まなキキオンライン講読会_第二弾 「科学哲学への招待」第三部

アインシュタインの姿をしたカエル オンライン講読会

さんかくすと文がえます

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第二部の内容はこちら

 

新型コロナウィルスの危機ききからの再起さいきおくれ、“うれい”と“おそれ”におおわれつつある時代。
今こそ必要なのは、周りに左右されず「自分で考える力」をやしなう学問・科学なのではないか。
私たちにとっての学問の、科学の重要性と必要性を、もう一度考え、それを身につけるための好書こうしょ購読こうどくします!
「学びの危機きき」にあらがうきっかけづくりのために、一緒いっしょに読んでみませんか?

(どなたでもご参加いただけます!)

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講読書籍

科学哲学への招待』, 野家啓一著, ちくま学芸文庫(2015年)

講読期間

2020年9月29日(火)~2021年1月26日(火) 全15回

開催時間

18:00-19:30ごろ(入退室自由)

参加方法

Google Formを通じてご参加いただけます。
(1回のみのご参加でも、お申込みいただけます。)
ご登録いただいた方宛てに、開催前にZOOMのURLをお送りさせていただきます。

 

第十三講| 第十三章 科学社会学の展開 2021年1月12日

担当:H松さん
当日資料はこちら

当日リポート

 この日の議論は、ロバート・マートンが唱えた「マートン・ノルム:CUDOS(キュードス)」というものが現代の世界で実際のところどう運用されているのか、を確認するところから始まりました。ひとつひとつ条件が現在の状態に照らし合わせて確認していきましたが…まず①「組織的懐疑主義(Organized Skepticism)」。ドグマに基づく判断の禁止を意味し、懐疑の眼差しをもって物事に対処しなければならない、とするものですが、現実には、批判的に捉えるよりも、「そういった考え方もある」という、”みんなちがってみんないい”的な判断になりがちなのではなっているのが実情である、ということが確認されます。さらに、②「無私性(Disinterestedness)」。科学者は個人的利害に囚われて不正を行ってはならず、常に個人的利害を超越した立場に立たなければならないという規範を示すものですが、今日、研究論文などを書く際に明示が求められる「COI(Conflcict of Interest)」の慣習を踏まえると、そもそもこうした明示がされないものは、「無私性」が疑わしいとみなされてしまうような状態であることを示している…。さらに③の「普遍性(Universality)」。科学知識はいつどこでも普遍的に成立するのであり、科学理論の真理性は人種、性別、国籍、宗教などとは無関係であることを示すものですが、これも①と同様”みんなちがってみんないい”といったトマス・クーンのパラダイムの議論から発展していった文化相対主義の発想の前においては、成立しがたくなってしまっている。最後に④の「公有性(Communality)」。知識の私的所有の禁止を意味するものですが、もはやこれもauthorshipの議論が頻繁にされていることから考えても成立していない。
 今日の科学をめぐる世界で、マートンの指摘したようなCUDOSは成立しえていないのです。そこには、職業としての科学者が存在していることとも切り離して考えることはできません。産業者としての研究者は完全に公共のために無私を貫くことはできず、どうしても利害関係に巻き込まれざるを得ないのが実情なのです。もちろん、マートンが指摘したようなCUDOSのような志を持とうとすることは大事だけれども、研究者が置かれている状況とは、CUDOSを体現するようなものとはとても言えない。そのような状態の中でなされる研究というものを、Scienceを客観化しようとする見方が、科学知識の社会学(Sociology of Scientific Knowledge)の発想であったのだ、ということが確認されました。
 科学とは、そもそも専門家にのみ独占されるべきものではない。かといって、素人が思いのまま語ることができるものでもない。科学が扱う知識はとても混み入っていて専門化しすぎてしまっている状態にあります。でもそうした科学の議論に市民がどう参画していくことができるのか―そのために科学を社会の問題として語ることを目指そうとしていったといえます。そもそもではなぜ、大学で学ぶのか。大学で学ぶとは一体どういうことなのか―、科学者とはどうあるべき存在なのか、という問いも改めて出てきたところで、この日の議論を終えました。このあとの2章を通じて引きつづき考えていきたいと思います。

参加者のみなさんの感想(一部)

今回が初めての参加だったことが悔やまれるくらい、前回の講読会が充実していることが皆さんのコメントでわかりました。フィードバックされている中で、「COVID-19があるから3,11についてこういう考え方ができる」とおっしゃられた意味がとてもよくわかりました。例えば震災は多くの方が経験しましたが、全ての人が同じ体験をしたかというとそうではありません。実際に当事者となったからこそ考えられることも多くあり、言い方が良くないですが、ある意味で貴重だなと感じました。

