SFの世界へようこそ 〜レポート・復習篇~

さんかくすと文がえます

ワクワクしながら迎えた、一般社団法人社会情報学会・まなキキプロジェクト共催のシンポジウム:「もうそれだけ、、、、、、の人類 POST-COVID-19後の市民社会とDX/AIを現代文学から読み解く」。


参加することができた、という方も、
残念ながら参加が叶わなかった、という方もいらっしゃることでしょう。

今回の復習記事では、当日のシンポジウムの様子を、Mせんせいとぱんこの各自がそれぞれ気になった視点からまとめたものを、ちょっと時間が経っていしまいましたが…経ってしまったからこそ!!、ハイライト的にご報告してまいります!

 

野﨑先生の講演会について

「想像力」という観点から考える

文学における「想像力」

今回のご講演は「想像力」の話から始まりました。

野﨑まど先生は「作家」としてご活躍されており、今回のシンポジウムも「作家」としての野﨑先生をお招きしてお話を伺うことを目的に企画されました。

作家は、会ったことも話したこともない(かもしれない)「読み手」という存在と、想いを共有するべく、想像力を働かせるといいます。
一方で、「読み手」の側も、会ったことも話したこともない(かもしれない)「作家」の本当に言いたかったことを、文章を通じて”想像“するのです。

 

M先生
M先生

まなキキの試みも、少しだけ、野﨑先生がおっしゃる「作家」的な試みに近いことを経験しているのかもしれません。読み手となっている皆さんがどんなふうに、言葉や文章を受け止めて下さるのか、想像したり、願いを込めながら、キーボードをたたいているのです。

 

そして、フィクション・物語というものも「想像」によって成り立つ世界です。

野﨑先生は、フィクションや物語のことを

  • 「現実には存在しない世界を想像し」(世界設計)
  • 「そこで起こる出来事を想像する」(ストーリーテリング)

と説明されていました。

「想像」の源となるもの

「想像」の源となるのは、「書き手」や「作家」がすでに知っている情報や経験です。
既に知っていることを組み合わせたり、発展させることが「想像」という働きそのものなのだ、と野﨑先生はおっしゃいます。

「想像」するものに、正解も不正解もありません。どのようなプロセスをたどっても、どのようなことを思いついてもよいもので、「想像力は自由」というのです。

そして、実はこの「想像」という“知的作業”をすることができるのは、これまで「人類」しかいませんでした

ところが、野﨑先生の作品や、SF作品が題材として取り上げることのあるAI(人工知能)は、実は、この人類にしかできないとされてきたような「知的作業/知的行為」を行うものなのです。

講演は、
唯一の知的生物としての人間に対して、非生物としてのAIの知的行動を、どうとらえることができるのか――
を考えていく形でも展開していった、といえるでしょう。

 

人類の「想像力」

AIが発揮する知的作業には、人類のそれと大きな違いがあることも、議論の中で触れられていきます。

人間には、社会に生きる存在として、どのようにふるまうべきか、どのような役割を果たすべきかということを規定する「市民性」と呼ばれるものがある、と野﨑先生は説明されます。

市民性
「他人を尊重すること」、「個人の権利と責任の理解」、「人種・文化の多様性の理解」・「社会の中での円滑な人間関係を維持するための能力」として説明される(デジタル大辞泉)

この、「市民性」が示しているものとは、ある種、私たちが社会に暮らす人間に求める理想像でもあるのです。

 

「こうあるべきだよね」となんとなく暗黙の了解のように浸透し、共有されているようなこうした「市民性」は、「行動規範」という言葉にも置き換えられる、といいます。

ただし、この「社会で生きる人間はこうあるべき」という発想は、どんな国に生まれるか、どんな時代で生きるか、ということでも全然変わってしまうようなことです。

実際に野﨑先生は、コロナウイルス感染症拡大によって、「行動規範」が大きく変わったこと、それによって「市民性」が揺らいだことを指摘されています。

 

ぱんこさん
ぱんこさん

例えば、「マスクを着用する」ということや、「ソーシャル・ディスタンス」を保つ、ということも、コロナウイルス感染症拡大によって、新たに生み出された「行動規範」として説明できるのかもしれません。

