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読んで楽しい「ワクワク!」「きゅん」「ガクッ…」「しんみり」なポイントたち!
ここでは、Sさんと歌子さんの二人に、「竹取物語」を読んで、どんなところにワクワクしたり、きゅんとしたり、ガクッとしたりしんみりしたりしたのか…という作品の中で感情を揺さぶられた、お気に入りの表現を聞いていきたいと思います!
今は昔竹取の翁といふものありけり。野山にまじりて、竹をとりつゝ、萬の事につかひけり。名をば讃岐造麿となむいひける。その竹の中に、本光る竹なむひとすぢありけり。怪しがりて寄りて見るに、筒の中ひかりたり。それを見れば、三寸ばかりなる人いと美しうて居たり。
國民文庫
<現代語訳>今ではもう昔のことであるが、竹取の翁(おじいさん)というものがいたそうだ。野山に分け入って、竹を取っては、いろいろなことに使っていた。名前を讃岐造麿と言った。その竹の中に、根元が光る竹が一本あった。不思議がって寄って見ると、筒の中が光っている。それを見れば、三寸(約9センチメートル)ほどの人が、たいへんかわいらしい様子で座っていた。
私はこの冒頭の部分にワクワクしました。竹取物語は中学生のときに初めて読んだのですが、竹やぶの中で一本だけ光っている竹を想像して、他の竹に囲まれながらも光を放っていることがわかる竹って、一体どのくらい光っていたのかなあと想像を膨らませていました。また、「三寸ばかりなる人いと美しうて居たり」の表現がとても好きです。今はあまり耳にしない長さの表現「三寸」で、かぐや姫の小ささを強調しているところが印象的でしたね。それに、古文の「美し」の部分を現代文の訳では「かわいらしい」としているところも、自分が使っている日本語の感覚と違っていたので新鮮に感じました!
冒頭部分は「竹が光っている」という状況と、その竹の中から「人が出てくる」という本当に不思議な出来事を、おじいさんの説明とともに、さらりと表現しているところがまた、面白くて印象的だと思いました。
かぐや姫のいはく、「何ばかりの深きをか見んといはん。いさゝかのことなり。人の志ひとしかんなり。いかでか中に劣勝は知らん。「五人の中にゆかしき物見せ給へらんに、「御志勝りたり。」とて仕うまつらん。」と、そのおはすらん人々に申し給へ。」といふ。「よきことなり。」とうけつ。
國民文庫
<現代語訳>かぐや姫が言うことには、「どれくらいの深い愛情なのかを見たいとは言いません。少しのことなのです。この人たちの愛情は等しいようです、どうしてその中で優劣がわかるでしょうか(いや、わかりません)。『五人の中で私の見たいものを見せてくださるような方に、「愛情が優っている」としてお仕え申し上げましょう』と、そのいらっしゃっているという人々に申し上げてください。」と言う。(翁は)「良いことだ。」と承知した。
私は、この部分にきゅんとしました。なぜかというと、この部分からはかぐや姫の「愛情」についての考えを知ることができるからです。かぐや姫はその美しさゆえに多くの人々を虜にし、最終的に五人の貴公子から求婚されます。しかし、五人全員が熱心に求婚するので、見かねたかぐや姫は「私が見たいものを見せてくれる人と結婚します!」と宣言するのです。ただ単に言葉だけで求婚されても心揺るがず、「自分の願いを叶えてくれるかどうか」が本当の愛の証拠であるとしたかぐや姫の姿に、美しいだけではない魅力を感じましたね。
この部分からかぐや姫の愛情に関する考えを読み取ることができるなんて考えてもみませんでした!言葉に流されず、その人の態度や行動で愛の深さを知ろうとしたのですね…しみじみ。
「天竺に二つとなき鉢を、百千萬里の程行きたりともいかでか取るべき。」と思ひて、かぐや姫のもとには、「今日なむ天竺へ石の鉢とりにまかる。」と聞かせて、三年ばかり経て、大和國十市郡にある山寺に、賓頭盧の前なる鉢のひた黒に煤つきたるをとりて、錦の袋に入れて、作花の枝につけて、かぐや姫の家にもて来て見せければ、…
國民文庫