 今回初めて参加させていただきました。最も印象に残ったのは震災の話でした。私も宮城県出身で3.11をリアルに経験しました。地元のテレビ番組では震災の話はたまに出てくるのですが、東京とか都心の方は震災の話は全く出てきません。私の友達とかは、震災の話を東北の人にすることは「タブー」みたいに考えていて、震災の話をしないようにすごく気を遣ってくれたりします。ですが、当事者である私(私以外はどうかわかりませんが)は、もっと積極的に東北以外の人にも震災の話をしてもらって、忘れないで欲しいと思っています。確かに、震災の話が絆とか団結の美談?としてテレビ番組が作られることも多いし、実際は団結とか絆とかそういう美談で終わらしてほしくないと思うこともありますが、それでも、忘れられるよりは全然いいと思うので、今回こういうふうに、震災を題材として話していただけたこと、とても嬉しく思います。

 素人の意見になってしまいますが、科学や科学知識において、その成立と発展には内部のもの(社会からの影響を受けていないもの)と社会からの影響を受けているものの両方があるのではないかと思います。実験や観察などによって得られたデータは社会の影響を受けているとはいえない部分が多く、そこに分析や意見が入ってくると社会の影響を受けているということができるのではないでしょうか。ただし、科学者が「人間」であるという点に注目すれば(暴力的な分け方ですが)、やはり科学は社会の影響を全く受けずにいることは難しいのかもしれません。「人間」であるならば、多かれ少なかれ「社会」と関わりあいがあるということであり、その影響を受けずにいることは難しい、すなわち、社会からの影響を全く受けない考え・分析をすることは難しいのではないでしょうか。
 また、コロナ禍において個人的に思うのは、科学が専門家のものであっても、一般人のアクセスが容易であるものであっても、どちらにおいても欠点が生じるのではないかということです。例えば現在では、専門家の言っていることでも人によってかなり意見が違い、更にはそれが頻繁に変わる状況にあります。これでは専門家の言うことを信じることはできず、また、仮にこのような状況下であっても一般人が全く科学にアクセスできない状況であるとしたならば、一般人は専門家に振り回されるだけではないでしょうか。そうであるならば、専門家の言う科学を信用することはできず、科学を専門家の専有物とし特権化するのは危険であるように思います。しかし、それと同時に現在は一般人が専門家のようにふるまい、いわゆるニセ科学のような意見を拡散することができる時代でもあり、実際にそれが起きている状況です。自己中心的でありますが、そういった場合には専門家の意見を聞きたいと思いますし、そのような人々は必要であると思います。広い意味での「科学」には、専門家も一般人も、どちらも必要ではないでしょうか。

・科学は、知の発展のためだけに行われているわけではなく、(職業である以上)個人の生活のためにも行われている、ということを知れたのは大きな発見だった。
自分が思っている以上に、個人の生活や政治が深く関係していたのだ。私たちはもっと「科学は誰かの生活の一部であること」を知るべきだ。そうでなければ、科学に対して脇目も振らないような絶対的な信仰心が強くなっていってしまうのではないか。マートン・テーゼやマートン・ノルムが、純粋な科学を追い求めてきたのは、私たち人間が「純粋な科学」に対して、強いロマンを抱いてきたからであろう。先述した信仰心やロマンは、呪術的な行為を連想させる。「科学や呪術内で行われていることはわからないが(素人にとって両者の内部で動く仕組みはブラックボックスであり、理解不能であるが)、これらは真理を語ってくれるのだ」という点では、一般人にとって、科学と呪術は同じなのかもしれない。だからこそ、科学が呪術的な行為にすり替えられていくのではないか。人々にとっては、「安心をもたらす」機能さえ発揮できれば、科学でも呪術でも、どちらでもよいのだろう。

・柴田先生がおっしゃっていたように、ある一つの問題に対して、一つの学問分野からだけでは語りきれないだろう。記憶が定かではないが、福島第一原発問題の放射能問題においても、コロナの問題においても、メディアに登壇する学者の専門分野は多種多様だった。(少し調べてみただけでも)放射能を扱っている学問分野は、物理学・医学・原子力工学など様々ある。ひとつの分野の切り口から問題解決ができないのであれば、様々な学問分野の知恵をよせあうのは必須に思えるが、サイエンスウォーズの例をみると、学問間が寄り添いあうことは難しいのだと感じた。

