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本日の紹介者
こんにちは、国語のナビゲーターを担当しているSです。ブックリレー・11回目は私が担当します!
M先生が前回紹介していた「舟を編む」ですが、私は題名と「辞書を作る」という大まかなテーマしか知りませんでした。しかしM先生の熱いレビューと考察を読み、小説を読んでみたい、もしくは映画やアニメを見てみたい気持ちがわきました!言葉に囲まれながら日々生きていく中で、実は意味や読み方が辞書で示されたものと微妙に変わってきてしまっている言葉は身の回りにかなりあると思います。最近知ったのは「一段落つく」という言葉の「一段落」は「ひとだんらく」ではなく、「いちだんらく」と読むという事実です…!こういった発見ができるのも辞書の魅力かもしれませんね。ちなみに私自身は、高校で使用する国語辞典選びのために本屋を三軒巡り、数多くの国語辞典から自分に合うものをひたすらに探した経験があります(笑)そして見つけた究極の一冊は、学研教育出版から2012年に出版された「学研現代新国語辞典改訂第五版」です。サイズ感とフォントの読みやすさと、用例の豊富さに心ひかれたのですよね…懐かしいです。皆さんの「推し辞書」も気になります…!
さて、私が今回ご紹介させていただく本は、中国が舞台の一冊…「山月記」です!
山月記
著者:中島敦
出版社:新潮社
出版年:2003
ISBNコード:978-4-10-107701-7
概要
中国の古典を取材し、昭和前期に活躍した小説家、中島敦によって1941年に発表された日本文学の名作です。
物語の舞台は科挙試験(上級役員になるために必要な試験。現代の公務員試験のようなもの。)が盛んに行われていた700年代の中国。有名な詩人になるという夢を叶えられず、周囲の人々に劣等感を抱き続け、思い悩んだ結果「虎」と姿を変えてしまった主人公の「李朝」。そんな彼と偶然山の中で遭遇した、役人時代の親友「袁傪」は、李朝のこれまでの生き方に耳を傾けます。
本との出会い
私はこの本に、高校の現代文の授業で出会いました。現代文の授業では、評論文を読むことが多かったため、「授業で小説が読める!」と喜んだ記憶があります。
唐の時代の中国において書かれた伝奇小説「人虎伝」を素材として中島敦が書き上げたこの作品は、700年代の中国が舞台ということで少々古めかしい雰囲気が漂う作品でありつつも、虎となってしまった李朝の心の葛藤に現代人の私も、時代を超えて共感できる作品でした。最近、大学で日本文学の授業を受けてからもう一度読み直し、作者自身の葛藤が作品に反映され散りばめられていたのだと感じました。今でも落ち込んだり、周りと自分を比べてしまったりした時、李朝の言葉が脳内に響いてくるほどに印象深い作品なのです。
この本が拡げた世界
この本を読んで、人間誰しもが、心の中に「野望」や「見栄をはりたい心」や「誰かに認められたいという想い」、いわゆる「プライド」をもっているものだと気づかされました。プライドをもつこと自体は悪いことではないけれど、それらの心の中の感情をうまくコントロールして上手に付き合っていく必要があるのだと知りました。加えて、何かを成し遂げたいという夢を抱いたとき、いかに自分を磨き続けることができるかが鍵をにぎっているのだということも学びました。
李朝は自分が「虎」となってしまった理由を、
我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心とのせいである
と語っています。この「臆病な自尊心・尊大な羞恥心」というのは少し難しい言い方なのですが、「自分の才能に自信を持ちつつも、結果を残せなかったらどうしよう?という不安と、誰かに夢を笑われてしまうのではないか?という恥ずかしさが常に心の中でうごめいていた」、強気であり弱気でもある李朝の複雑な心模様を表しているのだとSさんは解釈しました。
李朝は「有名な詩人になりたい」という夢に向かって、これまでの安定した仕事を辞めました。それはとても勇気のいる行動で、夢のために一歩を踏み出した李朝の行動はすばらしいものだったと思います。ただ、彼は詩を書く才能があると自分を信じつつも、本当は才能がないのではないかという恐怖心も同時に抱き、周りと自分を比べたり、出ていない結果に焦ったりするのみで、才能に正面から向き合うことを避け、自身の詩を作る技術を進んで上達させようとはしませんでした。そんな自分自身を心から認めることのできない不安定な精神状態で再び働き始め、詩を書く夢もあきらめきれない中途半端な状態で、李朝の心の中の猛獣のように荒ぶる「自信と不安と恥ずかしさのうごめき」が爆発した結果、本当に猛獣である「虎」になってしまったのだと、Sさんは解釈しています。
李朝は、
人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが、各人の性情(生まれつきの性質・気質)だという
とも語っています。この言葉から、李朝のように「高すぎるプライド」によって猛獣になる可能性は誰もが持っているし、自分の性格やものの考え方が知らず知らずのうちに自分の成長を止めてしまうかもしれない危険を含んでいるのではないかと考えさせられました。だからこそ、各人が「猛獣使い」として、自分の感情をうまくコントロールしていく必要があるのだと気づかされます。
最後に、何かに挑戦しようとしてうまくいかずに落ち込んでいる時に思い出す、李朝の教訓めいた言葉を紹介します。
人生は何事をも成さぬにはあまりに長いが、何事かを成すにはあまりに短いなどと口先ばかりの警句を弄ながら、事実は、才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧と、刻苦をいとう怠惰とがおれのすべてだったのだ。おれよりもはるかに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者がいくらでもいるのだ。
この言葉は「自分の一生をどのように生きていきたいのか?」とあらためて考えさせるきっかけをくれます。そして同時に、自分が優れているとおごることは意味をなさず、「努力の継続によって自分を磨き続ける」ことがいかに大切であるかを教えてくれます。「プライド」との上手な付き合い方、「努力の継続は糧となる」というメッセージが感じられます。
教科との関連
「山月記」を読むと、多くの語彙の勉強になります。当時の中国の難関試験である「科挙」に合格して役人という職に就いていた李朝の聡明さを感じさせるような口調も魅力的であり、その口調を特徴づけているのが、なかなか日常生活で聞くことのない語彙の数々です。ここで一部を紹介します。
己の珠にあらざることを恐れるがゆえに、あえて刻苦して磨こうともせず、また、己の珠なるべきことを半ば信じるがゆえに、碌々として瓦に伍することもできなかった。おれはしだいに世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによってますます己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。
珠…優れた才能
刻苦…自分自身を苦しめて努力すること
碌々…平凡で役に立たないさま
伍する…肩を並べる
憤悶…憤り、どうにも我慢できないこと
慙恚…恥じて、憤ること
この一つのセリフを読んだだけでも、こんなにも語彙の世界が広がります。難解に思える文章かもしれませんが、ぜひ辞書を片手に読み進めてほしいです。
また、李朝が話すときに、「おれ」と「自分」という一人称の使い分けが行われていることも特徴的です。ぜひ読んで、李朝はどういった時に自分自身を「おれ」「自分」と言い分けているのかと考えてみて、作者中島敦の手の込んだ表現技法も楽しんでみてください。
最後に、詩家になることを夢みた李朝が作った「漢詩」を紹介しているサイトを載せておきます。実はSさん、漢詩にとても興味があるのです!「漢字で書かれた詩=漢詩」の世界もとても奥深いので、山月記がその興味への入り口になればいいなと願っております。(漢詩に関する記事はいずれどこかで…)