まなキキオンライン講読会_第二弾 「科学哲学への招待」第二部

アインシュタインの姿をしたカエル 国語:学びのナビゲーター
       

さんかくすと文がえます

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第一部の内容はこちら

 

新型コロナウィルスの危機ききからの再起さいきおくれ、“うれい”と“おそれ”におおわれつつある時代。
今こそ必要なのは、周りに左右されず「自分で考える力」をやしなう学問・科学なのではないか。
私たちにとっての学問の、科学の重要性と必要性を、もう一度考え、それを身につけるための好書こうしょ購読こうどくします!
「学びの危機きき」にあらがうきっかけづくりのために、一緒いっしょに読んでみませんか?

(どなたでもご参加いただけます!)

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オンライン講読会スペシャルのお知らせ

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第十二講 2020年12月22日 討議:”危機”下の学問―2020年を振り返る 補章「3・11以後の科学技術と人間」から
17:30-18:30 テキスト補章講読
18:30-19:30 パネルディスカッション
パネリスト:松本 早野香さん(大妻女子大学)、柴田 邦臣さん(津田塾大学) 

まなキキ講読会、2020年の最終回は、「クリスマス・スペシャル版」として「科学哲学への招待」補講:「3.11以後の科学技術と人間」を購読します。科学技術と現代社会を論じる本章の購読を入り口に、後半では、“危機の時代”の情報技術と、学問・科学のあり方をディスカッションしたいと思います。パネリストとして、東日本大震災における災害情報支援を専門とする松本先生をお迎えし、Learning Crisis研代表の柴田をあわせ、皆さんと議論していきます。

 

講読書籍

科学哲学への招待』, 野家啓一著, ちくま学芸文庫(2015年)

講読期間

2020年9月29日(火)~2021年1月26日(火) 全15回

開催時間

18:00-19:30ごろ(入退室自由)

参加方法

Google Formを通じてご参加いただけます。
(1回のみのご参加でも、お申込みいただけます。)
ご登録いただいた方宛てに、開催前にZOOMのURLをお送りさせていただきます。

 

第六講| 第七章 科学の方法 2020年11月10日

担当:H松さん
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当日リポート

 先週の文化の日でお休みを挟んで、再開したのが第二部です。
科学が制度化されていったところまでが第一部ですが、それを具体的にどのように実践していったのか、その最もオーソドックスなスタイルについて報告がありました。帰納法と演繹法。これらにどのような限界があったのか、という議論もされました。
 まず、帰納法について。帰納法とは、”個別的な命題から普遍的命題を導き出す論証のこと”を指しますが、つまり、たくさんのデータを集めてきてそこから何が言えるのかを問うわけです。そのとき、「前提と結論との関係は必然的ではなく、蓋然的(確率的)なものにとどまる」と本文中に書かれている点について「どれくらいで該当したら、それは法則として認められ得るのか」という疑問が出て来ました。とても難しい問題ですが、おそらく法則となりうるのは100%そうであると認められる必要がある。一方で演繹法は?演繹法は、”普遍的命題から個別的命題を論理的に導き出す方法”ですが、それはつまり新しい知見を生み出さない、ということだとも言えます。
 これまで第一部でみてきたようなセントラル・ドグマが否定されてきたプロセスとは一体なんだったのでしょうか。命題から議論を進めながらも観察された事象から結論を導き出し、結果としてセントラル・ドグマを覆してきた‥‥その方法こそが、帰納法と演繹法を組み合わせた仮説演繹法であったのだ、ということをこの日の議論の中で確認することができたともいえます。コペルニクスやガリレイの時代から方法論としてはっきり自覚して実施されてきたわけではない、つまりとてもオーソドックスで自然な思考法でもありながら、それを科学として実践されてきた、ということが科学の方法の確立を確固たるものにしたといえるのかもしれません。それでも先にあげたような帰納法の弱点が解決されたことにはなりません。この問題にどう対処したのか。それが「自然の斉一性」:ひとたび生じたことは、十分に類似した状況のもとでは再び生じ、再びどころか同じ状況が繰り返されるたびごとに生じるであろう、というアプリオリを取り入れることでした。仮説演繹法を用いた議論が絶対的な事実になりえるわけではありません。でもだからこそ、科学理論や科学法則は永遠に「仮説」の身分に身をとどめ、常に経験的テストによる修正や廃棄の可能性に身をさらすもの、ということを認め、そのうえで蓄積されてきた知見にリスペクトを持つことができるのかもしれません。
 その後の議論は、7章末尾の「科学者の自由な想像力と創造力」のあたりについてフォーカスしていきます。新しい仮説を発見していく―アブダクション(後件肯定)は、もともと論理的とは認められなかったような思考の方法でしたが、それが逆に仮説を生成していくための手続きとして意味のある考え方として捉えられ採用されていった、という過程についても確認することができました。果たして科学者における想像力/創造力とは一体何のことなのか。「どのような現象を観察しようとするか」なのではないか、という意見も出ました。もしそれがAIにはない側面であるとするならば、どう説明できるのだろう?という疑問にもつながっていきます。とにかく論点が多く出た回でもあったように思います。
 さて、次回以降、どんなふうに議論が深まっていくのか楽しみですね。