 

白衣博士
白衣博士

震災のことについて感想を書いてくださった方がいらっしゃいましたね。ここは本当に難しい問題がありますが、「語り」とそれが定型化していく、ということについて考える必要もあるのかもしれません。被災地で本当に多くの方がさまざまにその身を投げうって関わられていく中で復興が遂げられていった様を、私自身本当にたくさん目撃してきました。ですが、そういったことはほとんど語られない・残らないのです。残るのは、メディアなどを通じて伝えられたメッセージが主でした。「語る」場が設けられることもありますが、そこでの語りも”定型化”してきていることもあるのかもしれないのです。お酒の席で「どうしてもウケる話になってしまいがち」とおっしゃっていた方にもお会いしたことがあります。どうしてもマジョリティからの評価と「語られる」話、記憶されていくものはかかわりあっている可能性がありえるのかもしれないのです。
そこで、考えたいのは「専門性」と「当事者」の関係性です。よく対立するものとして見られがちですが、専門家はその問題の専門家であり、当事者といえなくもないのかもしれません。一方で問題の当事者は、その問題についてまさによく知っている本人なので、彼らも「専門家」でありうるかもしれないのです。ですが、その「当事者」としての専門家が語ることも、もしかしたら定型化してしまうこともあるのかもしれない――といった議論も最近では出てきているのかもしれません。
また、”安心をもたらす”ものでさえあれば、それが科学であろうと呪術であろうと、どちらでも構わない、というのは、まさに今私たちが直面している問題なのかもしれませんね。それで本当にいいのか?ということをぜひ問うていきたいと思います。

 

第十四講| 第十四章 科学の変貌と科学技術革命 2021年1月19日

担当:K原さん
当日資料はこちら

当日リポート

  今日の議論は、講読対象となった文章を批判的に読み直すことで、「科学」というものをどのように捉えることができるのか整理する機会になったような回であったと思います。
「社会に対する説明責任」ということを考えた時、アカデミズムと、例えば国家資格取得者という意味での専門家というのは対立するのではないか――という問題意識から始まります。「科学の制度化」から「科学の体制化」の変遷の大きなきっかけとなったのは戦争でした。敵国に勝つために知識は総動員されていき、その名残を色濃く引いているのが現在の科学の在り方です。その影響の一つが国家資格制度ともいえるわけです。科学も”社会的に要請される”プロジェクトに動員される形で競われながら実施していくような種のものになってしまったとはいえないか、と問いが立てられます。そして、それがマイノリティスタディーズや科学という学問の在り方にまで影響を及ぼした時に問題が生じるのではないか、と議論されます。
 競いながら何かが発展していく、というプロセスそのものが否定されたわけではありません。産業的な側面から考えると、そうした切磋琢磨があるから社会は発展してきたともいえます。ですが、「科学」にまでその発想が及ぶとき、消費者であるカスタマーや、研究助成を配分するある”体制”の意向に沿うような(媚びるような)ものになってしまったとしたら――それが今回の議論に出てきた「モード2」的な在り方なのではないか、と議論されたのではないかと思います。
 そもそも、社会変革は、科学起業家(scientific entrepreneur)によって果たされてきた、と記述されていましたが、その「科学起業家」は、実業家的な存在であったとともに、「科学的思考」を体現する「科学者」でもあったはずなのではないか?という点も議論されました。これまで『科学哲学への招待』を通じて私たちは「科学」というある思考様式について考えてきたと思います。その文脈から考えれば、私達が考えなくてはならないのは、「科学的思考」としての「科学」はしっかりそれとして学ぶ必要があるだろう、ということ。そして、J. ザイマンのいう現代の科学者の行動規範「PLACE」(:Proprietary(所有的)知的所有権の要求、Local(局所的)当面の与えられた課題の解決を目指す、Authoritarian(権威主義的)社会的権威として振る舞う、Commissioned(請負的)政府や企業から科学研究を請負う、Expert Work(専門的仕事)細分化された専門分野の仕事を行う)のようになされる仕事とは一体「科学」なのかどうかを問う、ということなのかもしれません。
 もちろん、どうしても、現代の科学研究が「PLACE」と深く結びつき、どうしてもそのような形になってしまいがちである、という自覚と自省が不可欠だ、ということも語られました。社会との合意形成という観点に関しても、どのような立場から社会と合意を図っていくことができるのか、という点について問題意識が挙げられました。「当事者」という言葉をステイクホルダーという言葉に置き換えて考えてみたときに、「専門家」はどのように問題にかかわり、説明責任を果たしていくことができるのか、も指摘されたように思います。自らの身体や心理について、あるいはlearningについて語る権利を取り戻す、ということについても問題提起が続いていたように思います。
 次回は泣いても笑っても???最終回。長く続いた講読会がどこにどのように着地するのか、来週の議論をまたぜひ楽しみにしたいと思います。