人間が知的作業――想像力を働かせる際に源は、「情報」や「経験」以外にもおそらく、こうした「市民性」や「行動規範」が大きくかかわっているかもしれないのです。

そして、私たちはこうした認識の差に戸惑いやためらいを感じてしまい、簡単には「適応」できない事態にも日々直面しています。

コロナウイルス感染症拡大で「ニューノーマル」「新しい生活様式」というキーフレーズが飛び交った背景には、新しく迫られる「行動規範」になかなか適応できなかったり、違和感を持つ私たち、人間ならではの特性があったからなのかもしれません。

「他者性」という観点から考える

ぱんこさん
ぱんこさん

講演会を聴いていて、「他者性」が、「想像力」と並ぶもう一つのキーワードになるようにも感じました。そこで、ここからは、AIと人間の関係について着目しながら、講演を振り返っていきます!

まずはAIと人類の定義について、野﨑先生からお話がありましたので、改めて確認しておきましょう。

 

AIとは、Artificial Intelligent(人工知能)の略です。
つまり、「人工的に作られた、知的行為を行うもの」と定義できます。

一方人類は、「知的生命体」と言えるでしょう。地球上では唯一の知的生命体です。

 

M先生
M先生

「知的行為」とは、具体的に

・推論

・認識

・学習

・自然言語処理

と例が挙げられていました。AIと人間は、これらのことができる存在なのです…!

 

AIは人間にとってどのような存在?

AIは、さまざまな知的な振る舞いをします。囲碁を打ったり、きゅうりの等級わけをしたり、人のような振る舞いをするゲームのプレーヤーになったり…。まるで人間のようです。

では、AIと人間は違うのか。

もちろん、答えは「違う」です。しかし、どうして私たちはこのような問いを考えてしまうのでしょうか。

先生は、知的な振る舞いをさせることでAIは人間に「似てしまう」とおっしゃいます。つまり、「AIは、人間とは別の知性」であるということ。当たり前の事実ですが、とても大切なことだとおっしゃっていました。

人智を超えるAI

では、AIが知性を持つ非生物である、つまり人間ではないことには、どのような良いこと・悪いことがあるのでしょうか。

欠点は、人間とズレている部分が生じてしまうことだと指摘されます。一方利点は、「人間以上の能力を発揮できる部分がある」ことです。身体的な制約のないAIは、AI同士で学習し合い、高めあうと、人智の及ばない世界へ行ってしまう可能性が十分にあります。つまり、AIの利点は、人智以上の知的活動ができる可能性を秘めている点なのです。

 

ぱんこさん
ぱんこさん

人智を超えたAIの知恵、これを人間の役にたてられたらとってもすごいことが起きるのでは…!!

人類の市民性と、AIの非市民性

人類にとって初めての知的な他者、AI。
私たち人類は、人智を超えた存在とどのように関係を結んでいくのかーー

AIとの向き合い方を考える際、改めて重要なキーワードとなるのは、「市民性」です。人類の「市民性」。これは、社会に浸透し切った、良いとされる常識のことです。これは私たちが社会に暮らす人間に求める理想像、社会が継続していくために意識・行動する善意、とも言えるでしょう。

そして講演は、この人間の「市民性」がAIとどのような関係を持つのか、という問いへと展開していくのです。

野﨑先生は、人類の規範が人類の継続に寄与するかどうかに基づくように、AIの規範はAIの継続に寄与するかどうかに基づくと考えます。なぜなら、知性と自我は不可分だからです。これは、かのデカルトが言う「我思う、故に我あり」と同じこと。つまり、自分と他人、主体と客体の意識こそが、人間に近い知性を育んでいるということなのです。

そう考えると、「AIの規範はAIの継続に寄与している」、とは、要するに「AIはAIのために存在する」「AIはAIのために知能を使う」のが自然である、ということなのです。

でも、私たちはAIを人間のために働かせようとしています。先生はこの状況に対し、「AIにAIの継続ではなく市民の継続を考えさせることは、AIの知性に歪みをもたらすかもしれない」と指摘されていました。

 

M先生
M先生

野﨑先生の作品、『タイタン』も、AIが人間社会を継続・持続させていくことに寄与するような設定で登場していました。講演会中には、AIに「市民の継続」を強いることで、AIに何かしらの”歪み”が生まれることもあるのかもしれない、とおっしゃっていましたが、まさに『タイタン』の世界観を彷彿させるものでした。