参加者のみなさんの感想(一部)

今日のまなききでは今までにあまり習ったことがなく馴染みのないことであったのでとても難しい話でした。しかし今までも現在も科学者の方が仮説を立て立証を繰り返してきた、大変素晴らしいことを成し遂げていたということが分かりました。来週のまなききにも出席する予定なので理解を深めたいです。

少し内容が難しく理解し難いところもあったが、教科書を鵜呑みにすることは今後やめていこうと思った。今日の講読会で、もしかしたら101回目は今までと違うことが起きるかもしれないということを聞いて、本当に正しい情報はどこにあるのか模索していきたいと感じた。”

今日一番驚いたことは、H松さんが大学院生であるということでした。また内容に関して、我々学ぶ人間において、何かを知る過程や設定する仮定をどう意識し位置付けていくのかは、重要視していかなくてはならない点だと思いました。AIが発達していく中でも、可能性やデータとの関係性を見つめなおす必要もあると思いました。

 

白衣博士
白衣博士

AIの論点は今後もぜひ考えていくことができるとおもしろいかもしれませんね。
AIを利用することはいろいろと私たちにもたらすものもあるかもしれませんが、一方で何かを奪うこともあるのかもしれない。そのあたりについて考えていくことができたらなあと思います。

第七講| 第八章 科学の危機 2020年11月17日

担当:K原さん
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当日リポート

 なかなか難しい議論が続いたこの回。この章では、「数学の危機」と「物理学の危機」を例に、今まで「そうかも」と思っていたものが覆されてきたということ、そして、その危機を受けて考えが収れんされていく契機が議論されていった、ということであったのかもしれません。これまでー第7章までで見てきたような、観察される事象からひとつずつ議論を蓄積されていく試みとして―ニュートンをはじめとする科学者たちは、古典物理学的世界像ともいえるものを確立することに至りました。すなわち、”あらゆる出来事には原因と結果があり、原因が定まればまたおのずから定まる”という「決定論的自然観」です。いわばスーパーコンピューター的に「知性(デーモン)」とは宇宙で生ずるあらゆる出来事は自然法則に基づいて予測可能とみなすような発想です。この議論はその後も「決定論と自由意志」という問題として近代哲学の中でも続いているわけですが…、この章で指摘されたのは、この決定論的自然観が突き当たった壁の存在でした。
 どんな”壁”であったのか―が、「数学の危機」、「物理学の危機」として説明されていたわけですが、これまで公理としてみなし、それを前提に議論することで世界の真実を明かすことができると信じられていたものは、あくまでその前提を基に形式的に考えればそのように議論できる、といった論理ゲームのようなもので、決して世界の真実を語りうるものではなかった。そうした気づきがあったからこそ、現代数学への脱皮と発展がもたらされたともあります。物理学においても、量子力学の理論が整備されるにつれて、決定論的な古典物理学的世界像が成り立たないことが明確になっていったことも本の中で指摘されていました。
 この本の中で説明されている「決定論的自然観」の議論はやや強調が過ぎたものかもしれないという指摘もありました。「数学の危機や、物理学の危機というのは、決定論が敗れたということとは少し違う話なのではないでしょうか。法則も、因果も、科学は手放してはいないように思います。」ともコメントを頂いた通り、私たちが求めている・目指しているのは、やはり変わらず科学法則や因果関係への推論に基づきながら、科学的にものを説明しようとすることで、世界を明らかにしていこうとするプロセスであるともいえます。今回の8章で説明されていたのは、その過程における限界とその「科学の危機」の克服がどのように歩まれていったのか、説明の”触り”の部分でした。ものの見方、科学的アプローチの取り方、態度の変化が求められたときに問われたのが論理実証主義であった、というところで次章への期待を高めたところで今日は議論を終えます。今がまた新たな「危機」であると考えたとき、突き詰めて今できる「科学」を実践していくことで、限界が初めて明らかになり、乗り越える契機を持つことができるのかもしれません‥‥。

参加者の皆さんの感想(一部)