参加者の皆さんの感想(一部)

今回は二回目の参加でした。やはり文系の私にとっては内容が高度に感じました。科学のモード論については、元々は科学者たちの関心から研究テーマが定められて実験されていたが、現在は社会的に承認されたテーマをもとに研究が推進されていくようになったという変化があったことを学びました。現在のモード2では、社会的に承認されたテーマを研究することにより税金や研究資金が投入されるので、それも科学者たちは社会的に承認されたテーマで研究していくようになった要因の大きな一つだと思いました。もちろん、社会的に承認されたテーマでの研究で成果が出た場合、社会に還元できる部分は大きいと思います。しかし、研究テーマが「社会的に承認されたもの」と限定されて絞られることによって、新たな分野での発見が少なくなってしまうのではないかと思いました。しかし、モード2では成果が出た場合は科学者に賞が与えられたりするため、科学者たちが競争しながら研究を進めていくことで科学が発展していくという良い点もあると思います。

「モード2の科学」が印象的でした。確かに企業は社会的に説明責任が必要とされます。例えばこのコロナウイルの流行により、多くの企業がウイルス対策として空気清浄機や紫外線照射殺菌装置を開発し販売しています。この場合の説明責任はウイルス対策であるのかなと考えましたが、ワクチンを開発するのにもまた有効な薬を特定することも難しかったのに、なぜそれらの商品はどんどん開発される(有効であるとして)のか不思議に思います。これも一種のモード2も科学に分類されるのでしょうか。。。

 本章の中で、研究成果の判定が同僚評価から社会的説明が求められるようになったという変化が記されているが、その変化を受けても実は人々はそれほど興味を持ち合わせていないのではないかと考えた。私は科学技術の進歩において、「自身にはどのようなメリットがあり、どれくらい生活が豊かなになるのか」ことのみに目を向けてしまいがちである。この態度こそが「科学を科学者だけのものにしてしまっている状態」を裏付けるものであり、これまでの先生方のディスカッションの本質に触れることができた。  また、ディスカッションの中で触れられていた、COVID-19の拡大を受けて設置された分科会の存在のいびつさにも共感した。分科会は、政府に対して専門的知識をもってより効果的な施策を提言するために存在している機関であるはずだ。しかし、スピード感がなく、報道番組にコメンテーターとして出演されている有識者の方ともズレた見解を示すなど、十分に機能できていない側面を感じさせる部分が多い。科学と政治、国を始めとした大組織との結びつきが如何にいびつで、検討の余地が残されているものなのかという点について、リアルタイムで考える機会を目の前にしているように感じた。

本題ではないですが、みんな当事者というならば、どう区別するのでしょうか。
例えば
・発達障害の当事者, 発達障害っぽいと自称する人, 研究者,専門家
・虐待者, 被虐待者, 研究者, 専門家
どの人も、みな同じ「当事者」なのでしょうか?ある立場の人がその当事者であることによる生きづらさを訴えたとき、研究者は、同等の立場として「私もその問題の当事者だ」と、言えるのでしょうか。

日常生活や1対1の関係性の中で当事者か非当事者の関係はさほど重要ではないと感じており、かつ、あまり当事者-非当事者の二項対立的に区別したくないですが、当事者性の異なり様は、コミュニティ(集団)の中でよく見られるように思うので、つっかかりました。
うまくコメントできなくてごめんなさい。

 

白衣博士
白衣博士

あっという間に講読会も最終回ですね。今日もたくさんのコメントをありがとうございました。

社会的承認と説明責任とは、ほぼ同じような意味を指す言葉なのかもしれないですね。科学が社会に責任を果たす、という意味で考えると「まさに、このタイミングでこそ役立ってほしかった」という気持ちにもなってしまうような気がします。なんとなく「社会的な期待感」と実際に”科学”が示してきたものとの落差があったのだろうなあと感じます。
私たちが学んできた科学の大切な思考の在り方に「反証可能性」というものがありました。「分からない」ということを前提に、少しずつ確からしいことを示していく、という姿勢をそのまま言ってくれたらよかった(よい)のではないか、とも思えます。単に「自分はこう思うんだ」という気持を押し通そうとするのではなく、論理的に詰めていく努力が必要なのだろうと思います。