ぱんこさん
ぱんこさん

知性を持つAIは、単なる「ロボット」として人間の道具にすることはできないのかもしれない……。さらに、人間の市民性にAIが助言をし始めたら、私たちの市民性はどう変化していくのかも考えていく必要がありそうです。

 

AIの凄まじい変化とDX

人間も、社会も、変化をします。そしてAIも変化をします。しかしAIの変化は、人間に比べてかなり変化しやすいと野﨑先生は指摘します。

こうしたAIの凄まじい変化を活かそうと、今政府が目下取り組む課題と設定しているのが「DX(Digital Transformation)」。DXでは、人間の行動・知識・経験・モノをAIに大量に学習させることで、AIにさまざまな場面でのシュミレーション(=想像)をさせることが目指されています。

DXが実現してしまえば、AIが人間にあらゆる案を提言する、という場面も想像できます。

M先生
M先生

具体例として、COVID-19の政策についてAIが助言した時のことを、想像してみます。

AIは大量の情報(ビッグデータ)を駆使し、人智に及ぶものから人智を超えたものまで含んだ大量の「ビッグサジェスチョン」をするでしょう。例えば、100万通りのあらゆる政策案をAIは提言するのです。

人智が及ぶ政策内容が数十個提案されるのであれば、私たち人間が考え、私たちがどの政策にしたいかを自ら選択することができます。

しかし、人智が及ばない政策をAIから提示された時、しかもその数が100万個もあったらどうでしょうか。人智を超えてるわけですから、私たちにはその提案をしっかりと理解ができる確証がありません。しかも100万個も提案があっては、数が多すぎて人間には選ぶことができません。

そこでAIが、100万個の提案の中から、今の人間に最適だと思われるものをピックアップしてくれるのです。この時、私たちは私たちの政策案を、私たちで選んでいません。AIの思考のプロセスを理解しないままに、最後にAIから告げられた数個の提案を受け取ってしまいます。

そんなAIの提案を、私たちは受け入れて良いのでしょうか……。先程も述べたように、AIには本質的に市民性がありません。AIの提案を理解しないままに実行するということは、市民性の中に、AIという価値観が入り込むということなのです。

野﨑先生は、この局面にいる人類には「結果を使う仕事」「<信頼>の最終線を構築する仕事」という責任があると続けます。つまり、AIから提言されたものを採用するのか、しないのか、そしてAIをどのように、どこまで信頼するかを決めるのは、人類です。

ぱんこさん
ぱんこさん

市民性という価値観。その最終線を守ることは、人類にしかできないのだと感じました。

人権とAI権

人類にとって初めての知的な存在、AI。そんなAIと良い関係を築くには、どうすれば良いのか。

先生は、「AIの人権意識」と「人類のAI権意識」の必要性を説きます。知的である以上、それぞれは互いに自我・主体・権利・主張を持つと言えるでしょう。未来では、人権をAIに与えるのか、AI権を人類に与えるのか、といった議論も起こりうると野﨑先生は想像されます。

人類にとって、初めて対等な他者「AI」

人間は他者と関わることで、その世界を広げると思います。人間同士ではもちろん、人智を超えた世界を持つAIとつながることができれば、人間の世界は大きく広がるに違いありません。

人類とAIが、今後どのような関係性を構築していくのか、していくことができるのか――人間ではないまったく未知の存在とのかかわりを考えることは、とても難しいものです。

現在、私たちは、COVID-19感染症拡大によって、市民性が揺らぎ、分断が生まれているかもしれない社会に直面し途方に暮れているといえるでしょう。

ですが、AIと人間の関係性構築の難しさを思えば、同じ人間同士として向き合い、改めて関係性を描き直していくことが期待されているこの状況は、「なんだかんだ、なんとかなるんじゃないか」という希望も持てるような気がする、といった講演の最後の野﨑先生の言葉には、非常に納得もさせられつつ、今後私たちが問うていくべきことについて、ヒントをいただいたような気がしました。

 

M先生
M先生

私たちが想像力を働かせるための源となる「情報」や「経験」は、おそらく、単なる記号ではなく、理解や解釈を伴うものなのだろうと感じます。

その意味で、今回、野﨑先生にDX/AI、そして文学という切り口からお話をいただいたことで、DX/AIをめぐる状況に対するひとつの理解と解釈を提示していただき、私たちがそのお話に基づきながら、私たち自身の「想像力」を働かせる、とても大切な機会をいただけたのではないか、と感じました。

