめでとう」を言ってあげてくださいね!大人も十分ワガママですね。苦笑。)
いつから、人は年を取ることに抵抗感を持つようになるのでしょうね。
歳をとりたくない、という願いは昔からあります。
日本で一番高いと言われている富士山も、実はその名前の由来は「不死山」だったのではないか、という説があります。(ほかにも諸説あります)
かぐや姫という物語を皆さんはご存じですか?
古典の授業でも読む物語、「竹取物語」としても知られていますが、
竹の中から生まれた美しいお姫様、かぐや姫は、多くの男性から結婚の申込を受けながらも応えず、やがて月に帰ってしまうわけです。
実は、帝までかぐや姫に恋をしていたのですが、月に帰るとき、かぐや姫は帝に「不老不死の秘薬」を渡します。
「姫はいなくなってしまったのだから、自分が老わず、死なななくなったところで意味がない!」と結局帝はその秘薬を口にせず、
手紙と一緒に不死の薬の入った壺を燃やしてしまえと命じ、最も高い山に登り手紙と薬を焼いてしまった、と。
その秘薬を燃やした山を「不死山」と呼び、それが今の富士山だ、という伝説です。
「竹取物語」については、まなナビのSさんも記事「今こそ読みたい!古文の名作紹介 ①竹取物語」を書いてくださっていますよ!
ぜひご覧あれ!!
一方で、こんな言葉も有名です。
Memento mori メメント・モリ
ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」、
「死を忘るなかれ」という意味の警句です。
「いつか死ぬのだから、今をきちんと楽しみなさい」という意味を込められて用いられた言葉のようですが、
「人はすべて死す」というのは、実は誰にも否定することのできない真理の一つですよね。
いつまでも、若々しく、元気でありたい、とも思いますし、
「永遠の17歳」に憧れている人は多いと思いますが、
人はいつか、みんな死んでしまう。
ということを思うと、改めて「ではどう生きようか」という気持ちにもなりますよね。
「死」がいつ訪れるのかは誰にもわからないことですから、後悔がないように生きたいものですね。
できれば、かわいいおばちゃん、かわいいおばあちゃんになって、死んでいきたいなあ‥‥。
敬老の日、皆さんもおじいちゃんやおばあちゃん、お世話になっているお年寄りの方に「ありがとう」を伝えて、今、一緒に同じ時代を生きていることを感謝できる時間を過ごせるとよいですね。
秋分の日
さて、9月のクライマックスは秋分。
先ほど見ていただいた二十四節気の一つの時期をさす言葉です。この日は「秋分の日」としても知られ、祝日になっています。
この日は一体どんな日なのか。
今回の記事の冒頭でも書いた、月と太陽と地球の関係―天体の動きともかかわってくるような日です。
実はこの日は、昼と夜の長さが等しくなる、とされている日なのです。
「秋の日は釣瓶落とし」ということわざも紹介しましたが、
一番昼の時間が長い夏至から、
一番夜の時間が長い冬至までの、
ちょうど中間になった、ということです。
ちょうど中間地点にあるのは、秋分の日だけではなく、春分の日も該当します。
春分の日もやっぱり同様に、昼と夜の長さがほぼ等しくなる、とされています。
この秋分の日の前後3日間、合計7日間は、秋の彼岸とも呼ばれ、ご先祖様のお墓参りをする習慣があります。
これは、仏教の考え方―あの世は西に、この世は東にある、というものに基づいて、
太陽が真東から昇って、真西に沈む春分の日と秋分の日は、あの世とこの世が最も通じやすい日、と考えられているからなのです。
なんだか改めて、習慣や風習として根付いたものが、自然や自然を由来にして生まれた宗教や哲学に基づいているのか、と思うと、なんだか、いろいろと考えさせられてしまいますね。
最近、人の暮らしは山や川や海、月や太陽など自然にあるものとのかかわりの中で積み上げられてきたものなのだなあ、としみじみ感じてしまいます。
別につながりがなくてももちろん生きていくことはできます。
でも、かつて生きてきた人たちの自然とのつながり方が、思っていた以上にダイナミックで、そのダイナミックさに改めて驚いてしまう、というか、圧倒されてしまうのでした。
皆さんはどんなふうに感じられるでしょうか…?