「専門家」という言葉にも注意しなくてはならないのかもしれません。専門家を「専門家である」と認定するのは一体何で、誰なのでしょうか?私たちはこのことを結構考えてみる必要があるのだと思います。今や、「専門家」とは形骸化しつつある、ともいえるかもしれないからです。同様なことは「当事者」という言葉にもいえるかもしれません。例えば「発達障害の当事者」という言葉がありますが、なぜ「発達障害者」と言わないのでしょうか。この「なぜ」を問うていくと、何か見えてくることがあるかもしれません。

「当事者の生きづらさ」という言葉もなかなか議論の余地を含むものです。もともと「社会問題の被害者」とう形で議論されてきたのですが、そもそも加害―被害の構造にキレイに分けることができないことが多いです。だから、stakeholderという意味で「当事者」という言葉が用いられるようになったのです。いま、「生きづらさ」という言葉を考えてみるとき、これは「社会的構成」によって生まれるもの、と捉えられることが多いと思います。社会モデルの考え方ですね。”生きづらさ”とは社会的に存在するものです。社会的に構成される問題には、みんなが加担しているともいえます。それこそ、被害者と加害者を綺麗に分けることができないようなものです。もしも社会的に構成される問題としてこれを捉えるならば、みんなの問題としてみんなで解決していく努力をしていくべきなのではないでしょうか。もともとこうした意味合いで「当事者」という言葉は用いられていたのです。それが、異なる意味合いで「当事者」という言葉が用いられるようになり、結果として形骸化してきている可能性があるのではないか、と思えるのです。なので、敢えて「当事者」という言葉を使わないようにして問題について考えてみると新たな地平が見えてくるかもしれません。とにかく、その人がどういう属性を持つか、ということがそのまま「生きづらさ」につながるわけではないはずなのです。この発想は「個人化モデル」につながってしまうかもしれないような問題かもしれません。

本当に深く発展性のあるテーマで、このままだとあと6時間くらいは話続けてしまいそうですが、今日のテーマもこのあたりのことと深く結びついていると思います。ぜひ楽しく読んでいきましょう。

 

第十五講| 第十五章 科学技術の倫理 2021年1月26日

担当:Kさん
当日資料はこちら

当日リポート

 とうとうやってきてしまった最終回。皆さんからも活発にご発言いただき、楽しく盛り上がりながら考える機会になったのではないかと思います。まずは、ご参加くださいましたみなさま、本当にありがとうございました。
 今日の議論は、<成長の限界>について触れられていたことから、第一回まなキキオンライン講読会で読んだイヴァン・イリイチにも思いを馳せながら始まりました。今日、私達は、SDGsという目標を掲げ、持続可能性を実現すべく試行錯誤していますが、実は「持続可能性」に関する議論や提案は、1987年の時点で既に出されていたものです。つまり半世紀以上、解決しない/克服し難い問題としてこの課題に取り組んできている、とも言えます。また、現在のCOVID-19をめぐる状況に関しても「何を信じていいか分からない」状況や、若者批判に対して耳をふさぎたくなるような気持ち、何が生き延びるために必要な情報なのか分からなくなってしまう、という声が挙げられます。また、一人ひとり市民が考えていくことが大事だと頭では理解しながらも、経済と医療のどちらを優先すべきなのかなどという問題を一個人が考え抜くことの「重さ」のようなことも、会場の中から指摘されました。
 現在、私達が科学者たちに対してどのような印象を持っているのか――ZOOMの投票機能を使って参加してくださった皆様の印象もうかがってみることにしました。

質問1.「COVID-19の専門家が言うことは正しいと思うか」
 →「正しいと思う」62%, 「誤っていると思う」38%
質問2.「COVID-19の専門家は信じられるか」
 →「信じられる」58%、「信じられない」42%

 私たちは専門家を信じたい、と思いながらもなかなか信じがたい状況にあるのかもしれません。なぜなのか。もしかしたら、「分からない」ことを「分からない」と示す態度が専門家に欠けているためなのではないか、という指摘がされます。「分からない」ことは「分からない」ものとして説明するような姿勢は、まさに「反証可能性」の思考――「わからない」ことを前提として、そこから「たしからしい」ことを少しずつ示していくような考え方――に対応するようなあり方かもしれませんが、政策にしてもマス・メディアにしても、専門家に明言を求めすぎているきらいは否定できません。「分からない」ことも、「分かった」ようにみなして方針を決めていかねばならないような状況もありましたし、それを社会の側も促してしまいすぎるような現状は、科学者をモード2的なありようにしてしまっているかもしれず、現状の悪循環を招く要因にもなっているのではないか、という指摘もされました。
 「新しい生活様式」だって、完全に感染を防ぐ手立てではないわけです。あくまで「仮説」として有効に思われる方法として提示されているだけです。そうした、”実際のところ”は、COVID-19に関する数多くの論文で指摘され、かつ開示されている状況です。
 最後にワクチンについても皆さんの意向をアンケートしてみることになりました。