決定論的自然観に関して、特に人間に当てはまるとしたら人間の行動は操られていて、常に選択しながら生きているというのはつまり実際は選択しているのではなくただ敷かれたレールを辿っているようだなと感じました。この自然観から様々な危機が起こり、時代を重ねるごとにより現実に即していると思われる理論が成立しているということから元々のその危機を起こした理論も重要な役割を果たしているのではないかと思いました。

今回の章を聞いて前提を疑うことの難しさを感じました。普通に読み進めていましたが、私たちが当たり前としていたことはそうやって疑って生まれてきたもので、まずはそこに疑問を持たなくては、議論はなにも生まれていないのだということを改めて感じました。自分は細かい知識がなかったので読むのが大変でしたが、今回のK原さんのレジュメを聞いて少し理解できたかなー?と思えました。
決定論的自然観のような考え方は私たちは普段からしていると思っていて、前例主義とか今までのことに頼ってしまうような人は多いと思います。その考え方が覆されたのはすごいことだと思います。
これまで根本的にこう見る、真実であると思っていたものがそうでないと言われる衝撃はどれほどのものだろうと思いました。しかしそれが洗練されて世の中に正しい知識として発達したとき世の中が変わるような瞬間を見るものだと思います。その衝撃もあるのだろうと思いました。

K原さんも発表の最後でおっしゃっていた様に、科学が発展してきた過程を見てみると、物事に絶対というものはないこと、そして、物事の前提を疑ってみることの重要さを改めて感じました。これまで、様々な自然感が出てきましたが、それだけの過程を踏まえて科学が発展してきたと考えると、それを見る目が少し変わった気がしました。また、様々な人が批判的な目をもって科学を見つめ、現在の様な科学が生まれたということを考えると、現代のあらゆるもの(科学も含めて)について、それは本当か?と考えたくなってきました。そして、それは大切な視点であり、科学だけでなく、あらゆる分野が発展していくためには、とても大切なことなんだと思いました。

今回、初めて参加しました。今回のお話は、文系の私にはとても難しく感じました。これまで当たり前だと思われていたものによって説明できない現象に直面することが危機なのだと解釈できました。人は、世界の全てを説明可能だと思っているので、そのような危機に直面した時には、追求された研究が行われるのだと思います。危機を乗り越えるために研究することで新たな発見があるのなら、危機に直面することでさらに世界の物事に対して理解を深めていけるとも言えるのではないかと思いました。

 

白衣博士
白衣博士

これまでの理論では説明できない課題が出てきたことが「危機」として捉えられ、新しいアプローチや理解、解釈が包括的に議論をしてきた経緯を見てくることができたといえますよね。
決定論的自然観は実は「前例主義」とは=ではないことは少し注意が必要です。前例主義では何も生み出さないし、決まらないということになるわけですが、実際には前例主義で動いている場面も多くあることは確かでそれはそれで興味深い議論ですよね。
また、「物事には絶対ということはない」というのは本当にそうなのですよね。説明しつづける、ということは、「”絶対”はない」ということを示すことでもあるわけですし、”絶対”があると思えば思うほど、真理から遠ざかっていくものなのですよね。

 