人間である私たちには、私たちがそれぞれ持つ固有の経験や情報、認識を源に、各々が「想像力」を発揮していく可能性が開かれています。

この多様な「想像」の幅を広げ、深めていくことの意味や意義、「想像」していくことの勇気を、ご講演を通じていただいたような気がします。

  

ぱんこさん
ぱんこさん

さらに、AIの人智を超えた可能性と、人類にとってその可能性がどういう意味を持つのかを考えさせられました。他者で溢れた市民社会。そこに、さらに大きな他者がやってきたら、私たちはどう関係を築いていけるのでしょうか。AIと対立はしたくないですし、少なくとも、人類の市民社会が分断している暇などないでしょう。そう思うと、COVID-19で大きく分断した私たちは、今一度「他者」を「想像」する意識が強く求められているように感じました。

当日の議論――

当日は、司会の柴田邦臣先生をはじめ、パネルディスカッションで登壇された松本早野香先生や、濱松若葉先生のコメントからも議論が展開・発展しました。

そこで登場してきたキーワードには、「自我」と「他者」があったように思われます。

濱松先生は、野﨑先生の作品の中で登場するAIの「できること」がどんどん拡大・拡張していっていることを指摘されていました。
例として示されていた作品ごとのAIの位置づけの変遷からも、その発展の仕方は明らかで、『[映]アムリタ』では「二見君はAIみたいな受け答えをするね」など、ある意味、相手の受け答えの仕方をからかうような文脈で使われていたものが、次第に、『小説家の作り方』などでは自我を持つようになり、『know』では超人的な能力を得た存在として、『タイタン』では市民社会の継続のために最良の”判断”をする存在として描かれています。

松本先生も、小説や映画などのフィクションの主題として描かれるAIは、人間の欲望や恐怖を反映するもの――人間の思いを投影する対象としてAIが描かれている傾向を指摘しつつ、実際に影響を受け・与えあう際に対峙することとなる「他者」観についても問いかけられます。
得体のしれない未知なる存在と対峙することは、なかなかストレスがかかるものです。自分の理解を越えていたり、予測もしなかったような不都合な展開がなされたりすることもあります。私たちが暮らす現代社会は、「他者らしさの少ない他者とつながりやすい社会」であるとも指摘がされます。
ですが、例えば野﨑先生の『欺瞞』という作品に、「欺瞞から作り出された精神増幅など無意味だ」という言葉があるように、なれ合いのような、形だけの「対話」からでは、越えていけない課題も今後多く出てくるかもしれません。
「他者」からの拒絶を軽減させるための方法や工夫を、AIあるいは人間がどのように持ちえるか、という問いかけでした。

 

ぱんこさん
ぱんこさん

「自我」と「他者」。
全く違うキーワードのようでいて、実は、同じ観点がポイントになっているようにも感じられます。

M先生
M先生

まさに、「自我」というものが確立していく過程に、「他者」がどうかかわるのか、というポイントから、野﨑先生は回答してくださっています。

 

例えば、心理学などでも、赤ちゃんや小さな子供が自我を確立していく過程が説明されることがあります。
自分と他者の境界が不明瞭ななか、しだいに「自分のコントロールの及ぶ領域/自分の思い通りになる領域」が明らかになっていって、それが「自我」として確立していくのだと、野﨑先生は説明してくださっていました。

「自我」――自分のコントロールの及ぶ範囲/自分の思い通りになる範囲というものを理解するためのわかりやすい例として、身体も挙げてくださっていました。

多くの場合、無意識に手足を動かしたり、みたり、聞いたりしているので、ついつい忘れてしまいがちですが、この身体性という観点から、自分という領域は明確に意識できるようになっている、というお話もありました。

人間と人間にしても、人間とAIにしても、互いに対してどのように影響を及ぼしあい、受けあうことができるのか、「想像力」の持ち方も含めて、「自我」と「他者」という概念の理解から、考えを深めていくことができるかもしれません。

 

当日のふり返り

参加してくださった皆様より(一部ご紹介)