質問3.COVID-19のワクチンが実用化されたら
→「積極的にする」38%、「しない」29%、「迷う」33%

 ちょうど傾向が3分されるような結果となりました。講読テキストの291頁には「予防原則」について書かれています。人間の健康に影響を及ぼす可能性が否めない場合、「予防原則」に基づいて実施するべきではないことが指摘されていますが、この緊急下にあってはこうした「予防原則」が機能しない、という状況にあるともいえるのかもしれません。
 『科学哲学への招待』のテキストにも触れられているとおり、「専門家独裁(professional dominant)」の時代から市民の手へ、環境問題など含め、ともにコンセンサスを得ていこうとする機会がこれまでもたれるようになってきたのかもしれません。ですが、COVID-19はまた逆行して「専門家独裁」、果てにはAIなどを用いて物事を決めていくような、判断をある特定の第三者/AIに委ねてしまう、というようなことも引き起こしかねないのかもしれない、という指摘もされます。
 ですが、一方でCOVID-19も含む科学技術に関する情報は手の届く範囲で開示もされています。私たちは一人ひとり、自分たちで考える手続きを選択していく余地はしっかり残されているともいえるのかもしれません。
 COVID-19は長期化していて、私達は忍耐も求められているかもしれませんが、こうした講読会のような場をまた持ちながら、一緒に諦めずに考えて、克服していくことができるよう、「学び」を続けていけたら、と思います。
 このような形で、まなキキ講読会第三弾を無事に終えることができました。ご参加くださり、議論を盛り上げてくださいました皆様、本当にお疲れ様でした。また、ありがとうございました!

参加者の皆さんの感想(一部)

 先月行われたアメリカ大統領選挙は、コロナから人々の命を守ることを優先するバイデンと、経済活動を優先するトランプとで、人々の意見は大きく分かれた。トランプは、これまで専門家の意見を無視し、独断で政治を動かした。このやり方に対し、専門家は多くの犠牲者を出したと指摘している。しかし、一方で、経済活動を自粛すれば、生けていけないと訴える人が多数いたのも事実だ。 もし、あの時トランプが専門家の意見を聞いて経済活動に全面的に規制をかけていたとしたら、多くの人々がコロナから守れたかもしれない。でも、1929年の大恐慌のようにアメリカ全土が失業者で溢れかえり、飢え死にする人も出ていたかもしれない。難しいところだと思う。

今回の議論の中で、若者に対する批判に耳を塞ぐと言う話が一番印象に残りました。議論の中で年上の方が、渋谷で若者が歩いていて、若者にとってどれが不要不急なのからからないみたいな話があったと思います。私的に、「若者」を一括りにして話されるのは心外だなと感じました。確かに「若者」が外で出歩いているのは事実だと思います。メディアも不要不急で外出する「若者」を叩いています。ですが、本当に「若者」だけが不要不急で出歩いているのでしょうか。一部の若者は確かにそうかもしれませんが、ほとんどの若者はきちんと自粛生活をしていると思います。これは私の友達から聞いた話なのですが、キャバクラに来るひとは若者も多いですが、同じかそれ以上に「ご年配の方」が来店しているとききました。メディアや世の中の風潮も「外出している若者」を叩くようで、実際は「ご年配の方」が不要不急に出かけていることに目を背けている気がしました。若者批判をするメディアを見て、「若者を一括りにして、若者が不要不急の行動をしている」と叩くのはやめてほしいなと思いました。
スクリーン リーダーのサポートが有効になっています。 

みなさんの意見や考えが出てくる中で、「若者批判」というのがありましたが報道されている中で街に出て遊んでいる若者は、全体の中の一部ではないでしょうか。今年成人式の代でしたが、私の地区では成人式や同窓会も行われませんでした。自粛している若者もいる一方で、報道で映るのが若者の方が多いからといって「若者は!」となるのは一種のメディアによる情報操作なのではないかとも思います。 また、「わからない中にある正しさ」ということが新たな発見でした。私たちは「専門家なんだからわかるでしょ」が前提で専門家たちに頼っていること、わからないことよりもわかっている(とされている)ことに目を向けてしまいがちなことに気づきました。