第八講| 第九章 論理実証主義と統一科学 2020年11月24日

担当:M先生
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当日リポート

 今回は、狭義の科学哲学を発展させた一潮流として、論理実証主義の展開を見ていくことになりました。前回の『科学の危機』で議論されたものを乗り越えようとするものだったのか、というと、必ずしも、そのように捉えられるものではないかもしれない、ということも指摘されていましたが、それでもドラスティックに科学の在り方、ものの考え方のありようを変える革命的な発想の在り方をもたらしたものの一つが論理実証主義であった、ということができそうです。
 何が革命的だったのか、というと、一つが「伝統的論理学」から「記号論理学」への転換だったわけですが、この「伝統的論理学」(名辞を基礎単位とする)がよくわからない、というところからこの日の議論は始まりました。名辞とは英語でいうとtermを指す用語になるわけですが、伝統的論理学ではいわばtermの定義を行うような議論を続けてきました。それは、トートロジー(命題論理で、要素となる命題の真偽がいかなるものであっても、常に真となるような論理式)ともいえるようなもので、その命題の真偽を問うようなものではなかった。それが記号論理学(現代論理学)において真か偽を決めるようなものへと変わっていくことになったわけです。それがまず、大きな変化だった。
 そして、この記号論理学では人間の思考は5つの論理結合記号と2つの量記号のみで説明できてしまう、と考えられたものです。世界はその5+2の記号だけで説明がついてしまう。世界は論理で把握することができる―「感覚的経験による実証」―(感覚的経験によって実証できないものは議論の(科学哲学の?)対象とすべきではないとする)と捉え、その議論を発展させていったのがウィーン学団による論理実証主義でした。これまで軽んじられてきたかもしれない「経験」が「論理」と合わせられ、感覚―感情など心理的なものとは別に、五感を通じて得られる経験―から論理を組み立てていったのです。
 なんとなく、思考や感情が記号で簡単に表せてしまう、ということに抵抗感を覚えてしまう、ということも議論の中で出て来ました。おそらく、このウィーン学団の論者たちも当時、多くの抵抗も受けながら、この議論を展開していたことがうかがえます。世界の在り方を論理ですべて議論することができるはず、という発想はやがて還元主義的な議論にもつながっていきますが、そこにはやはり限界も生じてきます。論理実証主義は「検証可能性」を以て有意味な科学的命題と形而上学的な命題を区別していましたが、実際に本当の意味で検証可能な議論はどうしても限界があるわけです。次章はこの章を受けての新たな展開があったことが示されていくようです。この本では、まさに科学を議論していくアプローチのダイナミックな展開をフォローしていくことができるのが魅力です。このダイナミズムをますますみなさんと共有していけたら、と思います。
 最後に、今日の議論の中では、論理実証主義が展開していった背景には、『科学哲学への招待』の最初のほうの章で出てきた実学的な研究や議論が時代を経て重用されるようになっていった、という歴史の流れとも連動している、という話が確認される一幕もありました。これはもしかすると研究に携わる人たちの「専門化」をもたらすきっかけになっていたのかもしれません。「学問」や「学び」の主体がどこにあるのか、ということを考えていくうえでも、科学へのアプローチのダイナミックな変遷をたどることで、考えていくことができたらなあと思います。

参加者の皆さんの感想(一部)

今回の内容はとても難しく感じました。しかし、数学の命題と物理学の原理の説明になるほどなと思いました。数学の命題に関しては、1+1=2という考えに疑問を持つこともないし、どの時代どの場所に行ってもその命題に違いが生まれることもなく、わざわざ現実世界で実証して経験する必要性がありません。でも、物理学の原理は周りの環境に依存すると思うので実証して経験する過程が必要があると感じました。

本日初めて参加させていただきました。とても内容が難しかったです。全てのことが、実証、検証可能でデータにより説明することができることを学びました。しかし、本当にそうなのかがどうなのか、自分の突発的な行動まで全てが説明できるということに納得ができませんでした。哲学というのは奥が深くて理解をするのが難しかったです。
柴田先生のお話が特にわかりやすく、理解しやすかったです。”リアじゅうはしね”というお言葉で笑うことができました。

「我々の思考は記号で表すことができる」という話について、最初は抵抗がありました。しかし、よく考えるとドラマや現実の人間関係は記号によって表すことが可能です。むしろ、自分の頭の中では記号化して理解していたなあと気づきました。また、恋愛ものの物語ほど、「お約束」があることが多いですが、これは思考が検証可能なものであるからなのかと考えました。

 E・マッハの科学観とデカルトの「物心二元論」について、どちらも正しいような、当てはまらないこともあるような、複雑な気持ちになりました。感覚的経験が全てと言われても、物体と精神は別のものだ(物体に精神は宿っていない)と言われても、どちらも完全には納得できないような感じがします。ただし、そのような「受け入れられない」という感じは「感覚」であり「精神」です。それは、確かなものである、とはとても言えないものであり、論理的でない、証明できないものにすぎません。真理であること、実証できること、それを受け入れられるかは、それぞれ別のことではないかと、個人的な感情論になってしまいますが、そう思いました。

今日の論理実証主義ですが、論理と感覚的経験を、そんなに簡単にくっつけていいのかなあというのが疑問というか、よくわからないところでした。
論理は普遍的に共有できると思いますが、暑いとか寒いとか、感覚は一人一人異なることも多く、真理の根拠となるのでしょうか。
論理と実証のつながり方が、たとえば演繹法と帰納法の関係とは、どう違うのか、同じなのか。実証というのは、柴田先生のおっしゃるような、科学実験ということなのでしょうか。ならば、近代科学の仮説演繹法と、今回の論理実証主義は、どう違うのか、同じなのか。
なかなか難しかったです。

第九講| 第十章 批判合理主義と反証可能性 2020年12月1日

担当:O田さん
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第十講| 第十一章 知識の全体論と決定実験

担当:Kさん
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第十一講| 第十二章 パラダイム論と通約不可能性

担当:
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第十二講| スペシャル回 討議:”危機”下の学問―2020年を振り返る
補章「3・11以後の科学技術と人間」から

担当:M先生
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討議:松本 早野香さん(大妻女子大学)、柴田 邦臣さん(津田塾大学)

 

 

 

 

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