野崎まど先生のご講演、多くの点で刺激的で、たいへん興味深く聴かせていただきました。AIを人間(の知性)にとっての「他者」と位置づけることで、人間や社会とAIとの関係性について、単なる楽観論にも悲観論にも還元されない、より複雑で豊かな想像力の可能性が開かれたように感じています。

バビロン4巻をはじめ野﨑まど先生の新作を心待ちにしております。
とても興味深く楽しいシンポジウムで、一瞬のように感じました。殆ど知識のない私にも分かりやすい易しい内容で、かつCOVID-19という現実の事象に関連して社会、あるいは市民とAIとの関係性を考えることができ、とても充実した3時間でした。素晴らしい企画にお招き頂きありがとうございました。

私は、この講演を聴くまで、失礼ながら、野崎まど先生のことを知らなかったのですが、今日の講演は、現代に関することで、とてもためになりました。一時期、将来はAIが人間の仕事を奪うなどと言われていましたが、今日の講演を聴いて、AIはもともと人間がつくりだしたものだという基本的な事実に気づかされました。また、将来のAIとどう共存していくかということを考えたときに、マスクをつけるかつけないかとかワクチンを打つか打たないかという問題は小規模な問題だという話に共感しました。これを機会に野崎先生が手がけた本を読んでみようと思いました。

非常に面白く、興味深いお話を聞かせていただきました。特に信頼についての部分が良かったです。今回、野﨑まど先生のファンといいうことで参加しましたが、私は大学で社会情報学を専攻しており、二つの観点から楽しむことができました。野﨑まど作品におけるAIの書かれ方の変遷については考えたことがなかったので、面白いなと思いました。

とても充実した時間でした…!
人智を超えたAIが出した結果を見ても、過程が分からない場合があるというお話を聞いて確かにその通りだ、と思いました。
それと同時にワクチンも科学技術も、専門知識のない私達は医学・科学に精通した人を信頼して、結果だけを享受しているから、構図が似ているなあと思いました(それが信頼できなくて反ワクチン派の人も居ますし…)。
人間内の話だし、先生も人間同士はAIより難しくないといったことを言っていましたが、そういったことを考える機会にもなりました。
クイズも白熱して面白かったです!楽しい時間を本当にありがとうございました!

野﨑先生のお話が聞ける、と参加させていただきました。
基調講演について、野﨑先生の著作の中に何度も出てきたAIについてなので既刊の読者が知っている内容で進むのかなと思っていたのですが、もっと深いところ。たとえばCOVID-19への対応にAIを導入した場合の利点欠点、人の想像の範囲外なアイディアが出てきたらどうするか、などは自分も考えてみようと思いましたし、玉石混交なアイディアを山程用意して、「当てようとしない」という話は自分では決して考えられない内容と思いました。「正解」「究極」といったテーマでまど先生が著作を書かれていることもありなおさら「当てようとしない」という言葉が出てきたのは驚きでした。
最終的にAIへの市民権の話、そして人類へのAI権の話が出てくるのはさすがSF作家だなと関心させられました。
続いて余興のクイズについてですが、楽しめたけど難しかったです。SFはまだまだ知らないことが多く、人工知能についてもこんなことがあるんだと知るきっかけになりました。次は入賞を目指したいです。

まど先生のお話も、クイズも、ファンなんだなとわかる先生お二方のお話しも非常に楽しく聞かせていただきました。AIの書き方の変遷は考えもしない着眼点であり、納得すると同時に、まど先生の読み手との共通の知識の変化でも書き方が変わるというのに前半の内容とのつながりを感じ、面白く思いました。
作品を通してでしか触れることのできないまど先生の思想を伺う機会、そして専門的な知識を持つ方の視点からの感想を聞くことができる機会を本当にありがとうございました。

野﨑まど先生のファンですが、貴重な機会を設けていただきありがとうございます。
フィクション・ノンフィクションともに話題に触れる機会のあるAIについて知見を得、考えを深めることができ、また今回のシンポジウムを経ての視点で再度作品を読み返す楽しみができました。
クイズ大会も手に汗握り、幅広い難易度、設問に講演ともに集中して頭を回し続けました。
そのうえ質疑応答ではめったに聞けない執筆や、関連しての考え方のようなややパーソナルな部分、そしてバビロンの進捗まで触れられていて(笑)、本当に貴重で濃い時間を過ごすことができました。

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