(発表者)Kさんの若者批判に関して、本題とはそれてしまうのですが、英語の授業で「中国人は皆大きな声で話しながら歩いている」というのは間違っていて「そこにいたある中国人は大きな声で話しながら歩いている」のだという話を思い出しました。「若者は〇〇だ」というのはそうではない若者も一緒にしてしまうことになり、偏見につながってしまうので、発言には気をつけなければならないなと改めて感じました。柴田先生の投票の1問目「COVID-19の専門家は正しいか否か」に関して、私は「正しくない」と投票しました。なぜなら、専門家としてメディアに出てくる人たちの話していることがバラバラでウイルスに無知な者は何を基準に情報を取捨選択すれば良いのかわからないからです。COVID-19は現在進行形なものであり、専門家でもまだまだわからないことも多いとは思いますが、見解が違うと一般市民は訳がわからず、不安になることから自粛警察が生まれてしまうのではないでしょうか?(テレビ局によって出演する専門家が異なり、見解が違うと何を信じれば良いのかわかりません。 )人間は自分にとって都合の良い情報を信じがちなので、できれば統一見解が欲しいところです。

社会的リスクについて、各人で考える大切さが言及されていたものの、それを実行するのは難しいことだと思いました。(各人の考えは、一つの国家意思としてまとめるには余りにも多様であると思われます。)こうした難しさが、「絶対的」な「専門家」やAIに頼らざるをえない状況を生んでいると考えました。

チャットにあった意見に関して、マスメディアがはっきりした物言いを専門家に求めているというのが個人的にはすごく実感のあるものでした。私が住んでいる県ではコロナに感染した人のプライバシーを守ろうという姿勢を知事から感じるの一方、記者がどこの学校なのかとか利用した交通手段は何かという情報開示を求めていて、でも韓国とかはこういうのも開示しているときいたことがあるし、どれが正解かなんて現時点では分からないです。でもある1つの事実に対して、その人にとっての真実はその人が何を信じてどう解釈するかにかかっているからわからないというのもある種の最終形態なのかなとも思います。その点、科学は1つの事実として私たちに影響しているけど、その後に付随してくる要素に左右されてしまっているんじゃないかなとも思います。

今回が初めて参加でした。専門家は未知のウイルスに対して背負うものが多すぎるという話が印象に残りました。Covid-19についてもちろん分かっていないことが多くあることは理解しているけれど、どうしても専門家が言うことなら正確であって欲しいとか、信用したいとかの期待を持ちすぎてしまっているのかもしれないと思いました。また、そのような専門家への重圧がウイルスの蔓延を防ぐ可能性をむしろ減らしているかもしれないと思いました。

わたしも新型コロナウイルスに対してはわからないことを前提として話を進めるべきであると思う。いくら感染症の専門家だからといって未知のウイルスに対しては100%断言することはできないと思う。わからないこと、あやふやな情報で政策を決めるのは良くないとは思う。しかし、先程述べたように専門家でもわからない状況なのに国民は専門家に過剰に期待し過ぎていて、ちょっと失敗したら過剰に批判してやり過ぎだとも思う。不安でどこかにぶつけたい気持ちは分かるが少し冷静になっていくべきだと思う。  今回で最後だか、何度もこういった貴重なお時間をくださってありがとうございました。

今回、科学社会学という新たな概念に出会い、このアプローチならば自身も「科学に参画すること」が可能なのではないかと感じた。  「科学は専門家のみに独占されるべきものではない」ということは本書を読み進める中で何度も感じさせられてきた事実である。素人である自身が科学を考えるには、社会的要因を踏まえ、少しづつ自己と関連する出来事に結びつけていくことが最初の段階となる。しかし、このアプローチが順調に受け入れられてきたものではなく、最終的には「サイエンス・ウォーズ」にまで発展するような議論を招いたことには留意しなければならない。  何とか科学を理解しようとしているからこそ、正直に言えば、マートン・テーゼやマートン・ノルムの存在を純粋に支持したい気持ちがある。自身が向き合うべきなのは、「インターナル・アプローチ」「エクスターナル・アプローチ」のどちらが理想的なのかという問いを追求することではなく、双方の観点や心情を公平に精査しながら思考を深めていくことであると気づかされた。

