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書物からみる鱸のすがた
『古事記』にも、大国主命が出雲の国で宴を催した時に鱸が卓を飾ったとあります。
そのエピソードに関連した神事は今も「諸手船神事」として島根県の美保神社で実施されているようですよ。
万葉集にも鱸についてうたわれているのですね。
荒たへの 藤江の浦に すずき釣る 海人とか見らむ 旅行くわれを
柿本人麻呂 万葉集 第三 二五二
すずきとる 海人のともし火 よそにだに 見ぬ人ゆゑに 恋ふるこの頃
作者不詳 万葉集 第十一 二七四四
特に平家物語の中では平清盛がまだ安芸守であったころ、
伊勢の国の津から船で熊野神社に参詣したとき、船の中に鱸が飛び込んできたというエピソードとして紹介されています。
しかも、鱸が登場するのは平家物語のまさに冒頭から。
平家が栄えたのは熊野権現のご利益があったから、というような文言から始まります。
船の中に飛び込んできた鱸は「熊野権現のご利益ですからぜひ召し上がりなさい」と、清盛は同行していた山伏からすすめられたそうです。
熊野詣の道中に肉や魚は食べてはいけないことになっているそうですが、ここで美味しくいただいた、と。
清盛は武士では初めて太政大臣になったことでも知られますが、鱸を食べたからそこまで出世できたのかも!などと言われたりもしています。
鱸が「出世魚」と呼ばれるようになった由縁のひとつですね。
肝心の『平家物語』で鱸が登場するシーンは、次のとおり。
よめるかな?
平家かやうに繁昌せられけるも、熊野権現の御利生とぞきこえし。其の故は、古、清盛公、いまだ安芸守たりし時、伊勢の海より船にて熊野へ参られけるに、大きなる鱸の船に入りたりけるを、先達申しけるは、「是は(熊野)権現の御利生なり。いそぎ参るべし」と申しければ、清盛宣ひけるは、「昔、周の武王の船にこそ、白魚は踊り入りたりけるなれ。是、吉事なり」とて、さばかり十戒をたもち、精進潔斎の道なれども、調味して、家子侍共に食はせられけり。其の故にや、吉事のみうちつづいて、太政大臣まできはめ給へり。子孫の官途も、竜の雲に昇るよりは、猶すみやかなり。九代の先蹤をこえ給ふこそ目出たけれ。
巻第一・鱸
広島にいるはずの清盛がなぜ、津から熊野神社へ??という疑問が湧いた人もいるかもしれません。
地図をみればわかる通り、だいぶ距離があります。
あたりまえのことですが、当時は新幹線もありません。
現在であっても広島から京都まで新幹線で移動したら2時間かかるはず。
ただし、清盛は瀬戸内海を制圧し、各地域に拠点を持って、さまざまな交易を活発化させた人物でもあったようです。
清盛が瀬戸内海を制していた、とかそのあたりが謎を解くカギとなっているような気がするけれど、なかなか調べごたえがありそうだなあ…。
清盛はどこを拠点としていたのだろう?
…京都に都はあったそうですから、京都に拠点があったのかもしれません…いずれにしても、ふうむ……。
熊野詣といっても陸路で行ったのか?船で行ったのか?
やたら夢のお告げや神社へ詣でたりしているけれど、当時の信仰の在り方とは…。
移動にすごい時間がかかるだろう、と思うと、意外と家にはあまりいないで移動ばっかりして過ごしていたのではないのかしら??
などなど疑問が湧いてきてしまいました‥‥。
もはや本当に国語ではなくなっていますね…
いかんいかん。いつかH松さんにも助けてもらって謎を解きたい~