<現代語訳>「天竺に二つとない鉢を、百千万里の距離を行ったとしてもどうして手に入れることができようか(いやできない)。」と思って、かぐや姫のもとには、「今日、天竺へ石の鉢を取りに出かけます。」と伝えて、三年ほど経って、大和の国の十市の群にある山寺に、賓頭盧(びんづる)の前にある鉢で、真っ黒に煤がついているものを取って、錦の袋の中に入れて、造花の枝につけて、かぐや姫の家に持って来てみれば、…
私はこの部分にガクッとしました…。この部分は、かぐや姫に対して結婚を申し込んだ五人の貴公子のうちの、石作の皇子のエピソードから抜粋しました。彼は、天竺(現在のインド)に1つしかないとされる釈迦が使っていた神々しい光を放つ「仏の御石の鉢」を探してくるようにとかぐや姫からお願いされます。しかし、「遠い天竺に行ってもこの世に1つしかない鉢なんて見つかるわけがない…」と考え、かぐや姫には「天竺に行きます!」と報告するものの、天竺には行かず諦めて引きこもってしまうのです。そして三年後、ある山寺の仏像の前で拾った煤だらけの鉢を「仏の御石の鉢」だと言ってかぐや姫にプレゼントします…。石作の皇子は、かぐや姫と結婚したいというわりには、かぐや姫に対しての誠実さが欠けているように感じられました。最初からかぐや姫の望むものを手に入れることを諦め、かぐや姫に対して2回もウソをついています。この行動にはガクッとしてしまいますね…。
五人の貴公子にはたしかに難題が出されましたが、本当にかぐや姫のことを想っているのならば、無理だと思っていても誠意を見せるべきでしたね…。
その通りです!このあと、石作の皇子はかぐや姫にしつこく和歌を送るのですが、あきれたかぐや姫は見向きもしなくなるんですよ…。誠実さって大事ですね。
逢ふことも涙にうかぶわが身には死なぬ薬も何にかはせむ
かの奉る不死の薬の壺に、御文具して御使に賜はす。勅使には調岩笠といふ人を召して、駿河の國にあなる山の頂にもて行くべきよし仰せ給ふ。峰にてすべきやう教へさせたもふ。御文・不死の薬の壺ならべて、火をつけてもやすべきよし仰せ給ふ。そのよし承りて、兵士どもあまた具して山へ登りけるよりなん、その山をふしの山とは名づけゝる。その煙いまだ雲の中へたち昇るとぞ言ひ伝へたる。
國民文庫
<現代語訳>(かぐや姫に)逢うこともなく、悲しみの涙に浮かぶ私の身には、不死の薬も何の役に立つだろうか、いや役に立たないだろう。
(御門は、)あの方(かぐや姫)が献上した不死の薬の壺に、またお手紙を添えて、お使いの者にくださる。勅使には「つきのいわかさ」という人をお呼びになって、駿河の国(今の静岡県)にあるという山の頂上に持っていくようにとお命じなさる。山頂にてするべき方法をお教えなさる。お手紙と不死の薬の壺を並べて、火をつけて燃やすようにとお命じになる。その方法を承知して、兵士たちを多数引き連れて山へ登ってから、その山を富士の山と名付けたのである。その煙は、いまだに雲の中へ立ち昇ると言い伝えられている。
これは物語の最後の場面なのですが、月へ帰ってしまったかぐや姫を想う、帝の気持ちがとてもよく表れていてしんみりしてしまいます…。とくにせっかくの不死の薬も、かぐや姫に会えないのでは役に立たないと言っている和歌に胸を打たれました。帝のかぐや姫への愛情を感じます。
かぐや姫からもらった薬の壺と手紙を日本で一番高い山の山頂で燃やすことで、月にいるかぐや姫のもとへと自分の想いが届くと思ったのかもしれないと考えると…なんとも切ないです(涙)
また、不死の薬を燃やした山だから「不死の山=富士の山」つまり、現在の「富士山」になったのだよ、という嘘か本当かはわからないけれどもなんだか嘘とも言い切れないような納得感を与えてくれる、粋な締めくくりですよね。
そうですね、さすが「日本最古の物語」と納得してしまいます。なんだか最初から最後まで、また読みたくなってきてしまいました!
いかがだったでしょうか?日本最古の物語文学である「竹取物語」の魅力が少しでも伝わったのならば幸いです。「竹取物語」の古文の原文を読んでみたいという方に、古文と現代語訳がセットで載っているサイトを紹介しておきます。気になる方、全文を通して読んでみたい方、ぜひご覧になってみてください!
時を超えて、現代でも読み継がれる古文の名作を知って、ぜひどんどん古文の世界へと足を踏み入れてみてください!きっと今まで出会ったものとは一味違った、素敵な表現に出会えるはずですよ!