 第1弾を含めて全部で3回、報告担当をさせて頂いたことで、レジュメをきることも良い経験となりました。今まで理系分野を中心に取り組んできた自分にとって、テクノロジーの発展と同時に生じうる問題性に気がつけないことがまだまだ多いです。COVID-19で顕在化されつつある様々な「リスク」を正面から捉え、考える続けるべき点をここで頂くことができました。どうもありがとうございました。オンライン講読会にご参加してくださった皆様、ありがとうございました。

最後の方は思うように参加できず残念でしたが、毎回詳しい報告がHPに出ていて、議論を追いかけることができました。いろいろな意見があって、楽しく読ませてもらいました。 コロナのような大きな相手を前にしたとき、柴田先生のおっしゃるように、本当にわからないことだらけですね。科学というのは、ごく一部を探って、明るみに出していくことしかできないのかもしれません。 それでも、今回の講読会では、科学の無力さや権力性を批判することではなくて、科学的な営みにどんな可能性があるかということの方を改めて考え直すことができたように思います。 万能な特効薬でもないし、ありがたいお告げのようなことではなくて、冷静に、批判に応えながら、議論を磨き上げていく、そんな地道な積み重ねのようなものと、一方で大胆な構想力や想像力を掛け合わせたような営みといったらよいのでしょうか。 非常にしんどい時期に、いろんな人たちと一緒になって講読会ができて、日常のざわつきからちょっと離れてリフレッシュする時間を持つことができました。 企画してくださったみなさん、毎回の準備をありがとうございました。

緊急事態宣言が本当に効果があるのか、と言う話がありましたが、私は緊急事態宣言は看板みたいなものになっていると思っています。というのも、職場で、二度目の緊急事態宣言が出る直前に、「明日から緊急事態宣言が出るから今日のうちにやれること(人が集まったり声を出したりするようなこと)はやっておこう」と言う言葉を何度も聞き、猛烈な違和感を抱いた経験があります。うまく言えないのですが、この言葉には、私たちの抱える問題がよく現れているように思えるのです。 まず、緊急事態宣言が出たら急に危険になる、というようなありえない現実がそこにはあって、講読会の言葉を借りるなら、科学的な思考というより呪術的な思考で生きている世界線だと思いました。もう一つ、緊急事態宣言が出たから何かをやめる、というのは間違っていないし、正しいのですが、それは結局は、自分たちで考えることを放棄して「専門家」に全てを委ね、支配されていたことと同じなのではなかったのかと思います。たとえ、わからないことがあっても、後で撤回することがあったとしても、それを認め、その上で自分達で考えて、反証し続けていくことが最も望ましい姿であり、結局はそれしかなかったのではないかと思いました。 ここまで書いて、ふと、カミュの『ペスト』の「ペストと闘う唯一の方法は誠実さだ」という言葉を思い出しました。科学にとって重要な「反証」は、映えないけれど勇気が必要な「誠実な」行為です。今の私たちの多くは、情報や感情に振り回され、わかりやすいものを求め、考えることを放棄し、訂正を恐れ、その結果、明らかにおかしいと思われること(意味のない消毒作業や密を避けたことになっている活動など)を平気で行っています。ですが、考え、反証する、という誠実な営みこそが、COVID19のリスクと闘う唯一の方法であると講読会を通じて感じました。 楽しかったです。ありがとうございました。

M先生
M先生

こんなに長期間にわたる講読会、参加してくださる方はいるのかな…大丈夫か…?!と思いながら始めましたが、気が付いたらあっという間に終わってしまいました。本当に数多くの皆様にご参加いただきました。本当にありがとうございました…!
皆さんとこうしてZOOMというツールを使って講読会の時間を持てたこと、本当に素敵な時間でした。ありがとうございました!

白衣博士
白衣博士

本当にあっという間でしたね。そして、こうしてたくさんの感想やコメントを送っていただけたことも、とてもありがたかったですよね。まなキキのこのページと、実際の講読会のZOOMの場で良いインタラクションになっていたらなあ、と思います。
また、今回の講読会では、多くの学びのナビゲーターの皆さんにも報告者として活躍していただきました。ありがとうございました。学びのナビゲーター以外にもO田さんに報告をしていただく機会も持つことができましたね。本当にありがとうございました。手前味噌ながらなかなか充実した時間を持つことができて、新たな可能性を見出せるような気がしましたよね。
また、続編として第三弾の講読会もぜひ企画したいと思っています。ぜひ楽しみにしていてくださいね!
続編が気になる方は、ぜひこのページのコメント欄などにもコメントを残してみてくださいね!

 

 

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